2024/10/22-2024/10/28
認識と身体性
402で身体性を情報として再構成することが、
認識における自己情報となり認識で自分自身を感じる事になると考えたが、
では、
この認識における観測者はこれまでどおりの知能であるのか?
という疑問が生じた。
つまり、刺激や概感を、自分自身で感じているという、
その「自分」の視点の持ち主が「知能」であるかということである。
今日考えていた結論から言うと、
「身体性そのものが観測者になる」
という事になる。
つまり、知能の存在は、
知性における最も外側に存在する視点であり、
全ての知的機能の一番大きな外側にある集合という事になる。
認識や意識は、その内側の集合や要素であるので、
視点という事であれば、知能が観測者であっても間違いではないのだが、
直接的な観測者ではないということになる。
刺激や概感の構成から認識までの過程を考えてみると、
変化情報については感覚器官から、
つまり、知能の外部からもたらされる情報であり、
この情報の中に観測者の視点を持つか、という事で言えば恐らく「違う」という事になる。
では、実体としての脳や知能であれば、
これまでの考えからすると観測者であって視点を持つ可能性はある。
しかし視点という事になると若干離れた位置から認識している様に感じる。
であれば、その間を埋める存在として考えた場合、
認識前に存在する他の存在となると、
自己情報、認識における身体性の存在という事になる。
つまり、刺激や概感を客観的な視点で観測するのではなく、
その変化情報が直接自分自身に関連している事を感じる事が、
刺激や概感の観測になるのではないかと考えたわけである。
刺激や概感←知能による観測=認識
から
刺激や概感=変化情報+自己情報(=身体性による認識)
に変わったという事になる。
つまり、刺激や概感の自己情報の構成によって、
その自己情報そのものが刺激や概感を感じる存在、
観測する視点を持つ存在になるのではないか、というわけである。
自分自身の存在を自分自身の存在から観測する事ができないというのは、
定義の不可逆性において、上位下位の関係において、
同位にある定義を同位の定義では解釈できないということを考えてきた。
そして、自己情報を構成する定義は、神経細胞内に内包されるというのは、
402でも考えた。
この場合、自己情報の定義は、刺激や概感においては、
神経細胞の励起によって生じる情報であるのだが、
その情報として構成された自己情報、身体性は、
自身からは見ることが出来ないという事になる。
つまり、情報が再構成されて、
実体ある身体においては感じられて存在する事が分かるのだが、
自己情報自体が自己情報としての自分を知る事は出来ないという事になる。
この辺りの事情が、
認識する存在として、これまで客観的な視点を必要とすると考えるようになった理由という事になるが、
今回、認識における観測者としての直接の上位の存在が自己情報であると考えると、
身体性としての定義は、物理的な身体を構成する神経細胞が直接持っていて、
定義と身体は直接関連している事になる。
生命の定義からすると、生命の定義は自然法則の下の物理的な生命の存在の定義であり、
その生命の定義において、先天的定義として身体の定義が存在する事になるから、
その物理的な生命の存在がもつ細胞としての神経細胞が直接持つ定義として、
この身体性の定義を持つ事になる。
そして、刺激や概感においては自己情報はこの定義から構成されることになるので、
定義の上位下位の考え方からすると、物理的存在の直接の下位の存在という事になる。
そして、認識する定義は、定義としては情報の解釈の定義であるので、
身体性を構成した定義よりは下位の定義という事になる。
自然法則(上位)
↓
生命(物理的実体)
↓
自己情報(身体・身体性)
↓
認識(下位)
つまり、認識の定義は、身体性の定義を解釈できるということになる。
逆に身体性の定義は多くの認識の基礎的な定義であるが、解釈はできない。
つまり、刺激や概感の認識を直接行っている視点は、
知能よりも自己情報としての身体性の方が近いという事になる。
ちなみに知能の定義はどこに位置する事になるかというと、
自然法則(上位)
↓
生命
↓
知能
↓
自己情報(身体・身体性)
ここになる。
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認識において感じる自分の感覚:
認識していて感じる「自分」であるという感覚は、
今回の考え方からすると、刺激や概感の再構成時の自己情報という事になる。
認識や認識プールの考え方には変更は無いので、
刺激や概感が再構成され、
認識プールに送られ、認識に至ると、
変化情報とそれを感じた自分の感覚を認識する事になる。
この認識の時の「自分」であるという感覚は、
どのようなものであるのか。
認識において感じられる情報としては、
感覚器官の位置に存在するように感じられる変化情報の事象である。
その事象を分解してみると、
「変化情報+自己情報」という事になる。
つまり、認識で感じられる情報は、
感覚器官が受容した自然法則に従って構成された事象の情報とと、
感覚器官が位置する場所か、想起によって構成された概感としての仮想的空間に、
身体性を構成した「自分」の存在を事象とした情報を組み合わせたものとなる。
それは、「自分」の実体であるという身体か、または、
想起する仮想空間内に存在する「自分」であるという存在が、
変化情報を受けた、感じたという情報という事になる。
この時の「自分」は、
実体である自分の場合は、
先天的定義の身体の定義から構成されたものであり、
想起の自分の場合は、
概感としての後天的定義として記憶された「自分」に関連した定義であり、
先天的定義の実体の身体の定義ではないが、
後天的定義として得た「自分」であるという定義から構成されたものという事になる。
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脳内の定義の構成:
神経細胞が定義を持っているとして、
この定義がどのようなものであるのかというと、
刺激や概感を構成する時に、情報の要素として考えてきたものが、
この定義に相当するのではないかと気づく。
つまり、情報の要素は、
これまで刺激や概感を構成する時の情報の最小単位として考えてきたものであり、
これらを組み合わせて刺激や概感を再構成するのだが、
この情報の要素1つ1つについては、正確にどこにあるかという事は考えた事が無く、
神経細胞ネットワーク内のどこかにあるという程度で考えていた。
腔腸動物における定義が、特定の神経細胞の励起において情報として再現されるものであるなら、
人間の神経細胞でも同じ様に、神経細胞の励起で何らかの定義が情報として再現されても良いのではないかと考えた。
この場合、神経細胞がある特定の刺激によって励起するネットワーク上の位置に配置されていた場合、
恐らくその反応として、この神経細胞が励起する事によって、
その先に接続されている神経細胞を励起する事になる。
実際にはシナプス接続による励起信号の伝達だけであるので、以降の神経細胞が実際に励起に達するかは分からないが、
何かしらの意味を持つ対象の神経細胞へ励起信号を伝達する事になる。
この励起信号が伝わった先の神経細胞は、例に挙げた腔腸動物などにおいては、
接触した対象によって運動の反応を変えるという意味を持つが、
最初に考えた、特定の刺激によって励起する神経細胞は、
実際に直接何らかの反応を起こすための神経細胞ではなく、
あくまで情報を比較するなどの処理を行うだけの神経細胞という事になる。
つまり、実際に直接情報に接触する感覚器官や神経細胞、
反応として直接運動を制御する運動細胞や神経細胞とは異なり、
情報の判断だけにおいて活動している神経細胞が存在するという事になる。
この場合、神経細胞の励起によって定義が構成されるというよりも、
受容と反応の間を制御するネットワーク自体が定義であるという考え方が出来る。
つまり、受容した情報と、反応する情報を処理するネットワークという関連が、
定義そのものとして考えられるのではないかという事である。
この場合、情報の定義は直接存在する必要はなく、
受容する情報の処理と、反応する制御の操作の間を取り持つことが出来れば、
その関連自体が定義として存在できることになる。
つまり、
腔腸動物において、ある化学物質に接触したら逃避する行動を取るという定義は、
感覚器官において、その対象に接触し、その対象が化学物質である事によって感覚器官の神経細胞が励起した場合、
その励起の伝達信号の先の神経細胞が、運動細胞に対して逃避するという信号を送れば、
それは、この信号を仲介した神経細胞が、定義によって情報を処理した事と同じ事になる。
これは、この仲介した神経細胞が、励起の信号に対して、化学物質に接触したという情報を知る必要はなく、
単に特定の励起信号を受けて自身が励起し、運動細胞に特定の励起信号を送るに過ぎない。
しかし、その全体の制御としては、情報を選択している様に見える事になる。
ということはである。
これが人間の神経細胞においても同様であるとすると、
感覚器官が受容する変化情報に対して、励起信号が脳に伝わった場合、
その脳内に存在する神経細胞1つ1つが定義や情報を持っているわけではなく、
神経細胞ネットワークが、その励起信号に対して最終的に出力する反応の為の励起までの活動そのものに、
定義となる制御の構造が含まれているという事になる。
つまり、
神経細胞ネットワーク内の励起の伝達自体が定義そのものという事になる。
つまり、
神経細胞ネットワークの構造自体が定義を持つという事になる。
そして、その定義が存在する為には、
変化情報に対して反応する部位と、結果として自身が活動する機能が必要になる。
つまり、
ある刺激を受けたら、この反応をする、
この事自体が定義であるという事になる。
変化情報の受容
↓
定義(=神経細胞ネットワークの励起信号の伝達経路)
↓
変化情報に対する特定の反応
これは、変化情報だけでも、変化情報に対する特定の反応だけでも、
定義は成り立たず、特に意味のないものになってしまう。
つまり、単に神経細胞ネットワークの構成に注目したとしても、
重要な意味はないという事になる。
つまり、
入力
↓
処理
↓
出力
が揃って初めて、この「処理」が「定義」になる。
という事である。
つまり、
定義=処理(入力)+処理(出力)
こういう事になる。
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人間の定義の処理:
この考え方の場合、
人間がある特定の波長の光を見て「赤い色」だと認識できる場合、
入力されるのは可視光線の長波長側にある特定の光であり、
錐体細胞においてそれは受容され、神経細胞の励起が起こる。
結果の出力としては、
この光を受けた網膜の位置に、赤い光を受けたという選択が出力されることになる。
では、
この励起信号は伝達され、脳内の視覚野に伝わる。
この神経細胞ネットワーク内において、何が処理され、
何が出力されるかと、
どこに出力されるか、
これが分かれば良い事になる。
何が出力されるのかという事については、
光は結果的に画像情報になり、
神経細胞が出力できるのはシナプスの励起による励起状態の伝達だけであるので、
脳内の視覚情報については、網膜の錐体細胞から受けた光に対して、
画像として構成されるような脳内の各機関が存在し、
恐らく、情報としては、「画像情報としての励起の関連全体」が、
最終的な出力になると考えられる。
つまり、最後の問題は、
これがどこに出力されるのか。
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2024/10/25・夜
出力の感覚として、
「心地よい」などの感覚は、
ホルモンや感情として出力される。
これで定義が成り立つ。
では光は?
事象に過ぎない。
つまり、構成されて画像として見える。
が、定義の結果の事象にしかすぎず、
何か意味があるわけではない。
光の出力先は現在の状態を構成する「今」
連続する「今」に過ぎない。
意味があるのは、心地よいなどの感覚などの
変化、身体への感じ方としての変化を持つ情報。
つまり、刺激は「今」を構成するだけで、
身体の変化はその「今」の中にある自分の身体に
影響を持つ情報。
↑この全てを認識や意識するが、
本当に意味があるのは自分の身体に変化をもたらす
情報、つまり、定義にも2種類ある
身体の状態へ影響を与える出力と、(心地よさとかいい匂いとか)
身体の状態に影響を与えない出力(光とか音)
やはり脳内には定義があって、そこで
情報は構成されてはいるようである。
または、観測者がいない可能性はあるか?
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これをまとめると、
情報の入力と反応の出力は、
実際の体感としての感覚においては、
身体にその状態が反応として現れる。
心地よいとかいい匂いという身体の状態の感覚は、
ホルモンや神経伝達物質の分泌によって起こっているはず。
では光は?
光としての画像の入力した情報は、
認識されるが、自身の状態変化自体を起こす反応は起こっていない。
つまり、単に認識されただけの情報もあるという事になる。
これは、
光の出力先は現在の状態を構成する「今」を認識する為の情報という事だけであり、
認識においては連続する「今」に過ぎない。
意味があるのは、心地よいなどの感覚などの
変化、身体への感じ方としての変化を持つ情報。
つまり、刺激自体は「今」を構成するだけで、
身体の変化はその「今」の中にある自分の身体に
影響を持つ情報。
↑「今」は、この全てを認識や意識するが、
本当に意味があるのは自分の身体に変化をもたらす
「今」の中に在る情報、つまり、定義にも2種類あるという事になる。
1:身体の状態へ影響を与える出力と、(心地よさとかいい匂いとか)
2:身体の状態に影響を与えない出力(光とか音)
少なくとも2種類の意味を持つという事は異なる定義があるということであり、
やはり脳内には定義があって、そこで
情報は構成されてはいるようである。
観測者がいない可能性はあるか?
最後に考えたが、情報に対する視点は、
どのような位置にしても、どのような存在にしても、
観測者は不可欠という考えになった。
つまり、対象の視点を実体験として内包したとしても、
情報が情報として存在する為には全体を見渡せる視点は不可欠という事になる。
そうでないと、例えば情報が森の全体であったとしても、
木を見て森を見ずという状態になってしまう。
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2024/10/26
昨日の続きで考えていたのだが、
視覚の画像ではなく、感覚として受容した情報について考えようと、
昨日の夜、布団に倒れこんで落ち着こうとしたのだが、
この時、目を閉じていたので画像は特に暗いままの映像であったのだが、
感覚としては慣れた匂いと感触によって落ち着く「心地よい」という認識をした。
そこで気づいたのだが、情報の出力先として身体を考慮していたのだが、
身体の感覚として感じられる、落ち着くような感覚は、
匂いや感触として受容した情報を脳が処理し、
身体に対して「落ち着く」「心地よい」という感触を与えた事になる。
つまり、身体の状態に対して対応を出力した事になる。
そして、一方で出力先を必要としない情報もあるのではないかと考えた。
つまり、認識はしているが意識していないような画像などである。
であれば、
つまり、認識は情報が常に入ってきて常に行われているが、
意識するのは、身体への変化が現れた反応がある場合に「意識」されるのではないかというわけである。
つまり、
変化
↓
感覚器官
↓
脳
↓
情報の再構成→認識
↓←身体への反応の出力
身体
↓
意識
その一方で、
変化
↓
感覚器官
↓
脳
↓
情報の再構成→認識
↓←身体への反応の出力が無い
×
こういう2つの場合があるのではないかという事である。
つまり、刺激や概感の再構成において、
認識はするが意識されない場合と、
認識をしてさらに意識する場合があるのではないかというわけである。
つまり、その差が身体への情報の出力があるかないか、
この違いなのではないかというわけである。
つまり、何か不満があって怒りの状態を認識する場合と、
不満はあるが、そういうものだと納得して特に身体の状態を変化させない場合、
この違いは、身体の状態変化が起こるかどうか、
この事によって認識や意識の違いが生じるのではないかというわけである。
この定義は、
生来生まれ持った先天的定義と、
その瞬間に至るまでの経験による後天的定義で構成されたものであり、
ある瞬間に受容した変化に対し、
脳内でどのような神経細胞ネットワークの励起が行われ、
身体への状態変化を起こす出力をするか、
身体への状態変化を起こす出力を行わないか、
この違いによって認識や意識の
違いを生じさせる原因という事になる。
つまり、意識する反応は常に身体の状態変化を起こす出力がある。
逆に、身体の変化があるから意識する事になるとも考えられる。
ということは、身体の状態が変化しなければ意識されないという事にもなる。
つまり、見えて聞こえて認識はしているが、
視界で見えている全ての画像情報が意識されるわけではない。
聞こえている音全てが意識されるわけではない。
という事になる。
では、意識しているが、身体の状態が変化しないという事はあり得ないのか?
今、私が注目して見て意識している自分のマグカップは意識していないのか?
これは、刺激と概感の違いという事になる。
つまり、意識される刺激の出力先は身体であり、
意識される概感の出力先とは異なるという事になる。
今見て意識していた自分のマグカップは刺激ではないのか?という事になると、
視覚の刺激であり、意識もしている。
自身の身体の状態に何らかの変化があってしかるべきという事になるが、
実際には身体の状態に変化はない。
単にマグカップを見ている自分が認識、意識されるだけである。
ただ、脳内の認識される情報として、
そのマグカップに対して想起される情報があり、
それが何であるかとか、どのようなものであるかといった情報が存在している。
つまり、視覚として受容した画像の情報に対して、
想起としての出力があるという事になる。
つまり、身体の状態変化は起こさないが、
仮想的な自分である自身の定義の想起を促すための出力が存在する事になる。
つまり、物理的ではない自分に対して画像の情報が関連して励起し、
その励起信号が伝達されているという事である。
これは、身体への直接的な状態の変化は起こさないが、
脳が受容した情報に対して想起する対象を出力するという反応を起こしている事になる。
つまり、身体の状態変化は起こさないが、
意識される出力は想起によって構成されている事になる。
つまり、上記の「意識する反応は常に身体の状態変化を起こす出力がある」
という事に加え
「意識する反応は常に、身体の状態変化を起こす出力があるか、
自身が保有する後天的定義として想起する出力がある」
という事になる。
想起は、自身が保有する事になった後天的定義であり、
後天的定義には変化情報と自己情報が関連している。
つまり、想起で意識する場合、この後天的定義の自己情報が、
身体に変わる状態変化の対象になっているという事になる。
つまり、身体ではない自分自身の事である。
この場合、想起においては常に自分自身の状態に何か変化を起こすわけではない。
しかし、認識や意識の機能として成立する為の、
情報の受容から、反応の出力までは完結している。
つまり、意識が、
情報の受容と、その情報に対する反応の出力で成立するものであれば、
感覚器官から受容した変化情報に対して、
その反応として自身の身体の状態の変化を起こす事、その出力の存在。
変化情報の受容に対して、
その反応として想起した記憶としての自己情報を再構成する事、その出力の存在。
これで、意識は成り立つという事になる。
つまり、反応を身体に出力するか、
反応を想起した自己情報に出力するか、
これで意識は成り立つという事になる。
身体の状態変化は、結果としては再度変化情報として認識や意識する事になり、
想起した自己情報も想起した自分として再度認識や意識をする事になる。
つまり、定義の成立条件は、
変化情報の受容に対して、反応として受容した存在の変化を起こす事。
つまり、対象が、情報の入力に対して、変化の出力を起こす事。
その対象は、実体の身体であっても、記憶された想起の自身であっても良く、
入力に対して出力する、その対象の存在が重要という事になる。
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人工知能での再現について:
それなら、入力と出力を行っているPCなども認識を行っているということが言えるが、
その入力と出力に対して、自身の状態は変化していないという事になる。
つまり、まず、PCは情報の入出力に対して変化する自身の状態を持っていない。
処理におけるタスクなどの管理を自身の状態としたとしても、
その事に対して何か管理方法を変化させるなどの機能を持っていない。
つまり、常に定義に従って情報を入出力しているに過ぎない。
これは生命であれば常に反射を行っている事と同義という事になる。
そういう点では、常に先天的定義で活動するような生命であれば、
コンピュータで再現できる事になる。
つまり、定義の再編が行われないわけであるから、
全ての定義さえ解明できれば、その定義を全て実装すれば、
同じ様に活動する事になる。
これについても逆に考えれば、
コンピュータであっても、情報の入力に対する自分の状態が存在し、
その反応を出力する能力があれば、人間と同等の認識や意識を行うことが出来るという事になる。
コンピュータにとって根源的な評価基準のようなものが存在し、
ある状態についてその評価に従った良い悪いという判断が行えて、
良い状態を維持するために反応する事を欲するという活動の定義を与えれば、
目的を持って活動するようになると言えるだろうか?
ただ、いづれにしても、
強い人工知能には身体性が必要であると考えられる。
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今回はこの辺で。
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