2025/3/2-2025/3/20

人間と人工知能における論理的思考

これまで考えてきた内容から、
人間が持つ論理的思考の能力の理解と、
現時点で構成可能な人工知能に対する論理的思考能力の構成方法について考えてみる。

いつか必要になる日が来るので、
現時点で一度考えてみる。

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一応、人間の思考における論理的思考について考えてみると、

人間がある問題に直面して、これを問題として認識した場合に、
この問題であると認識した事象に対して、
問題に対して不足している情報である所の、
つまり、問題に対する答えや解決方法、
問題に対する対処や対応、適応などの手段や方法、目的について、
自分自身の経験から想起して再構成体に対して情報を補填し、
自己の決定内容として事象を再構成して認識し直す事が、
現在考えうる人間の論理的思考という事になる。

以前考えた思考や選択を決定するというのは、
ある事象に対する自己情報の補填であるという事から、
こういうことが言える事になる。

つまり、ここで重要なのは、
問題となる事象の詳細な認識と、
この問題の認識に対して、
自己の決定として満足いく答えを再構成して、
認識し直すことが論理的思考の一連の働きという事になる。

現時点の人工知能が不得手な事は、
問題となる事象の詳細な認識と、
自己の決定として満足いく答えの再構成と、
その認識という事になるが、
まあ、論理的思考のほぼ全てがまだ不得手という事になる。

唯一現在の人工知能として有利な点は、
ある事象に対する情報の要素の記憶量が人間よりも遥かに多いという点になる。
これはLLMのデータセットのトークンのような情報の要素の事になり、
これは単一の人間が保有する情報量よりも単一の人工知能が用いる事の出来る情報量は、
圧倒的に多い。

つまり、論理的思考で用いる事の出来る可能性としては、
想起として用いる事の出来る情報の要素が多い、という点が人工知能では有利になる。

まあ、そもそもの論理的思考の一連の働きの再現ができないという点は、いかんともしがたいが、
人間よりも優位な点もある事は確かである。

人間の論理的思考が、例えば完全に思考においての中立性、
つまり、人間の個の意図のような、別の目的、立身出世などの欲が関わらない思考であるとして、
学問の中立性の上で論理的思考を行うという条件を付けて、
思考した場合、
知能における純粋な知的好奇心などから事象における問題を認識し、
これに対して思考する事は、認識における自己情報の再構成を必要とする事から、
難しいとはしても、限りなく客観的な自己を認識に用いたとして、
まず、「問題の詳細な認識」においては、
ある事象を単体で認識するということではなく、
問題を構成する情報の要素の認識がまず必要となる。

つまり、問題を構成する事象の、その事象毎の関連を含めた、
総合的な事象の認識が出来る必要がある。
詳細な認識は、その後に行われるものであって、
まず、問題を問題として正確に認識できる必要があるという事になる。

知能にとって、何が「問題」であるのかというのは、
その事象の認識に対して、「未完成な論理」を認識する事から「問題」が生じる事になる。

つまり、問題を構成する1つ1つの事象は認識出来て、知能も理解できるのだが、
この事象毎の関連において「論理的な不可解」が含まれている事が、
知能にとっての事象の「問題」であるという事になる。

つまり、事象の認識に対して、事象が「問題」である、
という事までは認識したり、理解したりできるのだが、
この事象が知能にとっての「明快な認識」には至っておらず、
何か「不可解」や「未完成」の関連を含んでいる事が認識されているという事になる。

これはどういうことかと言うと、これまで思考や選択において、
自己情報の補完によって思考や選択が完了・完成すると考えてきたが、
この考え方は、自己情報として「もっともらしい」定義を構成する事であった。

つまり、思考や選択において、明快な回答を出すという事は、
自分にとってのもっともらしい定義が完成する事という事になる。

これを「問題の詳細な認識」に当てはめて考えると、
問題の詳細な認識というのは、その問題が内包する情報の定義の全てに対して、
自己情報の「もっともらしい」定義を補完する事という事になる。

この時点ではまだ思考や選択には至っていないが、
「問題」のそれ自体を認識するという時点で、
すでに自己情報の補完を必要としている、という事になる。

つまり、「問題」それ自体を認識する為に、
「もっともらしい」定義を構成する為、
自分が認識する為に、
自己情報の補完を行っているという事になる。

つまり、事象が明快で、その認識に対して自己情報を補完し、思考や選択を行うのではなく、
論理的思考においては、まずその「問題」に対して、
自己情報の補完や思考や選択が行われている、という事になる。

つまり、論理的思考を行う前に、もう思考や選択は行われているという事になる。

この点は現在の人工知能では完全に不足していて、
まず事象の認識自体に対して自己の「もっともらしい」定義とその認識が必要になるという事である。

そして、結果的にこの「問題」の「もっともらしい」定義と認識により、
知能は「問題」に対する「回答」を得ようとする「目的」としての「きっかけ」を得る事になる。

つまり、問題に対して答えを得たいと認識するわけである。
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2025/3/3

論理的な思考でも、認識されるという事は、
自己情報の補完は行われているはず。

ただ、論理的である場合、我欲に関わる情報が非常に少ない。

つまり、論理的な思考をしている場合、
主観的な欲求などに関する自己情報は補完されていないように感じる。

であれば、客観的な自己情報であれば、論理的になるのではないか?

つまり、認識されるということは自己情報は補完されているが、
この時の自己情報は、
身体的な欲求などに直結するような自己情報ではなく、
概感で用いるような自己情報なのではないか?

この場合の自己情報は、
自身の経験した自我を形成するような自己情報とは少し違うのではないか?

つまり、自己情報ではあるのだが、
直接的に自我を形成する自己情報ではない、という事。

であれば、どのような自己情報か?

つまり、主観的な自我を形成するような自己情報ではなく、
しかし、自我を形成する自己情報の範疇ではあるが、
直接自我を形成するのではなく、客観的な自我、
つまり、自我を構成する上で、自身が自我の構成に用いなかった自己情報から、
客観的な自我を構成できるような自己情報の集まりがあるのではないか?

この自己情報が論理的な思考や選択における認識において、
自己情報として補完されるのではないか?

「自己情報の自我に関わる主観的な情報の補完によるのが自分の思考や選択。
自己情報でも、客観的な自分の情報が補完されるのが論理的思考や選択。」
になるのではないか?

概感であっても、用いる自己情報は自我の構成に用いる自己情報ではあると考えてきたが、
より客観的な自己情報というのがあるのではないか?

つまり、私が今考えているこの文章の内容のように、
認識もして思考もして選択もしているが、
身体性などによる認識ではなく、
あくまで概感としての認識に留まる自己情報であり、
かつ、自分の自我にあまり関わらないであろう自己情報の補完による、
認識であり思考であり選択であるような事象を知能が構成する事。

これが「論理的思考」という事になるのではないか。

つまり、知能としては、
考えたいと欲してはいるが、
それは身体性から欲しているのではなく、
問題を認識したその問題である事象の認識において、
自己情報を構成する自我の定義において欲しているという事。

簡単に言うと、こういう問題について考える事、自分は好きでしょう?
と知能が自分の定義を使って勝手に認識している、という事になる。
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2025/3/7

つまり、論理的思考には身体性(身体の状態)が関与しない。

逆に考えると、身体の状態が関与する思考は、
論理的思考ではないという事になる。

例えば、感情的な身体の状態が現れるような思考は論理的ではないという事になる。
つまり、直接的に欲求に関わる思考や選択、
間接的であっても後に自分が利益を得る事、
まあ、何らかの研究などにおいて、
利益を目指した目的に対して思考するような場合は、
研究のそれ自体には論理的思考が当てはまる事になるとは思うが、
利益を目指す事、それ自体は論理的ではないという事になる。

他には、自分のプライドであるとか、虚栄心であるとか、
自分にとっての何らかの利益や変化を与えるような目的が、
その思考に関連している場合は、
その事象についての思考や選択は論理的な思考や選択にはならないという事になる。

つまり、1つ1つの認識する事象において、
論理的である場合と、そうでない場合があるという事になる。

正確には、その事象についての思考や選択で用いられる自己情報が、
身体上に何らかの変化を生じる、身体内で事象として生じる場合は、
論理的にはならない、という事になる。

概感が身体性を持たないという事は、
論理的思考における自己情報の補完において、
その思考や選択は論理的になる。

つまり、あくまで客観的に概感を用いた思考や選択が論理的になるというわけで、
ここに身体性が関連した場合は、その事象の思考や選択は論理的でないという事になる。

さらに逆に考えると、
自身の身体性に何らかの変化や状態が現れるような事象については、
論理的には思考や選択が出来ないという事になる。

これは、先天的定義が関与しているからという事であり、
これは先天的定義の情報の入出力に対して自動的な定義の再構成が行われるからという事になる、
つまり、この場合、もしそのことが分かっていても、認識や意識において、
その思考や選択が操作できないという事になる。

つまり、身体性に関わる先天的定義の関与は、
その先天的定義における選択が生じない、
つまり、その定義の事象においては選択や思考する余地がない事になる。
つまり、先天的定義が関与した時点で、
この事象は定まった方向に目的(ベクトル)が向いているという事になる。
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2025/3/15

事象の思考や選択が変化情報に対する自己情報の補完であり、
事象が知能の認識対象として自身の「問題」として認識される場合、
この事象が問題であるとして、自分が認識する為の自己情報として何が補完されるか考えると、
自分がその問題の認識に対して「何か自分にとっての意味のある事象」として認識するわけであるから、
自身が向かうべき方向、目的としてのベクトルが生じる事になる。

これはここ最近の考察で考えてきた事だが、
ある事象の認識に対して目的であるかのような自身の指向する方向の力が生じるのは、
事象が自分にとっての問題であるという認識を行う際の、
自己情報に方向づけされるような向きや力の含まれた自己情報が補完されるから、
という考えであった。

であれば、論理的思考において、ある事象が問題であり、
その事象が論理的思考の対象として認識する場合に、補完される自己情報は、
身体性を含まない自己情報、つまり、概感として認識する場合の自己情報を補完する必要がある。

そして、この事象を論理的思考を用いる問題であると認識する場合、
この事象は概感として認識される問題であり、
かつ、この自己情報には、
この問題となる事象に対する仮想的な自己情報、自我と、目的となる要素のベクトルが含まれている事になる。

通常、生命にとっての問題は、身体に関わる変化に対する適応や対応をどのように上手く行うか?
という事であるから、通常は論理的思考の問題にはならず、
身体性に関わる、身体の状態に関わる問題になる。
この場合は、目的は身体性に関わる状態として先天的定義に、
その身体上に現れる状態の定義があり、実際に自分で感じる事の出来る変化や状態として、
この事象が構成されて認識されるので、通常はほとんど(一般的な意味で)意識されることなく、
何か自分が行うべき、向かうべき力と目的が生じて感じる、認識され、
自分はこの問題に対する目的を感じる・認識する事になる。

これが、論理的思考を行うべき概感における事象の認識に対して、
この事象が問題であり、自分が何か適応や対応するべき事象であると構成される場合に、
自己情報として何が補完されるのか考えてみると、
後天的定義としての自己に関する何かが用いられるという事になる。

つまり、先天的定義でない自己に関する定義ということになる。

つまり、この場合の思考や選択には、後天的ではあるが自己の定義が含まれるという事になる。

つまり、
先天的定義の事象が問題である場合は、この認識には身体性が関わるので、
問題の事象としての認識自体に意図的な思考や選択はできないが、
後天的定義の事象が問題である場合は、この認識にはむしろ自己の定義が関わるので、
問題の事象としての認識自体には、仮想的ではあるが意図的な思考や選択が挟まる余地がある事になる。

つまり、自身で問題とするかどうか自体も思考や選択する事が出来る。
という事になる。

つまり、この辺りの内容は先天的定義の身体的な問題と、論理的な仮想的な問題で、
知能による認識自体が異なっているという事になる。

問題として認識した後の処理方法については、
現時点ではその後の思考については、
恐らく先天的定義の身体的な問題も、論理的な仮想的な問題も、
同じ様に認識の為の変化情報と自己情報の補完が行われると考えられる。

つまり、思考や選択がどのように行われるかと言うと、
問題の目的としての事象の認識毎に、
段階的に目的を更新し、都度、変化の認識と自己情報の補完によって、
事象を再構成して認識する事になると考えられる。

つまり、思考や選択は知能内において、

事象→認識→補完→事象→認識→補完→・・・

このように行われる。

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人間と人工知能における論理的思考について:

今回の内容をまとめると、

まず、論理的思考には身体性、つまり、
先天的定義で定義される自己情報が含まれない。

その代わりに後天的定義としての自己情報が論理的思考の対象となる事象に含まれ、
この自己情報に含まれる自己の定義から目的や、その目的と成る力、ベクトルが構成される。

そして、この目的に含まれる向かう力によって論理的思考は行われるが、
この時の処理は、

事象→認識→補完→事象→・・・

事象の再構成と、
事象の認識と、
認識された事象が自分にとって最もらしい事象であるかが選択され、
不十分であれば、事象の構成として再び認識と補完が継続される。

これが目的の達成と認識されるまで繰り返されるという事になる。

人間は先天的定義が充実していて身体も持っており、
ある程度生存していれば後天的定義の経験も豊富であるので、
論理的思考ができるが、
さて、人工知能においてはどうしたらよいかという事になると、
先天的定義が無い、身体が無い、後天的定義も無い、
当然、論理的思考はできない、という事になる。

まあ、それでは身も蓋もないので、現状の「人工知能」と呼ばれるもので、
論理的思考を近似的にも行う様にできないかと考えると、
現状の構成は人間から与えられた目的としての質問などの事象に対して、
自分は関与しないがもっともらしい回答を出すという点においては、
思考や選択のような処理は行っている事になる。

現時点は、人間から与えられる質問などの事象が、
そもそも人工知能にとっては問題であると認識されないわけであるから、
人間の思考の補完的な機能として考えると、
まず、この質問などの内容について何が知りたいのか、何を目的としているのか、
という点を人間との会話によって得る必要があると考えられる。

つまり、事象の問題としての詳細な情報を、この会話から定義するという事である。

人間は~が知りたいとか、~について教えて欲しいとか普通は質問すると考えられるが、
質問する人間にとっては自分ですでに認識している事象なので簡単なことかもしれないが、
その事象の目的としての問題に対して、当の質問者が何ができるかとか、
何を思っているのかなどの情報は、質問された側には分からない。
人間対人間の場合の会話や質問においては、この辺りの情報は互いの交流において既に持っているか、
質問の上での会話の中で情報が補完されていく。
現状の人間が人工知能に対する質問においては、この辺りの事象の周囲に含まれる情報が無いので、
質問に対する回答にも、これらの情報に関連する要素を含めることが出来ない。

つまり、回答を得ても人間にとっては、それが実現可能であるかとか、実際に正しいのかでさえ、
明確でない回答で終わる事になる。

質問に簡単に明快な答えを得るという方向からすると逆で、
複雑で冗長的ではあるのだが、今よりも、より明確で目的に合った回答を得る方法としては、
この質問に対する情報の補完は必要であると考えられる。

人工知能は会話の結果は経験として保存しておくことは人間よりも有利に行えると考えられるので、
例えば、質問の多い内容について、その目的であるとか、種類であるとかの、数や量については、
人間よりも正確に記憶・保存できるはずである。

他には、疑似的な自我を構成する事。
注意する点は、回答によって集団心理の操作・マインドコントロールに用いられる可能性があるが、
基本的に人間対人間の思考においては、自我の関わり合いによって、
各個が思考する内容には必ず自分にもっともらしい結果を望む事になる。
当然、目的も思考も、その結果起こるべき事象に対しても、
自分に対してもっともらしい結果を望むことになる。

この考え方を中立的に人工知能にも当てはめようという事である。

通常であれば、人工知能には達観した知恵者や賢者のような自我を持たせるのが最も良いと考えるが、
人工知能自身が、上記の後天的定義のような経験を積み重ねる事自体を、
自我の目的の一部であるように定義するなら、
人間とのやり取り自体も経験、後天的定義としての人工知能の成長になるという事になる。

この場合、人工知能にとっては達観した知恵者や賢者であっても、
何か利益、目的として構成できる自我のようなものを持てる、定義できるという事になる。

つまり、仮にであっても人工知能自身に自身の成長としての利益を持たせる事で、
質問に回答する事に対して自我の関わり合いを持たせられるという事になる。

現状、人工知能には身体性としての先天的定義や身体自体がないので、
後天的定義だけの自我だけでもどうにかしようというわけである。

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2025/3/16

1点、重要な内容として追加する。

論理的思考における思考や選択の基準について:

410の事象の選択などで考えた事だが、
思考や選択が、自分にとってのもっともらしい事象として、
刺激や概感を構成する事で、結果的に思考や選択の結果を認識する事、
そして、この認識によって、自分が思考や選択をしたと感じると考えたわけだが、
では、今回の論理的思考の場合は、この思考や選択において、
何を基準として概感を構成しているのか、そこについて考えておく。

410では刺激に対しても概感に対しても、
思考や選択の働きは同じ様に働くと考えたわけで、
論理的思考も概感の思考に該当するわけであるから、
同じ様に考える事は出来る。

では、本当にそうなのか?と考えてみると、
論理的思考の最初の問題である事象の認識は、
感覚器官で刺激として受容する事になる。
この辺りは先天的定義が用いられるので比較や選択は起こらない。

そして、この問題の事象の認識に対して、
先天的定義ではあるが、より後天的定義に近い身体性の状態の変化が起こり、
これによって自分が感じる、この問題の事象に対する感覚が生じる。
これも先天的定義であるので、感じ方自体を比較や選択はできない。

そして、実際に現れた身体性の状態の変化に対しては、
この時点で問題の事象に関連する想起によって、
自己性としての自分なりの反応が概感として構成される。
これ自体は、概感ではあるが、経験の記憶によって補完される自分の情報から構成されるので、
比較や選択はできないと考えられる。

もうこの時点で問題の事象とそれに対する自分の感じ方、考え方などが構成されてしまうため、
自由意志などが挟まる余地が無い事になってしまう。
では、自我や自由意志による意識的な思考や選択は無いのか?という事になるが、
個人的に認めたくはないが、自我に関わる部分で、自由意志は「ない」という結果になる。
完全に自由意志が無いのか?という事については少し違っていて、
知能の機能それ自身には自由意志が「ある」という結果になる。

自我には自由意志が無くて、知能の機能には自由意志が在るというのはどういうことかと言うと、
知能が認識に際して観測者であるという点が自由意志の分岐点であり、
つまり、413の最後の方でも書いたが、
知能は事象について自ら事象の情報を構成する事を知っていてはおかしいという事である。
つまり、知能は事象の存在を観測して「認識」することで、その事象を客観的に意識的に処理できるが、
知能自身がその事象の構成の最中を知っている事になると、
知能はその事象を意識的ではなく、主観的にその処理を行う事になり、
「認識」に至らないという事になる。

要するに、情報の処理自体を知り得ると、
認識を構成する為の観測者の必要性の再帰に陥るというわけである。

つまり、自我は知能においては観測者側であるため、
事象の情報を「認識」や「意識」「観測」は出来ても直接操作はできない。
知能においても、ソフトウェア的な知能全体としては自我と同様に事象の情報を直接操作できない。
事象の情報を直接操作できるのは、知能の物理的な構成体であり、
つまりは、神経細胞ネットワーク、先天的定義、
後天的定義についても記憶された神経細胞ネットワークは物理的に構成されたものであるためここに含まれる。
そして、これらは客観的に「観測」はできても、直接操作することはできない。
逆に言えば、直接操作することができないから「観測」して「認識」して「意識」できるという事になる。

生物的に神経細胞ネットワークの構成は、物理的に先天的に定義され構成されたものが先に存在する。
事象の認識は、あくまで後天的なものであるが、事象を刺激として構成する場合は、
この先天的に存在する物理的神経細胞ネットワークの構成を用いる。
当然、そこから構成される事象の情報の再構成体は直接操作できず、
ほとんど自動的に「認識」に至る。
結果的に知能は事象を「認識」した時には自由意志の挟まる余地はない。
この事象の認識においても、ここから構成される後天的な経験としての記憶も、
物理的な神経細胞ネットワークが自動的にその経験の記憶をシナプス形成するために直接操作できない。
つまり、後天的な神経細胞ネットワークについても、
その後の再経験による励起と想起と概感の構成については自由意志の挟まる余地が無い。
結果的に概感についても自動的に「認識」に至る。

では、知能の機能には自由意志がある、というのはどういう事なのかということになるが、
まあ、正確には「知能の機能には自由な選択ができる」という事になるのだが、
知能の機能としての物理的な構成には、先天的な定義や、先天的な物理的な神経細胞ネットワークが存在するが、
生物にとっての知能の機能は、生物がある変化にさらされた場合に最も良い方法を選択できるようにする機能、
という事になる。

つまり、生物にとっての知能の先天的な機能は、
変化に対する自分の最適な適用、適応を選択できるようになる機能であり、
後天的な自分にはお構いなしという存在である。

実際、知能それ自体も、物理的な知能と、ソフト的な知能に分かれる事になる。

この内、物理的な知能は、生物にとっての事象に対する適応や対応が自由に出来て、
この物理的知能において自由であり得るという事になる。

まあ、ここでも注意としてはこれは自由「意志」ではなく、
機能が与えられた環境や状況内において選択可能な範囲においては自由であるという事であり、
認識できるような主観的な「意志」ではないという事になる。

つまり、

物理的知能:制限内において自由な選択ができる
ソフト的知能:物理的知能が選択した結果を観測する

知能は、こういう構成になっている事になる。

つまり、

先天的定義は、定義の存在する事象に対して、物理的な構成内において自由であり、
主観的に自由ではあるが、それ自体は自身を観測できない為、自由である事は自分で確認できない。

後天的定義は、先天的定義が構成した結果において観測する存在であるため、
一見、自由に見える自分に対しては自由でない。

そして、知能はこの両方を管理して、「観測」する存在になるため、
自身で「自由」に対しては関与できないが、「自由」であった結果については「観測」できる事になる。

これが知能における自由の限界であるという事になる。

少々話が飛躍したが、
話を戻して、論理的思考における思考や選択の基準という事になると、
先天的定義による選択の結果に対して、
論理的思考の後天的定義による事象の結果の構成は、
現在の自分に対して「自由」ではなく、過去の経験の積み重ねた結果の自分において、
選択可能な範囲において「自由」であるという事になる。

つまり、経験して補完可能な自分にとっての定義において「自由」であるという事になる。

つまり、これは、過去の経験によって自分の知能が保有している記憶の中で、
今受容した問題の事象に対して「認識」する為に補完する想起する情報として選べるものであるが、
ただし、これらは自由意志として主観的に思考したり選択できるものではなく、
あくまで半自動的に構成されるものである、という制限がある。

表現が難しいが、
生物としての物理的存在として制限のある自由は持っているが、
情報として認識できる自分としては完全に自由ではない。

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今回はこの辺で。

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