2025/3/17-2025/3/20

思考と自由意志の可能性

今日は前回の論理的思考の思考の部分において、
何をどうやって選択肢を選択するのかという方法について考えていた。

まず、その考えの中での気づきを先に言うと、
「そもそも選択は事象として存在していないのではないか?」と気づいたという事になる。

言い換えると、
「選択」は最初から事象として存在するものではなく、
後から意味付けとして構成された事象なのではないか、という事である。

もう少し解説すると、
「選択」は知能で「選択する事」として認識されているので事象として存在しているのだが、
「選択する事」の事象そのものは自然界の事象としてあらかじめ存在しているのか?と考えると、
そうではないという事になる。
つまり、選択しなくてはならない事などは自然界に最初からあるわけではない。
自然法則は法則として既に定義されていて、
自然界の事象にはあらゆる状態に対して定義が存在して構成済みの状態で存在している。

つまり、知能が選択肢があり、その場面に自分が出くわして自ら選択していると、
知能は考えているが、そんな事象は自然界には存在していない。
そもそも選択肢などという事象も自然界には存在していない。

選択肢も選択も、知能がある事象に対して定義して意味付け・名付けたものであり、
自然界に存在するのは、自然法則で定められた事象だけである。

知能は、このそれぞれの事象に対して「選択肢」であるとか、
ここから「選択」するぞ、と定義して事象を認識している事になる。

つまり、知能にとってはこれらは選択しなければならない事象であると息巻いているのだが、
その事象の存在自体は単に「存在」するだけの事であり、
もともとは「選択肢」でもないし、「選択」されるべきものではない、という事である。

つまり、「選択肢」や「選択」は知能にとっての事象の定義として存在している、
という事になる。

------------------------------------------------------
例えば前方に2本の分かれ道があって、
自分はどちらかに進もうとする。
この「選択」においての「選択肢」は2本の道のそれぞれである。

ただ、上記の事から、よく考えてみると、この2本の道から1本の道を選択するのは、
はたして定められた選択なのか?という疑問が生じる事になる。

つまり、最初から選ぶべき選択であるのか?という事である。

自由意志は選択のそれ自体を行う事さえも自由に選べるはずである。

知能にとっては進むという目的があり、
それに対して選択が生じ、知能は自由意志によって選択する。
考えれば当然のように感じる。

ただ、
「選択」としては自分の意志で行っているように感じるが、
「選択肢」は既に状況に制限を受けている事になる。
つまり、「選択肢が2つしかない」状況という事になる。

もともと自然界に「選択」や「選択肢」が無いのであれば、
選択を認識している時点で、
もうすでに知能においては制限を受けているのではないか?という事になる。
つまり、もともと定義が存在しないのなら、
知能で定義しない限り、その事象は存在しない事になる。

つまり、
本当の意味での「自由意志」があるのであれば、
その2本の道の中間を舗装しても、無理やりにでも進むという選択が出来ても良いのではないか、
そもそも選択それ自体が自由であるなら、立ち止まっても、引き返しても良いのではないか、
という事になる。

つまり、
直面した事象が既に制限を受けた状況において、
その中から選択することは、本当に自由になりえるのか?という疑問が生じる。

つまり、これが例え最初から無限の選択肢が存在する状況であるとして、
そこから選択する事は、無限の選択肢を全て比較する事が出来ない限り選択は出来ない事になる。
もちろん、無限に対してはそのような事はできないから、この状況は成り立たないが、
事象も無限に存在するわけではなく、必ず定義が存在するわけであるから、
事象は本来有限であり、選択もできる事になる。
しかし、自然界には選択の定義は存在せず、そもそも選択が存在しないわけであるから、
自然界には選択の必要性はない。
選択の必要性を持っているのは有限の定義を持つ知能であり、
知能においては「選択」それ自体の定義が存在している。

では、この「選択」とは何なのか?という事になる。

選択肢を事象の認識として考えた場合、
そのいくつかの選択肢の中から1つを選択する事は、
「選択」であるのだが、
「選択」は知能にとっては制限された状況や状態、情報の中から、
自分にとってもっともらしい事象を認識する為に、
その選択肢それぞれに対して仮想的な選択と、その結果の想像(想起)によって、
どの選択肢がもっとも自分にとって適した事象となるか、
再構成してみる事、とこれまで考えてきた。

結果としては、自分にもっとも適した事象を、
その選択の結果として「認識」する事なのだが、
これは、完全なる自由な「選択」ではなく、もともと制限の中にある「適応」なのではないか、
という事に気付く。

つまり、自然界に存在するのは単なる事象であり、
もともと選択肢などではなく、
生物の知能が、これらの事象に対して「選択肢」であるという定義で事象を構成しているのではないか、
というわけである。

そして、定義した選択肢の事象に対して、自分にとっての「認識」を行うために、
その事象毎に自身の「もっともらしさ」の情報を付加・補完し、
「選択した」という結果として、もっとも自分に合った事象を結果として「認識」する、
というわけである。

そして、これは「選択」なのではなく、知能による状況や状態に対する「適応」なのではないか、
と考えたわけである。

だから、「自由」という言葉を用いるのも少し違うような気がするが、
選択に対しては制限の中での「自由適応」という言葉ならありそうな気もするが、
自ら選択肢を作り出して自ら選ぶという「自由意志」のようなものは存在しないのではないか、
と考えたわけである。
------------------------------------------------------
知能が事象に対して創造力を働かせ、
新たな事象を定義として構成する場合について考えると、
用いる事ができる手持ちのカード(定義や経験としての情報)は先天的定義による定義か、
過去に自分が経験して記憶している後天的定義の定義であり、
もし、ここから新たな定義を作ろうとした場合、
その組み合わせから作るしかない事になる。

つまり、解明されている自然界に存在する自然法則の定義か、
生命としての自身の存在の定義のみ、
事象を構成する為の情報の要素として、手持ちのカードを持っている事になる。

事象の認識は定義が存在していなければ出来ないわけであるから、
完全なる新たな事象は、つまりは構成できない。

そもそも定義の存在しない事象は知能では認識ができないのであるから当然という事になる。

ただ、定義同士を組み合わせる事は出来る。

つまり、知能における自由意志の可能性は、
この有限の定義の組み合わせの中で、
知能が定義できる事象の内側においてのみ自由であり得る、
という事になる。

つまり、選択が定義できる生命の知能においてのみ、
その知能が定義することのできる事象に対して、
その事象の組み合わせに対してのみ自由であり得る。

という事になる。

思い出すのは以前話したテーブルトークRPGなどでよく言われる
プレイヤーは「何でもできるが、全ての事ができるわけではない。」
という事。

つまり、選択は選択肢として存在できる事象に対しては自由であるが、
あらゆる事象に対して自由ではない、という事になる。

そして、知能を持つ各個が置かれた状況、状態において、
そこに存在する事象として認識できる事象に対しては、
この各個は自由に選択が可能であるように感じられるが、
事象の「認識」としては、自由に選択出来ているのではなく、
事象を定義する、各個が持っている既存の定義に既に決まった定義が存在しているという事になる。

つまり、ある状況や状態に知能が直面した場合、
この状況や状態を認識する為に用いることが出来るのは、
既に持っている知能自身の定義であり、
この組み合わせから。この状況や状態を定義し、
この定義の中から自分にとってのもっともらしい定義を事象として構成し、
これが「認識」された時、
自分はこの状況や状態に対して、この事象を「自由に」「選択」したと感じる事になる。

つまり、制限の中で自由に定義しているわけではないし、
もちろん自由意志なども存在しないが、

知能は制限の中で、有限の定義の中から、もっとも「最適」な定義を構成し、
「認識」しようとしている、という事になる。

つまり、「知能」を定義するなら、
------------------------------------------------------
知能は自身が持つ定義を用いて、
自身が直面した事象に対する適応をするための機能。
------------------------------------------------------
という事になる。

これは腔腸動物の初期の神経細胞のような働きを初期の知能として考えたとしても、
最も知能の発達した人間の知能の神経細胞の働きにおいても同じ様に言える。

そして、環境の状況と状態が許す自由と、
知能が持つ定義の組み合わせの中での自由、
つまり、選択が自由であり得るのは、
この内側にあるだけの自由という事になる。

------------------------------------------------------
今回のまとめ:

つまり、知能が事象について選択するということは、
それが先天的定義であっても、後天的定義であっても、
保有する定義から、この事象について認識する刺激か概感としての再構成の中に、
この「選択」の結果の定義が含まれているという事になる。

つまり、この事象が、自分にとっての「もっともらしい定義」の事象として、
再構成される際に、どのような定義が励起され、想起されるか、
この時、この事象が知能内において最も強く関連して励起された情報となるか、
この辺りは物理的な神経細胞ネットワークの構成に関わるが、
この強さの比較によって、この「選択」が「決定」されるかどうかが決まることになる。

非常に簡単に言えば、

「決定」=「選択」=「認識」

「自由」=「有限の定義の組み合わせ」

「知能」=「有限の定義の組み合わせ」

という事になる。
敢えて書かなくとも良かったが、
「自由」=「知能」ではあるが、
「自由」=「知能」=「有限の定義の組み合わせ」
こういう事でもある。

この事は、恐らく「強い人工知能」であっても、
その定義の組み合わせの内にのみ自由であり、
であれば定義を用いる「知能」で考えうる自由は全て有限であるという事になる。

そして、そういう事であれば、
知能が「選択」ではなく「思考」する場合においても、
思考の結果が、直面した事象に対する適応であるのなら、
思考で行っている知能の働きは、
定義の組み合わせであり、
これらは想起された概感として構成されて、
この概感を認識する事が「思考」になるのではないか、
という事になる。

つまり、単に「思考」ではなく、
これまで考えてきた想像や創造、妄想、空想、そういった物の全ては、
この定義を組み合わせた想起された事象の認識が、
これらの知能の働きとして認識されたものなのではないか、
という事になる。

もし、完全なる自由意志が存在するとしたら、
それは知能にとっては自身を構成する定義の同位の新たな定義を作り出せる事。
つまり、知能が自然法則の新しい定義を見つけるのではなく新たに作り出せるのであれば、
知能は完全なる自由意志を持っていると言えるのだが、まず無理である。

表題の「可能性」という点からすると逆の制限する意味にもなるが、
考え方としては、知能が保有する定義が増えれば増えるほど、
事象の定義に用いる事の出来る要素、組み合わせの数、可能性が大きくなるはずである。

まあ当たり前と言えば当たり前でもあるが、
私の中の自由意志は、この辺りの考え方で収束しそうである。

今回はこの辺で。

TOPに戻る