2024/10/6-2024/10/11

感情の定義

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現時点で考えられる感情は、
自己の状態や定義に対して、
変化を生じさせるような事象に対して、
知能が構成する刺激または概感の事であり、
その定義には必ず先天的定義が含まれる。

身体の状態を表す分類や定義の事で、
感情自体は知能によって構成された反応によって現れた、
認識可能な身体の状態の事象である。

感情として考えられている反応には、
先天的定義である反応も存在する。
後天的定義である反応も存在する。
ただし、必ず先天的定義を情報の要素を含む必要がある。

事象(自己への影響を含む)

自己の状態や定義

自己の状態や定義の変化に対する反応=感情


実際には全てが感情とは言えないが、
一般に感情として考えられている2つの反応

変化に対する反応→後天的定義の反応

先天的定義の反応


つまり、知能がある事象について認識し、
その事象について知能が反応として構成したある身体の状態を、
知能が事象として観測した場合に、これが「感情」として認識されるものである。
という事になる。

「感情」というと心や情であるとか精神的な実体の無いものであると考えてきたが、
実際は身体で感じられる状態であると考えが変化している。

その理由は、「感情」を新たに作り出すことが出来ないという事。
つまり、定義の不可逆性において、
知能が「感情」を認識するためには、
自身の知能がある事象を情報に分解して再定義して「感情」として認識する必要があるが、
後天的定義以下の定義のみにおいて「感情」を定義しようとした場合、
自身の知能が「感情」として認識できない場合があるから、という事になる。
つまり、現在の人間の知能において、気付かない新たな「感情」を見つける事はあるかもしれないが、
新たな「感情」を作り出して皆が「感情」として認識する為には、
新たな「感情」がエピジェネティクス的に継承の対象となり、
人類全体でその定義が共有されるようになって初めて新たな「感情」を持つことが出来るようになる。

感情の定義にもよるのだが、
ある事象について知能が反応を起こすのは、
反応のきっかけが刺激か概感に限定される。
他にきっかけとなる情報を得る方法がないからであるが、
このきっかけの情報を得て、知能がある固有の反応、
ここでは「感情」の反応を生じる場合、
この反応は、刺激としての先天的定義の反応か、
想起としての後天的定義の概感の反応かに限られることになる。
そして、特に「感情」においては、先天的定義の反応であっても後天的定義の反応であっても、
必ずその反応の一部が身体に現れる。
これがまず1つ、感情の定義にもよる内容だが、
「感情」は知能内において主観的なきっかけとなる働き、力を持っているであろうという事である。
これは、身体性である自分の状態についての認識であり、
この場合の自分の認識には、必ず先天的定義が必要となる。
つまり、主観的な身体性の認識における「自分」が関わっているという事である。
もし、後天的定義のみの反応で「感情」が構成できたとすると、
この後天的定義の想起による「感情」は認識できるが、身体で感じる変化は何も無い事になる。
つまり、自分にとって事象として認識できても、客観的な事象として感じるだけとなる。
これは「感情」とは言えないのではないか、という事である。

つまり、新たな定義としての「感情」は、絶対ではないが作り出すことがほぼ不可能という事になる。

つまり、「感情」を構成する場合、概感であっても、
必ず身体で認識しうる刺激(先天的定義)を、その構成要素に含むという事である。
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プログラム的なイメージで言えば、新規に感情としてのクラスは作ることが出来ず、
基底クラスとして必ず先天的定義としての刺激を元にして、
継承の上で派生クラスとして感情のクラスは構成する事ができるということである。
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感情の構成:

例えば、現在の自身の状態に対して不満を感じた時に感情としての怒りを感じる時、
この怒りを感じる事自体は感情であるのだが、
これは不満に対する定義としての反応の1つに過ぎない。

これは、怒りとしての反応が先天的定義として決まっている為に自動的に構成されるものではなく、
あくまで不満に対する反応として怒りを構成する定義が1つ存在するために起こった反応であるという事になる。
つまり、不満を感じれば知能は皆同じ様に怒りを感じるというわけではなく、
感情としての反応は、知能毎に異なる定義として持つことができる。

つまり、不満に対して怒りを感じる事は知能において皆感じる可能性はある。
しかし、その怒りが感情の反応として現れるかどうかは別の話という事になる。

この場合、先天的に感情として現れる定義が存在するのかという疑問は残る。
つまり、先天的に定義が存在するなら、感情を構成する「きっかけ」が定義として存在するという事になる。
つまり、先天的定義において感情を構成するきっかけが1つ1つ全て定義されているという事になる。

上記の例においては「怒り」を感じるきっかけとして「不満」が該当する事になるが、
「不満」であれば全ての知能が「怒り」を構成するのかというとそうはならず、
「不満」の内容によってはその反応は知能毎に異なる事になる。
さらに言えば、では「怒り」のきっかけとなる「不満」の内容の定義が1つ1つ先天的に存在するのか?
という疑問が残る。

つまり、先天的定義として感情を定義するなら、
先天的定義として「感情」を構成する為の「きっかけ」と「感情としての反応」の定義があらかじめ個別に必要となる。

現時点では人間以外の知的生命においても、「感情」であるような反応は見て取れるため、
先天的定義においても、感情として考えられる反応は存在すると考えられる。
ただ、人間の知能においてのみ見られる「感情」であるような反応も存在する為、
先天的定義を含む後天的定義として定義される感情も存在すると考えられる。

という事は、「感情」を反応として生じる「きっかけ」は、
固有の定義ではなく、ある状態の定義として存在するのではないかと考えられる事になる。
つまり、特定の「きっかけ」が必要になるわけではないが、
ある「きっかけ」によって、「感情」となる「反応」が起これば良い事になる。

つまり、知能が認識可能なある状態によって、
それに関連する定義により、反応として「感情」が構成出来れば良いという事になる。

これらの場合の先天的定義としての感情の定義であるなら、
分類の元になる情報の要素というのはいくつか考えられる。
つまり、ホルモンや神経伝達物質である。
明示的なきっかけや反応が決まっているわけではないが、
きっかけは存在し、身体に感じられる反応を起こす要因である。

つまり、
感情を構成する為の「きっかけ」と「感情としての反応」は、
それぞれ定義が存在する。

ある状態が「きっかけ」となるかどうかの定義は個体や知能毎に異なる。
「感情としての反応」も、その定義は個体が知能毎に異なる。

ただし、「感情」としての反応である、
「きっかけ」と「感情としての反応」の関係には規則性があり、
その間を取り持つ「身体に感じられる反応」によって、
この「感情」としての反応が決まる。

「きっかけ」:個別の定義

「身体に感じられる反応」:程度の差はあるが共通の定義

「感情としての反応」:個別の定義

「身体に感じられる反応」は、反応の大きさは個体によって異なるが、
この種類は共通であると考えられる。
つまり、嬉しい感覚、怒りの感覚、哀しい感覚、楽しい感覚、
優越感、劣等感、正義感、など、
このような感覚は刺激量には差があるが、
反応に用いられる種類は先天的定義として共通のものであると考えられる。

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感情の二面性:

ある事象の認識に対しては、知能による先天的定義の反応と、後天的定義の反応は生じ得る。
この場合、その2つの種類の反応はどちらも常に認識の対象となるわけではなく、
知能が持つ定義によって、その再構成に選択や制限が生じる。

感情が先天的定義の反応と後天的定義の反応で構成されるのなら、
感情が認識対象の刺激や概感であるという事にもつながる。

つまり、知能において感情が再構成された後にようやく感情として認識できるようになるという事である。
つまり、上記の例において、きっかけとなる「不満」が存在しなければ「怒り」は構成できない。
つまり、きっかけとしての、
最初に書いた「自己の状態や定義に対して変化を生じさせるような事象」の存在なしに、
「感情」は生じ得ないという事になる。
また、感情が再構成において十分な刺激量を持たない場合、感情として再構成されない場合も起こり得る。

これは、刺激や概感の構成と同様のものである。

つまり、感情もあるきっかけの定義とその反応によって生じる「ある変化(事象)」という事になる。

つまり、二面性における認識対象である、主体性と客観性の変化と自分が存在する様に、
感情においても、先天的と後天的の定義における、2種類の、二面性を持つ感情が存在する事になる。
また、感情にも認識対象として選択される刺激量を、その要素に持つという事になる。

であれば、感情を認識する場合も、この2種類の感情は同時に認識されることは無い、
という事になる。

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つまり、感情として現れる状態は、
知能において、
先天的定義としてのある自己の状態に対する反応として遺伝的に継承される反応と、
後天的定義としてのある自己の状態に対する反応として経験として獲得する反応がある事になる。

そして、それらは「定義」として知能に保持されている。

そして、この感情としての状態が認識に至るまでの刺激量を持つ情報塊として再構成されるかどうかは、
知能毎の定義によって異なるという事になる。

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感情の認識:

では、この感情を構成する「定義」はどのようなものであるのかというと、
まず、きっかけとなる「自己の状態や定義に対して変化を生じさせるような事象」の定義が必要となる。
そして、その反応として「知能が構成するある状態」の定義が必要となる。

そして、これらには、それぞれに先天的定義と後天的定義の「定義」が存在する事になる。

感情の、きっかけの定義と反応の定義、そして、それぞれの先天的定義と後天的定義である。

つまり、ある感情、例えば「怒り」であれば、
きっかけの定義は、先天的定義であれば、身体的な痛みや不足、後天的定義であれば、比較の認識後の不満などである。
反応の定義は、先天的定義であれば、興奮や赤面、衝動、後天的定義であれば、「怒りの状態」などである。

ここで「怒りの状態」をあえて、感情の反応の定義のさらに後天的定義であると書いた。

感情の反応として先天的定義として「怒りの状態」が再構成されるわけではなく、
後天的定義として再構成される理由はどういうことなのか?

つまり、「怒りの状態」は先天的定義として定義の存在する状態ではなく、
知能が経験として獲得した定義としてのある状態の再現であるという事になる。

後天的定義を除いた場合、
知能において、感情となるようなきっかけの定義は、先天的定義としての定義が存在している。
これに対して、反応の定義も、先天的定義としての定義が存在している。
感情を認識していないと考えられるような知能、知的生命において、
これらのきっかけと反応による知能の活動は「感情」であるのかどうか?、という事になる。

つまり、人間以外の知的生命体において、自己意識で認識されないような「怒り」は、
このきっかけと反応に対して「感情」であると言えるのかどうか、という事になる。

先天的定義において、遺伝的に継承する定義において、これらの反応は、
人間においても、先天的定義として、一応「感情」として、
そのきっかけと反応の定義は存在していると、今は考えているので、
これが、人間以外の知能においても、
先天的定義としての「感情」として、そのきっかけと反応の定義は存在しているわけであるから、
この先天的定義としてのきっかけと反応は、人間以外の知能における、
先天的定義としての「感情」であると考えることが出来る。

ただし、この「感情」が本当に感情としての「怒り」であるかどうか、
ということになると、考えを進めると理論的に心もとない事になってくる。

つまり、人間以外の知能において、先天的定義としての「感情」は存在するかもしれないが、
それらが人間の知能が考えるような「感情」としての「怒り」かどうかの定義を、認識して意識するには、
後天的定義としての「感情」であり「怒り」の定義を必要とするという事になる。

つまり、先天的定義による感情の怒りは、怒っている自分にとって、
怒りであるという認識にはならない事になるからである。

これは、認識や意識においての刺激や概感の知能の観測において、
「自分」を「自我」や「意識」として認識する為には、
後天的定義としての「自分」を必要とするから、という事になる。

つまり、先天的定義としての「感情」のきっかけと反応だけを認識して意識したのでは、
その知能を持つ個体は、そのきっかけと反応は遺伝的に継承され、
反応して「当然」の活動として認識するしかできない事になる。

つまり、客観的には「感情」として見る事もできるが、
主観的には遺伝的に決められた反応であり、反射に近いものである。

自己のある反応が「感情」であり「怒り」であるような認識を、
定義の上で「感情」や「怒り」であると認識する為には、
後天的定義としての「自分」が必要になるという事である。

つまり、この考え方からすると、
人間の知能においても先天的定義の反応としてのきっかけと反応による
「感情」らしい反応は、人間の知能自身にでさえ「感情」であるか判断が出来ない事になる。

例えば、犯罪などの精神鑑定において、心神喪失状態の判定に認識能力の確認などがされるが、
今回の感情における「自分」が意識的に行うという認識能力の判断ということになると、
この後天的定義の認識が行えるかどうか、という事になる。

つまり、心神喪失時の「怒り」は客観的に見れば「感情」としての「怒り」として見ることが出来るが、
心神喪失状態となった当の本人の知能では、この先天的定義の反応におけるきっかけと反応については、
主観的には認識できているのだが、「感情」の「怒り」としては認識することが出来ず、
それが「感情」としての「怒り」として認識できるのは、
これも自身について客観的に見る事の出来る後天的定義の認識を行った際という事になる。

つまり、通常、人間の知能においては、ある事象の認識において、
先天的定義としての刺激には常に関連した想起、後天的定義の概感が構成されることになる。
そして、認識においては、刺激か概感、どちらかにウエイトを置いた認識が行われ、
主観と客観の双方の「自己」のどちらかを自分として認識することが出来る。
そして、心神喪失状態においては、特に概感としての「自己」を認識できないと判断されていることになる。

つまり、人間以外の知的生命が先天的定義としてのきっっかけと反応として、
このある事象を認識しているだけだとすると、
この知能自身にとっては、概感の「自己」はきっかけと反応には関わらず、
遺伝的に継承された定義としてのきっかけにより反応しているだけ、という事になるため、
他の理由において自分が操作することが出来ない選択であるという事になる。
つまり、その知能においては、そうせざるを得ない、事象であるという事になる。

知能においては、先天的定義としてのきっかけと反応として、
「感情」であると判断されるような反応は存在するという事になる。
ただし、その反応自体は「感情」よりも「本能」に近い定義から構成される反応という事になる。
そして、この場合に「感情」として分類できるのは、
きっかけの反応によって生じた身体の「状態」だけである事になる。

つまり、身体で感じる、怒りの毛の逆立つような感じや、
不安による萎縮感、恐怖による震え、喜びの高揚感や、楽しさの幸福感など、
それらが「感情」としての反応の状態として感じられるだけという事になる。
つまり、この状態だけをもってして「感情」と言えるのか?
という事になる。
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では、人間の知能においては、
先天的に持つ定義のため、どうしようもないきっかけと反応がある一方で、
後天的に持つ定義として「感情」を知能が管理して構成することが出来る事になる。

この違いは何であるのか。

先天的定義であっても、後天的定義であっても、
客観的に見ると、そのきっかけも反応も「感情」として判断される。
主観的に、このきっかけと反応を見た場合に、
先天的定義であれば「本能」に、後天的定義であれば「感情」として判断できる。

であれば、「感情」に関わってくるのは「自己の定義」つまり「自我」の定義という事になる。

つまり、自己を構成する定義としては、
先天的定義と後天的定義の全てが対象となるため、
逆に先天的定義と後天的定義が定義する対象は、
自己の定義の一部であるという事になる。

これらの内容は390~392で「感情」について考えてきた内容そのものなのだが、
「302:感情の発現理由と対応行動について」で考えた、
自己の対外的な表現方法としての「感情」の存在意義について考えると、
先天的な感情における反応と後天的な感情における反応は、
その反応に対象を設定するものという事になる。

つまり、
感情は自己の反応であるのだが、その反応自体に「対象」を設ける必要が有るものという事になる。

つまり、「感情」には対象を必要とする。
という事である。

つまり、感情を構成する為に、
きっかけの定義、反応の定義と、対象の設定、が必要という事になる。

つまり、先天的に持つ定義の場合、感情であるには、
先天的にその対象の定義が必要になるという事になる。
つまり、「感情」の結果としてある感情の状態が現れるのではないかという事になる。

通常、先天的定義は、情報量に制限があり、
後天的な対象については対応できないため、
確定的な事象についてのみ定義を持つことが出来る。
つまり、先天的定義として定義の出来る、
感覚やホルモン、神経伝達物質による変化に対してのみ定義することが出来る。

であれば、先天的定義として「感情」が定義できるのは、
きっかけの定義としては、身体に直接影響のある事象についてのみ定義を行うことが出来る事になる。

後天的定義については、この制限がないため、
後天的に得た事象、対象についても定義できる事になる。

つまり、先天的、後天的な感情の違いとして、
身体に影響のある変化に対する反応としての感情と、
身体への影響ある変化に加え、状態や定義の変化に対する反応としての感情が存在する事になる。

つまり、
自己の身体性に関わる感情と、
自己の定義、自我に関わる感情が存在するという事になる。

つまり、結果的に

主観的感情:(感情):客観的感情

の二面性を持つという事になる。

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感情のそれ自体は、
刺激としての認識において、
特定の感覚が存在している。

怒りでは、毛の逆立つような、こみ上げる衝動の感覚、
喜びでは、充実した満足感のような感覚、
不安では、心細い感覚、
その他にも、恐怖や楽しみ、
身体的に感じるある感覚の状態が存在する。

これらの身体的な感覚を認識するからこそ、
そこに「感情」があると認識・意識できる。

これらは、後天的定義の感情であっても、その感覚の認識が存在するため、
後天的定義の感情を構成する定義として、先天的定義としての感情の要素である、
身体的感覚が関連しているという事になる。

つまり、感情における先天的定義は、
後天的定義の構成要素でもあるという事になる。

これは、刺激と概感の関係についても言える事で、
感情であっても同じ事であると考えられる事になる。

つまり、刺激と概感のような2種類の感情が存在するという事になる。
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きっかけの定義:

感情の先天的定義としての感覚、主観的感情であれば、
その感情のきっかけは先天的に定義が存在する。

後天的定義としての感情、客観的感情であれば、
定義において、きっかけの定義が必要となる。

反応の定義:

基本的に上記にある身体の感覚としての反応がこれに当たる。
つまり、あるきっかけに対して、反応して身体が認識する感覚の定義という事になる。
これは先天的、後天的であっても、その身体の反応は共通するため、
先天的定義として保有している定義が、この反応の定義となる。

対象の設定:

感情の先天的定義としての感覚、主観的感情であれば、
その感情の対象は先天的に定義が存在する。

後天的定義としての感情、客観的感情であれば、
定義において、きっかけとその反応の対象が必要となる。
反応の定義は先天的定義の定義から構成される為、
特にきっかけとなる対象の定義が後天的な客観的感情においては必要となる。

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つまり、感情に関わる「きっかけの定義」に該当する事象を、
刺激か概感として受容・想起した場合、
その構成要素としての定義、先天的定義である反応の定義によって、
感情の特定の感覚が構成され、その認識によって、
想起される「感情」が構成される。

この時、きっかけの定義が先天的なものであれば、
対象も先天的定義により自動的に再構成され、
先天的定義により、主観的感情として再構成され、
自発的に感じられた感情のように認識される。
つまり、刺激のように感じられる。

きっかけの定義が後天的なものであれば、
対象は後天的定義に従って再構成され、
後天的定義としての客観的感情として再構成され、
自分が感じた感情として認識される。
つまり、想起した概感のように感じられる。
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人工知能の感情:

感情が心的、精神的なものではなくて、
より身体的な状態として現れるものであるという考えであれば、
その基底の定義は先天的定義であり、
全ての感情は、何らかの身体の状態を定義する先天的定義を含み、
個体や知能毎に、
その状態の定義を励起する「きっかけ」と、
その状態の定義の励起の関連によって励起される「反応」の組み合わせが、
「感情の定義」を構成するものとなる。

ということは、
人工知能における感情は、
人工知能にとっての、身体的なある状態を呼び起こす「きっかけ」と、
その「身体的な状態」、
また、その身体的な状態に対して呼び起こされる「反応」、
この3つの定義を定義する事で、
人工知能の「感情」とすることが出来る事になる。

特にこの「反応」が、個体の知能にとっては「感情」として認識されるもので、
「感情」によって感じられる「感じ」という事になる。

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2024/10/11

感情の定義:

感情はある身体の状態として認識される。
→身体の状態の認識ということは刺激が存在する事になる
→刺激であれば先天的定義が存在する
→ただし、刺激の認識=感情の認識ではない
→刺激=感情ではないなら、認識対象になるのは概感となる
→概感=感情となるのか?
→概感単体のみで感情の認識とはならない

感情は刺激と概感を合わせたものとして認識される。
→つまり先天的定義だけでなく、後天的定義だけでもない
→刺激とその想起された概感を合わせたものが感情となる
→感情が発現するには「きっかけ」と「反応」が必要となる
→刺激=きっかけ、反応=概感ということか?
→概感のみで構成されても、先天的定義と後天的定義は存在する
→ということは、きっかけ=先天的定義、反応=後天的定義ということか?

概感のみでも感情が構成できるか?
→概感を構成する先天的定義がきっかけとならないか?
→思い出せる感情というものがあるか?
→感情の想起だけでは感情を構成できないが身体的状態を想起すれば感情は構成できる
→概感だけであっても、その構成要素の先天的定義によって感情は構成できる
→感情=刺激+概感ではなくて、感情=先天的定義+後天的定義なのではないか?

感情がきっかけ+反応であるなら、その定義と目的は何か?
→きっかけ+反応は、知能の状況・状態に対する適応である
→定義は個体固有のものであるなら、先天的定義と後天的定義の自我の定義に含まれる

知能にとっての感情を構成する目的は何か?
→感情が状態を認識した事に対する反応であるなら、その反応自体が目的である
→状態を区別する方法としての身体の状態の表れであるなら、
感情となる状態の刺激は、その前のきっかけとなる刺激か概感の認識に対する、
知能による評価、知能が持つ定義における評価の結果として身体の状態として現れる
→先天的定義と後天的定義による対応、反応、想起の結果として身体への状態変化が現れる
→その身体状態の変化に対する反応が「感情」
→身体が先に状態を作り出し、知能がその観測によって認識、反応を想起する、これが「感情」
→ある状態に対する知能の「表現」が「感情」なのではないか?
→ある状況・状態に対する認識に対して、知能が構成する「知能の状態」が「感情」?


つまり、感情は、
きっかけの刺激または概感を認識することによって、
知能が自己の定義(自我)に従って、
その反応をある状態として表現する。
その表現された状態を認識した際に、
その状態が「感情」であると認識される。

つまり、きっかけの刺激または概感自体は感情ではなく、
その刺激または概感の認識によって、
知能がその反応を示す際の状態、
この状態が刺激として認識される。
この刺激が実質的な「感情」の「状態」であり、
その状態を刺激として認識し、
さらにその刺激に対して想起された概感が「感情」として認識される。

つまり、きっかけとした刺激または概感によって、
知能が示した「状態」としての「刺激」と、
この「状態」としての「刺激」に対して「想起」された「概感」を合わせたものが「感情」である。

感情として感じている状態は、
身体で感じられる状態であるので「刺激」であることは間違いないはず。
ただ、この状態だけが「感情」ではないのは、
最初の方で書いたように知能が持つ定義によって個体毎に反応の定義が異なるという事。

つまり、身体が感じるある状態に対して、
知能がどのような反応をするのかを含めた、
ここまでを合わせて「感情」であるという事になる。
そして、「感情」が、単に状態だけでないというのは、
「感情」が表現を含むという事である。


感情はある状況・状態に対する認識の反応として状態の表現として表される
→知能の状態:Statusとしての「感情」
→生命としての活動を誘導する為か?
→外因的に得た状態ではなく、内因的に自ら構成した状態
→外因=>きっかけ=>刺激であり、内因=反応=概感
→身体の全体、全身にその状況・状態を知らせる為が感情のきっかけとしての刺激
→であれば、その認識によって生じる反応は、反応それ自体が目的であり感情である

知能の状態として感情が存在するということか?
→であれば知能には別の状態も存在しうることになる
→それとも感情それ自体が状態の全てである
→身体のある状態に対する身体の働かせ方を決めるものが「知能」なのか?
→ホルモンや神経伝達物質による身体の状態設定に対して、
その状態に合わせて身体を働かせる機能が「知能」
→「感情」はその身体の状態を表す1つの状態であるということになる

つまり、
生命の身体としての状態に対して知能は機能するものであり、
さまざまな「感情」はその生命の身体の状態を表す「状態」の1つであるという事になる。
つまり、1つの「感情」に対して、その状態で最も効果的な「知能」の働かせ方、
つまり、知能としての反応の仕方が存在し、
特定の「感情」状態に対して特定の「知能」の機能の仕方が存在するという事になる。

ということは、「感情」の状態でない、別の「状態」も存在し、
その身体の状態に対して、それぞれ「知能」の機能の仕方が存在する。

つまり、その身体の状態毎に知能が機能する定義、
その定義が自己定義、自我の定義という事になる。

感情の目的自体は、知能をその感情の状態として働かせる事。

きっかけは感情それ自体ではなく、刺激か概感の先天的定義部分。
その認識によってホルモンや神経伝達物質が分泌。
身体の状態がその受容によって変化、この変化を認識して、
知能が「感情」などの状態に変化、
知能はその状態における刺激や概感に対して最もらしい反応を構成する。

という事になる。

つまり一言で言えば、
「感情」は知能の「状態」の1つである。
という事になる。

つまり、身体の状態としては他に「空腹」「満腹」「渇水」「疲労」
「冷え」「暑さ」「痛み」などがあり、
ここに「感情」としての「怒り」や「喜び」などが含まれ、
それを知能は自身の「状態」として定義し、反応を決めるという事になる。
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人工知能の感情 その2:

先天的定義や後天的定義によるのだが、
人工知能に感情を実装する場合も、
人工知能を収める身体の状態に対して、
知能が働くことになる「状態」として、感情は実装するべきという事になる。

つまり、人間が「空腹」時に空腹について考えるように、
人間は「喜び」の際にも喜びについて考える。
であれば、人工知能も、自身の身体の状態に応じて考える事が、
知能それ自体の機能であるから、
人工知能を収める身体が「感情」であるという定義の状態を受容して認識した場合、
知能はその「感情」の状態として思考し、知能を働かせれば良い事になる。

つまり、人間が「空腹」時に何となく食べ物について興味を持つ様に、
人間は「喜び」の際には嬉しそうにしているものである。
であれば、人工知能を収める身体に身体の状態を実装し、
人工知能はその身体の状態に応じた知能、思考を働かせれば良いという事になる。

つまり、人工知能の感情は、その身体の状態の1つ1つとして定義し、実装する事になる。

感情の正確な定義については、
人間の感情の定義が済んだ後という事になる。
まあ、これが難しいのであるが。
「感情が身体の状態を表した知能の状態」である、という事が決まっている事になるので、
個体差はあるが、人間がどのような時に身体の状態を変化させるのか、
この定義を決めれば、
人工知能だけではなく、人間の知能においても、
その状態の分類や定義もできるのではないかと考えられる。
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今回はこの辺で。

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