2025/2/19-2025/3/14

先天的定義の基底の要素


今回の表題について最初に考えた内容は以下の通り。
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身体の状態は身体性の変化情報の現れ、であるという事。

つまり、身体に現れる状態は、
先天的定義で定義されている。

認識の際の自己情報は、
刺激に対しては身体性の先天的定義、
概感に対しては自己の経験の想起の後天的定義が、
その構成に用いられている。

自己情報として構成される情報には2種類、
「身体性」と「自己の想起」の異なるベクトルを持つ情報が存在する。

刺激と概感が同時に認識できないので、
認識できる事象として刺激と概感が異なるというのは言えそうである。

概感における自己情報の身体性は欠落している。

→概感では自分が認識した経験を想起できるが、
その情報は直接身体上には現れない。
概感の変化情報が実際に身体上に状態として現れた場合、刺激として構成・認識されるはず。
想起して身体上に現れる状態は、この概感に関連した事象の認識によるもの。
認識の再帰の可能性があるが、恐らく概感の認識によってホルモンなどの分泌が行われていると考えられ、
これが直接的な身体の状態として現れ、これが認識されて、
想起の概感によって身体の状態変化が表れたと誤認されていると考えられる。
つまり、概感のそれ自体に身体に状態に現れる変化情報は再構成されていないと考えられる。

先天的定義の基底の4つの要素の候補は、
「強い情報」「弱い情報」「好ましい情報」「好ましくない情報」。

これを考えた理由。
先天的定義の入出力の定義において、
入力側は、「強い情報」「弱い情報」
出力側は、「好ましい情報」「好ましくない情報」となる。

感覚器官の受容体で受容できる情報について、
情報の選択は受容体によるものだが、この定義は出力側で脚色するものであり、
入力側で実際に受容しているのは、この受容体の励起の信号だけである事。
この励起の信号は、励起の回数が少なければ弱い情報で、励起の回数が多ければ強い情報という意味を持つ。
そして、それ以外にこの励起の信号自体に対しては意味を持たないという事。

そして、定義の出力における「好ましい情報」「好ましくない情報」は、
入力の励起の信号に対して先天的定義が持つ情報の脚色の定義であるのだが、
その定義が持つ情報にとっての意味は、生命の身体にとって変化を与えうる情報の意味という事であり、
これは生命の身体に対して何らかの対応を必要とする事になるきっかけとなり、
受け入れるか、拒否するか、この意味を持たせるべき情報という事になる。

そして、この考え方を突き詰めると、
この入力に対する出力の情報の定義は、主に身体の状態として表されている事になる。
つまり、変化情報に対する自己情報としての身体性に、この出力が用いられていて、
その認識において、先天的定義から構成される刺激は、
身体に現れる状態「好ましい状態」「好ましくない状態」として現れている。

視覚以外の感覚においては「好ましい」「好ましくない」は割と簡単に分けられ、
視覚において「好ましくない状態」が現れるか?という疑問も生じるが、
別に刺激が全て「好ましい状態」「好ましくない状態」を持つ必要があるというわけではなく、
情報を受け入れるか、拒否するかという点において「好ましいか」「このましくないか」
という事になる。

例えば、強い光を受けるなどすれば、身体はこの光を拒否しようとする。

「強い情報」「弱い情報」は、
刺激においては基本的には先天的な定義であるが、
概感においては、やや後天的で、
この定義は事象に含まれ変化情報の受容時に新規に構成される定義となる。

つまり、
感覚においては感覚器官の受容体の励起の回数が、
刺激の強い、弱いの情報の構成要素になっているので、
刺激においては先天的定義であるが、
概感においては強い・弱いの定義は後天的な身体の状態として現れた情報に対して、
新規に後天的に定義されるものとなる。

この辺りは刺激を構成する時の機構として、
認識に至る刺激が構成されるかというスレッショルドに関わり、
このスレッショルド(閾値)の定義は、
刺激については先天的な定義、
概感については後天的な定義によるものとして考えられる。

つまり、本能的に重要であろう刺激に対しては先天的な刺激の構成となるが、
概感に関しては後天的な定義で構成される。

つまり、特に概感や後天的定義として「強い情報」「弱い情報」として定義される
事象の情報に対するスレッショルドは、後天的であり、
実際に自身の身体に現れた状態を、実際に「認識」したうえで経験として記憶する時に構成される定義、
という事になる。


「好ましい情報」「好ましくない情報」は、
より先天的な基底の定義の要素。

この、好ましい、好ましくないは、
定義の入出力においては出力に相当し、
身体の状態として現れる。

つまり、過去の例で言えば「赤い光」の認識の「赤さ」の定義。

この身体の状態は、後天的定義としては欠落していると考えられるため、
より先天的な定義であろう、という事になる。


これ以外にも基底の定義となりそうな要素はあるか?

先天的定義が生命の身体に対する変化の情報を解釈する定義であるとするなら、
身体に状態として現れない状態は定義として存在しないはず。
であれば、身体の状態に現れる定義が、基底の定義の候補になる。

であれば、身体にとって好ましい、好ましくない以外の判定要素があるかというと、
現時点で特に何か思い当たる物はない。

身体にとって好ましい・好ましくないの定義は、
好ましい=必要の定義
好ましくない=不要の定義
という事か?

「定義」を定義するための二面性ということか?

定義の再帰を防ぐための考慮をすると、
生物にとっての事象の変化の定義には、
生物にとっての先天的定義として、ある事象に対して
「好ましい」「好ましくない」という二面を持つ、
ある要素が存在する。

この要素を基底として生命は構成される。

つまり、この要素に相対すれば、
認識も事象も刺激も状態も、関連した何かにすぎないという事になる。

では、この相対する「要素」は何か?

好ましい→(要素)←好ましくない

普通に考えれば、生命の存在意義のような定義という事になる。

つまり、「生命の維持」・「生命の存続」。

つまり、

好ましい→(生命の維持)←好ましくない
好ましい→(生命の存続)←好ましくない

これが定義の基底ということになる。

事象の二面性として表せば、

好ましい→(生命の維持)←自己
好ましい→(生命の存続)←自己
好ましくない→(生命の維持)←自己
好ましくない→(生命の存続)←自己

この4つとなる。

つまり、
自己の生命の維持にとって好ましい事象、
自己の生命の存続にとって好ましい事象、
自己の生命の維持にとって好ましくない事象、
自己の生命の存続にとって好ましくない事象、

これらの事象の定義が、先天的定義の基底の定義という事になる。

そして、
この「好ましい」と「好ましくない」基準について考えると、

もし、孤立した系において生命が存在し、
その生命は周囲の環境に対してエネルギーなど以外の関りが無いと考えると、
その生命は系が固定で維持されているなら、
変化を受けることは無く、生命はその維持と存続だけを継続する事になると考えられる。

そして、この場合は、好ましいとか好ましくないという基準は、
単に生命としての維持や存続のために必要や不必要となるエネルギーなどのやり取りだけという事になる。

つまり、この場合の生命は周囲の環境としての系に対して、
エネルギーなどの授受のみが、この「好ましい」「好ましくない」の基準となる。

そして、これを逆に考えれば、
系が何か変化して、ある事象が生じ、この系に存在する生命にとっての変化を与えるものであれば、
この生命はこの変化の事象に対して「好ましい」「好ましくない」の定義を持つ必要性が生じるのではないか、
と考えらえる。

つまり、最初に考えた生命の自己の変化の事象のみの「好ましい」「好ましくない」以外に、
周囲の系で生じる事象に対して「好ましい」「好ましくない」の基準ができるのではないかというわけである。

当然、この定義を持つということは、生命にとっては自身の変化である事になる。
つまり、系の変化に対する適応をした、進化をした、という事になる。

現在の生命にとってはこの定義は遺伝子として変化、継承されるものであるので、
自身の生命の在り様を含めた「生命の情報」「生命の定義」という事になる。

と、考えると、生命にとっての「好ましい」「好ましくない」の基準は、
自身の存在に対して対応や適応が可能な範囲において、
生命の存在しうる様相(物理的、科学的、化学的)において、
生命自身で実現可能な定義を構成する事の出来る二面性、
つまり、「系」と「自己」の関わり合い、
つまり、関わり合いの、どちらからの働きかけによって、
生命にとっての「変化」が、生命にとっての事象として生じる場合に、
この生命にとっての独自の基準が生じる。
「基準を持つ必要性が生じる」
という事になる。

例えば、気温の25度が体感として心地よいか、寒いか、暑いか、という定義は、
生命や個体毎に定義が異なる事になる。
さらに、25度に変化する前の環境からの温度変化や、
元々の個体の体温によっても定義は変化する事になる。

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2025/3/7

最初に存在するのは自然界の事象。
これは自然法則による事象の存在。

一応、ここで身体から自発的に起こる事象も対象とする考え方もできる。

最も基底にある情報は接触。
これは細胞に起因する。

次は接触の回数と接触の種類。
これは感覚器官の受容体に起因する。

次は接触の回数と種類を入力とした場合の出力で、
ここで強弱と情報の意味が決まる。
これは神経細胞の認識における定義の励起に起因する。

この時点で先天的定義とその先天的定義による情報の再構成と、
事象の認識まで到達する事になる。

ということは、もっとも基底にあるのは自然法則による事象の存在と、
生命の個体の「接触」が最も基底の情報であるという事になる。

まあ「接触」それ自体を情報としての定義の基底とすることができるかどうか、
というのは考え方次第なのだが、
接触情報が情報と個体とのインターフェイスとしての接続であると考えると、
情報の基底となるのは、その次の情報の回数と情報の種類という事になる。

であれば、先天的定義の基底の情報は、
このハードウエアとして得る事の出来た「回数と種類」という情報に対して、
どのような解釈をする定義をあてがうか、という事になる。
つまり、解釈としてどのような定義をするのか、
これが先天的定義の基底の情報の要素ということになる。

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2025/3/8

今日考えていた内容で、
以前の考え方を変更する必要が出たのは、
先天的定義の基底の要素として候補に挙げていた
「強い情報」「弱い情報」「好ましい情報」「好ましくない情報」の内、
「好ましい情報」と「好ましくない情報」で、
これは先天的定義においては一番基底にあるものではなく、
この定義は、先天的定義には含まれるが、
より修飾的な意味の強い定義であり、
生命の先天的定義の中でも割と後の方で獲得した定義になるという事。

その代わりとして
先天的定義の基底の要素として候補になるのは、
「強い情報」「弱い情報」「身体上の状態の情報」
この定義になる。

この考え方を変えた気づきは以下の通り。
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先天的定義は何を定義するものか考えた時、
生命が自然界における自然法則によって発現する事象を、
自身に対する変化の情報として得るために、
事象に対して生命が理解できる解釈をするために意味付けする情報という事になる。

この内、変化として自然界に存在する事象を入力するのは当然だが、
どうも、生命として身体の状態も変化として捉えている事については、
これまで自分自身でどうも明確に理解しているようには感じられなかった。

つまり、

自然界→事象→感覚器官→身体

これは良いのだが、

身体→変化・事象→感覚器官→身体

は先天的定義としての定義は存在しているはずなのだが、
その定義が「好ましい情報」「好ましくない情報」で直接定義されているのかと考えた時、
少し違うのではないかと感じていた。

そして、先天的定義を用いるための事象の入力について考えていて、

自然界の自然法則の存在。
→自然法則による事象の定義。

自然界に事象が存在する為に自然法則の定義が存在する。

自然法則の事象。
→事象の発現。

自然法則によって事象が生じる。

細胞との接触。
→事象の存在。

自然界の自然法則による事象の存在と、
生命の関りは「接触」である事。
ここでの生命にとっての事象の情報は、
事象が「存在する」という事だけである。

つまり、ここでの情報は「接触」による事象の「存在」。

感覚器官と受容体。
→回数と事象の種類。

細胞が事象に接触した場合、
ここで生命が得る事の出来る情報は、
感覚器官の受容体が、事象に接した事で得る事が出来るのは、
事象の存在による受容体の励起の回数と、
この受容体が特異的に選択した事象の情報という事になる。

つまり、ここでの情報は「回数」と「事象の種類」。

そして、この情報から先天的定義を用いて、
知能内における事象の再構成が行われる。

先天的定義による事象の再構成。
→身体上の状態。

ここで、これまでは強い、弱い、好ましい、好ましくないという、
4つの要素があるのではと考えたわけだが、
実際に先天的定義を用いて再構成した情報に、
好ましい・好ましくない情報が含まれているかというと、
視覚などにおいては、刺激として認識できる事象に対しては、
まだ「好ましい・好ましくない」という情報は構成されていないと感じられる。

では、この「好ましい・好ましくない」の前段階には、
まだ何か定義される要素があるのではないかと考えた場合、
刺激の認識においては、その身体に起こるであろう「変化」に対して、
その認識を目的としていると考えた場合、
この「変化」が生じるのは「身体」であり、「身体の状態」なのではないかと考えた。

つまり、
「好ましい・好ましくない」というのは、
先天的定義を用いてはいるのだが、
身体の状態として構成された後で構成される情報であり、
つまり、認識の直前に構成される情報は、
あくまで「身体上に現れる状態」なのではないかと考えたわけである。

認識においては、
結果的には「好ましい・好ましくない」という情報も含めて「認識」されることになるのだが、
その「好ましい・好ましくない」が再構成される前には、
「身体上に現れる状態」として情報が構成され、
その「身体上に現れる状態」に対して生命の固有の先天的定義として、
「好ましい・好ましくない」という情報が構成されるのではないかという事になる。

つまり、先天的定義の認識対象である「変化情報+自己情報」は、
「身体に生じる変化+自己の身体性」であるのだが、
この情報の前に、

神経細胞の受容体が得る事になる「回数」と「事象の種類」の情報は、
一度「身体上」に現れる「状態」として、その情報が再構成されるのではないか、
というわけである。

つまり、先天的定義による情報の再構成は、
2つの段階があり、
最初に身体上に情報を構成し、
次に身体上に現れた情報に対して変化として情報を構成する、
という2つに分かれている、という事になる。

そして結果的に、
身体上に現れた状態の変化として刺激を認識する、
というわけである。

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2025/3/12

今日考えていたのは、
先天的定義には2つの種類があり、
自然法則から構成される事象に対するものと、
身体に起こる事象に対するものがあるということ。

自然法則から構成される事象を情報として生命が得ようとした場合、
最初に得られるのは、感覚器官における受容体の励起として、
その回数と事象の種類の情報の2つという事になる。

この情報は生命の身体を構成する上で、
先天的定義より成り立つもので、
直接定義が関わるものではないが、
遺伝としての定義から構成された身体で決まった反応として得られる情報となる。

つまり、最初に得られる情報は、
先天的定義から物理的に構成された身体上の
決まった経路を用いて決まった情報として得られる事になる。
そして、この情報は、
「接触と事象の種類」という事になる。

そして、この情報は脳内で身体性を構成する情報の基となり、
これも先天的定義として脳内で認識の為の身体性と、
変化情報としての身体性としての情報として構成される。

つまり、情報の形態は変化するが、
まだこの時点でも先天的定義による情報の意味付けとしての解釈は行われる。

ここまでが先天的定義による情報の意味付けになると考えられる。

つまり、
最初に自然界における自然法則による事象が存在し、
その事象と生命が接触し、
ここで生命にこの事象を受容できる感覚器官が存在する場合、
その接触の情報と、事象の種類の情報を生命は得る事になる。

次に、この接触と事象の種類の情報は、
生命の内部で、情報の強さと、事象の種類の情報に構成され直される。

つまり、感覚器官の受容体で励起した回数から情報の強さに変換が行われる。

そして、この変換の定義は先天的定義に含まれ、
さらに、この先天的定義には、受容した事象の種類の情報も含まれる、
という事になる。

事象との接触→回数→強さ
事象の種類→事象の種類

先天的定義における情報の変化はこういう事になる。


つまり、先天的定義における基底の要素というのは、
突き詰めると、
「接触の有無」と「接触した事象の種類」という事になる。

事象→(接触)→身体のインターフェイス



事象→(接触)→感覚器官の受容体

という事になる。

これは、身体内における変化情報についても存在すると考えられ、
これまで考えてきた身体上に現れる状態、
様々な感覚として、痛いとか気持ちいいとか、胸やけみたいものや、
気が重いとか、不安や、感情として感じられるような感覚や状態は皆、
この身体性を構成する際の身体の状態の情報として、
身体が特定の変化情報を事象として接触したものとして扱われ、
その身体の状態を情報として受容した後は、
感覚同様に情報を変化させていると考えられる。

つまり、感覚器官の情報とは少し情報の出所は異なり、
生物としての身体内の状態を事象として扱った情報として、
身体が直接得る状態の情報という事になる。

これも、後天的な定義ではなく、
生命として誕生した時には先天的定義として、この定義は存在している。

つまり、先天的定義が定義する対象となる事象としては、
自然法則による事象と、生命の身体による事象、
この2つの事象について定義されたものが先天的定義という事になる。

そして、これらの情報は刺激として構成され身体上に現れ、
身体を構成する情報として認識されるという事になる。

だから、認識における「変化情報+自己情報」は、
刺激に対しては「事象の発現に対する接触+その事象に対応する身体の構成」という事になり、
これを事象として脳内で構成する事によって、
イメージとしては、
事象の存在と、その事象の情報が張り付けられた身体の存在を感じる、
これが刺激の認識になり、
自分の存在を感じるという感覚に至る。

つまり、少し個人的なイメージで分かりづらいかもしれないが3dモデリングなどで考えれば、
身体のメッシュに対して情報のテクスチャを張り付けるようなイメージになる。
つまり、身体の形にそって変化の情報を張り付ける事で、
身体が変化を感じている「存在」として「実在」するように感じる・認識できるのではないか、
というわけである。
これを客観的に脳が観測・見れば、身体の存在と、身体が情報を得ているように見える事になる。

考え方を変えれば、先天的定義は、生命の身体に関する定義の情報と、
その生命の身体が接触するであろう自然界に存在する事象の必要な種類に対して定義されているという事になる。

そして、先天的定義には、それ以外の定義が存在しない、とも言える事になる。

それ以外の定義は全て後天的定義に該当する事になる。

つまり、少し前に考えていた「好ましい・好ましくない」という情報は、
厳密に言えば先天的定義において、身体上に表す事の出来る状態の情報については存在するが、
先天的定義としてだけ定義されているものではなく、
個人的な好みとしての後天的定義にも含まれるものという事になる。
そして、先天的定義の基底の要素ではなく、基底よりは少々離れた定義という事になる。
より基底の定義としては、つまり、
事象に対する接触と事象の種類が基底の定義に該当すると考えられる事になる。

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2025/3/14

そろそろ長くなったのでまとめる事にする。

最初に考えていた「強い情報」「弱い情報」「好ましい情報」「好ましくない情報」
の内、「好ましい情報」「好ましくない情報」は、
基底の定義ではないという事。
ここは間違っていた。
本当の意味での基底の定義は、もう少し単純で、
身体が情報に接する、その最初の定義であるという事。
つまり、身体が情報に「接触」する時に受容可能な情報に対する定義という事。

そして、

先天的定義の基底の要素は、
基本的には身体が「接触」する事象に対する定義の事であり、
代表的に2種類あり、

1つめは、
自然界の自然法則によって起こる事象が、
生命の感覚器官の受容体に接触して励起する事、
つまり、選択的に情報が受容できる事象に対する定義。

もう1つは、身体の状態変化を起こす可能性があり、
生命の定義としてあらかじめ用意された身体の状態に対する定義。
これは、生命の身体の構成そのものの定義に含まれる。

つまり、簡単に言えば、

身体外から得る情報に対する定義と、
身体内から得る情報に対する定義。

いまさらだが、基底の要素は身体が最初に接する情報の定義になるのであるから、
考えてみれば当たり前と言えば、当たり前の事になる。

つまり、生命にとっての事象というのは、
身体外に起こる変化か、身体内に起こる変化であり、
その事象・情報の選択は感覚器官の有無と定義の有無であるという事になる。

当然、定義の存在する事象は変化情報+自己情報が構成できるので認識対象である。
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人工知能に対する先天的定義の実装方法について:

先天的定義の目的としては、
身体内外の事象に対して生命がどのように情報を捉えて構成するか、
という事になる。

つまり、例えば人工知能が事象としての変化の「赤い光」を見る事は、
600~700nm前後の波長の光子の振動に対しては、
「赤い」「光」として定義する事になるのだが、
この定義による刺激の変化情報の構成は、
人間が色覚できるような、例えばディスプレイのRGBの&hFF0000を割り当てるという定義になる。
そして、人工知能が再構成する「刺激の再構成の場」における、
知能が視覚として捉える事の出来る可視領域、
人間で言えば「視界」において、その光子の振動が存在する場所に、
RGBの赤を割り当てる。
という事になる。
人工知能自身は、この事象の情報の受容と、視界における赤の再構成は、
自分自身で行っているのだが、「認識」としては、
自身が関与している事を「認識」しない必要がある。

つまり、これは人間の知能においても同じなのだが、
この「認識」に関する自身の関与自体は、「認識」には含める事は出来ない。

少し難しいのだが、
「認識」があくまで「変化情報+自己情報」という情報の再構成によって生じている、
自身の身体性と変化の事象の存在の「観測」であるために、
再構成の当事者としての「認識」は出来ないはず、という事になる。

つまり、再構成の当事者を「認識」するという事は、
結局、その当事者を「認識」するための当事者が必要になり、再帰に陥る。
これは以前にも考えた事だが、知能が最終的な「観測者」であるためには、
知能が「認識」できる情報は、知能が「認識」できない所で構成する必要がある。

つまり、人工知能が「刺激」を「認識」するためには、
人工知能は「刺激」の構成に関与してはならないという事になる。

つまり、先天的定義による事象の情報の構成は、
人工知能の一部ではあるのだが、ハードウエア的な自動的な処理によって行われるべき必要がある。
という事になる。

まあ、それこそが先天的定義の存在意義でもあるのだが。

つまり、逆に考えれば人工知能の先天的定義として、何の情報を与えるか、
得られるようにするか、拡張できるようにするか、という事になる。
以前も言ったが、定義の存在しない情報は事象が存在していても認識できない。

つまり、結果的に人工知能は、自身の身体上に構成された変化の情報を「刺激」として「観測」し、
その「刺激」に対してあれこれ処理を行えば良いという事になる。

つまり、この辺りから「好ましい情報」「好ましくない情報」などの定義が持ち出され、
自身の身体上の変化として、自身の「感じ方」などが構成される事になる。
この「好ましい情報」「好ましくない情報」は先天的定義ではあるが、基底の要素ではなく、
生命としての定義における先天的定義という事になる。

この辺りの定義は、そもそもの生命のデザインとして、
人工知能とその身体をどのような形に仕上げるかの1つ1つの要素になる。

まあ、この辺りは一人で決められるものでもないので、
いづれ研究者たちで頭を突き合わせて考える事になるだろう。

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今回はこの辺で。

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