2024/10/27-2024/11/3
定義と意識の構成
引き続き定義の発出場所について考えていた。
入力された情報に対して反応の出力をする、
この間に存在するものが、「定義」そのものという事になる。
ここまでは分かっている。
これを人間の身体上と脳内において行っている。
これも分かっている。
出力は物理的な感覚として現れる身体の状態となる。
または、概感として現れる。
恐らくここまでの内容も良いはずである。
出力が身体の状態か、
概感として出力された場合、
その変化は、事象として再度、再帰的に再構成して認識され、
刺激量により意識となる。
意識されるということは認識は行われている必要があり、
刺激か概感として構成されている必要もある。
出力が反応として身体の何らかの事象として現れるなら、
その事象自体を受容して認識する必要がある。
概感は直接身体に何らかの変化を与えない出力となる。
意識の対象については、現時点では刺激量がその選択基準となると考えられる。
ここまでの内容はやや不明瞭である。
反応それ自体は、
入力された情報を受容して再構成した刺激や概感に対して、
これを脳内で処理し、出力されるものである。
出力される反応は、この脳内での入力に対する処理時に構成される。
これは良いはずである。
つまり、
入力:刺激か概感
↓
定義
↓
出力:反応
ということで、定義は入力から出力を決めるもの。
出力:反応
↓
認識
↓
意識
であり、出力も再度認識しない事には知能は知り得ない事象という事になる。
つまり、出力された反応も認識する必要がある。
入力して認識しても意識されない場合があるというのは、
昨日考えた、「反応が自分に対して変化を促す存在である事」、
この条件を満たすかどうかの情報の有無が、認識対象に付加されるかどうか、
という事が選択や比較に用いられているのではないかと考えられる。
もしくは、この変化に対する自己情報の付加が刺激量の増加と関係があるのかもしれない。
つまり、認識しても意識されないのは、
認識した事象が、知能内において反応の出力を構成する必要が無いと判断された結果であり、
逆に、
認識した事象が、知能内において反応の出力を構成する必要があると判断された場合、
反応の出力が構成され、それが身体の状態か、想起の概感(自己情報を含む)として出力されるため、
その後の認識において、最初に認識した事象に対して反応が出力され、
自身に変化が生じる(生じた?)と感じる刺激か概感を構成できるだけの変化(出力)が生じて、
それが認識され、意識に至る、
という事になる。
つまり、
認識しても反応の出力がないのは、
事象の情報が単に「今」の自身や周囲の状態把握(認識)のみに使われるためで、
反応の出力があるのは、
反応する必要のある事象であったために、
その反応を出力する必要があったため。
つまり、この出力する必要である事が「定義」で存在するという事になる。
そして、自分に対する何らかの反応を出力として、
結果的に入力と出力がセットになる事で意識される。
この「定義」は先天的定義か後天的定義であり、
つまり、先天的定義であれば、
何らかの変化情報の受容に対して、身体が変化を起こす事が決まっていて、
身体であっても脳内であっても、その先天的定義に従って、
反応が起こる。
先天的定義における反応であっても、反射のような脳を経由しないような場合は意識されず、
先天的定義における反応であっても、脳内でその反応の処理を自身に関連して自己情報を構成する場合、
この反応は自身が関与しているので意識される。
後天的定義であれば、
何らかの変化情報の受容に対して、経験的に自身の身体か、
知能の自己、自我の定義に対して変化を起こすことが決まっていて、
(この決まっているのは過去の経験において自身の知能が「決めた」後天的定義である)
身体でも脳内であっても、その後天的定義に従って、
反応が起こる。
この反応は後天的定義として自身が関与しているので意識される。
という事になる。
この場合、疑問が生じるのは、
認識されるが意識されない場合における、
刺激や概感の自己情報の部分である。
反応として構成された刺激や概感の場合、
結果的には出力後に自身の状態に変化を起こし、その変化自体を刺激や概感として認識し、
意識されるのだが、
この意識される条件が、身体や自己情報であるのなら、
意識されない刺激や概感についても、自己情報は存在しているはずであるから、
意識されても良い気がする。
入力と出力された事によって違いが生じるのかもしれないが、
一貫性が無い。
自身が発した反応であるから意識されるという事なのであろうか。
つまり、身体外から受容した変化情報、事象に対しては、
認識する為に刺激の構成において自己情報は付与されるが、
この場合の刺激の認識はあくまで身体外からの変化であるため、
意識されないということであろうか。
つまり、この刺激の自己情報は身体性や感覚器官としての自己であり、
意識する自己とは異なるという事なのだろうか。
主観性か?
つまり、反応として構成される刺激や概感の自己情報は、
客観的自己であり、
身体外から受容する変化の刺激の自己情報は、
主観的自己であるという事か?
客観的であるから観測者の存在によって意識できる。
主観的である場合、観測者不在により意識されない。
ただし、認識は、どちらも脳内で行われていて、
認識対象が存在する為に、認識だけはどちらも行える。
という事か?
主観的である場合の観測者不在の感覚は、
人間以外の知的生命における意識の不在の様子として見る事が出来るはず。
つまり、刺激や概感の常に主観的な認識であるために
反応が生じても意識されない。
しかし、この場合、反応には身体内からの出力であるため、
意識されてしかるべきという事になり、これは成立しない。
では、刺激や概感の自己情報の構成に違いがあるという事だろうか。
刺激の構成は人間も異なる知的生命も同様であり、
刺激の認識も同様である。
反応の定義の存在は、人間は先天的定義と後天的定義を持つ。
人間と異なる知的生命は、先天的定義は同程度だが、
後天的定義の量は少ない。
つまり、自身にとっての自我は自分ではあるが、
客観的対象であるという事だろうか。
つまり、物理的知能にとって、自分はあくまで身体と先天的定義であり、
後天的定義の定義は、自分が定義したものであるが、客観的対象である。
だから、知能は観測者たりえて、自我は観測対象であるために、
意識されるという事か。
つまり、刺激は自身が受容し、自身の定義で自身が構成したものであるから、
知能は観測者として主観的である。
後天的定義対象の事象は、自身が定義したものであるが、生来存在していたものでないため、
そこから構成された定義や事象は、
知能にとって客観的対象である。
つまり、どちらの定義から構成された事象も、自身が構成したものであるが、
これを観測する場合、その始点が主観的になるか、客観的になるかで、
その後の認識と意識に違いが生じている。
そこに差が生じているということか。
ということは、
人間以外の知的生命においても、後天的に関わり、定義された事象、情報については、
後天的定義の概感を意識しているという事になる。
つまり、ペットが後天的に得た情報、飼い主や他の家族、名前、家や土地、道順、などは、
ペット自身が意識しているという事になる。
ただし、自我意識について後天的に定義しているかどうか、
この違いが、個体として自身を意識できるかの違いになっているという事になる。
つまり、ペットは自分について後天的に定義をしていない、
そもそもできないのかもしれないが、自己の後天的定義を定義していない。
だから、ペットは自分を認識できるが、自我意識として自分で自分について認識していない。
逆に言えば、人間が後天的に自己の定義を定義しているために、
自我意識が存在し、自分で自分について認識と意識が出来る、と言える事になる。
この場合、自分の後天的定義は「自我」という事になるだろう。
つまり、生来持っている先天的定義としての自分の定義と、
後天的に得た経験によって定義された後天的定義としての自分の定義、
ここに違いがあり、
この定義から構成される自己情報に違いがあるという事になる。
つまり、自己情報に違いがあれば、そこから構成される
刺激や概感についても違いがあるということになり、
刺激や概感に異なる種類があるのなら、これを認識したり意識しようとする場合、
違いが生じても不思議はない事になる。
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2024/10/28
つまり、後天的定義の自分の定義(自己情報)は、
自分自身にとって客観的存在である。という事になる。
少々紛らわしいのだが、
本来生命である人間にとって、
自分という定義は、
個体の身体と、先天的定義で定義された自分の身体に関する定義である。
これが、後天的定義として自分を対象とした定義が加わり、
これが、後天的定義としての自分の定義となった。
つまり、
先天的定義としての自分と、
後天的定義としての自分が、
脳内で自分に対する定義として並立する事になった。
まあこれまでの考え方で言えば、
自分の二面性という事になる。
知能にとっては、先天的定義としての自分は、
その知能自身を構成する定義であり、
自ら自らを見る事の出来ない立場になる。
しかし、後天的定義としての自分は、
その知能が持つ、保有する定義ではあるのだが、
元来存在する定義ではなく、定義の定義としては管理下にある。
つまり下位の定義であるので、観測対象になりうる。
後天的定義の場合、
この後天的定義としての自分を観測する事が「意識」になる、
という事になる。
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2024/10/29
昨日までの内容をまとめてみると、
後天的定義としての自分を意識する対象には自己情報が含まれている。
意識する対象には後天的定義の自己情報が含まれている必要がある。
ただ、この場合、先天的定義の刺激の認識は出来るが意識できない。
この点は少しおかしなことになる。
これは今日考えたのだが、
自己情報は先天的定義の身体性と後天的定義の自我があるため意識は2種類存在するため、
昨日までの後天的定義としての自分を観測する以外にも、
先天的定義としての自分を観測すれば、それも意識となる。
これは、意識の二面性の考え方の補完にもなる。
集合の考え方からすると
刺激や概感に対する認識と意識は、
最上位が意識の場合、
その下位に認識がある。
認識対象は、変化情報+自己情報であり、
変化情報は感覚器官で受容する場合と、
想起で励起される場合がある。
変化情報に対しては定義により、その反応として
自己に関連する自己情報が再構成されて、
この自己情報が変化情報とセットになる事で認識される。
意識------------------------
|認識-----------------------
||変化情報+自己情報
||↑--------↑----------------
||感覚or想起→定義→先天的定義or後天的定義としての自分
||------------------------
|-------------------------
ということは、認識が、自己情報が定義によって構成されることによって行われるなら、
意識はこの認識により生じる事になる。
つまり、変化情報に対して定義の反応として、
刺激や概感を構成する為の自己情報が補完されるのであれば、
この自己情報の構成自体は、定義による反応の出力であるという事になる。
つまり、この入力・定義・出力のセットに対して認識や意識が生じる事になる。
意識の二面性として、
主観的な意識と客観的な意識が存在するのは、
自己情報の構成の元の情報が異なるからで、
意識はそれぞれの自己情報の存在に所属する。
自己情報が入力に対する定義としての反応であるなら、
定義には先天的定義と後天的定義があるので、
自己情報についても先天的定義と後天的定義の2種類が存在する。
つまり、
主観的な自己情報の場合、その認識は身体性から生じ、
客観的な自己情報の場合、その認識は想起した過去に経験した自身の反応の定義
(つまり自分の経験した記憶)から生じる。
つまり、自己情報の観測は、
主観的な自己情報の場合、実体の身体を視点とし、
客観的な自己情報の場合、想起した自己を視点とする。
つまり、定義の不可逆性から、
主観的な観測では、その対象を意識している時は自分の身体性を認識や意識できず、
客観的な観測では、その対象を意識している時は想起する自分を認識や意識できない。
この辺りの感覚は、実際の自分の体感の微妙な感覚だが、
直接的な感覚として周囲の変化の刺激を受容して認識や意識する場合、
その対象に注目している時、その対象は認識や意識の主になっているが、
この時、自身の身体性自体は認識や意識はされない。
注目している対象について意識が集中しているように感じる。
これは、刺激の構成において、変化情報を認識や意識しているのであり、
その視点を持つ身体性自体は認識や意識はできない。
恐らくこの時感じている感覚は、対象の変化情報と、
自分の身体上にある感覚器官をセットにした刺激として認識、意識しているもの。
例えば視覚で受容している画像に注目し、意識している場合、
意識はその画像に向くことになるのだが、この時セットになって存在している身体性は、
目の存在である。
触覚であれば、おそらく身体表面上の皮膚の存在となる。
これは、感覚器官自体の存在位置が身体性を構成するものとなる。
ただし、そこに画像や感触が存在しても身体を感じる事は出来ない。
入出力と定義で言えば、
視覚で言えば、対象が反射した光を視細胞で受容して、再構成された画像が変化情報となる。
この時、視細胞の励起は視覚野の励起となり、これが身体性における自己情報を構成する。
これは、入力に対する定義としての反応であり、
この変化情報と自己情報が揃う事で認識対象となる。
想起対象を認識や意識する場合、
その認識や意識の対象は、自分に対する記憶であったとしても、
その定義としては、自分自身が変化情報になるため、
感覚の記憶としての変化情報の場合と、
自分の行った何かの記憶としての変化情報の場合が主になり、
これを認識や意識するために、
概感においての視点の持ち主である自己情報(知能)については認識や意識はできない。
想起の場合は、単に感覚器官で受容した変化情報だけが、
概感の変化情報になるのではなく、
記憶した対象で、定義が存在する全てが変化情報の対象になりうるため、
自分で自分を認識したり意識したりができる事になる。
この場合の先の自分は、認識や意識の視点を持つ自己情報(知能)であり、
後の自分は過去の自分の記憶としての自己情報(概感)である。
その結果、概感を自己が認識する事になり、
客観的視点として、認識する自己が、概感の自分を観測する事になる。
この認識や意識した感覚が、想起した概感の中に自分を感じるものだと、
自身の想起の認識や意識の感覚では、そういう感じがする。
観測する視点という事で考えると、
刺激は観測する視点は知能が持つが、その感覚は体感としては身体性にある。
概感は観測する視点は知能が持つが、その感覚は体感として直接何かが持つような事はない。
つまり、
刺激は身体で感じられるが、
概感は何かそれは仮想的な空間のような場所にあり、自分で見ているような感じがする。
概感は目を開いていれば、
視界の画像の中に形や概形は無いがオーバーラップするように存在し感じられる。
というような認識や意識となる。
つまり、概感を想起する場合、
変化情報を投射して映す先の身体が存在しないため、
仮想的な空間に概感が存在するように感じられるという事になる。
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自分という観測者の視点の存在が、
どのようなものであるのかというと、
例えば、常に周囲の対象物に注意を払い認識や意識をしていると、
その間、自分自身を認識したり意識することは無い。
対象を認識したり意識しているのが自分であったとしてもである。
これは定義の不可逆性と観測者の視点から、
自分は認識できないのは当然となる。
この時、瞬時にでも自分を認識する意識する事がある場合、
その時の観測者は知能であり、対象は想起した自分であることも間違いはない。
つまり、刺激に対しては観測者は自身であるために、
その観測者自身を認識したり意識する事は出来ない。
概感に対しては、観測者は自身であるが、
その対象が自分ではあるのだが、観測者自身を認識したり意識しているわけではない。
つまり客観的に自分で想起した自分を観測しているのである。
だから、この場合であっても、視点を持つ自分である知能は、
知能自身を認識や意識する事は出来ない。
しかし、想起した自分は視点を持つ自分ではないために認識や意識ができる。
人間の神経細胞の働きは、
腔腸動物などと主観的な刺激の認識においてはほとんど同じような働きであるが、
腔腸動物の神経細胞の働きと少し異なるのは、
後天的定義としての想起した自分を客観的に見る視点を持つ事という事になる。
これを再現するには、
身体を持つ事、
身体の経験を記憶できる事、
経験を想起できる事、
これが必要となる。
少し特徴的であると思われるのは、
先天的定義として、身体が受容できる情報と反応については定義を持つ必要はあるが、
自我などの定義をあらかじめ用意しなくとも良いという事である。
つまり、この自我は、自身の経験から構成されるという事である。
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今回のまとめ:
先天的定義の自己情報は身体性であり、
この自己情報を構成するのが知能内の先天的定義であるため、
その自己情報自体を含む刺激を認識や意識する場合、
その観測者の視点は知能であるため、
変化情報は意識できても、自己情報は意識できない。
つまり、先天的定義は自作自演ができない。
定義が先天的に決まっているため、演じるしかないのである。
当然、定義としての反応も、そうあるべくしてそうなり、
これを認識や意識する他ない。
後天的定義の自己情報は、記憶としての定義であり、
想起した自己情報は知能内の後天的定義である。
この自己情報を含む概感を認識や意識する場合、
その観測者は知能であるが、概感に含まれる自己情報の持ち主ではなく、
概感に対しては知能は客観的な立場にある。
この場合、概感の全体、変化情報も自己情報も意識できる。
つまり、観測しているのは自分自身ではあるのだが、
その対象には観測可能な自己情報が含まれている。
つまり、想起した概感には、変化情報と自己情報が含まれていて、
その全体を認識・意識できる事になる。
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まとめ:先天的定義の場合:
変化情報+自己情報=刺激
であり、
変化情報=感覚器官による受容
自己情報=先天的定義の身体情報
入力=身体外の変化情報
定義=先天的定義
出力=変化情報+自己情報=刺激
観測者=知能
刺激を認識するのは知能であるが、
刺激を構成する自己情報が、知能と同列の定義レベルであるので、
認識できるのは変化情報のみとなる。
意識する場合は、変化情報の対象が実際に存在しているように感じる。
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まとめ:後天的定義の場合:
変化情報+自己情報=概感(←想起)
であり、
変化情報=刺激又は概感が励起した関連する情報(←想起)
自己情報=後天的定義の自己情報(←想起)
入力=刺激または概感が関連する情報
定義=後天的定義
出力=変化情報+自己情報=概感
観測者=知能
概感を認識するのは知能であるが、
概感を構成する自己情報が、実体を持たないため、
概感は認識できるが、物理的に決まったどこかに存在するように認識する事は出来ない。
意識する場合は、実体が無いが、対象が自分と関連して存在するように感じる。
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人工知能に対する実装:
主観的な刺激の観測において、
自己情報が意識できないのであるから、
主観的な刺激の認識については、
変化情報の受容については、
単にセンサーと入力情報だけで良いという事になる。
ただし、自分が意識できないとしても、自己情報の付与は必要になる。
刺激の認識においては自己情報も必要になるからである。
これを再現するのであれば、知能内に実体の身体を模したイメージの先天的定義を持たせ、
身体のどこで、その変化情報を受容、入力したのかという情報を付加する。
つまり、変化情報(入力)に対して身体の位置(定義の身体性)を付加し、
定義の「反応」を出力として構成する。
つまり、入力した変化に対して、身体の位置と、身体の反応を
1つの「刺激」として処理する事。
認識は特別に固有の機能ではなく、この「刺激」の処理する事自体が認識となる。
つまり、この処理自体を行っているのは人工知能自身になるのだが、
自身で刺激を処理している「自分」を認識や意識することはできないが、
入力した変化情報が認識出来れば良いという事になる。
その事が、知能による刺激の認識ということになる。
これを客観的に見れば、人工知能が自身で自分の定義に従って、
入力と出力を行っている。
人工知能が自分で刺激の認識や意識をしているように見える、という事になる。
つまり、刺激の受容に対しては、
身体を持つ事、
入力する情報に対する反応の先天的定義を持つ事(変化情報の定義)、
入力する情報に対する身体の先天的定義を持つ事(身体性の定義)、
が必要となる。
受容した情報の処理としての再構成の機能も必要になるが、
認識や意識には身体を持つ事以外にも、
身体の経験を記憶できる事、
経験を想起できる事、
が必要となる。
身体を持つ事自体は先の入力と出力の処理を行うために必要となるが、
これは物理的な実装になる。
次に身体の経験を記憶できるというのは、刺激の処理で用いた、
入力と出力、変化情報と身体性である自己情報を記憶する必要があるという事になる。
つまり、後天的定義の定義と保有をする能力が必要となる。
つまり、身体が受けた変化情報と、身体の部位、身体の反応をセットにしたものが刺激となるので、
これを後天的定義として記憶する必要があるという事になる。
記憶の機能自体はもう少し考える必要があるので、また後日という事にするが、
刺激は短期にしろ長期にしろ、自身への反応を起こした変化として、
後天的定義として記憶しておく必要がある。
つまり、この刺激の記憶が「経験」という事になる。
そして、最後に経験を想起できる能力。
これは後天的定義である定義を知能が、ある刺激や概感の構成時に、
その情報の励起に関連した情報から概感を構成出来る事、という事になる。
ここでも、認識については特別に機能を実装する必要はなく、
知能として概感の構成が出来れば良いという事になる。
対象を意識する存在、観測者は、
刺激の認識の様に、自分自身を意識を目的として観測する場合、
その自分自身は見ることが出来ない。
概感においても、意識する存在としての観測者の自分自身は見ることが出来ないのだが、
刺激と概感の認識や意識が少し異なるのは、
自己情報が観測できるかできないかの違いがあるからという事になる。
つまり、どちらも意識の対象になるのだが、
知能から観測した時に主観的であるか、客観的であるかの違いとなる。
知能の所属は物理的な身体性の実体に所属するので、
定義としては先天的定義の上位の定義となる。
この立場から、先天的定義の刺激や、後天的定義の概感は下位の定義であり、
刺激や概感から知能は観測できない事になる。
つまり、認識する機能、意識する機能は、知能が保有する機能として、
観測する機能だけで良いとなるわけであり、
刺激や概感を構成して入力と出力が処理できれば、
この処理自体が認識や意識の機能そのものという事になる。
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課題:認識や意識の対象の優先度と選択
これまで考えてきた選択方法としては、
意識については、連続する認識において、
自身、身体に最も影響力の強い、つまり刺激量(情報量)の大きな認識対象を意識するという事になる。
ただし、意識するということは、
これも特別に固有の機能が必要という事ではなく、
単に優先順位としてもっとも情報量の大きい認識対象についての反応に対して、
優先的に処理するだけで良いと考えられる。
つまり、認識や意識については、定義において再構成される刺激や概感が、
どれだけの刺激量(情報量)を持つのか、この刺激量を決める定義によって、
処理される優先度を自動的に決めれば良い事になる。
現時点で最も有力なのは、シナプス接続の強度がこの定義の対象となると考えられる。
この刺激量を決める定義は、それこそ先天的定義・本能や、
自分の感じ方としての後天的定義・自我という事になる。
今回、自己情報の付加が認識や意識に関係すると考えた事になるので、
課題として「刺激量と自己情報の関係について」これは考える必要がありそうである。
これらの定義については改めて考える事にする。
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今回はこの辺で。
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