2024/9/28-2024/9/30
知能の観測と認識と意識
知能による刺激と概感の観測は、
認識の働きそのものでもあるが、
今回400番目の区切りとして、
認識のより深い部分について考えてみる事にする。
これまで考えてきた認識は、
刺激の場合は、
感覚器官による事象の接触による変化情報の受容と、
その変化情報が脳に送られた際に、
自己の身体情報が関連付けられる事によって、
自分の身体にその変化情報が感じられたという「刺激」が構成され、
この「刺激」を脳が観測する事によって、
「刺激を認識」したことになり、
概感の場合は、
想起によって再構成された刺激の記憶が「概感」となり、
この「概感」を脳が観測する事によって、
「概感を認識」したことになる。
刺激も概感も、いずれも脳内で、
先天的定義と後天的定義を用いて、
事象が、あたかもそこに存在するかのうように再構成され、
認識に至るのだが、
実際は定義による元の情報を解釈した再構成体としての定義の情報塊という事になる。
変化情報や想起による励起された神経細胞が持つ定義が、
そのまま認識に至るわけではないというのは、
その観測者としての存在が必要になるからという事になる。
つまり、刺激の変化情報や、記憶した刺激の変化情報の部分だけを抜き出した場合、
その定義というのは、自然界に存在する自然法則としての変化の事象の情報だけという事になる。
最近、定義の構成などを考えるようになり、
ようやく認識の考え方と関連付けられるようになってきたが、
つまり、事象の定義としての情報は、実際に起こった事象そのものだけ、
ということであり、それを見る者が居ないという事になる。
つまり、事象は事象として起こり、そこに存在するのだが、
それは、自然界に起こったある出来事というだけの事であり、
観測する者が居ようと居まいと、そこに生じた出来事というだけで完結してしまう。
つまり、自然界における自然法則の定義により生じた事象が、
自然界に生じた、というだけで、それを知るのは自然界という事になる。
ただし、この場合は自然界に認識や意識があるという事ではなく、
定義を保有する立場としての自然界の存在に、事象が生じたという結果が発現したという事になる。
この考え方を自然界の定義より1段下位の人間の存在で考えてみると、
自然界の自然法則の定義によって生じた変化は、
人間の保有する定義で解釈する場合、ある変化情報としての定義が生じる必要がある。
まあ、つまり先天的定義である。
人間の保有する先天的定義によって、自然法則の定義から生じた変化は、
変化情報として人間の先天的定義で解釈し、人間の階位で解釈された定義となる。
しかし、この状態での変化情報の定義は、人間が理解できる定義にはなっているのだが、
その状態では単に人間にとって変化情報が存在するというだけの定義という事になる。
それは、元々上位の自然法則の定義であるからで、
上位の定義を下位の段階の存在が理解する為には解釈の定義が必要となる。
そして、その解釈の定義で解釈した上位の定義ではあるが、
この解釈した定義は、あくまで上位の定義の事象が存在するというだけの解釈となる。
つまり、下位の存在が上位の事象を文字通り「知る」ためには、
その解釈した定義を、その知ろうとしている存在自体と関連付けなければならないという事になる。
これが「観測」という事になるのだが、
なぜ上位の変化の事象を解釈しただけで「観測」に至らないのかというのは、
上記でもあるように
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つまり、事象は事象として起こり、そこに存在するのだが、
それは、自然界に起こったある出来事というだけの事であり、
観測する者が居ようと居まいと、そこに生じた出来事だけで完結してしまう。
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解釈の定義は、事象を出来事として構成するだけであり、
それだけでは事象が存在するという定義でしかない。
これを見たり感じたりする存在があって初めて、
その存在が、この事象を、存在自体が「知る」事が出来るという事になる。
つまり、上位の定義を受け取る下位の定義が必要になるというわけである。
つまり、自然界や自然法則は、それを知ろうとする存在があろうとなかろうと、
存在するのであろうが、その定義から生じた存在が、
この上位の定義の存在を知ろうとするためには、それを知ろうとする自身の定義を必要とする事になる。
文字通り、存在から事象を「観測」する必要性があるわけである。
そして、その「観測」がどのように行われるのかというと、
人間においては、感覚器官と変化情報の接触以後の機能によって、
この「観測」が行われることになる。
これは、二面性で考えた時の「接触」による接触面での「境界」が生じる事によって、
事象が構成される場合は、変化情報に相対する自分の存在が必要になるという事から考えられる。
つまり、接触面を境界とした対象が、互いに存在するため、
存在を確定するには、それを観測する存在が必要となる。
事象が存在するには、接触面の反対側の存在が必要となる。
つまり、境界面が存在すれば、相対する二面性が存在する事になり、
逆に考えれば、相対する二面性が存在すれば、そこに境界面も存在する事になる。
つまり、変化情報と境界面が存在するなら、
それに相対する存在が必要でありながら、そこに何らかの存在がある事の証明にもなる。
さらに、自分と境界面が存在するなら、その相対する何らかの存在がある事の証明になる。
それは、さらに、変化情報と自分が存在するなら、
そこに境界面となる何らかの二面性のある存在がある事の証明になる。
つまり、その二面性を挟んだ存在が「認識」であろうという事になる。
つまり、変化情報と自分の関連、この「関連」が二面性そのものであり、
「変化情報:関連:自分」
これが「認識」という事になる。
そして、刺激の場合は、
「変化情報:関連:自分」
であり、
概感の場合は、
「想起した変化情報:関連:自分」
という事になる。
変化情報を「観測」したという「感じ」の体感は、
目の前に画像が見えたり、指先に何かが触れたりという感じであり、
自分の身体のそれぞれの場所に「刺激」を受けたと感じる事であり、
頭の中に記憶を思い出すように、
イメージや感覚として「概感」を思い浮かべたり感じたりする事である。
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知能による「観測」は主体的で意識的なものではなく、
きっかけは感覚器官による変化情報の受容である。
感覚器官が変化情報を受容しに行くことは無く、
これはあくまで受動的なものである。
主体的であると感じる理由は、
身体を制御している感覚が主体的であるように感じるからである。
知能は全てにおいて受動的に情報を得ている為、
自分の身体を制御する場合においても、
稼働中は常に動作のフィードバックとして、
その稼働の補正を行う必要がある。
これは、予想して行っているわけではなく、
稼働した結果に対しての補正であるため、
受動的な補正である。
しかし、この補正して自身を制御しているという感覚だけが、
知能の観測において主な観測対象になっているために、
認識において、自身が主体的に自分を制御している様に感じさせる理由である。
この理由は、
知能が観測している刺激や概感は、
身体とその身体に起こる変化の接触による、
その境界面を観測するようなものである。
この観測によって知能が知るのは、自身の身体と変化情報であり、
それで知り得るのは、自分と刺激か概感という事になる。
この時、刺激や概感は単独で成り立つものであるが、
実際にはその背景で常に想起が起こっている。
この想起は特に概感の元であり、
この概感には実体でない自分の姿、
つまり、自分ではあるが仮想的な存在が再構成されている。
この仮想的な自分は、認識において常に自身が選択した結果の姿として再構成される。
認識において、刺激において対象となる自分は身体であるが、
概感において対象となる自分は、この選択している自分が該当する事になる。
結果として、認識においてと、連続した認識における意識において、
感じられる自分というのは、自分の身体か、選択している自分の姿となり、
結果として、認識における身体以外の自分は、
自分が何か選択している姿である自分として観測されるという事になる。
例えるなら、
知能が映画の主人公になり切っているようなものである。
ただ、どうせ観測するなら、
変化情報に対する選択やその選択に至る定義も全て認識してしまえば良いとも考えられるが、
そうならないのは、どうも認識に制限があるためという事になる。
396の認識プールで考えたような知能が一度に把握できる情報量に制限があるらしい、
という事になる。
この制限にはまず、
変化情報の受容と、反応の選択と、観測の、時間差があるという点である。
全ては連続的に起こってはいるのだが、
同時ではない。
情報が連続したままで認識できないというのも396~399で考えた通りである。
そして、情報の区切りの存在と、その区切りによる
観測の情報の上限、つまり、
認識する情報量の上限の限界の存在によって、
知能において認識する情報に制限が生じているため、
認識する必要のある情報は何であるかというと、
変化と自分の状態という事になる。
そして、その反応となる制御が必要という事になる。
全ての情報を連続して認識するのでは、
次の行動までに行う制御が間に合わない。
つまり、全ての情報を連続して認識しているだけでは、
上記の例えの映画をなりきって見ているだけと同じ事になる。
ここで、自分の為に何かを選択したり制御したりするためには区切りが必要となる。
刺激や概感の認識の中で、
その取捨選択を行う定義が経験であり、自我ということになる。
つまり、自分はこうするべき、こうあるべき、
そういった定義を経験として記憶し、
次に似たような場面に遭遇した場合、
自動的に想起することによって、
その反応が自動的に決まる。
その結果が概感として構成される事になる。
この反応は概感の認識の際に自分の選択であるように感じられる。
その反応の好みを決める部分が自我としての定義であり、
実際にその個体が経験した記憶の全てという事になる。
つまり、自分にとっての好みの定義の総和が自我になる。
それは身体的な刺激においても想起・思考的な概感においてもである。
そして、これらを認識した結果として、
変化情報と、自分の状態と、自分の反応としての制御、
これらが観測できれば十分であるという事になり、
認識において、変化に対して自分を制御しているという感覚だけが感じられる事になる。
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2024/9/29
昨日の夜から考えていたのだが、
認識対象として選択される刺激や概感には、
何らかの評価と指標が存在し、
単に刺激量が大きく、情報として強いから認識されるわけではなく、
何らかの別の要因が働いているはずである。
それについて今日思いついたのは以下の通り。
認識において、変化情報は知能の外部からもたらされるものであり、
情報の要素が、知能の状態よって変化しない、関わらないものであると考えると、
認識においてその対象の優先度を評価する場合の指標となる情報は、
刺激や概感を構成する際の、自分の情報の側という事になる。
つまり、認識対象を決めている要因は、
知能が再構成している自分の情報に含まれているという事になる。
つまり、
刺激・概感=変化情報+自己情報
であるなら、変化情報が先天的定義として一定であるなら、
刺激や概感の情報量というのは、自己情報のウエイトが大きいのではないかという事。
つまり、例え、刺激や概感としての変化情報が、
情報量として小さなものであっても、認識対象とする事があるという事は、
そこに加えられる刺激量の大きな情報が添加されるという事になる。
認識自体はそれほど複雑な取捨選択をしているとは考えられないので、
用意される刺激や概感の情報の情報量に認識の選択の評価基準が仕込まれていると考えられる。
つまり、それが刺激や概感を構成する際の自分の情報に含まれているという事である。
それは、刺激や概感に関連する自己情報であり、
そして、認識の連続性における意識において、
その自己情報の連続性による自己の存在の観測にまで関係しているという事になる。
つまり、
刺激や概感となる可能性のある変化情報は、
感覚やホルモン、神経伝達物質を元とする刺激の変化情報と、
その受容において想起される変化情報を概感の変化情報とし、
構成されるが、
知能においては、それだけを知り得ても自己の状態に対して意味がないので、
自己にとっての意味のある情報として認識する為に、
変化情報が、自分にとってどのような変化をもたらすかという情報を追加する必要がある。
これが、変化情報に対して関連して再構成される自己情報になる。
この自己情報は、変化情報に対して、自分の状態が何か変化を生じる場合、
その意味を自己情報として再構成して関連させ、
刺激や概感として構成する事になる。
つまり、この時の自己情報は、
変化情報に対して、自分が何らかの変化や反応が生じる場合の、
その変化や反応のある場所、部位の情報が構成されることになる。
つまり、刺激であれば、その変化情報を受容した器官や身体の場所であり、
概感であれば、その変化情報に関連した過去の記憶、自身の反応などの情報である。
そして、この自己情報に対して刺激量が定義されるが、
その定義自体の活動が、刺激や概感の評価となり、
その後の認識されるかどうかに関わる事になる。
そして、認識における優先度は、この評価の結果としての刺激量がその指標となる。
つまり、変化情報に対して、どれだけの刺激量を持つ自己情報が添加されるか、
構成されるかによって、刺激や概感が認識されるかどうかが決まる事になる。
そして、この自己情報の刺激量の定義は、「自我の定義」に関わっている事になる。
つまり、ある変化情報に対して、
どのような自己情報を再構成するか、
どれだけの情報量を持つ自己情報を再構成するのか、
どれだけの強い刺激や概感とするのか、という定義という事になる。
また、ある目的が存在していて、その目的を知能が優先している状態において、
刺激や概感として構成される自己情報は、この目的に関係している自己情報が、
より優先的に構成され、刺激量も大きく構成されるはずである。
目的の実行において、その目的が維持されるのは、
意識的に維持されていると考えられているが、
この維持されているというのは、認識の連続性における自分の目的の維持でもあり、
つまり、知能が観測によって認識する刺激や概感において、
自身の目的に関連する変化情報を優先させるために、
自己情報を、その目的に関連した自己情報を優先して構成して、
刺激や概感を構成する為に、目的に関連した刺激や概感が優先して認識されることになるのではないかというわけである。
これならば、ある目的に対して優先して認識される刺激や概感は、
知能が変化情報に対して、自身に都合の良い自己情報を構成して関連させる事で、
優先的に認識されることになる。
結果としては自作自演に近いのだが、
自身が欲する目的に対して、変化する状況に対し、
自身がどのように反応、対応したら良いかを自身が構成して、
この変化の状況に対して関連させる。
それを知能の観測によって、自身が認識する事で、
その目的に対する自身の反応や対応と、その後に生じた変化、差に対して、
さらに次の時間軸の自分は、次の変化に対してフィードバックして、
その変化に対応する自分を構成する。
これを連続して継続する事になる。
そして、これらを連続して認識したその結果、
意識として目的に対して行動する自分が生じる事になるのではないかというわけである。
つまり、認識の対象となる刺激や概感は、
変化情報によって認識されるというよりも、
その変化情報に対して知能が関連付ける自分にとっての評価としての自己情報によって、
その選択の判断が決められ、認識されるかどうかが決まる。
そして、その自己情報の再構成は、
単に、身体の定義や、記憶としての後天的定義の定義だけから構成されるわけではなく、
その瞬間において維持されている認識、維持の連続性において生じている意識において、
自己の「目的」、その目的自体も連続性の内に維持されており、
この目的に関連した自身の状態が、次に認識される候補としての刺激や概感の自己情報に、
優先的に用いられ、次の認識に備えられる事になる。
結果として、トップダウンで考えると、
自分は、自分の目的を意識しながら活動しているように感じるが、
意識は認識の連続性の上に成り立つため、その認識における刺激や概感は、
直前の変化情報と、その変化情報に関連した自己情報から成り、
この自己情報は、この直前の変化情報に対して、自分の定義において、
自分にとってのもっともらしい自分の定義が用いられ、自己情報として構成されて、
刺激や概感が構成される。
そして、この自己情報における自分の定義は、そのまた直前に維持されてきた、
自分の状態である、自分の目的を意識しながら活動していた自身の状態に対して、
変化情報として受容したか、想起した情報に対して関連して構成されることになる。
つまり、知能は、自分の状態に対して変化が生じた場合、
自分はこうあるべきという自分の姿を、この変化に対して関連させて、
自分自身で観測することで認識として、この活動の連続性によって、
自身が連続して存在して、自分らしく活動しているという意識を観測する事になる。
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つまり、変化に対して、自分はどのように感じるかの定義が自我の定義であり、
その定義には、先天的定義と後天的定義が含まれる。
自我における先天的定義は、遺伝的な身体的な機能や構造であり、
個体における容姿、形質、感覚、など、
自然法則の定義において、遺伝子によって定義される生命の形状、性質の全てが、
この自我における先天的定義という事になる。
また、自我における後天的定義は、その自我を持つ生命としての個体が経験した事象であり、
生命としての個体が受容した先天的定義による変化情報に対して、
その個体が定義した固有の自己情報としての自己の定義、
つまり、自身の反応の定義を個体が記憶したものの全てが、
この個体における後天的定義という事になる。
そして、この自我の定義によって、
生命である個体が活動する際、
個体の外部、または身体内部から生じる変化に対して、
構成した自己情報が加えられ構成された情報が刺激や概感であり、
この刺激や概感を知能が観測する事で認識となり、
この認識が連続する事で知能は意識を観測する事になる。
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ここまでをまとめると、
知能における刺激や概感の観測は、
知能内で構成される変化情報とその変化情報が存在する場所が、
関連して組み合わさる事で、個体は、その変化情報がそこにあるように観測、認識できる。
そして、その認識において、
連続した認識において、知能が維持する認識の連続性において、
認識の対象、刺激や概感に含まれる自己情報の連続性が、
自己「意識」として観測できる事になる。
つまり、簡単に言うと、
変化に対して反応している自分の連続性が意識として感じられるものという事になる。
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2024/9/30
「身体や脳にとっての知能の存在は、
よほど身近な存在として考えるよりも客観的な存在である。」
今日は知能による観測について考えていたのだが、
知能は身体や自分を制御している存在ではあるのだが、
身体や自分の変化に対して「観測」する存在として、
意外に客観的な存在であるという考えに至った。
つまり、感覚器官や脳が、必死に、
実際は必死ではないかもしれないが、
絶えずその機能を働かせて、
自身の身体が変化する恐れのある事象に対して、
その事象の内容、情報を収集しているが、
その情報に対して「知能」は観測者である。
量子論的な考え方を借りれば、
「知能は刺激や概感を観測して、
認識や意識を確定させる存在である。」
知能は脳内に構成された働きそのものであるが、
認識対象とした場合、概念的なソフトウェアである。
つまり、脳の機能の機構の上に成り立っている「働き」である。
実際に知能は実体があり手に取って見れるようなものではなく、
脳内に収められた定義の集合体といったものである。
つまり、知能は実体ある身体や脳に比べ、
仮想的な存在であるという事になる。
この考え方は人工知能などに当てはめても、
当然と言えば当然なのだが、
では、逆に知能が仮想的な観測者であるためには、
何が必要かと言うと、
相反して「実体が必要」という事になる。
生命にとっての知能は、
単に生命の身体を制御する主たる存在というわけではなく、
どちらかと言えば、
生命の身体が「必死になって」収集した変化情報に対して、
その経験に基づく、もっともらしい反応を選定する存在である。
つまり、知能は、
身体が遺伝的に持っている情報と、環境と身体から集めた情報と、
その経験としての記憶した情報から、
自身の身体にとって・生命として、
何が良いかを導き出す働き、という事になる。
つまり、知能は、
生命としての実体ある存在に対して、
構成された1つの機能である、という事になる。
人間の身体とロボットの身体、
人間の知能と自律型のロボットの人工知能の違いにおいて、
決定的な違いになるのは、
知能が身体のために働いているか?
という事になる。
つまり、人工知能がロボットの身体のために働いているか?
という事である。
やや哲学的な考え方にもなるのだが、
人間の知能の存在が、自身の生命としての身体の為に働く機能であるなら、
ロボットの人工知能は、自身のロボットの身体の為に働く機能であるのか?
まず、人間の身体と知能の関係に当然の様に存在する知能であるための目的が、
ロボットの身体と人工知能の間に存在するのか?という考えになる。
現在のLLMにしても他の多くの人工知能と呼ばれるシステムにしても、
その目的は、人工知能の身体の為に働く機能ではない。
つまり、人間にとっての知能の存在であるようには、
人工知能は知能の存在ではない事になる。
人工知能が真にある存在の知能であるためには、
その存在の為に働く機能である必要がある。
その存在はロボットの身体であり人工的な体である。
知能にとって身体がその認識や意識として確定する観測の対象であるのは、
身体や脳が知能を機能として必要としたからでもある。
であるなら、
人工知能が知能としての観測者となるためには、
その観測する対象である身体や脳の存在が必要になるという事である。
つまり、
身体と知能の関係である、実体と観測者の関係を、
ロボットの身体と人工知能の関係として置き換えるなら、
ロボットの身体を観測する人工知能であれば、
本来の意味での「知能」になることが出来るという事になる。
自分を観測する人工知能には、当然、認識や意識も発現する事になる。
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今回はこの辺で。
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