2025/1/24-2024/2/11
事象の選択
最初は事象の構成について考えていた。
事象が二面性でもって成り立つという考え方は良いと思うのだが、
それなら、これが一面では存在が事象が成り立たないのか?という事と、
事象が3つ以上の面を持っていることはあるのか?と考えていた。
知能が認識する事象としては、
一面では存在が成り立たないというのは、どのような事象においても言えると考えられる。
例えば、何かが存在するという事自体は、
そのものが例えば物理的に存在する物質などであるなら、
そこに「ある」というだけで事象は成り立っているように感じるが、
実際は、そのものが独立して存在するには、別の何かとの差が必要になる。
つまり、境界がないと一体化した全体の一部に過ぎないのではないか、という事になる。
つまり、
そのものを独立した存在として「あるかないか」を区切る何か境界のようなものが必要であろうと考えた。
これが「差」となるのだが、これには、そのものと別の何かと比較する共通する要素を持つ必要があり、
そこには必ず比較した「境界」の存在が必要になる。
であれば、「境界」は一面では成り立たない。
つまり、存在する事自体が何か境界なしでは成り立たないのではないか、という事になる。
そこに「在る」のだから、存在することはその事だけで十分成り立っているようだが、
ここに「在る」と主張しても、自ら「在る」事とそれが「存在する」事は違う事になる。
例えば人間の存在などもマクロな自然界における他の事象と同じ存在として、
自然界の中に在っては、自然界の中に在る全ての一部と言う事ができるのだが、
各個が存在している事は自然界の中の定義や法則において成り立つものであり、
各個の定義は、それぞれに違いがあるから、異なる存在であるとも言える。
異なる存在である事象のそれぞれは、
他との「差」があり、「境界」も存在するので、
人間は自然界の一部ではあるが、各個の異なる「存在」である事になる。
簡単にまとめれば、
事象が存在するということは、その事象が二面の境界を持っていて、
この二面の境界が必要条件であり、
逆に言えば、事象が二面の境界を持っていれば、
何らかの存在として確定できる事になる。
では、ある事象が同時に3面以上の境界を持つ事はあるのか?と考えると、
それぞれの2面の組み合わせで事象が確定するのであれば、
2面を使って事象が確定した際に、別の1面は単独では事象としては成り立たない事になる。
順番を変えても、同じ事になる。
同時に3面以上の境界を満たそうとすると、異なる2面同士の事象が境界を持ってしまい、
1つの事象として成り立たない事になる。
2面同士の組み合わせの場合は、都度2面では事象として成り立たせる事は出来るが、
同時に別の組み合わせを成り立たせる事は難しいという事になる。
これは、現時点では予想になるが、
1つの事象はやはり3面以上の面を同時に持つ事は無いのではないかと考えられる。
ただ、1つの事象について3つ以上の面を持っている可能性について考えると、
例えば条件A・B・CのA=Bを確かめる間、Cは不定という事になるし、
A=Cにしても、B=Cにしても、それ以外の条件は不定になる。
A=B=Cを計算する方法はそれぞれの「=」は検証できるが、
あくまで2つの条件をそれぞれ検証した上で、その検証同士がなり立つという事だけになる。
つまり、同時に成り立たせているようでありながら、二面性が成り立つ延長にしかならない。
要するに、三角形の各頂点の位置にA・B・Cを配置し、
各辺を「=」で結んだような式を成立させる必要があるという事になる。
3次元以上ののベクトルなどの考え方で各要素を1つの事象として成り立たせることはできないかとも考えたが、
例えば3次元のベクトルは座標の3つの要素で1つの事象として成り立つのだが、
ベクトルそのものの要素を考えると、
ベクトル自体は向きと長さ(大きさ)それぞれの境界を持ち、
それらはあくまで二面性の境界の組み合わせでしかないという事になる。
例えば、これが無限次元のベクトルの事象であったとしても、
ベクトル自体がどこかに収束する場合、
そのベクトルの要素は確定した向きと長さ(大きさ)を持つはずである。
当然、収束しないのであれば、不定ということになり、
存在は確定しないことになる。
そして、これらを考えながら気づいたのだが、
知能が何か選択を行う状況というのは、
知能が認識するための事象を選択する事なのではないか?
という事に気付いた。
つまり、
「通常、事象が存在しえるのは、2つの面を持つことであるが、
選択が生じるのは、3つ以上の面を持った事象においてではないか?」
という事。
そして、
「選択は可能性や確率ではなく、
単に認識しうる選択可能な事象についての関連の度合いというだけではないかという事。」
を思いついた。
つまり、
知能における「選択」だけではないが、
自然法則においても、
例えば量子がその位置とエネルギーが不確定性における偏差、
偏りで存在しているとしても、量子が事象として存在する為の要素には、
位置とエネルギーが含まれていて、それは確からしい。
そして、これらが存在する事で量子の存在の事象は成り立つ。
ここに、人間から見た「観測」の面が加わると、
実際には不確定性原理などにおいて、量子の定義があやふやなものになるのだが、
つまり、観測する側の面においては、量子の事象としての存在の面において、
位置を観測ればエネルギーがあやふやになり、
エネルギーを観測すれば位置があやふやになる、という事になる。
つまり、量子は存在する事は確からしいし、
位置やエネルギーを持っているらしいが、
その一方を観測しようとするともう一方の要素が不定になる。
これは、事象の存在は2面では確定的に定義されるが、
3面以上では同時に確定的な定義ができないのではないか、という事になる。
つまり、そこで自然界には「選択」の定義・概念があり、
事象を確定させるために「選択」が起こるのではないか、という事になる。
量子の持つ要素にどのような偏りがあったとしても、
量子が存在する事については確からしいと考えられているし、
量子が存在する事自体に対しては、
存在する事は分かっているのであれば、
「存在する事」については別に各状態がどうであるかについてはどうでも良い事になる。
しかし、量子に新たな要素の面が関係しようとした場合、
この量子の元々の要素については、この新たな要素との関係が定義されることになる。
もし、現在の人間の知能が認識しうる量子に対する関係として、
量子の位置やエネルギーに対して偏差としての偏りとだけしか関係することが出来ないのであれば、
元々量子はそういう要素と定義を持っていたという事になる。
そして、また考え方を変えれば、もしかしたら量子の位置とエネルギーに接する別の何かが存在すれば、
その観測により量子の位置とエネルギーに同時に接する事ができるかもしれない、
という事も考えられる事になる。
しかし、さらに考えれば、現時点で自然界において、存在する事象は、
確定的に存在するには二面性のみであり、それ以上の面が接するには選択が生じるのではないか、
という事になる。
そして、もう1つ、選択には可能性や確率として存在する選択される候補のようなものは存在しうるが、
不確定性はなく、可能性や確率として考えられる不確定性は、単にその存在が確認できなかったり、
認識できなかった候補に対する補完する面としての存在になるのではないか、という事である。
つまり、選択は本来、確定した選択肢から選択され、その選択は、その選択の時点で、
事象を存在させる定義として確定されるものであり、可能性や確率などは存在しない。
もし、この選択において可能性や確率が存在する場合は、
その選択は、不確定や未確定、定義の存在や認識ができていないだけであり、
この未確定の要素に対しての選択の候補を補完して、どうにか認識する為の考え方の定義ではないか、
という事になる。
つまり、
事象が確定して存在する場合の時点においては、可能性や確率はすでに事象の存在に対しては関係しない、
すでに存在が確定しているからである。
事象の存在の定義が確定する前においては可能性や確率が接する面は存在し、
可能性や確率として予想や予測できる事象というのは存在が確定していない、存在する前になら定義できる、
しかし、この状態は、この後、この事象は存在を確定する為にある要素の二面性を用いて確定されるが、
この確定における面は、可能性や確率として接する面とは異なる面が用いられる事になる。
つまり、可能性や確率で定義している事象は、選択の結果として確定される事象とは少し異なっている事になる。
(まあ、この考え方であると結局、完全なる自由意志が存在しない結果になってしまうので、
個人的には非常に残念なのだが)
例えば、数学において、
連立方程式や多次元を同時に表す式があるのは聞いたことがあるが、
計算は「=」の左辺と右辺で事象が成立するものであり、
3つ以上の辺を同時に表す数学の式というのは無いと思われる。
これは他の学問についても、現時点では言える事で、
要素が多数あり、1つの事象に関連していると考えられていても、
実際は二面性の複数の関連という考え方に収まる。
つまり、連立方程式のようなものになるが、
あくまで二面性の繰り返しの上で成り立つ事象という事になる。
もし多面的な3つ以上の辺を同時に満たす式となると、
A=B=C=A・・・繰り返しか、
上記のような三角形の各頂点に要素のA・B・Cを割り当てて「=」で繋ぐなどになるだろう。
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2025/1/31
「選択」が知能が認識できる1つの事象である場合について考えてみた。
つまり、選択する事、それ自体は、
自分がそれが「選択」であると認識できているわけであるから、
1つの事象として成り立っているのではないか、
というわけである。
つまり、
選択における選択肢は、認識できるわけだから、
それぞれが独立した単独の事象であり、
その1つ1つは選択肢である前に、1つの事象として成り立っていると考えられるわけであるから、
自分が「選択」していると感じられるという事は、
「選択」を行う事、「選択」する事を認識しているわけだから、
それ自体も事象の1つであるのではないか?
というわけである。
それなら、「選択」にも何らかの定義が存在し、
知能はそれに従って「選択」を行っているのではないか、
というわけである。
これまでは「選択」は、知能が持つ働きとして、
その選択肢のそれぞれが持つ価値のような評価基準を比較して、
最も価値のある事象を選び、
その結果を認識したり、意識したり、
最終的には行動の目的にしたりすると考えてきたわけだが、
それは、単なる定義というよりも、
知能が持つ独自の機能ではないかと、考えていた。
つまり、知能の働きとして「選択」は存在し、
知能が選択に対して何か働きかけをしているのではないかと考えていた。
ただ、もし、「選択」が他と同様の事象であると考えれば、
「選択」も何らかの定義に従って受動的ではあるが自動的に行っている事になる。
つまり、自我意識であるような自由意志のようなものとは関係なく、
定義に従って粛々と選択をしているという事になる。
要するに、「選択」の定義は、
選択肢の事象に対して評価して1つの事象を決定する事、という様にである。
例えば、まったく同じであるような選択肢が2つ存在した場合、
ここから生じる選択の結果は3つ、「どちらかを選択する」か、「どちらも選択しない」か、
という選択肢が存在する事になる。
「どちらも選択しない」という選択も一応あるが、
これは「選択」においては、結果的に「選択できなかった」という事象であり、
選択肢として考慮できるが、ここでは「選択」が行われたものとして考えから一度除いておく。
では、まったく同じような2つの選択肢からどちらかを選ぶ方法は?
というと、知能は選択を必要とした場合、選択肢の「評価」が行われ、
その「評価」に従って選択肢同士を比較し、もっともらしい方の選択肢を「選択」する事になる。
この「評価」は、選択肢として認識される前の時点で事象としては成り立っており、
既に認識対象になっていると考えられる。
また、「評価」については、事象として構成される時には、
自分が持つ事象としての定義から構成されることになるため、
認識対象の事象として構成された時点で、既に評価される情報の要素は含まれている事になる。
つまり、「まったく同じような2つの選択肢」を認識した時には、
それぞれの選択肢は「何らかの共通する評価基準の定義によって構成された事象」として、
存在している事になる。
つまり、「まったく同じような2つの選択肢」を思い浮かべた時には、
2つの事象が共通する評価基準を持つ事象として思い浮かぶことになる。
さて、では、この「まったく同じような2つの事象」から選択はできるのか?
という事になるが、基本的に認識された事象というのは、
知能内においては最も強い情報を持った事象という事であり、
もし、様々な選択が行われた結果であったとしても、
その選択を一番で抜けてきた、最も強い構成体ということになる。
つまり、認識プールに在る認識された事象という事になる。
この時の選択は、事象の評価の比較ではあるのだが、
刺激や概感として構成された時の神経細胞ネットワークの励起の強さという事でもある。
つまり、この時の選択において、評価される要素は、
神経細胞ネットワークの励起の強さ、つまり、刺激や概感として構成される情報の強さという事になる。
認識における事象に対して、受容する変化の強さというのは変える事が出来ないが、
事象としての再構成時には、その強弱にはある程度変化をつける事は出来る。
これは、集中しているときに細やかな変化を認識する事が出来るように、
物理量などで比較できる要素を情報の強さとして小さく評価するような事が知能にはできる。
これは、意識の認識の連続性における前状態からの変化として、
特定の事象を強い変化として評価することができるという機能という事になる。
つまり、何が言いたいかと言うと、
事象が認識できるような情報として構成された時には、
既に評価対象となる情報は織り込み済みで、
選択時に評価をするのではなく、
事象として構成された時点で評価は済んでいるという事である。
つまり、「選択」は、
まず選択肢となる事象を認識してから、評価して、比較するのではなく、
事象を選択肢として認識した時点で評価は済んでいて、
「選択」を事象として認識した時点以降に行われるのは、
「選択」それ自体の定義による比較だけなのではないか、という事である。
つまり、「選択」を認識した時点で、まだどちらを選択するのか決まっていないのは、
評価が済んでいないのではなく、比較して選択するだけの「差」がついていないからなのではないか、
という事である。
この「差」は評価としての価値などの「差」なのではないかと思うかもしれないが、
実際に「どちらが良いか」などと、自分で選択や比較する時の事を考えてみると、
選択対象の評価を変化させているのではなく、
例えば、こちらを選んだらどうなるか、とか、別の方を選んだ場合はどうか、とか、
選択する事象について何かを決めるというよりも、
「選択」した事による結果の想起などを行っている。
つまり、選択肢の事象についての評価を変化させているわけではなく、
選択における、選択した後の事象について比較しているという事になる。
これは、「選択」を事象として考えた場合、
「選択」に自身の知能が持つ定義があり、この定義によって「選択」が構成されようとしているのではないか、
という事になる。
つまり、「選択しようとする事」の事象が、「選択する事」そのものの様に認識され、
その過程が継続されて認識されている間が、「選択する事」の意識になる、という事になる。
つまり、「知能が選択している」と認識されている期間は、
知能がある選択肢からなる「選択」において、
その選択肢から関連して想起を行いながら、
その概感によって、選択が決定できるだけの差を生じさせようとする事なのではないか、
という事になる。
つまり、選択しようと考えているのではなく、
選択しようと選択肢から関連して想起される比較するための「差」の要素を想起する、思い出そうとしている。
これが「選択」の機能の実体なのではないか、
という事になる。
概感を構成する想起においては、事象の定義に関連する別の事象の定義は後天的定義として存在する。
これは、「選択」に限らず、
知能が何か刺激をきっかけとする目的ではない何かを選択し、
目的などを決めようとする場合や、そもそもの想像、創造などにおいても、
ある目的の事象に対して、「選択」や「想像」「創造」などの結果を出す、「選択」する事も、
同じ働きから生じているのではないか、という事になる。
つまり、目的を事象として認識した場合に、
この目的が明確でない事象の場合、つまり、確立した目的や行動、出力や創作などに現時点で繋がらない場合、
認識できない場合に、この最終的には自身を活動や目的の為に行動させる事になる、
目的などの「結果」を構成するために、想起する事なのではないか、
という事である。
つまり、
選択は、選択肢を評価して、より良い結果を選び出す事と一般には認識されているが、
知能における選択の働きというのは、選択肢の事象から結果を選び出す事ではなく、
選択肢に対する想起により、情報の決定的な「差」が生じるまで、
その関連する想起を繰り返し行う、継続した状態の事なのではないか、
という事である。
つまり、簡単に言えば、
選択といっても、本当に選択しているのではなく、
選択肢に関連する事象を想起しているだけの事。
この選択肢の関連する事象の想起によって、
自分の知能が比較を決定できるだけの「差」が生じた場合、
その時点で「選択」が行われたことになり、いずれかの選択肢が選択される事になる。
例えば、認識した時の選択肢が、明らかにどちらかの評価に偏り、
知能を働かせる必要もなく「選択」できるのであれば、
その場合は「選択」に関連する想起は行われず、即座に「選択」が認識され、
いずれかの選択肢が結果として選ばれる事になる。
これは、想起が、これまで思考や想像、創造などに関わると考えてきたが、
ここに「選択」も含まれる事になる。
つまり、知能にとって確定的でない事象について、
その事象を確立するための働きが、それぞれ思考や、想像、創造、選択、
などとして系統的に理解されてきたのではないか、という事になるが、
その機能で行われている働きは、
どれも同じ想起を元にした、結果や目的を事象として構成する為の働きである、
という事になる。
つまり、定義の概念で言えば、
選択肢は「選択」を事象として構成する為の入力の要素という事になる。
そして、定義が存在し、出力がまだ確定的に定義されていないので、
想起によって、もっともらしい結果を構成する為の要素を繰り返し試しながら思い出し、
「選択」できる「差」が確立された場合、「選択した感覚」と選ばれた選択が結果として認識される、
という事になる。
そして、これは、「選択」自体が機能なのではなく、
汎用的な考え方であれば、
未定な事象を構成する為に、きっかけとなる入力と、
記憶された既存の経験としての後天的定義から概感を構成し、
目的(選択や思考や想像、創造など)に応じた結果を事象として構成し出力するために、
知能自身が持っている先天的定義なのではないか、
という事になる。
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話を戻して、「まったく同じような2つの選択肢」の話になるが、
恐らく上記の定義からすると、この2つの選択肢から想起される事象はまったく同じであれば、
当然、選択する為の差が生じない為、この選択は出来ない事になる。
例えば、この状態において他の条件として「絶対に選択しなければならない」というような条件が追加されれば、
人間は恐らくこの選択肢に何らかの要因、例えば先か後か、等の差をつけ(想起し)
無理にでも差をつけて選択すると考えられる。
または、完全に事象が一致するのであれば、選択肢として認識されず、
単に2回同じ事象を認識したと感じる事になるだろう。
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2025/2/1
今日考えていた事は、
・選択が事象である事
・想起が選択の基礎の働きであること
・選択は選択肢から選択するのではなく、選択肢についての自分の定義を模索する事
つまり、選択している、選択する事について考えていると感じる時は、
選択肢についての変化
・感覚の認識においては「選択」は起こらないという事
つまり、先天的定義で定義されているような刺激については、
その受容に対して「選択」が起こるようなことは無い。
例えば、温度を確かめるために何かに触れてみて、
その物が暖かいか冷たいか選んで認識するような事は起こらない。
つまり、先天的定義で認識される事象は、定義が決まっているために、
「選択」が起こらないという事。
であれば、「選択」が起こるのは、先天的定義の事象に対するものではないという事になる。
ということは、後天的定義ということになるが、
「選択」は、選択しようと試みている最中は、まだその答えの定義が決まっていない。
ということは、選択肢は事象として確立されて認識されているが、
その答えとしてはまだ事象として確立されていない、という事になる。
そしてそれを試みるのが「想起」なのではないかという事になる。
つまり、選択肢に対して自分の定義を加えて後天的定義を定義する事、
これが「選択」なのではないか、という事になる。
・選択は先天的な機能ではなく、後天的な機能である事
つまり、選択肢を認識するのは事象としては感覚などを元にした変化の事象として最初に認識するが、
それが選択肢であるという認識の際には後天的定義の事象になっている事、
そして、この選択肢については、後天的定義としての自己情報が定義されておらず、
この選択肢を、自分の後天的定義に定義しなおす事が「選択」の事象なのではないかという事。
つまり、選択肢の認識自体は、選択の前に済んでおり、これらは事象としては認識済みである。
しかし、選択肢が「選択」されているかどうかについては、
「選択中」であれば、まだ「選択」されていないという事になる。
この時点での選択肢は、事象として認識されてはいるが、
自分に関連する後天的定義としては、まだ定義されていない、
つまり、事象としての定義が済んでいない事になる。
つまり、自分にどのように関連した事象であるかという定義が、
未定義であり、後天的定義としての定義が済んでいないという事になる。
つまり、後天的定義としては、また宙ぶらりんの変化情報ということになる。
ここで、「選択」しているという時の知能の働きは、
この選択肢に対して、自分をどのように関連させるか、ということであり、
これは後天的定義の事象として、「変化情報+自己情報」の定義をどのようにするかが、
まだ決まっていない状態という事になる。
そして、この時に働くのが「想起」であり、
選択肢の事象としては確立しているが、後天的定義の事象としての自己情報との関連が済んでいない状態において、
この選択肢の事象を「変化情報」として、自分をどのように関連させるか、
ここで行われるのが「想起」であり、この時に想起されるのは、
目標としては「自己情報」なのだが、この定義自体は、
「ある事象に対して自分がどのように感じるか」ということであり、
これはつまり、選択肢に対する自分の関連の関係を定義する事であり、
つまり、選択肢に対する自分の評価という事になる。
・後天的定義として事象に対して自己情報を関連付ける働きは、
選択だけでなく、思考、想像、創造、妄想、予想、そういった全てで共通するのではないかという事
つまり、ある事象に対して後天的定義を新たに構築する事、この事が知能において、
「思考」するという機能なのではないかと考えた。
もし、既に定義が完成しているなら、例えば先天的定義であれば、選択する余地もなく、
ある変化情報に対する自己情報が構成され、刺激として認識対象となる。
また、後天的定義であれば、想起を用いるのだが、定義の存在によって、
概感が思い出されることになる。
概感の場合も、定義が既に完成しているわけだから、選択は起こらず、
ある事象の認識に対して、決まった事象が思い出される事になる。
定義が完成していない場合を考えると、先天的定義であれば、
変化情報を受容しても、これに対する刺激は構成されない、
感覚としては、もし未定義である感覚器官からの変化の受容が存在したとすれば、
何か感覚で変化を受けた気がするが、身体上に変化として現れる事象が無いという事になる。
後天的定義であっても、何か事象として認識するものはあっても、
そこで完結し、関連して思い出す事は何もないという状況になる。
つまりある認識した事象が、自分に少なからず影響を与える関りがあり、
それを自分の知能が認識するべきと判断された場合、
知能はどうするかというと、過去の経験から似たような事象を思い出す、想起するという事になる。
これは、その時点では知らない、経験した事の無い事象に対して、
どうにかして解釈や理解する為に知能が行う働きという事になる。
そのような決まった働きの定義が存在するというよりも、
恐らく似たような事象は、似たような経験を用いて事象を解釈するという
「関連付け」、関連を付ける働きであると考えられる。
つまり、これまで経験した事が無い、または、定義の存在しない事象に対して、
新たな事象としての定義を構成、構築する場合、
既に保有している定義を関連付ける形で想起して、
新たな定義として構成しようとするのではないか、
という事になる。
つまり、その関連や定義が正しいものか、間違っているものか、それさえも別にして、
まずは、その新たな事象を認識する為には、「変化情報+自己情報」の定義が必要になるわけだから、
新規に現れた変化情報に対して、その時点では存在しない自己情報の関連の定義は、
想起によって補完されるのではないか、という事になる。
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2025/2/3
選択における決定の判断基準
今日は、
選択において、ある事象が自分の定義として確立した場合に、
選択を決定したと認識する事になるが、
この「決定」がどのような基準で「決定」するのかについて考えていた。
選択において、選択肢が選択肢であるということは、
この選択される可能性のある事象は、
選択肢である時点では、まだ自分の選択結果ではないという事になる。
これは、もし認識の時点で、自分がある事象を既に選ぶと決めて認識していたなら、
そもそも選択は起こらないはずで、自分は、この事象を決定事項として認識するだけ、という事になる。
つまり、ある事象が認識の時点で「選択肢」になるのか、「選択結果」になるのか、
そこに何らかの違いがあるという事になる。
認識を基準とした場合、
ある事象に対して認識する際に、自己情報の関連において、
この「ある事象」が、何かの基準を満たさなければ「選択肢」となり、
何かの基準をクリアしていれば「選択結果」として認識される事になる。
つまり、認識においては、
ある事象が持つ、変化としての情報に対して、
自己情報が構成されて認識されるが、
この情報や定義のどこかに判断基準となる違いがある事になる。
選択肢であっても、選択結果であっても、認識しているという事は、
何らかの自己情報は構成されている事になる。
ある事象が持つ変化情報についても同様で、
認識に足るだけの情報の要素は持っているはずである。
認識した後の違いについて考えると、
「選択肢」としてある事象が認識された場合、
このある事象は自分の目的などにはならず、想起対象としての経験だけという事になる。
もちろん後天的定義としては確立されてはいるが、
何か自分との関連において足りないものがあるように感じる。
「選択結果」としてある事象が認識された場合は、
このある事象は自分の目的などに用いら、定義として確立されたものという事になる。
当然、想起においては自分との関連は明確で、自分に関連した事象として想起対象になる。
つまり、選択結果は自分との関連が定義として確立されて、
恐らく次回以降の想起においても、選択結果として用いられる事になる。
選択肢であった場合、自分との関連は定義として確立されてはいるが、
それが、自分との関連として明確な何かではないという状態である。
つまり、選択肢であった、この「ある事象」は、
認識における自己情報とは少し異なる何かが足りないか、付与されている事になる。
恐らくは何かが「不足」しているために、決定に至らないのだと考えられる。
選択については、後から「選んで良かった」とか、「選ばなければ良かった」と考える事があるから、
恐らく、その事象の選択を、自分の定義として決めた事について、
何かの差があるはずである。
つまり、何か自分の基準となる指標があり、
それについて比較している。
「決定」それ自体が何らかの情報であるということか?
つまり、選択肢は認識においては自己情報の関連はあるが、
定義としては固定化されていないということであり、
選択は定義として決定しているという事か?
つまり、選んで決めた何かというのは、
自分の何かが明確に関連していて、
まだ選んでいる途中の何かというのは、
自分の何かの関連が足りていないという事か?
「決定」が事象であり、認識対象であるとすれば、
二面性の考え方であれば、
変化情報は、元々何らかの選択対象であり、
一度選択対象になる前に認識された「何かの事象」という事になる。
自己情報は、確定された自分の定義から構成される事になる。
つまり、「決定」が事象として構成される場合、
自己の後天的定義として確定した事象の認識という事になる。
では、「未決定」も事象であると考えるとどうなるか。
「未決定」が事象であり、認識対象であるとすれば、
二面性の考え方であれば、
変化情報は、元々何らかの選択対象であり、
まだ選択対象として決定してはいないが、「決定」時と同様の「何かの事象」という事になる。
自己情報は、恐らく、ここに「決定」時との違いがあるという事になる。
では、「未決定対象」に関連する自己情報は何か?と考えると、
認識されてはいるので、自己情報は構成されているはず。
仮定的な自己とか、そういった新たな定義に関わる何かとして構成されるのではないかと考えられる。
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2つの事象の選択でなく、
ある1つの事象について選択するという場合もある。
例えば、今進んできた道を、このまま進むか、進まないか、
これも選択になる。
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2025/2/4
今日考えたのは、
選択における選択肢の認識は、
先天的定義による刺激などであれば、
自動的に自分が向かうべき方向は定義により定まる事になる。
ここで、後天的定義としての概感であり、
かつ、自己情報の定義が定義として存在しない場合において、
選択や思考が行われることになる、
という事である。
つまり、
ある事象に対して先天的定義や、後天的定義としての定義が既に存在し、
その認識に対して自己情報が半自動的に構成される場合、
この場合は、選択などは起こらず、
単にその事象を認識し、自分が向かう方向は定まっている事になる。
しかし、この定義が決まっていない場合、
つまり、事象の認識に対して、後天的定義の自己情報の定義が決まっていない場合、
この事象の認識に対しては、知能は自分がどのようにしたら良いかという事が決まらない事象として、
認識する事になる。
もちろん、認識は行われるので、自己情報は構成されているのだが、
あくまで先天的定義や、後天的定義において、既に存在して関連する事の出来る範囲の定義において、
自己情報が構成されるが、この事象の認識においては、
自分がこの事象に対して確立した定義として、後天的定義として記憶する為の定義には至っていないという事になる。
つまり、事象は認識できるが、何か後天的定義として記憶するには足りていないという状態である。
という事になる。
つまり、後天的定義として記憶するための自己情報の構成する要素としての定義が、
まだ未完成であるために、選択や思考をする必要があるという事になる。
変化情報→先天的定義による構成:「+自己情報」→刺激→認識
この場合は先天的定義は既に確定しているので、選択などは起こらず、
自動的に刺激の構成と刺激の認識に至る。
選択や思考が発生する場合は、
変化情報→後天的定義による構成:「+自己情報」→概感→認識
として、事象が持つ変化情報の認識は、刺激同様に行われるのだが、
ここでの「自己情報」に対しては、
必ずしも確定的な定義が存在していない場合がある。
つまり、経験した事の無い事象や、考えた事の無い判断などは、
明確な自己情報が存在しない事になる。
つまり、ある事象を感覚的に、先天的定義から構成される刺激などとしては認識し、
理解できるのだが、その事象に対して思いつく自分らしい反応は決まっていない、
という事になる。
こういった場合に、知能は、この事象に対して自分らしい反応としての定義を作ろうとする。
つまり、この事象に対して確立した定義を作ろうとするわけである。
恐らく理由としては次の同じ事象に対する認識に対して、
即座に自分の固有の反応ができるように、という事であると考えられる。
まあ、定義が存在すれば、反応も早いし、労力的にも効率的であるし、
メリットが多いから、という事になる。
まあ、間違って定義した場合に、後で修正するのが大変だということもあるが、
それを差し引いても定義を記憶として留めておくことは、知能にとってはメリットがあるということなのだろう。
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2025/2/5
昨日の続きで、自己情報について考えていた。
考えた内容の結果から言うと、
自己情報は、先天的定義による身体性としての既に決まっている自己情報と、
後天的定義としての経験に対して構成される自己情報があるが、
この後天的定義における自己情報に対しては、
身体性における状態変化の場合の後天的定義としての自己情報と、
自身の身体外の変化における後天的定義としての自己情報がある。
そして、この後天的定義における自己情報には2種類あり、
刺激をきっかけとして構成された後天的定義と、
概感をきっかけとして構成された後天的定義に分けられる。
という事である。
つまり、
「1:先天的定義の存在する変化→自己情報の先天的定義がある」
これは、刺激などにおいて、身体上の感覚器官が受容する変化などであり、
自己情報には身体性としての先天的定義が存在する為、
自己情報の構成において「選択」などは起こらない。
「2:後天的定義の存在する変化→自己情報の先天的定義(の関連)がある」
場合と、
「3:後天的定義の存在する変化→自己情報の先天的定義(の関連)がない」
場合があり、
「2:」の場合は、
これは、個体が過去に経験した事のある先天的定義の存在する変化、
つまり、過去に身体が刺激として経験した事のある記憶であり、
再度、同様の変化を受容して認識する場合であり、
この場合は、自己情報として構成されるのは、
自分の身体性ではあるのだが後天的定義であり、
自分の身体性において経験した「感じ」「感覚」の記憶という事になる。
つまり、過去に刺激として自分の身体が経験した、
この刺激に対する「自分の身体がどのように感じたか」の記憶であり、
この記憶は後天的定義であるのだが、
後に同様の刺激を受容した場合は、刺激そのものに対する認識として、
その刺激そのものに対する事象としての再構成の他に、
関連する「想起」として確立された記憶として、
この過去の経験した刺激が後天的定義として用いられ概感が構成される。
この概感は、変化情報は最新の刺激の認識をきっかけとしているが、
再構成されるのは、過去に経験した刺激によるもので、
つまり、最新の刺激の認識に対して、最新の自身の反応に加え、
過去の同様の経験からの刺激の記憶としての後天的定義からの概感が構成されることになる。
つまり、最新の刺激の認識と、過去の経験としての刺激に対する過去の自分の感じた認識の想起が、
行われることになる。
そして、この時の想起による自己情報は、
経験であり、後天的定義であるのだが、その元に関連しているのは自己の身体性としての先天的定義であり、
その概感は、自分の身体が感じた過去の刺激に対する記憶の想起として構成される。
つまり、最新の身体性の感じ方の認識と、記憶による身体性の感じ方の想起が、行われることになる。
そして、
「3:」の場合は、
これは、個体が過去に経験した事のある、直接的に先天的定義の存在しない変化、
つまり、過去に自分が感じた「感じ方」に対する記憶であり、
再度、同様の変化を受容しして認識した場合であり、
この場合は、自己情報として構成されるのは、
自分が過去に感じた「感じ方」としての後天的定義であり、
自分が認識した対象に対して、自分が独自に感じた「自分の反応」の記憶という事になる。
つまり、「2:」と異なるのは、
「2:」が刺激に対して先天的にその反応が存在する事象の認識ではなく、
ある事象の認識に対して定義の存在しなかった事象に対する「自分の反応」であり、
自分が独自に定義した後天的定義という事になる。
つまり、この認識では定義による事象の再構成ということだけではなく、
想起による過去に経験した自己の再構成も行われることになる。
突き詰めれば、
その構成は刺激の認識しとして事象に対する自分の反応として構成されたものを記憶したものなので、
「2:」とその根底は同じになるのであるが、
異なるのは、その「自分の反応」が、先天的に存在していた定義ではなく、
後天的に経験した「自分の反応」であるという違いがある。
つまり、「2:」の「自分の反応」は、その認識対象の事象の構成における自己情報は、
先天的定義として既に存在していたもので、選択などは起こらず、半自動的に刺激として事象は構成される。
この認識による経験は、自分らしいの固有の反応ではあるのだが、
結局その元にある自己情報は先天的定義として、自分の選択や判断によるものではない。
しかし、「3:」の「自分の反応」は、その認識対象の事象の構成における自己情報は、
定義が存在していないので、あくまでその事象を認識する為には、
自分が認識して、自分の反応とするための自己情報が必要になる。
つまり、その事象が自分の認識したという反応であるための自己情報、自分の情報が必要になり、
ここで用いられるのが、過去の経験の中で、この事象に似た(関連した)事象が用いられ、
この事象の定義における自己情報が用いられる事になるのではないか、というわけである。
つまり、
先天的定義が存在していない事象に対して、
後天的定義の定義が構成される場合、
身体の感覚器官が受容できる後天的定義の場合は、
変化は後天的であるのだが、
その自己情報には刺激と同様の先天的定義の自己情報が構成され、
この変化情報+自己情報で認識対象の事象が構成され、
最初から先天的定義による定義が存在しない事象の場合は、
その変化情報についても、自己情報についても、
後天的定義の経験として記憶された情報から、この事象が構成される事になる。
つまり、先天的定義の存在する事象には選択が起こらない、
後天的定義は存在するが、身体で感じる事象についても選択が起こらない、
選択が起こりうる事象というのは、
定義が先天的定義に存在せず、後天的定義においても身体が直接関わらない事象についてのみであり、
後天的定義として、過去の経験の想起によってのみ自己情報が構成できる事象には、
選択が起こりうるという事になる。
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2025//2/7
結果的に
選択は自己情報としての定義を作るための知能の働きの1つであり、
基本的に新たな定義を作成する場合は、
先天的定義と後天的定義は両方用い、
定義が存在しない場合は、先天的定義の定義を中心に用いて、
後天的定義が存在する場合は想起によって、
先天的定義と合わせてその定義の材料として用いる。
つまり、これまで価値観などとして考えてきたものは、
この自己情報の定義の積み重なったものという事になる。
つまり、ある事象に対して自分がどのような価値を見出すかというのは、
ある事象に対して自分がどのような定義を行うか、
という事になる。
先天的定義が存在すれば、基本的にその事象は刺激として認識され、
選択は生じない。
個体にとって完全に新規の事象の認識に際しては、
まず、感覚器官で事象に対する認識が行われる。
つまり、単なる自然法則による事象として認識する事になる。
この事象については、先天的定義で理解する事の出来る情報は、
その事が存在するというだけで、その意味や自分にとっての何かという意味はない。
そして、この事象に対して、恐らく先天的定義は、身体に対して何らかの状態の変化を指示する事になる。
つまり、これは、知能が認識する必要であると判断した事象であるため、
自身に対して何らかの変化を状態の変化として表すことになると考えられるからである。
これは、先天的定義としては先の刺激であるように構成され認識されるが、
自身の身体における状態の変化については、後天的定義としての定義として事象が構成されることになる。
つまり、新たな事象を自分が経験した事象として、その定義を後天的定義として構成する事になる。
つまり、先天的定義で定義が存在しなかったとしても、
事象は感覚器官で認識され、知能は自分に何らかの影響がある事象として判断され、
認識が行われる。
この時の認識は、先天的定義は用いられるが、ちょくせつその事象の定義は存在しないので、
定義の組み合わせで、新たな定義が構成されることになる。
これが後天的定義という事になる。
そして、事象の認識においては、認識対象は「変化情報+自己情報」で構成される為、
恐らく最初の後天的定義は変化情報=先天的定義(刺激)、自己情報=先天的定義(身体性)
で構成されると考えられる。
そして、この定義で構成された事象は認識され、自分の経験であり後天的定義として記憶されることになる。
そこで、この同様の事象が次に現れた場合にどうなるかというと、
先天的定義としては定義が存在しないが、後天的定義として定義が存在する為に、
後天的定義の「想起」が行われるという事になる。
つまり、後天的定義である何らかの経験を再度認識した時に感じる「自分である定義」は、
この後天的定義に含まれる自己情報という事になる。
そして、今回の話の肝でもある、3面と選択についてであるが、
ある定義の存在しない事象について、
この事象が選択が必要な3面を持っている場合、
知能はどのように働くかと言うと、選択肢についてはそれぞれ事象としては認識できる。
これについては上記の通りである。
しかし、これらの選択肢について、自分が何を選択するべきかというのは、
選択肢が持つ価値のようなものを自分が比較するのではなく、
選択肢の認識に際して、過去の似たような経験から想起された事象から、
この選択肢の事象は構成される事になる。
つまり、選択肢の認識によって、選択肢自体の定義が済んでいる事になり、
この選択肢を構成した定義そのものが、選択における評価基準になっている、という事になる。
つまり、選択肢のそれぞれを認識できた場合、
それぞれの選択肢には、「変化情報+自己情報」の定義が構成されていて、
事象として既に成り立っている事になる。
つまり、選択は選択肢が全て認識できている状態では結果は出ているのと同じ事になる。
逆に言えば、まだ選択されていないと認識する状態というのは、
この選択肢がまだ2面の事象として構成されていない事であり、
事象そのものが3面以上を持つ状態で、自分の認識がまだ済んでいないという事になる。
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2025/2/10
少し長くなってきたので、そろそろ話をまとめると、
「選択」は、事象の認識において、
自己情報を構成する為の定義が不十分であり、
自分にとっての認識する対象となる事象として、
確定的ではない状態の事象に対して生じる、「事象」なのではないか、
という事になる。
つまり、自己の定義、自我などとして、
記憶する事になる自己情報としての後天的定義として、
自分を構成する為の定義を確定する為に、
まだ未確定である自己情報について、その要素を追加する事、
ここで用いられるのが「想起」であり、
結果的に事象が確定することで起こるのが「選択」である、という事。
つまり、未選択な選択肢として認識する場合は、
先天的定義や、既に定義して持っている後天的定義から、
身体性や自我などの自己情報が構成されるが、
この時点で「選択」に至らない場合に、
自己情報を補完する機能が「想起」であり、
この「想起」においては、既存の後天的定義を組み合わせて、
新たな定義を構成する事なのではないか、という事。
つまり、「選択」しようとする事は、
簡単に言えば、
選択肢に対して、自分が後天的定義として経験しても良い形に事象を仕上げようとする事。
であり、「選択」がまだ「未選択」な状態というのは、
この「自分が後天的定義として経験しても良い形」に事象が仕上がっていないから、
いろいろ自分に関する情報を想起して仕上げようとする事なのではないか、という事である。
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ここまでの内容で残った課題としては、
自己情報が確定していない状態の事象について、
確定した定義として、どのようにして「想起」を用いてこの自己情報を補完するか、
という事になるが、
これについては改めて考える事にする。
現在の候補は、
先天的定義の身体性、つまり、身体で感じられる状態として認識できる要素か、
経験の想起の概感として、後天的定義から構成して要素とするか、
このどちらかになるのではないかと考えている。
今回はこの辺で。
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