2024/9/6-2024/9/16

認識の情報量と時間

認識や意識する対象である事象において、
知能が一度に観測できる認識や意識のできる情報量の上限が存在し、
1つの事象のみで情報量の上限に達しない情報の場合は、
複数の対象を同時に認識したり意識したりすることが出来る事になる。

これは、以前の例にあるように、匂いを感じていながら景色が見えるなど、
ある瞬間における認識や意識として関連を持つ事象が、
複数同時に認識や意識される場合がある事から言える。

つまり、情報量において、認識可能な情報量の上限に達するまでは、
複数の事象に含まれる情報の要素を、
1つの複合的な対象として関連させ同時に認識したり意識したりできるということになる。

逆に、情報量が多ければ、1つの事象のみが認識されたり意識されたり、
場合によっては1つの事象でさえ情報量が多すぎて、
認識や意識した事象が理解や把握が出来ない状況になる事も考えられる事になる。

つまり、認識の対象の情報量によっては、
認識プール内の事象全体を意識しようとする事もできるし、
認識プール内の1つの事象を集中して意識するという事もできる事になる。

認識プールは短期記憶と近しいものであると考えられるので、
認識プールで保持できる情報量は短期記憶として保持できる情報量が近しい量になると考えられる。
つまり、最近に再構成された刺激か概感であり、
認識可能な対象として存在する事象の全てという事になる。
この場合、長期記憶は想起によって概感となった時点で認識プール内に発現する事になる。

意識対象の情報量は、上下限が決まって存在するというよりも、
意識が、連続する認識の連続性の観測を元にして発生する事になるため、
意識の情報量の上下限は認識した事象の情報量により変化することになる。
この事から考えると意識対象の情報量の限界量には定まった量が無く、
認識対象の事象の情報量に従うことになる。

認識対象の事象の情報量の限界は、
神経細胞の励起の機能の、分子レベルの物理的な反応速度に関係する事になる。
つまり、その認識に掛ける時間当たりで処理できる神経細胞の励起、そのものの量という事になる。
つまり、瞬間的に認識を行う場合、その認識対象の事象の情報量は、
その瞬間的な単位当たりの時間に励起が可能な神経細胞の数が定義する情報の量であり、
認識に掛ける時間が長ければ、それに比例して事象の情報量を増やすことが出来る事になる。

つまり、例えば、
ある知能が0.1秒で神経細胞を励起できる情報量の限界がXであった場合、
ある出来事(0.1秒)で認識可能な事象の情報量の限界はX以下である事になる。

情報のまとまり、情報の区切りとしての終端の存在も考える必要があるが、
ある事象が完結するために必要となる神経細胞の励起、その全体の励起が完了するまでに
必要となる時間は、その認識対象である「事象」が事象として存在できるために必要となる、
情報の要素を全て励起するまでに必要となる時間と同じになる。
つまり、事象によって、情報量が異なるように、励起の必要時間も異なる事になる。

これは、ある事象に対する、知能による神経細胞の励起に必要な時間が決まるということでもあり、
それは、事象を構成する情報の要素とその関連が知能毎に異なるため、
その励起や認識において、知能毎に個体差が生じる事になる。

ただし、認識において、延々と励起を継続し、
次々と関連した事象を再構成しながら認識することが出来るかというと、

396:認識プールと複数の事象の認識
で考えた
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つまり、事象の関連の終端は「自分」の事象の存在になるのではないかというわけである。
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この事から、ある認識される対象に対する自分の存在の関係の再構成が行われた時、
認識の区切りが発生して、認識される事になると考えられるため、
認識の感覚としては、連続的に認識が続いている様に感じるが、
実際は知能の観測において、刺激か概感として、
変化情報と自分の情報の関連が再構成された場合に、
断続的に認識の区切りが発生していると考えられる。

つまり、
感覚器官や想起により、刺激や概感の変化情報を受容した場合、
情報としては、連続的にその励起の信号は知能に送られている事になる。
つまり、振動の合成のように、ある感覚に対する変化情報は、
連続的ではあるが、様々な情報が合成された状態で知能に送られることになる。

特に視覚や聴覚などは、瞬き等の瞬間的な断絶はあるが、
目を見開いている間は常に、耳も塞がない限りは連続的にその変化情報を受容している事になる。

これらの変化情報は、知能に到達した後、
定義による再構成と、関連する想起が行われ、刺激や概感が構成されるが、
変化情報が連続的であれば、この再構成も連続的である事になる。

つまり、次々と再構成された刺激や概感が認識プールに発現する事になる。

しかし、
次々と再構成された刺激や概感が単純に連続して認識されているだけではなく、
この状態で断続的な認識の区切りが発生するのはどういうことになるかというと、
知能がこの刺激や概感を認識する際に、反応を出力する必要があるからという事になる。
つまり、単に刺激や概感を連続して認識するだけであれば、
確かに認識や意識を連続して観測すれば良い事になるが、
知能は、変化情報を認識するだけの存在では無く、
自身の個体にとっての変化情報に対して、反応を示さなくてはならない機能だからという事になる。

つまり、変化情報は連続的に延々と送られてくるので、
再構成も半自動的に、連続的に延々と行うのであるが、
知能はその観測に対して反応を起こす必要性を機能として持っている。
つまり、自身の状態、ステータスを連続的に更新するというだけの、
単なる観測者だけではいられないのである。

そのため、刺激であれば先天的定義の感覚や感情など、
概感であれば後天的定義の経験による対応、適応の想起を再構成して、
変化に対する反応として、知能自ら観測し、反応としての目的の作成と実行を行う必要がある。

つまり、この時点で、知能は断続的な認識の区切りを必要とし、設けている事になる。

つまり、知能の行う反応には、その行動としてアフターフォロー、
つまり、行動の実行に際して、その間の状態変化のフィードバックによる反応行動の修正を必要とする。
もちろん、反応は目的として知能が自発的に自身の個体を操作する事になるので、
認識対象も、その反応行動に関連する刺激や概感を優先して認識する事になる。
また、新たな変化があれば、当然目的の修正として、ここでも認識の区切りが生じる事になる。

つまり、連続的に受容される変化情報に対して、
再構成は連続的に行われるのであるが、
認識や意識が常に連続性を持つというわけではなく、
知能の機能として、その反応をする時間が必要となるという事である。
認識や意識の感覚としては途切れることなく刺激や概感が存在するように感じるのであるが、
認識や意識とそれに対する反応は、並行して連続性を持つわけではなく、
区切りとなる切り替えが存在していると考えらえる。

この辺りの考え方としてはコンピュータ上のOSの働きが似ている事になる。

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人工知能における認識としても、
連続的な変化情報の受容というのは必要であるが、
その観測だけでは認識や意識として考える事ができないというのは、
この知能の観測に対する反応の有無が、
知能を持つ個体としての知性として見える事に関係していると考えられる。

つまり、人工知能が、単に連続した変化情報の観測と、
結果の出力だけを行うのでは、弱い人工知能のままであり、
これが、強い人工知能であるには、変化情報の観測に対して、
知能を持つ個体自身の固有の反応を起こす必要がある、
という事になる。
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わずかな時間であれば認識できる情報量というのはそれほど多くないと考えられる。
まあ、多くないというよりも、決まった情報量で制限が掛かっているという事になる。

つまり、各感覚が受容可能な情報は、
それ自体が生体としての感覚の情報量の上限そのままという事になる。

つまり、視覚において可視可能な範囲と色彩の情報は、
視覚における単位時間で受容できる情報量のそのままの上限という事になる。
つまり、ディスプレイ等の可視可能範囲の画素数と色彩の情報を掛けたものと同様という事になる。

もちろん、複数の感覚の情報を同時に受容すれば、
自ずと、単位時間における受容可能な情報量は、
刺激としての強さの配分と、
感覚の数で割った分だけ減る事になる。

つまり、単位時間に受容可能な変化情報の情報量は、
認識可能な対象が刺激か概感であるため、

刺激の場合の情報量(上限)=五感を含む体性感覚の情報の総和

概感の場合の情報量(上限)=想起した変化情報の総和

このどちらかという事になる。
そして、認識における情報量の上限は、

認識の情報量(上限)=刺激の情報量 × 刺激の割合 + 概感の情報量 × 概感の割合

刺激の割合:0以上~1未満
刺激の割合:0より大~1未満:2024/10/18:修正
概感の割合:1-刺激の割合

という事になる。
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覚醒状態においても睡眠状態においても、刺激の割合が0や1になることは無く、
認識プールに事象として再構成されていると考えられる。
ただし、意識のある状態で認識しているような、刺激や概感として再構成されているのではなく、
非常に弱い刺激や概感として再構成されているのではないかと考えられる。

つまり、刺激や概感の再構成において、自身の身体性の関連が強ければ、
覚醒時の刺激や概感のように認識や意識として、実際に自分が感じている様に観測できるが、
認識や意識に至らないような刺激や概感というのは、
変化情報は感覚や想起として通常通り再構成されるが、
知能が観測対象として自身が感じるというような刺激や概感の為の「自分」についての情報の再構成が、
十分でない為に、認識や意識として構成できないのではないかと考えられる。

つまり、例えば睡眠中の認識や意識が無いと言われるノンレム睡眠中などは、
実際は感覚などの変化情報は常に受容されていて、刺激の再構成の為に励起も用意もされているのであるが、
これを刺激として構成する為の「自分」の情報の定義が再構成されない為に、
刺激として再構成や、その後の認識、意識に至らないのではないかというわけである。

つまり、意識のある状態では、
変化情報の受容に対して、関連する想起として、
先天的定義である自身の身体性の定義が再構成されて刺激となり、
認識や意識されることになり、意識のある状態が維持されるが、
意識の無い状態では、
変化情報の受容に対して、関連する想起として、
先天的定義の定義が再構成されない為に、
刺激が再構成されないのではないかというわけである。
刺激が無ければ、当然、認識や意識に至ることは無い。

脳の活動として、つまり、対象が先天的定義であるという所がカギで、
これは単に予想ということになるが、
睡眠中や意識の無い状態では、脳が変化情報に対する「自分」を再構成していないのではないか、
という事になる。
つまり、先天的定義であれば、脳が本能的、生物的、遺伝的に直接管理している対象であるので、
睡眠中に再構成自体を制限できる機能を持っていても不思議ではない。

それは、逆にレム睡眠中に夢を見ている場合、
変化情報に対して本来の個体としての「自分」を再構成しているのではなく、
後天的定義の自分の知っている誰かを「自分」として再構成して、
それが認識や意識に至るからではないかというわけである。
これも予想になるが、
レム睡眠中の想起は、脳が刺激については本能的に再構成を制限しているが、
概感である想起については、脳の活動レベルとして、
再構成した概感が認識に至ってしまっているからではないかという事になる。
つまり、何らかの強い刺激や強い記憶が、睡眠中の刺激や概感の制限された状態の中でも、
レム睡眠中においては、認識に至る刺激や概感として再構成されてしまい、
それを知能が観測して「夢」として認識するのではないかという事である。
そして、この場合の刺激や概感は、脳が制限している先天的定義の「自分」ではなく、
自分が記憶している後天的定義のおよそ自分ではあるが、自分であるかのような誰かが、
この再構成に用いられるため、主観的な認識ではなく、客観的な認識として、
「夢」を観測して見るのではないかという事になる。

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認識の情報量と時間:

そして改めて表題の内容になるが、
意識としての対象の連続する認識において、
事象の区切りを考慮せず、単位時間当たりの認識可能な情報量は、
感覚と想起における単位時間で受容可能・想起可能な情報量の総和という事になる。

つまり、各感覚と、想起において、
単位時間当たりで励起可能な神経細胞が保有する定義から構成される、
刺激か概感が持つ情報の要素の情報の総和である。

その上限として、

上記の「認識の情報量(上限)」に単位時間で励起可能な神経細胞の数と、
各感覚や想起において、神経細胞の励起に対応する定義と情報の情報量の逆数という事になる。

つまり、単位時間当たりの認識可能な情報量の上限は、

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認識の情報量(上限)=
単位時間当たりの神経細胞の励起可能数(上限)×(神経細胞が定義する1つの定義の情報量/1つの定義を構成するのに必要な神経細胞の励起数)
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ということになる。
なお、現時点で各量は正確な定量的な値として求められてはいない。

あえて何か形ある量として考えてみる。

認識の観点から考えると、
ある事象の「定義」毎に、その情報の要素が構成されていると考えられる。

例えば、視覚において、ある単位としての画像情報は、
色彩やコントラストの差によって、視覚の画像が構成され、
それぞれに分ける事の出来る画像は、この差によって分離されることになる。

つまり、この文章においても、背景と文字の色のコントラスト差によって、
文字が浮かび上がり、それぞれの文字を視覚で捉えている事になるが、
当然、物体なども、画像内において、色彩やコントラスト差によって、
対象が分けれられる事になる。

そして、それら分けられた対象は、「定義」として、
それぞれの対象に情報の要素が定義づけられ、
1つの対象としての意味を持つ事になる。

つまり、視覚において、分ける事の出来る対象というのは、
それぞれに「定義」づけられた情報の要素を持ち、
その要素の関連全体で、1つの意味を持つ事象を構成するという事になる。

つまり、視覚において対象物を見た時に、
共通する要素が増えれば増えるほど、同じ要素を持つ似た物体として認識されるという事になる。

例えば、2つの赤いリンゴがあり、1つは普通の、もう1つはサイズは同じ様だが傷がついている。
これをある知能が視覚において画像として受容した場合、
赤く、丸く、どちらもリンゴとして認識はできるはずである。

ただし、傷の付いたリンゴは、
リンゴの「定義」に加えて、リンゴに関連した傷という「定義」が追加されていて、
定義された情報量としては、普通のリンゴに比べると情報量が多い事になる。

つまり、この2つのリンゴについては、
リンゴとしての「定義」において比べた場合、
どちらもほとんど同じ情報量を持つリンゴとして認識されるが、
傷を含めた視覚における2つのリンゴとしての認識においては、
その情報量に違いが生じる事になる。
当然、傷の付いたリンゴの方が情報量が多く、
認識においては異なる2つの対象という事になる。

しかし、逆に考えてみれば、
リンゴの定義も、傷の定義も、定義としては1つだけで、
その関連において、傷の付いたリンゴが定義されているという事になる。

もし、似たようなリンゴ10個が並んでいて、
認識において、それぞれ異なるリンゴの定義が存在していると考えると、
それらのリンゴの定義は、そのリンゴ毎に定義を持つ必要が出てくる。

つまり、食べてしまっても定義は個別に存在している事になる。
対象の1つ1つに固定の定義を持っていたのでは、
知能は数限りない対象を定義する必要が生じ、
恐らく他の多くを定義できないことになる。
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つまり、定義ありき、ではなく、対象を定義で分類している、という事になる。
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この分類自体は、感覚における神経細胞の励起であり、その関連である。

つまり、ある事象について励起された神経細胞が持つ情報の要素が、
同じ対象で関連するなら、その対象の定義は、その情報の要素の関連で「定義」されることになる。

当然、認識や記憶においても、その定義としての情報の要素の関連が、
その対象の「定義」という事になる。

つまり、視覚において、認識可能な要素の数と、要素の定義には関係があり、
認識する対象の数が増えると、対象毎の定義は少なくなり、
逆に対象の数を減らすと、対象の要素の定義は増える事になる。
これは、視覚における情報の総量は固定であるという事になる。

つまり、視覚において受容できるのは、視界の範囲内だけであるが、
そこから得られる画像は網膜全体の画像としては1枚分である。
この情報量は、水晶体などにおける焦点の違いはあるが、
画像1枚分には違いが無い。

つまり、視界内のどこをどのように「見た」としても、
視界内の画像は、あくまで「視界内」の1枚の画像であるという事になる。

そして、この画像内の情報は画像としては情報の上限が1枚の画像分である事になる。

その画像にどのような対象が含まれているか、
どのような要素を持っているかは問題ではなく、
視界内の画像1枚の情報量が上限として存在するだけとなる。

そして、改めて認識においては、
画像内の対象1つ1つに対して、対象の数と、対象が持つ要素の定義が割り当てられ、
対象物を認識する事になる。

つまり、視覚の視界内の画像は、その画像分の情報量が上限として存在するだけとなる。
もちろん、他の感覚器官についても同様である。

聴覚の音が音楽であるか、会話の言語であるか、生物の鳴き声であるか、
というのは、音、それ自体には関係なく、音は音だけなのである。
それを認識する際に、その前段階で対象の定義で分類する事になり、
音が音だけの意味を持たない事になる。

つまり、感覚における、ある変化情報の情報量の上限は、
各感覚においては一定時間には一定量の情報量の上限であると考えられる。

つまり、認識する情報量が異なるのは、その知能が持つ、
感覚に対する対象の定義の量が異なるからであり、
要するに、視覚で多くをよく見る個体の視覚の情報量は、
視覚に関する定義が多い為に多くの対象を見て多くの情報を得られ、
聴覚で多くをよく聞く個体の聴覚の情報量は、
聴覚に関する定義が多い為に多くの音を聞いて多くの情報を得られる。

つまり、感覚で受容する情報量は、個体毎で一定であるが、
その感覚に関連した要素の定義の量によって、感覚で認識できる情報量が変化する事になる。

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つまり、単位時間当たりの、

認識の情報量(上限)=
単位時間当たりの神経細胞の励起可能数(上限)×(神経細胞が定義する1つの定義の情報量/1つの定義を構成するのに必要な神経細胞の励起数)

これは、単位時間あたりにおける、

認識の情報量(上限)=感覚における受容可能な情報量×定義の数×定義毎の定義する情報量

であり、

単位時間当たりの神経細胞の励起可能数(上限)×(神経細胞が定義する1つの定義の情報量/1つの定義を構成するのに必要な神経細胞の励起数)

感覚における受容可能な情報量×定義の数×定義毎の定義する情報量

こういうことになり、
神経細胞が定義する1つの定義の情報量=1つの定義×定義毎の定義する情報量
であるから、

単位時間当たりの神経細胞の励起可能数(上限)×(1/1つの定義を構成するのに必要な神経細胞の励起数)

感覚における受容可能な情報量×定義の数

単位時間当たりの神経細胞の励起可能数(上限)

感覚における受容可能な情報量×定義の数×1つの定義を構成するのに必要な神経細胞の励起数

ということになる。

これはどういうことかというと、

単位時間当たりに励起される可能性のある神経細胞の上限は、
ある単位時間当たりに認識される可能性のある認識プールに送られる事象の再構成の上限であり、
これは、感覚毎において、
単位時間に感覚が受容できる一定量の変化情報に対して、
励起される対象の数と、その励起される対象毎が持つ定義の情報量を掛け合わせた物という事になる。

そして、それは、単位時間当たりに対して情報量は一定ではなく、
知能が持つ対象の定義としての情報量によって増減する事になる。

一定時間に感覚が受容できる情報にはそれほど個体差は存在しないのではないかと考えられるが、
脳は一定時間に励起する神経細胞はその段数と関連数については個体差を持つ事になる。
また、感覚による受容する情報量が一定であっても、再構成する情報量は、
知能毎に定義がまちまちであり、同じ感覚の変化情報の受容に対して、
同じ情報量の再構成を行うわけではない。

また、刺激や概感の再構成は、一定時間に済ませる必要はなく、
連続的に行われているというだけで、認識プール内に再構成済みの刺激や概感が発現するのは、
あくまで神経細胞の関連としての情報量として、その段数や関連の多さに関係する為、
再構成する時間は関係ないという事になる。

つまり、ある複数の物体が描かれた同じ画像だけを決まった焦点で1秒間見た人間Aと人間Bが居た場合、
視力などに違いが無ければ、
視覚における1秒間の画像の情報と情報量にはABともにそれほど違いは無いが、
AとBが持つ視覚における定義の数と定義毎の情報量には違いがあれば、
AとBが認識する事象の数と事象の情報量には違いがあるという事になる。

つまり、簡単に流れを説明すると、

変化情報

感覚器官

神経細胞の励起


↓←ここまでに個体差はそれほどない
再構成←定義←神経細胞←この再構成時点以降で情報量に差が生じる

認識プール

この場合、視覚に関連する定義の保有量が、人間A>人間Bであった場合、
視覚における1秒間の画像に対して得られる情報量は、人間A>人間Bという事になる。

ただし、これは認識できる情報量ではない。
認識はあくまで認識する対象の事象が持つ情報量というだけであり、
ここでの情報量の違いは、結果的に認識プールに発現する事象の情報量が異なるという事である。

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少し長くなってきたので一度区切る事にする。

今回のまとめは、
認識の情報量は認識する対象によって異なる事、

刺激や概感として再構成される情報量は、
定義の情報量によって異なる事、

一定時間に感覚で受容している情報量は、
個体差はあるが、それほど違わないと考えらえるが、
その感覚に対する定義の情報量が異なる事で、
認識対象となる情報量に差が生じる事、

それとおまけで、
覚醒状態と睡眠状態における認識可能な事象の対象と、
その事象の構成の違いによって、
「主観的な自分の認識」と、「客観的な夢の認識」の違いが現れるようになるのではないかという事。

こういった事について考えた。

今回はこの辺で。

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