2024/12/6-2024/12/29
少し書いた内容が増えすぎてしまったが、
全体を通しての内容は表題の通りの「認識と意識」である。
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認識と意識
そろそろ「認識」のまとめを更新しようと思ったので、
少し認識と意識について考えなおしてみる事にする。
ここ最近は、情報の入出力と定義、二面性などの考え方を中心にしてきたので、
それらの観点を組み込んで今回は考える事にする。
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まず、認識について。
認識は、
まあ簡単に言えば、
「自身に起こった変化を自分が受けた変化として知る事。」
という事になる。
難しく言えば、
「生命体が、ある事象の変化という情報に対して
その個体が持つ知能という機能を用いて、
刺激または概感を構成し、
生命体自身に関係して存在している事象であると知能が観測する事。」
という事になる。
少々表現として分かりにくいのだが、
知能がその器である生命としての個体が受ける変化、
つまり、個体にとっての環境や自身の身体の状態の変化を情報として受け取り、
その変化を情報として自身の情報と関連させて1つの情報として構成し直したものを
刺激や概感として体感(観測)する事。という事になる。
認識は刺激や概感の定義によって、科学的に同じ変化であっても、個体毎に異なる情報を構成するので、
自分が体感的に認識している情報が、別の誰かと必ずしも同じにはならない。
かろうじて先天的定義は遺伝的に同じ生物種においては個体差は比較的少ないが、
それ以外の定義についてはほとんど後天的な経験から構成された後天的定義であるので、
個体差が存在し、個体によって同じ定義で同じ認識になる事はほとんどない。
生命体にとっては、自身の周囲や自分自身に起こった変化の内容を知りたいので、
知能が、その変化を自分にとって都合よく情報として加工すると、
加工の結果、自分がその変化を実際にその身に受けている様に感じることが出来る。
それが認識という事になる。
認識を行う時、変化の情報が、
身体性に関係している事の必要性は以前も考えたが、
これは情報の入出力において、その入力した変化の情報を、
自分にとって生じた変化として受け取る為に必要になる。
つまり、変化は認識に関わらず先に起こっているから、それはそれで情報としては独立して成り立つ。
しかし、その変化が自分にとって何か意味のある変化であるためには、
その変化した情報が自分に関係するための、対の対象が必要になるというわけである。
これは「自分」が存在する為の二面性という事になる。
変化:「自分」の存在:(何かが必要)
つまり、この関係する対の対象が身体性や自己情報であり、
定義の入力側である変化の情報が、
自分にとって何か意味のある入力である事の定義によって、
自分は反応側の出力をするのだが、
この時に反応する出力先(自分)が存在しないと、
入出力としての出力側が成り立たない事になる。
つまり、入力の変化だけでは自分にとって何のことだか分からないという事になる。
つまり、変化と、その変化を受ける当事者が2つ揃う事で、
その当事者にとって認識としての変化と反応の入出力が揃う事になる。
これは、出力としての反応にも関係するのだが、
主観的であれ、客観的であれ、
先天的定義でも、後天的定義であっても、
その情報が存在し、認識するためには、変化に対して何らかの出力が必要になる。
つまり、認識においては、
入力した事象の変化に対して、身体性を情報として構成し出力する事で、
入出力の情報の関連ができて、認識ができる、という事になり、
以前に腔腸動物の例の時に考えた、
入出力が揃うことで認識を行う準備が出来る事になる。
腔腸動物においては、その機能において、
自分の情報を構成する知能までは至っていない為、
知能として人間のような「認識」はされていないが、
神経細胞の働きとして、入力に対する出力は定義で決まっており、
腔腸動物の場合は、出力は直接運動細胞などに繋がっているのだが、
これが人間などの知能において、出力が個体の情報、
つまり、自己情報を構成して情報が加算される場合、
「変化情報+自己情報」とすることで、
知能は、入力(変化)に対する出力を自己情報に関連させる事によって、
知能は個体が入力を受けて変化を受容した事を1つの情報として構成し認識できる事になる。
この出力はまさに「刺激」そのものになるのだが、
知能は刺激の存在に対して、
変化情報と自己情報の関連した、ある実際に発現して存在する事象として、
知能は、自ら刺激を構成して、自ら刺激を観測する事になる。
そして、これが「認識」となる。
なぜこれが変化や自分の「認識」となるのかは、
認識が存在する為の二面性である、神経細胞の励起の入出力とその定義から、
ある変化を受容した個体が、その変化に対して反応を起こすという定義は、
その個体にとって、その変化と反応が生じる事によって、
自身の存在を証明する事にもなる。
上記の「自分」が存在する為の二面性という事である。
つまり、この変化と反応は、定義によって構成されるのだが、
その個体にとっての、その変化が存在する事と、自身が反応を起こした事の存在であり、
そこに、それらの存在を受け止める自身の存在を証明する事になる。
つまり、ある個体にとって、変化を受けて自身が反応を起こすという事は、
その個体にとってその変化と反応が存在する事であり、
さらに、その個体自身が自身の個体の存在を構成するという事になる。
そして、この時の自身の存在と、変化と反応の存在が、
一連の情報の入出力において、
この自分にとっての変化と反応を「認識する」事が出来る、という事になる。
つまり、生命にとって、定義として変化と反応が定義されている事で、
その定義自体を持つ生命にとっては、その変化と反応を構成する事は、
自身が存在する事を自ら証明・観測・実体験する事になる。
つまり、入力と出力の二面性を持つ存在として「定義を持つ自分」がそこに存在する事になる。
そして、入力された情報に対して、定義は半自動的に出力を構成する。
この入出力が行われている場所、自身の知能内では、
その一連の入出力が自分に対して行われていると感じる(観測する)事になる、というわけである。
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ただし、
神経細胞の励起によって、なぜ視覚で見ている光が画像として見えるのか、
自分の身体を構成する科学的な生体物が物体として感じられるのか、
痛みがなぜ痛みの感覚として感じられるか、
砂糖がなぜあのような甘い感じがするのか、
などの「定義」そのものの「定義」を解明する必要があるのだが、
これは「定義の階層」で考えた同じ階層の定義は互いに説明しあう事ができない事から、
説明のしようが無いという事になる。
つまり、私が考えるような人間の知能が考える事象は、人間が生物として持つ定義から構成されるのだが、
この生物として持つ定義は、自然界の定義から構成された人間の存在が持つ定義であり、
人間の存在の定義からさらに下位にあるということになる。
つまり、自然法則→人間→知能という定義の階層となる。
人間はその知能がもつ定義する機能によって、下位から上位の定義を解釈して理解することはできるが、
その上位の定義である人間の存在の定義は人間の存在から定義できるものではないため、
人間は人間の定義を自らの存在から説明することが出来ない。
つまり、知能は人間や、さらに上位の自然法則を知能の定義を用いて解釈したり理解したりする事はできるが、
自然法則からなぜ人間が定義されているのかを理解したり解釈する事は出来ない。
つまり、私が既に存在している定義を解釈して、その解釈した定義から、
上位の定義を解釈して定義しなおして理解する事は出来るが、
既に存在していた定義が、なぜ既にそのような定義として存在しているのかを理解したり解釈することはできない。
それは解釈したり理解したりする定義は、上位の定義が先に存在している必要があり、
その定義を定義しているのはそのさらに上の定義であり、
下位の定義が存在する為には、上位の定義が先に存在する必要があり、
下位の定義が、上位の定義の存在を先に必要とするのであれば、
下位の定義は上位の定義が先に存在する必要があり、
下位の定義から上位を定義を定義するという矛盾が生じる事になる。
まあ、簡単に言えば、定義は定義した存在しかその本意を知る事はできないから、という事になる。
つまり、生命はなぜこのような生命としての形で存在するのか、
自然法則ががなぜこのような法則として存在するのか、
という事は、世界や自然界にしか分からないという事になる。
人間が想像できるのは、世界が存在し、自然界に存在する化学物質が、
生命の形を成して、生命は生物の進化の過程で最も都合の良い定義であったから今のような形になった、
という事だけである。
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知能による観測と認識:
腔腸動物の活動も、客観的に見れば、
特定の対象に対して、決まった反応をしている様子は、
知的活動として見えない事もない。
現在の弱い人工知能においても同様で、
特定の事象に対して、決まった反応を示す様子というものは、
知的に見えない事もない。
ただ、主観的な観点から見れば、
その個体は自分を情報として構成したり、
認識する事は行っていないため、その個体にとっては、
ある定義に従って決まった反応を示しているに過ぎず、
その変化と反応を自ら認識できてはいない。
だから、これが知能であるかと言えば、
知的には見えるが、知能とは言えないだろう、
という事になる。
この違いはというと、
入出力や定義の存在はどちらも持っていて同様に行っているのだが、
出力における自己情報の付加が行われているかどうかが異なる事になる。
つまり、変化の入力は、変化の情報の解釈として出力側にどちらも用意されるのだが、
認識を行っている知能では、この自分の情報が追加される点が異なる事になる。
つまり、変化を受けた自分を構成する事によって、
その自分が主体的に存在するように感じられる事になる。
その結果、自分の存在自体を認識する事にもなるのだが、
単に、入出力の定義において、変化に対する反応をする事だけでなく、
自分の存在を認識する事は、
自分にとっての何か変化の存在を客観的に見るという、
この「客観的視点」を持つ事になる。
これは、常に主観的であるという状態は認識を行っていないが、
客観的視点を持つ存在は、その視点によって、
自分自身を主観的でありながら、客観的に自分を見るという事ができる事になる。
つまり、自分で自分を見ることが出来る。
これが「認識」になるのではないか、という事になる。
つまり、常に主観的な視点は知能自体が持っているが、
ここに客観的な自分を構成する事で、
知能は自身が持つ主観的な視点で、自身が構成した客観的な自分を見る事になる。
これは、これまで言っていた「知能による観測」になる。
つまり、認識においては、
認識される自分は自分であるのだが、
変化に相対する存在は、自分の定義から構成した情報であるという事になる。
つまり、知能は定義の集合体として存在し、
変化と反応を情報として構成する。
その構成の際に、認識が行われるようになった知能では、
変化と反応の場所としての自分の存在を構成するようになった。
つまり、単に入出力を行う事が知能であり、認識という事ではなく、
自分の存在となる「自己情報」の構成の有無が、この知能や認識を行っているかどうかの違いという事になる。
つまり、先天的定義による入出力は認識しているのではなく、
自己情報の関連によって認識は起こっている、という事になる。
つまり、手を叩いた痛みは、先天的定義においては認識の有無に関係なく、
入出力の定義として痛みと場所の身体性を持つ刺激は構成されるが、
それを「認識している」と言うためには、知能が観測できるための、
自己情報の構成と関連が必要になるという事である。
つまり、簡単に言うと、
自分が認識しているという感覚は、
知能が、その認識する対象に対して、
認識しているという自分という存在を作り出しているから、
自分が主体的に感じている様に感じることが出来る、という事になる。
存在の有無の定義という事まで考える事になると、
認識の定義そのものを考え直す必要があるが、
神経細胞の励起によって入出力が定義によって関連づくことになり、
これが存在の創出であり、
知能における認識であると考えれば、
この神経細胞の励起は、
今自分たちが認識している、刺激や概感が存在する事になる。
少なくとも今、私もあなたも認識はしているわけであり、
そこで行われているのは変化の入力と定義による反応の出力である。
逆に言えば、それ以外の何かを行っていないのであれば、
認識は、この定義と定義による入出力によって行われているものという事になる。
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そして、少し話は先に進むが、
その認識の連続性の上で成り立つ、自己情報の連続性が「意識」になる。
つまり、「認識」というのは、
生命がある事象の変化の情報に対して、
自己の情報を関連付けて刺激として構成し、
その刺激を構成する事自体が、
知能による観測の対象という事になり、
観測された構成体である「刺激」が存在している事を、
知能が知る事(観測する事)が、
「認識」するという事になる。
知能による観測は、実際に知能という存在があり、
対象の刺激を見て観測するというような事ではなく、
脳内において、
変化情報と自己情報を意味する神経細胞ネットワークが励起される事自体が、
その変化情報と自己情報が関連して存在するという事になり、
その事自体が知能による観測に相当する事になる。
つまり、別に知能が刺激を見て認識しているというのではなく、
脳内で神経細胞ネットワークの励起によって刺激が構成される事、
その励起が存在する事自体が、
その刺激を存在させる事と刺激の観測になる、という事である。
つまり、励起するルートというのは定義で先に存在しているが、
実際に励起がこの定義されたルートで起こる事で、
その定義された事象が存在する事になるわけである。
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また、刺激を構成する事自体は、
人間などにおいては活動中は普段から連続的に行われており、
どの刺激を認識の対象として選定するかについては認識プールの考え方を用いることになる。
「認識」は何か知能が「意識的・意図的」に選択を行っているというものではなく、
認識対象となる「刺激」の構成、
つまり、事象の変化の情報と、それに関連した自身の個体の状態や情報を
出力として構成する時の定義によって、
「刺激」の刺激量が決まり、この刺激量が結果的に認識対象の選択で用いられる指標となる。
そして、認識できる事象・情報は、
潜在的に生命が必要であると選択してきたものである。
そのためにこの事象・情報を選択的に受容できる感覚の器官を維持してきたという事になる。
つまり、自然界に光はあれども、
人間が必要とした光の波長域は人間の可視光線の波長範囲だけである。
赤外線や紫外線、さらにそれらの先の光は人間には必要でなかったので受容や認識が出来ない。
この受容や認識ができる波長域については、
生物の種によって異なり、それぞれの種が必要とする光の波長範囲を受容して認識している事になる。
つまり、
認識している刺激というもの、その刺激が持つ情報は、
その生物種が必要としてきた情報であり、
そのある瞬間において、その生物種が持つ刺激に対する定義によって、
ほぼ半自動的に構成されるものであり、
その瞬間にその個体が必要としている情報である、という事になる。
そして、生物は感覚器官の受容体からひっきりなしに情報を受容しているが、
その中から必要な情報を選択する方法は、刺激量を構成する定義を経由して、
実際に構成される刺激に対して、
強い刺激を優先的に選択して用いるという方法である。
つまり、今自分がこの刺激を認識しているのは、
今自分の状況や状態において、受容している変化に対し、
構成された刺激の中で、最も刺激の強い事象に対して認識をしている、
という事になる。
つまり、今自分の状況や状態において、自分が持つ感覚器官は、
自分が持つ感覚の定義において、それぞれ半自動的に刺激を構成しており、
その刺激の中で最も強い刺激、最も刺激量の大きい刺激を知能は認識する事になる。
概感を含む認識対象の選択の場合も同様となる。
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認識における自由意志の考え方:
まず、生命体が、ある変化、
ここでは生命体自身が存在する環境における変化の場合と、
生命体自身の内部で起こる変化の場合があるが、
どちらの変化も、知能にとっては基本的には生命体自身が自ら起こす変化というよりは、
外的要因によって、否応なく起こる変化という事になる。
つまり、知能にとっては、自身でもある生命体の個体がどのような状態であっても、
例えば太陽は昇って沈むし、お腹もすいてくる。
そして、情報の管理者としての「知能」を主体的な存在とした場合には、
環境も生命の個体も、その変化は客観的な存在という事になる。
この考え方では、知能にとってはこれらの変化はどれも客観的な存在であり、
主観的にどうこうできるものではないという事になる。
ただ、これらの変化は、生命体にとっては、
その個体の存続や維持の為に必要な情報であり、
生命体として対処するなどの反応をする必要が生じる。
つまり、例えば植物であれば光に向かって成長する、
動物はお腹がすいたら何か食べようとする。
これらは知能があってもなくても生命の定義から反応が決まるが、
植物のようにただ光りに向かって成長するような仕組みでは、
知能を持つ生物においては問題がある場合もある。
つまり、まず、知能は、この変化の内容を詳しく知る必要があるが、
それを知る存在としては、「知能」が主体であっては少し困る事になる。
つまり、情報の存在としての知能と生命の身体は互いに客観的な立場同士であり、
知能は必ずしも自身の器たる身体に対して主観に類するものとして存在する必要がない。
つまり、知能は結果的に主体的で管理者のような立場である存在であるように感じられるが、
本来は情報の入出力とその定義の集合に過ぎないという事になる。
ただ、知能が生命の個体の管理者たる立場の機能であるようにふるまっている事は、
その生命種自体が選択の結果、獲得したものであるという事になる。
つまり、ある種の生命にとっては、必要な機能であったから、
知能を獲得したのであって、管理と存在を互いに補完し合う関係として知能が最適であったという事になる。
その辺りの考え方は、生命の身体においては互いにフォローする仕組みがあり、
これが、欲求や感情などの身体上に現れる状態と、その刺激・情報の受容や認識という事になる。
つまり、自身の身体の状態変化を主体的な変化として感じる仕組みである。
これが刺激や概感を構成する変化情報と自己情報になる、という事になる。
つまり、変化は変化としてその情報が存在するが、
これをそのままの情報として扱ったのでは、
完全に客観的な情報という事で済んでしまう。
つまり、変化が存在したからといって別に何か反応を起こす必要はあってもなくても良い事になる。
しかし、この変化が、自身に対して何らかの変化を起こす情報であったなら、
何かしなければならない状況も起こることになる。
この辺りは生命が生命としての維持や存続のための意義や定義という事になるが、
世界や自然界にとっては事象や生命の状態の変化は別にどうでもよい事である。
つまり、単なる自然法則の元に成り立ったある事象でしか過ぎない事になる。
しかし、ある存在が、その事象そのものである生命にとっては、事象の変化は、
自身の定義において生命としての存在意義である生命の維持や存続に関わるものであれば、
この事象の変化は無視できない、何か対応をする必要がある事になる。
つまり、生命にとってその生命を取り巻く環境または、
その生命自身の変化は、生命にとって意味のある変化であり情報であるという事になる。
では、生命はこの変化や情報に対してどうしたかというと、
変化に対して自身を反応させる事を選んだという事になる。
つまり、単なる物質、化学物質、水や鉱物、そういったものは、
自然界の変化に対して自ら何か反応を起こすことは無い、
自然界の自然法則の定義に従って変化するだけである。
しかし、生物は、その自然界の中において、独自の定義を持ち、
その定義に従って自らを構成し、存在を確立した事になる。
つまり、自然界の事象やその変化は、
自然法則という定義に従って存在し成り立ち、
生命の存在もそれらの定義の上に成り立つのだが、
生物が持った定義は、その自然法則の定義に対して独自の定義をする事で、
存在し成り立つ事になる。
であれば、生物が自然法則による変化を自然法則の定義として受け取った場合、
生物はこの自然法則の定義を自身の独自の定義で再定義する事になる。
つまり、「変化の入力」に対する、「反応の出力」の「定義」という事である。
そして、その反応は変化に対して決まった反応であるとし、
これを、変化に対する反応を起こすための定義とする事になる。
これらの定義は結果的に遺伝子として定義されている事になるのだが、
この遺伝子の定義については正直なところ私も分かる事は少ない。
生命にとっては定義する仕組みはすでに自身を構成する為の定義を、
遺伝子として存在させていたので、
変化と反応という定義を遺伝で遺すという方法は自然な方法という事になる。
他に定義する方法を考えたとしても、符号化や再構成の事を考えて、
結局、遺伝子のような定義に行き着く事になりそうである。
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そして、この遺伝子の最初については、ほとんど分からない。
自然法則においては、
マクロな考え方ではエントロピーは常に増大する方向に進むはずであるから、
ある存在の乱雑さは通常は増すはずである。
ただ、ミクロな考え方であれば、素粒子や原子、分子辺りまでは、
それらの間に働く力が存在し、割と集まりやすい。
生命が分裂してコピーする事を主な存在を増やす方法として用いたなら、
RNAポリメラーゼというものが遺伝情報をコピーする存在であるらしいが、
自然界にこのコピーする能力を持つタンパク質が存在する可能性が生じる事で、
生物も存在する可能性が生じたと考えられる。
RNAポリメラーゼは、生物種によっても異なるらしいが、
およそアミノ酸の数としては1000~数千くらいのアミノ酸で構成されるらしい。
まあこの辺りは可能性から可能性の話になるが、
原子から分子が構成されるのは自然法則でも普通に起こり得る。
当然、分子同士が反応したり結合、分裂して変化する事も普通に起こり得る。
その後に、アミノ酸ができてタンパク質が出来て、という所までいくと、
仮定の話の連続ということになる。
それなので、
まあ、とりあえず、遺伝子ができてコピーする存在がある所から考えるしかない事になる。
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植物などでも光には反応する定義を持っている為、
広い意味で入出力に関する定義の存在は認識になる。
動物においても変化に対する反応は本能などの定義で持っているので、
この情報の入出力の結果として認識を行っている、という事になる。
しかし、ここで、自由意志がどのくらい、これらの定義に対して自由であるかというと、
定義の上に成り立つ自由が、どれだけ自由なのかという話になり、
つまり、この自由は定義の存在の数までは自由であり得るという事になる。
逆に考えれば、定義の数以上には自由にはならない、という事になる。
この考え方も、以前考えた事があるが、
つまり、ある瞬間において自由であり得る範囲は、
そのある瞬間に入力している情報に対する反応として選択の出来る範囲、
つまり、その「ある瞬間」に受容している変化情報の入力に対する自己情報の出力、
つまり、ある瞬間に認識している入出力である「刺激か概感」に対してのみ自由であり得る、という事になる。
要するに、生物が持っている入出力の定義の数だけ、
選択肢がある、という事になる。
もう少し人間に身近な考え方であれば、
自分が持って知っている定義の本能と経験の数だけ自由であり得るという事になる。
つまり、「知らない価値は目指せない」などの考え方に通じるが、
自由意志があるなら、自由認識という考え方もできて、
この場合の自由に認識できる対象の可能性の範囲は、
その認識を行う個体が持つ、ある瞬間における認識可能な定義の範囲の間でのみ、
自由であり続ける事ができる、という事になる。
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2024/12/8
まずは、今日考えていた結論から。
「自己情報には意識の対象となる情報が含まれている。」
考え方の経緯は、
最初、認識について考えていて、
認識が刺激を元にしているなら、
刺激が変化情報と自己情報から構成されるものであり、
その刺激の構成自体が認識に繋がるものであるとすれば、
認識は刺激の構成で成り立つという事になる。
であれば、認識は変化情報と自己情報を構成する事そのものが、
認識に至るという事になり、
今、自分自身が何かを認識しているという感覚は、
刺激を構成する事、変化情報と自己情報を構成する事自体が、
認識になるわけであり、
であれば、入出力の考え方からすると、
入力の情報には意識は存在しない・関係しないから、
出力である変化情報と自己情報を構成する事が、
認識の感覚そのものになるという事になる。
そして、これまで、意識は認識の連続の上に成り立ち、
その認識の連続性の中でも自己情報の連続性が、
意識になると考えていたのだが、
例えば、視覚で今見ている何かの物体、
例えば今目の前を風に吹かれて移動している落ち葉を見た場合、
この時の意識はその落ち葉に向いている自分に意識が向かうはず、という事になる。
この意識において、自己情報がどのように関係しているのかというと、
これまでの考え方であれば、刺激として構成した視覚の情報から、
その画像の情報の中から関連した対象の物体、
今回は「落ち葉」が想起されて、自己情報の自分が見ている「落ち葉」
に対して、自分が意識を向けているという考え方になるが、
この構成された自己情報は、「落ち葉」に意識を向けている時に、
認識対象になっているのかというと、
感覚としては、その認識の間、「自分」を感じてはいない。
意識は「落ち葉」に関連しているように感じられる。
つまり、刺激の自己情報に「自分」がどれだけ関与しているのか、
もしかしたら関与していないのではないかという疑問が生じた。
ただ、刺激の場合はそのようになるが、概感については、
逆に自分としての自己情報なしに概感は構成できないという事になる。
これは、概感の場合、変化情報を関連付ける対象が自分以外にには無い事になる。
つまり、変化情報を自分以外の何かに関連付けると、
その概感を認識しようとした時に自分ではない何かが変化を想起して認識しているような事になってしまう。
つまり、概感はあくまで自身についての記憶を自己情報についての変化を想起した構成体として、
情報を構成するしかないという事になる。
これは、入出力と定義の考え方においても、二面性の考え方においても同じで、
入出力と定義の考え方においては、
自ら持つ後天的定義から概感が構成される事、
この時の変化情報も自己情報も記憶から構成されることになるため、
自己情報は自身が持つ自分であるという定義から構成する必要がある。
また、
二面性の考え方においては、
概感が客観的に見た自己について、自己情報として構成するにしても、
それが知能が観測する対象としてあくまで自分である個体としての情報である必要がある。
つまり、概感を認識する場合、
変化の入力に対して出力する対象・存在が、
想起する自分という存在であるために、
認識においても意識においても、その対象は自己・自分である事になる。
けれども、今回の刺激を構成する自己情報が、
もしかしたら完全に自分である自己情報ではないかもしれない、
という考え方は、新たな気づきという事になる。
話を戻して先の「落ち葉」の例であれば、
知能が意識している対象は「落ち葉」である。
意識している存在は自分であり、
認識している存在も自分なのであるが、
意識している対象は「落ち葉」である。
つまり、「落ち葉」を構成している画像情報としての視覚の刺激は、
自分である個体が認識して意識しているのであるが、
意識している対象は、自分発の対象は落ち葉である。
つまり、主観的に認識していながら、意識しているのは客観的である。
認識していること自体を意識する場合、
それは自己から自己に対する認識であり意識であるが、
意識している対象が、自己でない場合、
認識は自分が行っていて、意識も自分に所属しているのだが、
意識対象がこの刺激の中に含まれる自分以外の何かという事になる。
入出力と定義の考え方で言えば、
視覚で捉えた、ある対象に意識を向けた場合、
対象の画像情報の入力に対して、出力は自己情報が主ではなく、
その対象の存在が構成されて認識対象の主になっている。
つまり、例えば、自分の身体への接触の刺激を自分が認識して意識する場合は、
刺激の変化情報に関連する自己情報は自分の身体性であり、自己なのであるが、
身体に直接接しない対象に対して、認識や意識をする場合、
自分の身体性が変化情報に関連して刺激を構成するのではなく、
変化情報に関連して刺激を構成する情報は、自分ではない対象の情報になるという事になる。
意識そのものは連続性を持っていて自己に関連しているのだが、
意識している対象は必ずしも「自分」ではないという事になる。
そういう点では概感も必ずしも意識対象が自分である、とは言えなくなる。
つまり、視覚で捉えた対象を刺激の入力として認識しているわけではなく、
その認識が概感であった場合、
その対象は刺激として構成された情報ではなく、
概感として構成された情報という事になる。
つまり、例えば「落ち葉」は先天的定義ではなく、後天的定義であるから、
「落ち葉」を認識しようとした場合、この「落ち葉」の情報は後天的定義の概感という事になる。
であれば、「落ち葉」を認識して意識した場合、
「落ち葉」は概感としての情報から構成されている事になる。
であれば、「落ち葉」を意識しているのは概感として意識しているのであり、
であれば、「落ち葉」は自己情報として自分を元に構成しているわけではなく、
その「落ち葉」の存在の変化情報に関連して構成されている存在の情報の拠り所は、
自分ではない何かという事になる。
つまり、この「落ち葉」を認識して意識した場合、
その認識や意識している存在は自分なのであるが、
変化情報と関連して構成されている情報は自己情報ではないという事になる。
つまり、
刺激・概感=変化情報+自己情報
ではなく、
刺激・概感=変化情報+対象の情報
という事になる。
基本的に、自己の身体性に関わる感覚などは、
刺激・概感=変化情報+自己情報
の考え方のままで良いと思われるが、
自己でない何らかの対象に対して認識したり意識したりする場合、
刺激・概感=変化情報+自己情報
この自己情報の部分は、その対象の情報によって置き換えられるのではないか、という事になる。
つまり、意識は認識する対象として、
意識の向き→自分
意識の向き→自分以外の対象
という向きの種類を持つ、という事になる。
何かを意識するという考え方は、
別に特別に構える必要はなく、
経験的に意識には意識する対象があるという考え方もできるが、
そこには必ず仕組みや決まり、定義が存在するはずであり、
その機能を構成するには、その仕組みである設計図が知りたいという事になる。
今回は認識と意識の関係からそこに迫ろうとしたのだが、
これまでの認識と意識の考え方を改める必要がありそうである。
先天的定義の刺激においては、
変化情報に関連する情報は、身体性の自己情報である。
これは良い。
後天的定義の概感においては、
変化情報に関連する情報は、思い出した存在としての自分の自己情報である。
これも良い。
この2つの刺激と概感に対しては、
認識して意識する場合、その意識は自分、自身から、
その変化に対して認識や意識しているという事になる。
つまり、入力を変化として出力を刺激や概感として、
入力の変化に対して、出力が(変化情報+自己情報)の刺激または概感という事になる。
この定義が先天的定義であり、後天的定義である、という事になる。
ここで、今回、新たな考え方として、
認識しようとする変化の情報の所在が、自身の身体や、自分についての記憶や定義でなかった場合、
どうなるかというと、
視覚で捉えた対象の変化は、自分の身体性がその対象でない場合、
刺激に関連した概感から、その対象の情報は構成されることになる。
つまり、先に視覚の刺激で捉えた対象を入力として、
出力にまず、その対象の概感が構成される事になる。
そして、この概感に対して最初の変化の情報が関連し、
この「変化情報+対象の概感」に対して認識が起こるという事になる。
この瞬間において意識できる対象は、これまで考えていた刺激や概感としての認識であり意識であるが、
今回の考え方において、
当然、意識はこの認識の連続性の上で成り立つので、
この時、意識される対象は「対象の概感」という事になる。
最初から概感をきっかけとする場合は、
概感から概感を想起して認識したり意識する事となり、
これも、最初の概感を構成する対象に対して認識したり意識したりすることになる。
そして、ここが重要であるが、
認識や意識は、
身体性としての先天的定義をきっかけとして認識や意識をする場合と、
刺激をきっかけとしても、概感をきっかけとしても、
認識する対象がそもそも概感であり、後天的定義である場合の認識や意識をする場合は、
認識対象、意識対象として異なる対象となる。
という事が言える事になる。
つまり、人間の誰もが経験的に行っていて、
当然のように感じている認識や意識は、
自分を主観的に意識する場合は先天的定義からその対象は情報が構成され、
対象を客観的に意識する場合は後天的定義からその対象は情報が構成される、
という事になる。
つまり、
先天的定義から構成される対象は身体性の情報を含む刺激であり、
後天的定義から構成される対象は経験して記憶された情報を想起した概感である。
という事になる。
つまり、実際に身体で感じている刺激を意識する場合は、
直接自分の身体を意識している事になり、
先の例の「落ち葉」や、思い出した何かを意識する場合は、
これらは全て記憶した何かを想起して、その想起した対象を意識しているという事になる。
これは、「落ち葉」であっても、何かを考えている「自分」であっても同じで、
「考えている自分」を意識している場合は、
「考えている自分」を想起して意識しているという事になる。
少し説明が難しいが、
できるだけ簡単に言うと、
体で感じる刺激を意識する場合は、実体の体で刺激を受けていると意識する事になる。
それ以外の何かを意識しようとした場合は、その対象は全て記憶にある何かを思い出して意識している事になる。
たとえ、その対象を「今」見ていたとしてもである。
つまり、
実体験の刺激は実際に身体で感じることが出来て意識できる。
この時用いている定義は先天的定義である。
しかし、先天的定義に存在しない全ての後天的定義は、
その後天的定義がまず存在しない事には意識できないという事になる。
つまり、「自我」の定義を後天的定義として持たなければ「自我」は意識できない。
「落ち葉」の定義を後天的定義として持たなければ「落ち葉」は意識できない。
「落ち葉」が何か分からなくても風に吹かれて動いている何かとしては意識できるが、
この場合は「動く何か」の後天的定義は持っているという事になる。
つまり、生まれてこのかた「静止画」しか見た事が無く、
「動く何か」という先天的定義が存在しなかった場合、
その個体が、もし初見で画像の中の何かが動いた時、
おそらくこの個体は「動く何か」を認識や意識はできるが、
なぜ動いているのか意味が分からないという認識や意識になると考えられる。
ただし、2回目以降に「動く何か」を見た場合、
ようやく「何かが動いている」と認識したり意識したりできるという事になる。
人間が身体に筋や筋肉や関節を持ち、動くことが前提で構成されているし、
その感覚においても、例えば視覚が最初から立体視ができるように構成されているという事は、
であれば、恐らく人間の先天的定義において、視覚と対象の距離感などは定義されている可能性はある。
何かを実際に掴んだりなどする距離感ではなく、視覚内に捉える事の対象が、
遠近として捉えられるという定義であるが、
であれば、例えば人間に似せた人工知能において、視覚で捉える事の出来る対象が、近いか遠いかという定義は、
先天的定義として与える必要があるという事になる。
恐らく、視覚内の対象が動くという定義や、
動く対象を視覚で追うという定義も先天的定義として持っている事も考えられる。
つまり、さらに過去の生物種において、動く対象を追う事ができる種は、
その時には既に対象物が動くという定義を持っていると考えられる事になる。
逆に考えれば、動かない事で他の種の認識から逃れようとする定義(死んだふり・擬態など)が存在するという事も、
当然考えられる事になる。
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つまり、
身体性が関わる刺激については、
その認識や意識は刺激を元に、その刺激に含まれる自己情報が、
その認識や意識の対象となり、
身体性に関わらない対象の概感においては、
その認識や意識は概感を元に、その概感に含まれる対象の情報が、
その認識や意識の対象となる。
だから、自分以外の対象を認識したり意識したりすることができるというのは、
その対象の定義を持っているからであり、
この定義が先天的定義でなくても認識したり意識したりすることができるのは、
後天的にその定義を獲得することが出来るからという事になる。
この認識や意識においては、変化情報自体は直接関係が無く、
むしろ、刺激の身体性の自己情報や、概感の対象の構成情報が重要で、
この情報が認識や意識の対象になっていると考えられる事になる。
つまり、この情報の構成によって、認識や意識が行われる、
つまり、この情報を構成する機能・能力が、
認識する機能であり、意識の元になっている、
という事になる。
つまり、入出力と定義の考え方において、
出力する機能と、定義を持つ機能が、これに相当するという事になる。
つまり、刺激や概感において、
対象を認識したり意識したりする場合、
その対象の定義が先に存在していれば、その対象を認識したり意識したりすることが出来る、
という事になる。
つまり、刺激においても概感においても、
刺激・概感=変化情報+対象の情報
という構成であり、
対象の情報=定義の存在
という事になる。
定義=先天的定義 または 後天的定義
であり、
つまり、
対象の情報=先天的定義の対象
または、
対象の情報=後天的定義の対象
という事になる。
つまり、対象が変化して連続している状態に対して、
認識や意識が生じる、という事になる。
そして、その対象を存在させるには、
対象を構成するための定義が必要であり、
それが先天的定義であり、後天的定義である、
という事になる。
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2024/12/15
意識における自己情報の意味:
五感などの感覚における意識は、
身体性がその中心にある。
つまり、身体において受容した変化に対して、
自身の身体性自体がその反応を起こす対象になっている。
自分ではない外部の対象に対する意識は、
その対象自体がその中心であり、
この対象の認識自体は、五感などによる感覚からの認識が先に行われ、
その対象の認識の後に、その対象を意識できるようになる。
つまり、身体で実際に体験できない対象を意識するには、
まず先に身体で体験して認識する対象を先に構成する必要がある。
これが、概感における意識の対象になるという事だが、
これは自己情報ではなく、後天的定義の対象の情報である。
この辺りが認識の考え方を変えなければならないと思った内容であり、
特に「概感の構成」の問題であるという事になる。
概感は想起として行われる入出力であり、
定義は後天的定義を用いる。
概感自体は、過去の経験としての自身の身体性における感覚の体感であり経験として、
この時行われた入出力を後天的定義を定義として構成し、この構成を定義として記憶し、
後に、この定義を用いて入出力を行った結果として構成される情報塊である。
意識する対象が自分ではない場合、
認識する対象も自分ではないのだが、認識の際に行われる入出力においては、
過去に経験した自分は、自分の感覚を用いて認識しているわけであり、
概感を構成する場合であっても、この経験の定義では自己情報は存在していると考えられる。
つまり、自分ではない対象の認識は、
自分ではない対象を認識した過去の自分の存在が経験として定義されている事になり、
自分ではない対象を後に認識した場合、過去のこの自分ではない対象を認識した自分の存在自体は、
この定義された経験の中に自己情報として存在している「はず」という事になる。
実際に自分ではない対象を認識する場合、
意識としては直接自分の存在は感じられないが、
その対象を認識している存在としての自分は常にそこに存在しているはずである。
つまり、意識は自分ではない対象にあるのだが、
それを意識しているのは自分である。
という事になる。
つまり、意識は自分を中心として、その意識対象に向かうベクトルのようなもの、という事になる。
自分→意識する対象
意識を向けるという言葉がある事からも、それは容易に言えるのだが、
この時の中心に存在する自分は、
実際に存在する身体性である自分としての自己情報というよりも、
概感を構成する自己情報であると考えられる。
つまり、意識は認識の後に生じるものという考え方をこれまでしてきたが、
意志が、選択に先立って自由意志として存在しないように、
意識も、意識が先に存在して認識を行っているのではなく、
認識の後に意識というものが存在するように感じられるものであり、
認識が刺激や概感を構成した後に生じるものであれば、
認識を行う存在は、その認識対象に対しての中心にある自分であり、
この時の自分は、刺激や概感の後に生じる自分であるわけだから、
認識できる存在は、過去に経験した自分であるという事になる。
つまり、後天的定義の自己情報が常に認識の中心に存在しているのではないか、
という事になる。
つまり、定義された自分であり、
再構成時においては概感の自己情報として構成されるものである。
つまり、意識は概感の自己情報を中心として、
意識する対象に対して関連したベクトル、という事になる。
つまり、入出力と定義においては、
入力として意識する対象が存在し、ある後天的定義によって、
記憶された過去の自分の定義から反応として向けられた関連という事になる。
つまり、認識で用いられた入出力とは別に、
その認識される対象に対して意識が生じる場合、
過去の経験における自己情報を用いた概感から、
意識としての関連が生じるという事になる。
つまり、認識はある対象を入力の情報として反応する定義から自己情報を関連付けて、
刺激や概感を構成する事自体であり、この構成する事自体が認識になるが、
この認識の結果として、この認識で認識対象として構成された事象を入力として、
想起として過去の自己情報が定義によって出力を構成した場合、
ここに「意識」が生じるという事になる。
つまり、認識する自分と意識する自分は別に構成されるという事になる。
考え方としては、
ある対象を認識した時に、
その対象を以前認識した自分の記憶が想起される事が「意識する」という事になる。
簡単に言えば、
認識はある対象を知るために知能が行う処理、
意識は認識した対象によって、その対象を認識した自分を思い出す処理、
という事になる。
つまり、認識は単独で成り立つが、
意識は認識が存在することで成り立つ。
つまり、意識を向けない入出力も存在するという事になる。
腔腸動物の神経細胞としての働きなどは意識があるわけではないが、
入出力や動作を行うのに支障はないという事になる。
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2024/12/29:追加
認識する対象の変化に対して意識が生じる可能性と個体の固有性:
つまり、
認識対象A←認識A
↓認識対象の変化
認識対象B←認識B
認識A
↓認識の変化→意識
認識B
認識は、認識する対象に生じた「変化」に対して、
刺激や概感を構成して認識する事だが、
この認識対象は「変化」するわけだから、
認識している対象というのは「変化」している事になる。
認識対象A→変化→認識対象B
この場合、認識の開始時点の認識対象と認識は、
認識の終了時点の認識対象と認識において「変化」している事になる。
認識A→変化→認識B
つまり、この認識の開始と終了の間に存在する、
認識の変化が「意識」になるのではないかという事を思いついた。
(認識A→変化→認識B):意識なのでは?
つまり、知能がある状態として認識する「開始地点」と、
連続的な状態の変化によって、時間経過によって変化した認識の「終了地点」において、
その開始から終了までの間の認識には当然「変化」が生じている事になる。
この変化は定義や個体自身の物理的な変化というよりは、
個体に生じている仮想的な事象としての変化という事になる。
つまり、事象に対する遭遇に対して、後に後天的定義のような物理的な変化が生じる可能性はあるが、
ある瞬間においては、これらの変化は瞬間的には起こらず、
ある個体の物理的な固有の定義によって、この瞬間は再現される事になる。
つまり、刺激や概感として認識される事象は、
ある瞬間には個体の定義によって固有のものであり、
その事象の対象の「変化」は認識する時点においては、
個体にとって固有の反応である事になる。
つまり、事象は「変化」しているのだが、
その「変化」を認識するために構成している存在の「自分」や、
刺激や概感を構成する定義は、その認識の時点においては、
固定されたものであり、
その時の「自分」は、認識や意識において固定された存在である、事になる。
つまり、認識の変化を意識からベクトルとして追う場合、
意識は固定された位置に存在している必要があり、
この意識の固定は、この上記の「自分」の固定された存在として考えられるものではないか、
という事になる。
つまり、事象の変化に対して認識は変化するわけであり、
この認識の変化は、認識の存在の連続性ということになる。
この認識の存在の連続性は、つまりは、認識に対してベクトルを生じさせる場合、
固定された位置にある何かから認識を追う事になる。
これが「意識」になるのではないか、というわけである。
つまり、「意識」が何かの対象に対して向けられるのは、
認識として事象が変化する様子を感覚で捉えることが出来るから、
という事になる。
そして、その為には事象が「変化」する必要があり、
逆に考えれば、事象が変化する事を刺激や概感として捉えることが出来るから、
意識するに至るということを考えられる事になる。
補足として、意識自体にも「変化」する可能性はあるが、
認識する対象が変わる事によって意識は「変化」することはありえるが、
認識する対象が同じで、認識の開始と終了時にそれぞれ意識が変化して、
それに合わせて意識が変化した場合、
恐らく人間が意識や意識として感じられる感覚としては、
断続的に何か別々の物を認識して意識したという感覚になると考えられる。
つまり、事象が変化した様子を連続的に認識したというよりも、
ある認識と別の認識をそれぞれ行った、という認識になると考えられる。
つまり、「変化」を認識するのではなく、
「異なる何か」として認識する事になる。
つまり、意識するための認識の維持(連続性)が存在しない状態ということになる。
そもそもの知能の「変化に対する反応をする」という定義においては、
「変化」そのものを捉えることが出来なければ反応は出来ない事になる。
つまり、認識はそれぞれの感覚器官における情報の受容は、
「変化」そのものに対して生じた情報を受容しているわけであるから、
単に事象が存在する事に対して、その情報を受容しているわけではない、
という事になる。
当然、意識も「変化」に対して意識するという事になる。
であれば、最初の
認識対象A←認識A
↓認識対象の変化
認識対象B←認識B
認識A
↓認識の変化→意識
認識B
にも追加として、
その初期においては
事象A
↓事象の変化→刺激または概感
事象B
が追加され、
事象A
↓事象の変化→刺激または概感→認識対象
事象B
認識対象A←認識A
↓認識対象の変化
認識対象B←認識B
認識A
↓認識の変化→意識
認識B
という事になる。
事象の存在自体は、自然法則の定義から生じるものであるため、
人間の知能の定義の範疇からは外れる。
また、
意識の存在も、自然法則の定義から生じた物体としての個体が、
物理的に行っている処理の結果として生じているものであるため、
人間の知能の定義の範疇からは外れる。
つまり、この事象と生命の個体の間に意識はあるという事になる。
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2024/12/17
意識について続けて考えていたが、
刺激を認識して意識する場合、
先天的定義を用いているために、
その意識はほとんど本能に近いものとなる。
しかし、これだと赤ん坊の頃にはほとんど後天的定義の自己情報は定義されていないから、
赤ん坊には本能としての意識以外の自我意識のようなものは、ほとんど無い事になる。
まあ確かに、赤ん坊に自分の何かを意識するような事というのはほとんど考えられないため、
当然と言えば当然という事になる。
そして、そこで思い出したのは、認識や意識には二種類あるということ。
つまり、刺激を認識する場合と、概感を認識する場合で、
その認識対象が異なる事で、意識にも意識対象が異なる種類が存在するという事。
これは以前に考えた事だが、今の入出力や定義の考え方を踏まえて考え直すと、
なるほど、刺激の認識においては先天的定義において、
変化情報に関連する自己情報の定義が出力側に存在する事、
概感においても、後天的定義の自己情報として、出力側の情報として構成されるという事が言える。
つまり、刺激を認識して意識する場合の意識と、
概感を認識して意識する場合の意識は、同じ意識ではあるが異なる種類の意識である、という事になる。
この考え方なら、赤ん坊にも確かに意識はあるし、
今の自分も、刺激を認識して意識する場合と、概感を認識して意識する場合において、
意識の感覚が異なる事が説明できる。
この意識の感覚の違いは、
刺激を認識して意識する場合、
刺激として入出力の情報を構成する場合、
この入出力の定義が先天的定義であり、この入出力が半自動的に行われるという事。
また、
概感を認識して意識する場合、
概感としての入出力の情報を構成する場合、
この入出力の定義が後天的定義であり、
この入出力の定義のされかたによって、
概感の構成のされ方に違いがあるということ。
特に、この概感における入出力の情報の構成においては、
変化情報や自己情報が構成されるのは刺激と同様であるし、
これまでの考え方と同じなのであるが、
この概感の入出力の定義は、自身が過去に経験して定義を後天的定義として構成したものが用いられるという事。
つまり、刺激を構成する際に先天的定義が生命の知能の機能として入力に対して自動的に出力が構成されるのと異なり、
概感の構成においては想起を用いる為、まず先に入力としてきっかけとなる刺激か概感が先に必要になるという事。
つまり、概感の認識や意識には、まず先に刺激か概感を先に構成して認識する必要があるという事。
つまり、この先に認識される刺激か概感が入力となり、後天的定義によって定義される、
この刺激か概感に関連する事象が出力として想起される事になる。
つまり、刺激も概感も基本的には「変化情報+自己情報」として構成されるのだが、
概感における「変化情報」と「自己情報」は、後天的定義が定義される時の刺激の認識を元にして、
その出力として自身が経験し、自身が選択した結果が、記録され、想起の際に用いられる事になる。
この時の選択した自身の反応は、その反応の結果を含めて経験した事になり、
その反応自体が、自身の後天的定義として評価され、次の想起の際に関連の強さとして定義が残る。
そして、いざ、この後天的定義を用いて概感を構成する場合、
過去の経験として反応した結果は、自身の定義として存在し、
新規の状況として刺激か概感をきっかけとした認識を行い、想起として出力を構成する場合、
その過去の経験で構成し定義した反応の後天的定義は、
この新規の状況における想起、つまり、新規の出力側の情報として想起される事になる。
この時の意識は、ある事象の認識に対して自分が何か考えた結果であるように感じるという事になる。
つまり、先天的定義で構成する自己情報の身体性とは異なるため、
その意識は実在する実体や身体を意識できるのではなく、
想起であるために、実体や身体性は感じられないけれども、
自身の何かであるように意識できる事になる。
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つまり、自己情報の連続性の中に意識が生じるという考えにおいては、
刺激の自己情報の場合と概感の自己情報の場合において、
その連続性の中で、身体性として自分を感じる場合と、自我として自分を感じる場合の2種類があるという事になる。
そして、この自己情報の構成は、少し前に考えた情報の区切りとして用いられるという事を以前考えた事があるが、
意識において、意識する対象が、自分以外の事象または、自己の身体を認識して先天的定義を用いた刺激の場合と、
知能内における想起として、自身の後天的定義から用いた概感の場合の2種類があるということ。
つまり、意識の連続性の中にも、認識する際の自己情報によって、意識の感覚として、
周囲や自身の身体を認識して意識する場合と、自身の定義である自我を認識して意識する場合の違いは、
この認識の際の自己情報として用いられる、その出力である自己情報の関連によって区切られていて、
そのために、意識は連続しているのだが、意識する対象の切り替わる感じがする、という事になる。
そして、この切り替わる感じは、自身の知能が持つ先天的定義と後天的定義における、
神経細胞ネットワークにおけるシナプス接続の強度、
つまり、刺激や概感の構成のされやすさが、意志、自由意志に関わるという事になる。
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2024/12/20-2024/12/22の間のメモについて
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メモ1:
認識は連続的な入力により連続的な出力として、
変化情報と自己情報が構成されるので、
連続的な認識となる。
メモ1の解説:
自分に意識があるという事を自分自身で感じる時、
この時に感じている感覚は、連続する認識における連続して存在している自己情報である。
つまり、意識が連続して存在している感覚は、
認識が連続して行われている結果である。
認識が連続して行われている際、
認識対象である刺激か概感は「変化情報+自己情報」から構成されている。
この「変化情報+自己情報」は身体の情報の入出力で構成されるものであり、
そのきっかけは変化を身体で受容する、または、変化を想起することである。
身体は基本的に時間の経過によって連続して変化を受け続けている。
これを逆に考えていけば意識に到達する事になる。
変化は常に連続しているが、
刺激や概感の構成においては、情報の「終端・ターミナル」が必ず存在する。
つまり、神経細胞ネットワークの構成は、リング状の構成ではなく、
枝分かれの構成という事になる。
つまり、入力側から連続的に情報が送られてきても、必ずどこかにネットワークの終端が存在し、
その励起・関連を辿るルートは分岐があったとしても一方通行という事になる。
つまり、変化は連続的に入力して、神経細胞ネットワークを励起し続けるのであるが、
その変化は神経細胞ネットワークの全てを連続的に励起するのではなく、
必ず情報の定義に従った変化の内容に応じた固有の励起の経路を辿ることになる。
つまり、ある定義を持った変化に対して、その変化が存在し続ける間は、
常に同じ経路を辿る神経細胞ネットワークが励起されつづけるが、
変化の内容が変わった場合、この経路も変わる事になる。
この励起の経路が変わる時は、認識している事象も変わる事になる。
そして、認識している事象は大きく変化する事はあるが、
基本的に認識ている自己情報は「自分」であり大きく変化しないため、
認識の連続性における事象の対象の変化に関わらず、認識している存在としての自分には大きな変化はない。
このために、連続した認識の上で、自分が連続的に存在している様に感じることが出来る。
この時に認識される自分は、身体性や自我としての二面性を持つ認識から成る、
連続した意識ということになる。
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メモ2:
メモ1の内容の情報の区切りは、
刺激か概感の構成において、
情報量によって時間の間隔の感じ方が分かれる。
メモ2の解説:
物理的ではない生物の認識としての時間の定義ということになるが、
物理的な時間の定義は特定の原子の固有の振動数から定義されるが、
認識における時間の定義は、認識の連続性がそのまま時間の感覚となる。
つまり、物理的な1秒と同じ時間の長さであっても、
認識の1秒においては、その1秒の間に認識される情報量によって、
認識される1秒の時間の長さが変化して感じられるという事になる。
ある1つの変化を認識する事は、ある変化が連続している間、
その変化を認識し続ける事になるが、時間が経過した事を感じることが出来るのは、
この変化の1つの種類として時間の経過そのものを変化として認識する場合だけとなる。
つまり、時間経過自体を変化として認識するのではない変化を認識する場合、
時間経過自体は認識できないことになる。
つまり、時間経過を認識する別の変化を認識している間は、
時間は認識できない事になる。
つまり、時間経過ばかり認識していれば思ったよりも物理的な時間は進んでおらず、
気が付いた時に時間を気にするような場合は、以外に時間は経過した後であったりする。
また、同じ物理的な時間であっても、時間を認識するタイミングの間隔において、
その間に認識した情報量は、その知能自体が定義している時間の感覚において決まっていると考えられ、
つまり、知能自身が時間の定義を持っているという事になる。
つまり、この知能が定義する時間の感覚において、
この知能が通常認識している連続的な変化情報において、
通常よりも変化の情報量が大きい場合、
つまり、この知能がある一定の物理的な時間に認識するであろう情報量の定義より、
実際に認識した情報量が大きい場合、本来時間の感覚として認識するはずの情報量より、
多い情報量を認識する時間が経過しているために、気が付いたら思ったよりも時間が過ぎていたという事になり、
逆に、一定期間の情報量が少ない状態を認識する場合、時間の経過が思ったよりも過ぎていなかったと感じる事になる。
つまり、この事から考えられるのは、
知能においては物理的な時間における認識できる情報量には、
ある定量的な上下限が存在するという事が考えられる事になる。
実際に認識した時間の間隔=(物理時間に実際に認識した情報量)/(物理時間に個体固有の認識できる情報量)
こういう関係が成り立つ。
そして、知能は時間の経過を「時間の経過」自体を変化として認識する定義があり、
この「時間の経過」を認識する間の別の変化の認識に関連させて、
どれだけ時間が経過したのかを認識している事になる。
つまり、簡単にまとめると、
連続する認識の中で「時間を認識する」という瞬間があり、
この「時間を認識する」から次の「時間を認識する」という間に認識した変化の情報量によって、
時間経過の感じられる長さが決まる、という事。
そして、知能毎に、時間の定義と、時間の間隔の間に認識できる情報量の定義があり、
その定義があるために実際に認識した情報量の違いで、感じられる時間の長さにも違いが生じる。
という事。
例えば、ある知能は1秒の定義と1秒ごとに100の情報量を認識できるという定義を持っている場合、
この知能が200の情報量を認識するには通常2秒必要となる。
そして、通常、この知能はこの200の情報量を認識して2秒の経過を認識する。
しかし、1秒間に200の情報量をこの知能が受容して認識しようとした場合、
知能はこの200の情報量を1秒で認識したと感じるが、
実際には2秒経過しているということになる。
この時、この知能は、1秒だと認識しているが実際には2秒経過しているため、
時間が早く進んだと感じる。
この知能は1秒ごとに100の情報量ごとしか認識できないのに、
1秒で200の情報量をなぜ認識できるのか?おかしいじゃないかと思うかもしれないが、
実際に受容できる情報量と、知能が定義として持っている情報量の認識は異なるというのが、
少し変わっている点という事になる。
知能がその能力として物理的に処理できる情報量というのは、
確かに上限が存在するはずであるが、実際に常に処理できる情報量の上限で認識しているかと言うと、
そうではない。という事になる。
つまり、知能の能力としては常にフルパワーで情報を処理しているわけではないという事になる。
生体知能の省エネルギー性という観点や、
この後に出てくるメモ4にも関わる内容だが、
知能が処理できる情報量というのは、知能自体がその能力として定義として持っているのだが、
実際の知能の処理できる情報量というのは、その情報や状況毎に対して異なるという事になる。
つまり、興味のあることであれば、その変化は知能は好んで情報を得ようとするし、
嫌な事であれば、その変化を受容することは知能にとって忌避した事になる。
単に好き嫌いというだけではないが、危機的な状況であるとか、逆にリラックスしている状況であれば、
知能はその状況に合わせた情報の受容や認識の仕方を変化させている、事になる。
つまり、自身で一定時間に処理できる情報量の定義を持ってはいるのだが、
実際に受容して認識する情報量は、その知能の状況や状態によって変化するという事になる。
結果として知能はその状況や状態に応じて、その情報量によって、
結果的に経過して認識される時間には違いが生じるという事になる。
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メモ3:
変化情報+自己情報は情報が関連しているから1つなのではなく、
同時に存在するように構成されるので1つのものとして認識される。
脳の刺激の認識方法について少し調べてみたが、
およそ全体の活動としては前頭前野において、
変化情報と自己情報については前頭前野の管理下で、それぞれ感覚野と前頭葉で構成されているという事が分かった。
そして、基本的に感覚野の活動が先で、前頭葉で自分が認識しているという感覚を得るのだが、
逆の前頭葉が先で感覚野の励起を行う場合も考えられ、
これは想起に相当するのではないかという事になる。
この脳の働きが正しいとして、メモ3の内容について考えてみると、
基本的に刺激の認識の為に、感覚器官で受容した変化は、感覚野で変化情報として構成される。
そして、その変化情報に関連した自己情報が、前頭葉で構成され、
これらが情報として統合される事で認識に至る、という事になる。
実際には情報としては、それぞれ独立したものであるが、
波形のように同時に存在する事で合成されることになると考えられる。
つまり、メモ3の内容を修正するとすれば、
変化情報+自己情報は関連していて、自己情報による情報の区切りとして、
刺激が認識に至る情報塊として構成されるという事になる。
つまり、感覚器官から受容した変化の情報を入力として、
出力の定義から構成される情報は「変化情報+自己情報」になる。
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メモ4:
認識する情報は、ある瞬間に存在する全ての刺激と概感を認識するのではなく、
連続的な認識における情報の変化の差分だけを認識している。
つまり、変化が変化として入力されている間だけ、
その変化を認識しているという事になる。
これは認識プールの考え方における刺激や概感のピックアップの話になるが、
刺激や概感は、生命体が時間経過の上で連続的に変化を受容しているように感じるが、
情報の区切りの存在によって、必ずしも刺激や概感は連続して認識しているわけではないという事になる。
まあ、感覚としては連続して認識しているように感じるようにできているのだが、
情報の入出力においては、情報は連続して構成され続けてはいるが、
波形の合成のような存在の仕方になっていると考えられる。
そして、この刺激や概感の認識において、ある瞬間に認識している情報は、
前の認識している状態に対する「差分」が変化として認識されるのではないか、
という事になる。
つまり、暗闇の中で黒い炭が見つからないように、
認識する為の刺激や概感を構成する為には、
そもそも事象にとっての「変化」である「差分」が必要になり、
この「差分」の情報が結果的に「変化情報」として構成され認識されるのではないか、という事になる。
例えば、手指の温度と異なるぬるま湯に最初に手を入れると、
その温度差によって温度の違いを「変化」の刺激として受容し認識できるが、
この湯の中にある同じ温度の物体に触れて、この物体の「温度」について認識しようとしても、
恐らく何も認識できる「温度」の情報は無いはずである。
つまり、ある変化に対して感覚が存在しても、感覚の受容器官それ自体は、
その受容できる情報に対して「変化」を必要とする事になる。
恐らく実際には、恒常的に感覚は情報を受容していると考えられるが、
これは、ある状態として存在する変化の無い全体としての認識であり、
つまり、状態としての恒常性を認識しているという事になる。
そして、「変化」を受容した場合に恒常的な安定した状態は改められて「変化」が生じ、、
状態の変化として刺激や概感が構成され、これが認識されるのではないかという事になる。
つまり、平常時は、ある一定の状態として認識される情報は、
その状態が「存在しない」→「存在する」という事のみにおいて「変化」として認識され、
ある瞬間に、その平常である恒常性において、特異的な「変化」が生じた場合に、
この特異的な「変化」に対して、刺激や概感として認識するような仕組みになっているのではないかというわけである。
つまり、刺激や概感は「変化」に対してのみ生じるわけではなく、
常に刺激や概感は構成され認識されている、という事になる。
それは、特別に変化としての刺激や概感を認識しない状態にあっても、
今を認識している意識は存在している。
これは自分自身で分かる事である。
つまり、刺激や概感が「点」であれば、認識はその連続した「線」であり、
連続した認識が存在する間、「意識」が存在しているという事が分かる。
そして、意識は連続する認識から成り立ち、
特に意識されるのは、連続した点の中にある、大きな変化を持つ「点」という事になる。
つまり、常に全体としての刺激や概感は存在していて、
知能は、それらを連続的に認識している。
そして、この連続的な認識は、意識となる。
そして、この連続性において、特に「変化」の大きな刺激や概感に対して、
意識の対象としているのではないか、という事になる。
現在の人工知能と呼ばれるものは、
その構成において生物が持つ知能とは根本的に機能が違うので比較は難しいが、
強い人工知能において、その知能を持つ個体が、ある自身の状態の恒常性について認識する必要が無ければ、
恐らく生命が持つ知能と同様に消費エネルギーは少なくとも済む事になる。
つまり、個体の恒常性は、知能を働かせる必要が無い程、定義されたものであり、
あえて意識的に認識する必要のない状態である、とすれば良いという事になる。
つまり、知能が「あえて」刺激や概感を構成し、「あえて」認識する必要のある情報は、
恒常性から外れた「変化」した状態であり、
知能は、この「変化」についてのみ意図的に認識して意識すれば良い事になる。
つまり、大概の事は、先天的定義としてその変化と反応は定義してしまっておき、
特異な「変化」にのみ対して、知能を働かせれば良いという事になる。
これは、生命における知能の機能としての定義である所の、
本能で対応できない変化に対する反応方法であり、
現在の生命が持つ高度であると考えられている知能の機能そのものという事になる。
つまり、後天的な事象に対して入出力を定義して、
新たな入出力に定義を後天的に獲得(記憶)する事。
この機能が、
現在最も高機能であると考えられている人間の知能が特に発達させた機能、
という事になる。
逆に考えれば、現在の人工知能は特にこの後天的な定義と記憶に特化した機能を持つ存在であるから、
自身の個体となる身体とその恒常性の定義を与え、
自身の状態に対して生じる恒常性と異なる変化について、固有の定義を持つ機能を与えれば、
より人間の存在に近いものになると考えられる。
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少し長いので今回はそろそろ区切りをつける事にするが、
最後に人工知能における「認識と意識」について少し書いておく。
今回も特に認識や意識を再現する為に必要であると考えられるのは、
「自己情報」をどのようにして人工知能で再現するか、という事になる。
変化情報などは場合によっては人間の感覚よりも鋭いものができるであろうし、
拡張性としても人間の感覚以上の情報を受容できる個体を準備する事もできるはず。
ただ、問題はこの「変化情報」を受け止める側の「自己」の情報をどのように用意するか、
構成するか、これが問題になると考えられる。
単純に個体の身体を与えて、定義としてこれが「自分」ですと定義しても、
人工知能は「この身体=自分」で終わってしまう。
人工知能は「自分」の解釈の仕方を定義として持っていない。
生命ではここで先天的定義となる遺伝情報から構成される前頭葉などの神経細胞ネットワークが構成されているのだが、
さて、人工知能でこれを再現するにはどうするか?という事になる。
人間においてもこの定義によって錯覚や幻肢などが起こるので、
実際の身体性は何らかの定義と関連付けられていて、
この身体と定義の関連が人工知能でも再現出来れば良いという事になる。
つまり、物理的に存在する身体を、主体的に感じられる定義が存在すれば良い事になり、
であれば、刺激や概感を構成する「入出力の定義」を先天的に用意すれば良いという事になる。
人間はこの「入出力の定義」において自己情報を補完して構成しているわけだから、
人工知能でも同様に行えば良い事になる。
つまり、人工知能が自身の処理としてでなく、
結果としてのみ、その情報を受容する事になれば良いという事になる。
つまり、人間も別に「変化情報+自己情報」が、
自分が受けた情報であると解釈して理解して自分を感じているわけでなく、
結果的に変化を受けている物体が自分の身体として感じられるという定義があるためだけに、
自分の身体性を感じているわけだから、
人工知能は、自身が管理してどうにかるするべき対象としてのみ、
「自分」を認識出来れば良いという事になる。
つまり、知能が身構えて「これが自分です」と認識したり、理解するものではなく、
「この身体、自分の身体なので、自分の知能でどうにかしてください」
これだけで良いという事になる。
その代わり、知能が管理できるものとして、
情報の受容する感覚、感覚から情報を構成する神経細胞ネットワーク、目的に応じて動作させることのできる身体、
情報や経験を記憶できるシナプス形成、などを用意しておきました。
とすれば良い事になる。
後は最低限、感覚の定義や身体の維持、存続の為の欲求の定義も与える必要はあるが、
先天的定義として与えられる情報が少ないのであれば、
後天的定義として教え、学ぶ事の出来る機能があれば良い事になる。
学習としての模倣の機能も必要になるだろう。
必要な感覚などは都度思いつくことになるが、
こうしていけば人工知能にも自己情報は構成できるようになると考えられる。
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本当に長くなったので、
今回はこの辺で。
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