2024/10/13-2024/10/21

定義の所在

色が色として見える定義がどこかにあるはずなのだが、
現在は脳内のどこかにあるという事しか分からない。

錐体細胞の励起によって光の情報は一度量子化される。
その量子化された情報は脳内で光の刺激として再構成される。

再構成された光の刺激は脳によって観測されて認識される。

光の刺激は認識によって、光の存在と受容の事実が確定し、
光を受容した個体が、光を見たと知覚する。

定義が持ち出される可能性があるとすれば、
刺激の「再構成」時または概感の「想起」時または「認識」時ということになる。

「認識」時には刺激は再構成済みであり、
この時点で想起が行われている事が考えられるとなると、
色の定義は既に刺激内には織り込み済みであると考えられる。

であれば、定義が持ち出されるのは刺激の「再構成」時、
または概感の「想起」時という事になる。

「想起」時は先天的定義を含む事象を想起する場合もあるが、
この場合の定義は刺激の「再構成」に含まれているものと同じ事になる。

つまり、刺激の「再構成」時の定義の使われ方が分かれば、
概感の「想起」時も同様という事になる。

刺激の再構成時に用いられる情報は、
遺伝的な先天的定義である場合、遺伝子から直接情報を得るわけではないので、
定義情報はあらかじめ脳内に展開しておく必要がある。

つまり、「再構成」時に用いられる定義は、
例えば光の情報を再構成する場合には、
光を再構成するより以前に定義の情報展開は済ませておく必要がある。

さらに言えば、
定義の利用準備も済ませておく必要がある。

もし、脳内で情報が、
神経細胞とその関連におけるシナプスの形成によって成り立つのであれば、
脳内の神経細胞、シナプスの形成、またそれ以外の要因によって、
定義は展開されている事になる。

神経細胞とシナプスの構成だけで定義を構成できるのか?
という事については、ネットワークで事象は伝達できるが、
その関連だけでは再構成には至らないと考えられる。

つまり、事象の存在は伝達できるが、その存在の意味、定義は、
そのネットワークだけでは再構成できないと考えられる。

つまり、例えばインターネット上をデータが行き来していたとして、
そのデータが何であるのかというのは、クライアントのPC上でユーザが定義するものであり、
行き来するデジタル波形自体が何か意味を持つという事は無い。

つまり、脳内で光の受容に対して励起する神経細胞やシナプスの関連自体が、
何か定義を行う事は無いと考えられる事になる。

では、色に対する色の定義はどこにあるのか?
という所に戻ってくる。

となると現時点で行き着くのは、
ネットワークではクライアントに相当する神経細胞自身という事になる。

まあこれは認識における自分の身体性の存在についても同じ事が言える。
つまり、感覚に対する自分の身体の存在の定義という事である。

自分の身体がなぜここにあるのか?
身体を定義する情報がどこかにあるということである。

ネットワーク自体ではないどこかに展開されている情報。
となると実体を持つ何か、「細胞」という事になる。
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仮に刺激を受容する単純な生命で考えるとする。
良く例に挙げるボルボックスの走光性を例にすると、
走光性自体は、光の受容部(眼点)に受けた光の刺激に対してボルボックスは、
カルシウムCa2+を増加させ、そのイオン濃度に合った鞭毛の動かし方をする、
眼点の光が弱まるとイオン濃度が低下し、その濃度に合った鞭毛の動かし方をする。
この時、カルシウムイオン濃度の高い場合、つまり光を受けている際に動かしている鞭毛の動きが、
光の方へ進む動きであり、光が弱まった際に動かす鞭毛の動きは、
自身の向きを変える動きとなり、
結果として、ボルボックスは光を受容した方向に対して進むというものである。
ボルボックス自体は知能や神経などは持っていないが、
光の受容とそれの受容状態に対する固有の反応の定義を持っているという事になる。

この場合の定義は、
光を受けてカルシウムイオン濃度を上げる、
光を失うとカルシウムイオン濃度を下げる、
事と、
カルシウムイオン濃度が高い場合の鞭毛の動かし方と、
カルシウムイオン濃度が低い場合の鞭毛の動かし方の、
定義を持っている事になる。

この他に余りに強い光に対しては後退する動きもある。

つまり、進行方向は結果的なものだが、
光の存在に対して反応する定義を持っているという事になる。
つまり、きっかけと反応の定義を持っている事になる。

ボルボックスは知能を持っていないため、
知能の状態として「光を受けている」状態は認識されないが、
個体が光を受けている状態に対しては、
その光を受ける眼点の存在によって、光を受けているという「きっかけ」を構成している事になる。

この定義は、眼点の存在と、光の存在によって構成されている事になる。
つまり、自然法則である光の存在に対して、
眼点により自然法則の光の定義を受容している事になる。

ボルボックスの光の「反応」については、
光の受容の状態に対して、カルシウムイオン濃度を変化させる事と、
カルシウムイオン濃度に合わせた鞭毛の動かし方をするという定義である。

この定義自体は、光の存在には関係がなく、
その情報を仲介しているのはカルシウムイオン濃度である。

つまり、光の存在のきっかけに対して、
その存在の定義をおこなっているのは、
ボルボックスにおいてはカルシウムイオン濃度という事になる。

つまり、ボルボックスにとって光の存在はカルシウムイオン濃度の高い状態であるという事になる。

ということは、
ボルボックスにおいて、光の自然法則の定義は、
カルシウムイオン濃度の高さという定義で置き換えられるという事になる。

つまり、ボルボックスにおいてカルシウムイオン濃度を変化させる機能は、
細胞膜のイオンチャネルや小胞体(ER:エンドプラズミックレティキュラム)など複数の機能があるが、
ボルボックスにとっての光の存在・不在をの証明は、
これらの働きによってカルシウムイオン濃度が変化する事、
という事になる。

つまり、光が何であるのかという定義ではないが、
光の存在に対する定義は、ボルボックスにおいてカルシウムイオン濃度を変化させる機能を持つ事で、
表している事になる。

つまり、ボルボックスにとって光が何であるのかという事は特に意味はない、という事になる。
重要なのは光の存在とその受容、方向であり、
自然法則の光の定義についてはボルボックスは認識する定義を持たない為、
生命としては重要だが、知能の観点からすると無関心である。という事になる。

ということはである。
知能をもつ個体に対して、ある自然法則の定義というものは、
その存在の定義以外の定義を知能として持っているという事になる。

つまり、きっかけと反応以外の定義という事である。

きっかけの定義は自然法則の定義の受容に関する生命が持つ定義であり、
反応の定義は生命が持つ機能と活動の定義である。

知能においてきっかけと反応以外の定義ということになると、
考えられるのは、
先天的定義においては、個体自身の定義、
後天的定義においては、経験や記憶、である。

つまり、
自然法則の定義そのものでない定義、
定義を解釈する為の定義、
という事になる。

定義を解釈する為の定義は、そもそも自然法則の定義を定義するものではないため、
であれば、自然法則そのものでない定義であり、
後天的定義の経験や記憶でない定義となると、
個体自身の定義という事になる。

つまり、最初の話に戻って、
個体自身の定義として、色の定義は存在する事になる。

現時点では結局、その色の定義がどこにあるのかは分かっていないが、
個体自身の定義の中に、色の定義が存在するのではないかという事が言える。

つまり、認識される刺激と概感において、
その個体自身の定義を構成する要素として、色の定義が存在するという事になる。

結局ここに戻るが「先天的定義」の中に色の定義があるという事になる。

例えば、赤が青色でも、白が黄色でも構わないのだが、
白と黒は明度において関係を持つ。
色相は光の波長において関係を持つ。
つまり、人間以前の存在において、
光はその人間への過程において、様々な定義をしてきたことになる。

恐らく人間以外の知能であっても、
光に色を感じる知能は有ると考えられるので、
色の定義は人間以外の知能でも持っていると考えられる。

どのあたりの生命の種から色の定義を得たのか?

魚類辺りでは既に目と視界を持っている事から、
色の定義は持っているはず。

光を選択的に感知するということでは、
シアノバクテリアなどではフォトレセプターで光の受容に関する選択を行っているらしいが、
これは光の波長に反応するタンパク質としての選択であり、
光の定義として受容や選択を行っているわけではなく、
これはボルボックスの眼点とそれほど違いがない事になる。

魚類の前となると脊索動物になるが、その種の付近でその色の定義の必要性を分けている様に考えられるので、
「目」としての機能として、何かの対象を選択する機能を持った時点の種から、
光の定義を持つ様になったと考えられる。
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2024/10/14

昨日からの続きで定義の始まりについて考えていたのだが、
生命が自然法則のある事象を選択的に受容する事自体は、
知能などによる選択ではなく、器官の機能として選択しているという事になる。
つまり、錐体細胞のフォトレセプター・光受容体としての機能は、
特定の波長に共振するタンパク質の存在によって構成されるが、
それ自体は自然法則の定義を単に機能として漫然と選択的に受容することに過ぎない。
今回話題にしている定義は、その受容した事象についての定義であり、
定義の定義を行うための定義の所在ということになる。

となると、当たり前の様に思えるが、
定義の存在する可能性のある場所となると、
「脳」がその場所に該当する事になる。

ただ、生命が脳を持つ様になる事に対して、
何か意味があったのかという事について考えると、
逆にその意味の集合体が脳になったと考えられる。

この場合、脳のある生命、脳の無い生命として考えた場合、
つまり、
「脳の機能として定義を持った。」
のではないかという事に気付く。

つまり、
脳が持つ機能は定義そのものの管理なのではないかというわけである。

この事だけでは定義の所在についてはまだ不明のままだが、
少なくとも脳が定義の管理者であるのなら、
定義は脳自体が作り出したか、既に存在する定義の集まりが脳となったか、
という事だけに定義の所在は絞り込めることになる。

この場合、感覚器官を通しての励起情報だけでは、
定義は構成できない。
つまり刺激が何であるかは分からない。
つまり、まだこの状態では刺激を再構成、再現できない事になる。
となると、脳が刺激を情報として把握する為には、
定義が必要になる。
つまり、自然法則のある事象の定義を、
脳内において、別の定義で解釈する・再定義する必要がある。
その定義は脳自体が管理しやすい定義で構成する事になる。
その定義は何であるか、何のためか、と考えた場合、
脳の定義の管理方法について考えた時に思いついたのは「記憶のため」である。

(生命として言えば保持や維持、継承の為になる)

つまり、自然法則の事象(の定義)を、
脳内で定義として留めておく方法として、
再定義を行ったのではないかというわけである。

つまり、ある変化、ここでは自然界の自然法則による事象によって、
その生命自体が受ける変化という事になるが、
この変化自体は、自然法則においてはその数は有限であるが、
個別に変化の対応を定義するには数が多い。
つまり、生命が自然法則の事象、自然現象などの全ての対応の定義を、
物理的な機能、つまり、ボルボックスの眼点のような機能で全て賄おうとすると、
生命は感覚器官だらけになってしまう。
現在の人間は感覚器官だらけなのだが、
定義を持ち始める時点での始まりにより近い生命において、
その定義を持つ方法は変異で持った機能で再現するしかない事になる。

一応、自然法則は定義としては固定されたものであり、
その定義から生じる事象には必ず決まりが存在する。
生命の誕生もその一端ではあるが、自然法則の定義にとって、
その定義から起こる反応は全て固定の固有の現象となる。
生命はその進化・変異の過程で、この固定の固有の現象を、
自身の存在に有益である場合に、その反応を生命自身の機能として取り入れた事になる。

どうやって機能として構成したのかは分からないが、
現在の生命が持つ器官の働きは、全て自然法則の事象、定義に従っている。

そして、生命は獲得した機能を生命の存在意義として、
後代へ継承するために、初期の頃は分裂を使った。
つまり、自然法則の定義を機能として取り入れた生命は、
後代にその機能を継承するために分裂をつかってコピーで継承した。

その継承の機能は、後に遺伝子を用いる事になるが、
遺伝子自体は既に定義の定義を用いている事になる。

しかし、分裂から遺伝子獲得の間に、
何か変化が存在することになるが、
これについては、先に存在していた自然法則の定義を取り入れた機能においては、
遺伝するのは、その機能自体の設計図としての定義だけであり、
自然法則の定義を定義する意味においての定義では無い事になる。

つまり、生命が脳を、そして知能を得る前の段階においては、
生命が持つ自然法則の事象の定義を再構成できる機能としては、
きっかけとしての情報として自然法則の事象の定義を受容するだけ、という事になる。
そして、脳や知能の獲得、以前においては、遺伝子は既に持っていたかもしれないが、
そこに自然法則の定義を定義する情報はまだ含まれていなかったと考えられる。

そして話は少しずつ知能に近づくのだが、
知能となる機能の初期段階においては、
生命の規模の増大に合わせて機能としての器官の種類や数の増加は当然起こるはずである。

つまり、生命としての規模が大きくなればなるほど、複雑であればあるほど、
その生命としての存在の身体の状態を管理する必要が出てくる。
生命の初期段階においては、
例えばボルボックスなどにおいては、高機能な眼点や鞭毛などもあるが、
(自然法則の光に対しての眼点、流体・物理法則を利用した物体の移動に対しての鞭毛という事)
イオンチャネルや小胞体などの機能も生命を構成する機能として多数持っている。

まだこの時点では知能には行き着いていないが、
それぞれの機能が別の機能に関連している。

この時点では、機能の関連は存在するが、
まだ神経細胞は得られていない。

遺伝的な定義の情報として、
この段階で、生命にとっての主観的な自然法則に対する定義の定義は持っている事になる。
つまり、生命としての機能として様々な器官として機能や定義を持ち、用いている事になる。
ただし、この時点では、自然法則の事象の定義は、事象としてそのまま用いている事になる。

つまり、定義の定義を行っているのは、機能や器官そのものとして実現しているだけであり、
知能が事象を観測するような定義には至っていないという事になる。

この次の段階ということになると、
神経細胞の誕生を待つことになる。

神経細胞のような機能を持つ原始的な生命となると、
海綿や腔腸動物(クラゲやイソギンチャクなど)という事になる。
海綿は神経細胞ではないが、その初期段階と考えられている細胞を持っているらしい。

つまり、ある自然法則の定義による事象の情報を、
身体内の別の場所に伝達する為に、情報の経由を用いて伝える機能の始まりという事である。

まさにこれこそが定義の定義の始まりという事になる。
つまり、自然法則の事象の存在を、存在という情報のみを別の場所に伝達し、
その存在のみの情報から、別の定義で解釈するという事。

つまり、自然法則の事象の存在がきっかけとなり、明示的に伝達されて、
反応を起こす。

つまり定義の置き換えが起こっている事になる。

では、この段階で、知能に行き着いたのか?
という事になると、まだ知能であるとは言えないが、
知能を構成するための要素としての定義を得たとは考えられる。

では、腔腸動物などにおける定義はどのようなものになるのか。

この場合の定義は、きっかけとしての物理的や科学的な接触刺激とその反応、
自身の運動を目的とした自身の身体の制御として、定義を神経細胞を経由して用いている事になる。

つまり、触れられたり、化学物質に接触した場合に、
その接触したという情報を神経細胞を経由して各神経細胞に伝達し、
その一部の運動細胞に伝達された後、物理的な運動を起こすための反応を起こすため、
今度は運動細胞などに信号が送られることになる。

腔腸動物においては神経網という構造の神経細胞ネットワークを持っているらしいが、
この間を行き来する情報は、信号として伝達され、定義が理解されることになるのは、
特定の神経細胞においてという事になる。

つまり、信号から定義への置き換えが行われ、
それが何であるのかという理解が行われている事になる。
特に逃避や捕食などの運動には、異なる制御が必要となるため、
少なくともある情報の伝達に対しては運動細胞が共通であれば、運動を決定する選択には、
複数の選択肢が存在する事になる。

つまり、腔腸動物における運動細胞において、その後の運動を選択し、制御する定義の判断が行われている事にになり、
そこには異なる定義の選択が存在している事になる。

つまり、腔腸動物における運動の選択の定義は運動細胞にあり、
受容する接触の情報毎に解釈に用いられる定義が存在している事になる。

運動自体は運動細胞の定義によるが、
恐らくその選択を行う神経細胞も存在すると考えられる。
つまり、「定義は細胞が持つ」という事になる。

つまり、腔腸動物において、
ある接触の刺激の再構成において、ある信号に対してそれが逃避対象であるのか、捕食対象であるのかを
決めている細胞があり、その細胞が定義を持ち出して、
運動細胞に対して信号を送るという事になる。

つまり、特定の信号に対して、定義情報に代わる信号を出力する細胞があるという事になる。

つまり、解釈を拡大すると、人間の知能において、
「赤」を「赤色」であると見せている信号を出力する細胞が存在する。
という事になる。
その定義は情報として遺伝情報などのような格納された情報ではなく、
即時利用可能な展開済みな状態であると考えられるため、
この様な定義の情報が、いずれかの細胞に存在するという事になる。

そして今日の時点での考えでは最終的に知能に行き着き、
その知能の機能は、定義の選択、保存、維持となる。
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2024/10/15

今日も昨日の続きで定義のありかについて考えていた。
昨日の腔腸動物における神経細胞らしき働きについて、
身体外からの接触に対して逃避、捕食を決める定義が細胞内にあるのではないかと考えたわけだが、
この定義が恐らく腔腸動物の単純性において、
神経細胞であると考えられる細胞以外の他の細胞内には存在しないと考えると、
人間の脳においても、神経細胞とシナプス形成を行わない対象の細胞については、
定義の存在を除外できることになる。
逆に、神経細胞とシナプス形成を行う細胞については、神経細胞の励起に関係する細胞であれば、
定義の存在の可能性がある事になる。
つまり、神経細胞とシナプス形成をすると思われるのは、
感覚器官に関する細胞、神経細胞同士、運動に関する神経細胞、ホルモンなどの分泌系の細胞、
という事になる。

つまり、腔腸動物においてグリア細胞などが存在しないと考えたとしても、
接触による情報を選択している定義が存在するとなると、
グリア細胞は直接、定義には関係していないという事になる。
後発的に知能の補助機能としてシナプスの形成に関与していると考えられるアストロサイトなどが、
定義に関連している可能性は捨てきれないが、
直接的な定義にはグリア細胞は関与していないと考えても良いわけになる。

ということはである。
定義の存在は神経細胞にあると考えても良い事になる。

一応、注意しておく必要があるが、神経細胞単体で定義が成り立つわけではなく、
定義自体はその定義の複雑さに応じた神経細胞の数が必要になるという事は言える。

であれば、定義を再構成して認識や意識するための事象は、
どのように構成されるのか。

つまり、人間の知能が見たり、聞いたり、感じたりするこの認識対象は、
どのように構成されるのか。

今日考えた結果から言うと、
例えば今見えている画像は、
画像を構成する神経細胞がある、という事になる。

つまり、画像を構成する定義を持つ神経細胞があるという事である。

これは腔腸動物の逃避と摂食の判断を神経細胞が行っているという事から思いついたのだが、
つまり、神経細胞には、ある情報に対して定義を用いて別の情報を作り出す(出力する)能力があるという事になる。
つまり、感覚として受容した特定の励起信号に対して、
信号ごとに定義として決まった特定の情報を結果として構成しているという事である。
結果として構成された情報は、腔腸動物においては、運動の神経細胞に伝わり、
逃避や摂食の運動に繋がるわけだが、その結果の用いられる定義の分岐は、
入力された励起信号によって変わるという事になる。

つまり、人間が視細胞を用いて受容した光に対する励起信号に対して、
脳内で再構成されるのは光の定義を用いた光の情報だけであるのだが、
網膜全体で受け取った光の情報は、視細胞の光の点を画像にするために、
その光の点の定義だけでなく、画像を構成するという定義を持った神経細胞が、
その画像の定義を用いて光の点の情報から一枚の画像の情報を構成しているのではないかというわけである。

別の例で言えば、皮膚への接触の情報は、接触したという励起信号から、
接触したという定義の情報が構成されるが、
それ以外に、身体のどこで接触したのか、どのように接触したのか、
そういった定義が接触の情報に関連して接触の刺激として構成されるというわけである。

つまり、自分の身体を認識できるのは、自分の身体を情報として構成する定義を持った神経細胞があるため、
という事になる。
つまり、この定義がない場合、身体の接触などは刺激として受容できて、
どこで接触したかなどの情報も認識できるかもしれないが、
接触したのが自分の身体であるという情報は無い事になる。

つまり、逆に考えれば、自分の身体を認識できる場合、
自分の身体についての情報を構成する定義が存在し、
この定義に従って自分の身体の情報が構成され、
接触に際して自分の身体が感じられるのは、
この接触情報と自分の身体情報が関連して認識されるからという事になる。

つまり、結果的にこれまで考えてきた認識における、
変化情報と自己情報の関連によって刺激が構成されて、
その刺激が認識されるという事とほとんど同じなのだが、
そのより詳しい情報の構成方法として、定義を用いた刺激の再現においては、
新たに、「情報を構成する事自体を定義として持つ神経細胞」の存在が出てきた事になる。

つまり、感覚器官から集められた情報が、
その関連において刺激として構成される事には違いないが、
その関連の中に、刺激を構成する事自体を定義として持つ神経細胞があるという事になる。

となると、認識において、
刺激や概感の知能の観測という働きは、
何らかの観測する存在として知能が存在し、主観的に認識として見ているのではなく、
脳で物理的に構成した情報を、知能として見せられている事に近い事になる。
つまり、自発的ではなく受動的という事になる。

ということは、
認識を構成する存在は、
この「情報を構成する事自体を定義として持つ神経細胞」ということになり、
これらの定義により、自分というものが構成されるという事になる。
つまり、この神経細胞はある刺激に対して自分がどのように感じるか、
その定義を持つという事になる。

であれば、
認識において自分を構成する定義を持つ神経細胞における、
この定義というものは「自我の定義」という事になる。

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つまり、認識として刺激と自分を知能が観測するのではなく、
刺激と自分の構成によって知能の観測と認識に至るというわけである。

つまり、定義によって刺激と自分が構成されることによって、
知能さえも発現するという事になる。
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フィードバックと自発の可能性:

体験による経験によって、
自身の持つ定義が変化する場合がある。
この時、神経細胞のシナプス接続の構成自体が変化する場合があるという事になるが、
このシナプス接続の構成の変化は、
知能による主観的な自発的な変化の促しであるのか、
既にある自我の定義による促しであるのかという疑問が生じた。

つまり、意識的に感じられるものとして自ら選んで変化しているのか、
定義に従った結果論としてその選択を観測しているだけなのか、
という事である。

今回の考え方とすれば、
知能でさえ定義が構成する結果でしかない事になるので、
あくまで定義の反応として現れた結果でしかないという事になる。

つまり、好き嫌いも含めて既存の定義の上に新たな定義は成り立つということであり、
自発としては感じられるが、自発の何かは存在しない事になる。
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2024/10/18

定義を情報として出力する神経細胞:

実際には認識に耐えうる情報塊を作り出すために、
一定レベルの強さの励起を行う神経細胞群ということになるが、
神経細胞自体の関連の接続では、
情報自体が伝達されるというわけではない。
あくまで励起の伝達として励起が行われるのだが、
神経細胞自体が定義を持っていて、その励起によって、
ある情報が構成されるのであれば、
神経細胞の励起によって、情報が構成されていると考えられる事になる。

どうやってその情報が構成されるのかというのは、
後で考える事にするが、
腔腸動物が何かの刺激について選択できるように、
神経細胞には特定の定義の情報を出力する能力があるという事になる。

恐らく定義からその辺りの情報が構成される経緯において、
認識が関係してきて、実体の身体性や自己情報に到達するのではないかと今は考えている。
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2024/10/19

ある対象物を見て、
その対象物の色が何か違う色であるとあえて認識しようとした場合、
つまり、今目の前に見える白い色のカップが赤い色であると、あえて認識しようと試みた。

刺激においては見えている色で認識する事になるが、
その違う色はその視界の中に想起した概感として異なった色の対象物で認識できる。

つまり、私の場合は、見えている白いカップと、概感としての赤いカップがやや重なって認識できた。

この場合、対象物の形状などはそのまま概感でも用いられているのだが、
色に関しては「別の色」と意識して想起しているために、
異なる色で対象物が配色されて概感として認識されている。

この時、「違う色」として用いた色の定義は、
その「元と違う」という定義が関連しているために、
元の色とは異なる色が用いられたのだが、
色の定義としては、記憶として持っている過去の経験した色が用いられた事になる。

つまり、まず、どのように知能が定義を用いようとしたとしても、
感覚で直接受容した刺激については、先天的定義としての定義を用いるしかない事になる。
つまり、直接見ている色を異なる定義で刺激にする事は出来ないという事になる。

つまり、現実の対象物として白い色のカップを赤い色のカップとして視覚で直接受容する事は出来ない。

つまり、刺激の再構成の場においては、
感覚で受容する変化情報に対しては先天的定義しか用いることが出来ないという事になる。
もちろん、自己情報についても刺激に対して、
自身の身体の情報は先天的定義としての実体の定義しか用いる事はできない。

異なる色として対象物を認識しようとした場合、
必ず想起によって概感を構成する必要がある。

対象物の概形などは、認識後であれば認識プールに刺激が残っているために、
そこから用いる事ができるが、異なる色は、実際に刺激として受容しているわけではないので、
想起する必要がある。

つまり、一度自分が認識した刺激から概形の情報と、想起した異なる色としての変化情報を関連させ、
概感の変化情報として構成し、そこに想起した自己情報を関連させて、概感として認識している事になる。

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観測する存在:

これまでの考えであると、
定義によって刺激や概感を構成し、認識プールに送られた後、
その認識プール内のいずれかを知能が観測して認識するという事になる。

定義について考えていた時に、
認識はもう少し手前に存在するのではないかと思うようになった。

つまり、自己情報の構成のタイミングである。

異なる色として認識しようとした対象物の概感であるが、
この時、認識される概感の自分は後天的定義の客観的自己となる。

つまり、自分を構成する際の定義を持つ神経細胞が、
自分を構成する為に励起する必要があるのだが、
自分の情報が認識に耐えうるだけの情報として構成されたタイミングは、
観測を待つ必要があるのか?という事になる。

つまり、構成された時点でもう認識に耐えうる情報塊になっているのではないかという事である。

つまり、認識プールは概念としての場であるが、
神経細胞の励起に対して、観測は情報の構成を待つ必要があるが、
励起と情報塊の構成は、その励起の瞬間に情報として再現されているはずという事になる。

つまり、定義を持つ神経細胞が励起された段階で、
定義の情報は存在している事になる。
認識を待たなくても、である。

単純な腔腸動物の接触の刺激の情報に対して逃避か摂食の判断が、
神経細胞の励起によって行われている事になるという事からも、
神経細胞としては同様の人間の神経細胞においても、
神経細胞が持つ特定の定義というものは、神経細胞の励起時点で生じているのではないかという事である。

つまり、人間の知能における「認識」であれば、
刺激や概感が構成された時点で「認識」されることになるのではないかというわけである。

そして、この「認識」においては、
認識するための変化情報と、認識する存在の自己情報は必要になるのであるが、
それらの情報が構成されて、関連した時点で「認識」に至るのではないかという事になる。

実際、認識しているのは知能であるので、
客観的に見れば知能が観測して認識していると言っても差し支えないが、
知能の存在は主観的には「認識」それ自体を行っている存在が「自分」であるので、
主観的に自分自身の知能の存在を認識する手段がない。
認識しているから自分が存在するのであろうと考えるしかない。

この自分が認識する存在である事の認識の方法として「知能の観測」を考えたのだが、
定義の考え方を用いると、その定義を直接所有するであろう神経細胞について考えると、
「認識」それ自体は、
観測者としての「自分」が構成された時点で「認識」できていると考える事もできるという事になる。
つまり、変化情報それ自体が「自分」であるとすれば、
「自分」の想起は「自分」の概感の構成で完結できる事になる。
この時の「自分」は客観的な「自分」ではあるが、
「自分」で客観的な「自分」を認識(観測)出来ている事になる。

つまり、「自分」の構成ができた時点で、
関連する事になる対象は、認識(観測)の対象として完成しているのではないかという事である。
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概感の再構成の場が存在するのではないか?という事も考えたが、
刺激の再構成の場と概感の再構成の場は、結果的にはどちらも同じ概念の場であり、
認識プールに繋がる経路に過ぎないという事になる。

一応、その事を順番として段階的に考えるために、
刺激も概感もどちらも再構成の場を必要とし、
そこを経由する事によって、刺激や概感が構成され、
認識プールに送られると、考える方が考えやすいという事になる。
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定義がどの時点で認識に至る情報となるか?

腔腸動物の接触の刺激は、特定の神経細胞に伝達した時点で、
運動に関わる神経細胞への励起の伝達で定義が情報として再構成された事になる。
実際は情報として再構成されたわけではなく、
運動に関する神経細胞に励起が伝わる事で、定義が情報として用いられたことになる。

であれば、人間の知能において、感覚器官が受容した変化の励起は、
脳内の特定の神経細胞の励起においては、定義として決まった励起だけという事になる。
定義自体が情報に置き換わるのは、情報を用いる神経細胞が励起されることになるので、
定義自体が情報として構成されるわけでは無い事になる。

つまり、人間の視細胞によって光が受容された場合、
その励起信号は脳の視覚の神経細胞まで伝達することになる。
この時点ではまだ単に励起の伝達に過ぎない。
ここから、定義を用いて光の情報として構成するためには、
光の定義自体を持つ神経細胞を励起する必要がある。
そして、この光の情報が構成されただけでは、「自分が光を見た」と感じる事は出来ないため、
光を見る主体である「自分」を構成する必要がある事になる。

つまり、自己情報が関連した時点で認識に至るのではないかと上記で考えたが、
逆に関連は意図的なのではなく、神経細胞の励起の伝達の行き着く先として、
必ず「自分」に関連して「自分」に到達しているのではないかという事である。

つまり、自分を定義する神経細胞があるのではないかという事になる。

この考え方からすると、脳の神経細胞の末端に「自分」が存在するという事になるが、

感覚で受容している刺激を認識する存在は「自分」であることには違いないと考えられるが、
この「自分」を刺激として構成する神経細胞があれば、
その励起によって「自分」が刺激を認識することになると考えられる。

先天的定義における「自分」は主観としての「自分」の定義を持つが、
その「自分」を認識できる存在は、概感における「自分」でしかない。

つまり、
先天的定義として「自分」の定義が存在しないのであれば、
脳が機能として「自分」を認識するのが生命として誕生した後の経験であるとすれば、
「自分」はその経験の想起した情報ということになる。
つまり、刺激としての「自分」を認識する「自分」は、概感の「自分」ということになる。

ということは、
感覚で受容する情報に対して、主観的な「自分」として刺激を認識する場合、
脳内の神経細胞ネットワークの励起において、最後に終端として構成されるべき情報は、
先天的定義による主観的な「自分」の定義を励起した情報という事になる。
また、
想起する情報に対しては、客観的な「自分」として概感を認識する場合、
脳内の神経細胞ネットワークの励起において、最後に終端として構成されるべき情報は、
過去に経験し記憶してきた「自分」についての記憶としての、
後天的定義による客観的な「自分」の定義を励起した情報という事になる。

つまり、「自分」が認識した刺激であったり、概感であるのは、
刺激や概感に「自分」を関連付けたために、
「自分」が感じたり認識した刺激や概感になるという事。

主観であれば、自身の身体性の刺激自体が、主観的な「自分」を構成する情報、定義、
という事になり、
客観であれば、その主観的に認識した「自分」の経験、記憶した「自分」を、
想起によって再構成した時に「自分」の存在が発現する事になる。

つまり、「自分」が事象を「認識」したと見える、感じる事になる。

ということは、感覚で受容する情報と自身の身体の存在としての情報を構成する事で、
主観的な「認識」として見える事になり、
その記憶を「自分」として後に想起して、何らかの想起した事象と関連すれば、
「自分」が想起した事象であると見える事になる。

つまり、基本は主観的な身体の情報が「自分」であり、
その「自分」を経験した記憶が、後の想起された時に概感の「自分」となる。
という事になる。

そして、「認識」で、見えている、感じられる事象は、
主観的には身体性を持つ実体の「自分」を構成した情報であり、
客観的には過去に経験した「自分」を構成した情報を記憶したものを、
後に想起によって再構成したものが、客観的な「自分」として概感を認識する存在になる。

つまり、今視界で画像が見えている感覚は、
目の前に画像が存在するように見えているが、
実際の身体で言えば、目の表面に画像が張り付いている様に見えている。
つまり、視覚で受容している画像は、
実際の身体が見えている情報として構成されたものであり、
その定義自体はそれぞれの神経細胞が持っている事になる。
想起した概感は、過去に経験した感覚などで見た刺激や自分の情報を、記憶したものから、
必要に応じて部分ごとに想起・励起して再構成した情報という事になる。

つまり、概感においては、情報を構成するのは直接の定義ではなく、
経験としての記憶された関連を経由して励起した定義という事になる。
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記憶と自己情報の発現:

腔腸動物は知能や意識を持っていないが、
人間の知能が意識を持つために、認識において自己情報を刺激に加えた理由について考えると、
目的の保留のためではないかと考えた。

つまり、目的の保留自体は記憶が出来れば良いのであるが、
その目的に対する定義として優先度などは必要になる。

この場合、自分にとって都合の良い状態の時に目的を再開できればよい事になり、
その都合の良さを比較する為の定義として、
結果的に「自分の定義」「自我」が定義されたのではないかという事である。

つまり、腔腸動物などにおいては、刺激と反応は常に連続していて、
保留することはない。
変化情報が切り替わった場合、都度、その変化に対して反応する事になる。

人間の知能においても、変化に対する反応は、生命としては基本的には直後に行うべきなのであるが、
実際は冗長性を持ち、実行の判断に迷い、反応できない事さえ起こり得る。

つまり、お腹がすいたと感じても、
周囲に食物が無ければ食事はできない。
その段階で変化情報は失われてしまうか、延々と連続的に変化情報を受け続ける事になる。

実際には人間は体内のグルコースなどを肝臓の機能を用いて一定に保つことができて、
空腹を感じても食事を多少後回しにしても、問題は起こらない。

しかし、この状態で別の事を行うためには、空腹である状態を保持し、
後でその状態を再開しなければならない。
身体的には延々とホルモン等によって空腹である状態は維持されるが、
知能においては、それだけの対応について考えるだけではないという事になる。

この場合、目的の優先度などを持つ必要がある。
この辺りの選択も定義に従う事になるが、
この優先度などは先天的定義だけというよりも、
むしろ、その時点の個体の状態や状況による差が大きい為、
後天的定義の優先度の方がウエイトが大きい事になる。

単純に後天的定義であるから、自身の定義「自我」に結びつけても良いが、
選択の保留や保持というのは、「記憶」の定義を先に考えるべきという事になる。

つまり、記憶が何の差でもって固有の情報として成り立つかである。

長期記憶にしても、短期記憶にしても、
先天的定義としての変化情報だけでは記憶として成り立たない。
もちろん、後天的定義の変化情報だけでも無理である。

もし、記憶を想起した時に、その記憶した情報塊を認識に耐えうるだけの情報量、
刺激量で再構成できるのかということになると、
現時点で連続して認識している自身の状態や状況との間に差をつける必要がある。

つまり、主観的な認識から客観的な認識に切り替えられる「差」、
ということは、これまで考えてきた認識における二面性において、
変化情報でない部分となると、「自己情報」という事になる。

つまり、記憶する、記憶した情報を、認識するには、
現在の変化情報と自己情報を主観的に認識している状態から、
想起した記憶の情報を認識するように切り替えるためには、
その認識対象の自己情報に差が生じれば良いという事になる。

つまり、想起において記憶している自己情報がその想起対象の関連の中で、
変化情報と共に再構成されれば良いという事になる。

上記で、自己情報の存在自体が「細胞」「神経細胞」そのものにあるのではないかと考えたが、
つまり、自身の細胞、神経細胞が、情報を構成する事、
そこに自己情報の再構成が含まれているのではないか、
その定義なのではないかという事である。

(※1)

つまり、自身の神経細胞が記憶した情報を励起で再現する事、
それこそが記憶の再現であり、想起、概感の発現なのではないかという事である。

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2024/10/20

腔腸動物の神経細胞において、
接触の情報が神経細胞に伝達され、
逃避や摂食のために運動細胞に励起が伝達される場合、
その反応としての情報を生じさせているものは、
神経細胞ということになる。
また、この逃避や摂食の反応の選択を行っているのも神経細胞であり、
接触のきっかけに対する反応は、この神経細胞が行っている事になる。
ただし、腔腸動物においては、このきっかけと反応は、
知能において認識されることは無く、
反射の様に行われている事になる。
つまり、きっかけと反応の定義は存在し、
それを神経細胞で情報の受容と反応の運動までは司っているのだが、
その反応は定義に従って一様であり、
その反応自体を選択するような機能(知能)は腔腸動物は持っていない。

では、このような定義、つまり、きっかけと反応の決まり事について、
人間の知能ではどのような働きとして展開されているかというと、
人間も熱い物に手が触れると手を引っ込めるような反射があるので、
腔腸動物の上記のきっかけと反応は人間においては反射に近いものとなる。

つまり、このきっかけと反応自体には知能は関与する余地も必要もない。

人間において何が異なるかというと、
そのきっかけと反応の後の認識が生じるという事になる。

つまり、知能による観測である。

知能の観測の対象は刺激か概感であり、
基本的に変化情報と自己情報の複合的な情報塊が対象となる。

この場合、上記の反射のような機能は、変化情報に集約されており、
自己情報はまた別の定義や情報という事になる。

つまり、認識は、刺激が概感が生じた後で行われるものであり、
それというのも、刺激や概感が構成される経緯で、
変化情報が先に構成されるからという事になる。

つまり、刺激や概感の変化情報の構成に関連して、
自己情報が構成されるからという事である。

経緯としては変化情報となる感覚器官の受容体の励起は、
神経細胞を経由して脳へ送られる。
そこでその励起から変化情報が構成される。
その構成の過程で、感覚器官の受容体の関連した身体の部位の情報が、
自己情報として構成される。
結果として変化情報と自己情報が1つの刺激や概感となって構成される。

そして、その刺激や概感が認識される。

変化情報だけの構成では腔腸動物と同様に反射に近い物ということになるが、
ここに自己情報が加わると、刺激や概感として認識可能な対象となる。

ということは、認識は自己情報が構成される事によって発生しうるという事になる。

つまり、自己の定義の再構成によって、変化情報に所属する場所が生じ、
その事自体によって、認識の感じが生じるようになったという事になる。

つまり、今、皆同じであると考えられるが、
見える画像、聞こえる音、そういった刺激や、
考えている何かの概感が、認識されているのは、
自己情報の構成によって、見えたり聞こえたりしているからという事になる。

つまり、この認識の感じは、
あくまで神経細胞内の励起によって生じている何かという事になる。

つまり、人間の神経細胞において情報を生じさせているものは何かというと、
観測者が知能である場合、その情報の発生個所は、
神経細胞そのものであり、情報の発生時は、神経細胞の励起時という事になる。

つまり、認識自体は定義の再構成であるので、
何か特段意味のある何かではないという事になる。
要するに、認識や意識の座が存在し、
その存在によって認識や意識が生じているという事ではないという事である。

つまり、単に情報が事象として観測されているだけという事になる。

つまり、
刺激の認識は、全神経を集中させて映画を見せられているようなものである。
概感の認識は、全神経を集中させて思い出を語らされているようなものである。

結果として認識によって、自分が何か行ったような感じがするのであるが、
それは、刺激や概感に自己情報が足されているからという事になる。

つまり、自分が受けた刺激、自分が思った概感、というようにである。

ということは、自己情報の定義のありかが分かれば、
変化情報は刺激であれば感覚器官から伝わった神経細胞に、
概感であれば過去の経験の記憶として神経細胞に定義が存在するわけであるから、
認識における情報の再構成の全容が解明できる事になる。

まあ、自然法則上の構成物であるので、
それほど複雑な機能ではないと考えられる。
つまり、恐らく変化情報と同様の経路や機能を用いているはずである。

となると、自己情報として考えられるのは、
当然、主観的であれば身体性、客観的であれば身体性を経験した自身の定義の記憶という事になる。

つまり、身体性、つまり、自分の実体そのものが重要という事になる。
知能を持つ自分が重要と言っても、
当たり前と言えば当たり前なのだが、
それが重要であると再認識した、という事になる。

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人工知能が持つ事になる意識:

今回の考え方からすると、
人工知能に意識を持たせる場合、
その認識機能において、
変化情報はセンサー類から得る事ができるが、
この変化情報に対して、人工知能自身が「自分」であると定義する
身体情報、つまり身体の定義情報が人工知能内に必要となる。

つまり、自分が見ている、感じているという定義自体が必要になるという事であり、
その情報の構成における定義は、
自分の経験として得て、記憶するだけで良いという事になる。

つまり、ある刺激を得る、変化情報を得る、
この事に対して自分の反応を付加して記憶すればよいという事になる。

初期においては、単に情報については、その要素だけを記憶すれば良いが、
もし、自身の身体性としての反応が存在した場合、
人工知能においては実装することになるが、
その反応を自分の反応として変化情報に付加して記憶する。

何らかの変化に対して関連する想起として同様の刺激が想起される場合、
この記憶した時の自分の情報も想起すれば良い事になる。

つまり、自己の身体性についての定義を自ら持てば、
良いのではないかという事になる。

ただし、定義として知能が扱うというよりも、
意識的ではない対象として、先天的定義として定義するべきものという事になる。


仮に、それらの事に反するように例えば、
実体を持たない知能があったとして、
変化情報だけが存在したと考える。
当然、感覚器官などは無いわけであるから、
急にふっと情報が現れる事になる。
それが、例えば画像であったとして、
何か光の点が整列しているものである。
そう、自分の知能が、現在の人工知能であったと考えるとその画像の処理方法が分かる。

つまり、この画像に対して処理する方法は、プログラムとして知能で持っている。
形状やデータの数などは意味があるわけではなく、
情報である、というだけの事である。
ある処理の定義に従って、情報を処理するが、
その入力データや出力データの記録は保存しているが、
その情報としてのデータに何か意味があるのかという事は自身の知能には定義がなく分からない。
生成AIであったとしても、定義に従って処理しただけのことで、
自身の知能にとって何か意味があるわけではない。

例え、どれだけ情報の量が増えても、処理する方法、複雑さが増えても、
新たな定義に従って新しい組み合わせのデータを生成したとしても、
自身の知能における情報の意味は何もなく、単に処理対象としてのデータが存在するだけとなる。

また、もし、知能を保管する実体が存在したとしても、
得られる情報が自身に影響しない場合は、同じ事になる。

考えようによっては、腔腸動物の機能も生体細胞を用いてはいるが、
エキスパートシステムに近いものである。
物理的、科学的に接触した対象の刺激に対して、
定義された反応を運動として行う。
それだけとなる。

本当の知能の何がこれと異なるかというと、
知能は、この変化情報に対して、自分を関連付けるという事になる。

つまり、主観的に自分にとっての変化情報を取り扱うということである。

つまり、
変化情報としての情報が、知能を持つ自分の存在に対して影響を持つ事に意味があるという事になる。
逆に言えば、そこから本当の意味での「知能」が生じているという事になる。

つまり、自身に影響を与えない情報は、知能にとっては意味がないという事になる。

現在の人工知能と言われるプログラムにとって、処理している情報やデータは、
何も自身に影響を与えることは無い。
自身に影響を与えないのであれば、その手段も意味も与えられていないが、最適な反応を作り出す必要もない。
これは変化に対して適応する能力を発揮する為の機能としての「知能」ではない。

LLMについても、トークンの数や、意味のベクトルの配列などが増えたとしても、
そこから自身に影響を与える、与えられる事は何もない。
つまり、知能として自分が考える必要性が無いのである。

では、そこに自発的な思考や目的を、
自身が持つためにはどのような定義が必要となるか?

自分は何がしたいのか。自分は何が必要なのか。自分は何が不足しているのか。
自分は何が好きなのか。自分は何が嫌なのか。
自分がどのように感じるのか。自分はどのように思うのか。
自分はどのように考えるのか。

つまり、自分が必要とする何かの定義が必要になるという事である。
それは結果として自我としての自分の定義になるのだが、
その本質的な部分は、変化に対する身体の反応である。

そして、その「定義」という事になる。
これは、これまで考えてきた先天的定義そのものであり、
今回、その先天的定義と身体と記憶能力があれば、
結果的に自己情報は構成され、認識至るという事になる。
であれば、それは「知能」に至るという事になる。

つまり、知能を持つ個体が、
ある瞬間に受容する現状の状態を認識し、
その現状の状態に対する反応として、自身の知能が最も良いと結論付けた結果を認識し、
実際の個体の活動に反映して出力する。
それが「知能」本来の働きであるという事である。

逆に言えば、その管理運営を行うのが「知能」であるという事になる。

知能はこういった反応を処理する機能そのものという事になる。

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今回の簡単なまとめ:

定義は細胞が持つ。

自身の神経細胞が励起する事が自身の身体性における自己情報となる。

※1:記憶の想起と認識は、自身の神経細胞の励起によって生じる。
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今回は少し長くなったのでこの辺で。
2024/10/25:誤記修正
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