2025/8/24-2024/9/10

目的の発生

396の続きを考えていたのだが、
何らかの思考をする際に、それまでの知能の活動を完了させ、
次の別の知能の働かせ方をしようとするという時は、
何らかのきっかけが生じる必要があるが、
このきっかけについて考えた時、
これまでは刺激がそれに相当するものと考えてきたが、
では、その刺激自体はどのようなものであるのかと考えた場合、
考える事自体が、何らかの目的を持った考え方をするわけであるから、
考えようとした時には何か思考の方向性のようなものは、
その「考えよう」の前時点で構成されているのではないかと考えた。

であれば、そのきっかけとなる刺激は、
目的の無い思考ではなく、何らかの目的を持った思考であり、
その思考としての知能の活動においては、
そのきっかけの刺激には何か決まった定義が存在するのではないかと考えた、
この場合、この刺激の定義が存在するのであれば、
目的として「思考をしよう」という刺激の定義があるのではないかと考えた。

つまり、先天的定義として「思考をしよう」という刺激の定義が存在するのではないかというわけである。

つまり、知能には本能的に「思考をしよう」という定義が存在するのではないかというわけである。

そして、ここからは今日の話になるが、
であれば、この「思考をしよう」という刺激は何に起因する、
つまり、何のために知能は「思考をしよう」という定義を持つに至ったかを考えた時、
認識や意識の維持の為、そして、それは生命がそもそもの「生きるため」という理由の為に、
知能に「思考をしよう」という刺激を持たせたのではないかと考えた。

つまり、刺激の本来の目的は、生命にとっての環境か自身の変化を把握する為という事になるが、
この刺激を知能が管理するようになり、
その刺激に対する反応を反射だけではなく、刺激を用いた様々な機能、認識や意識、記憶などに用いるようになり、
刺激それ自体の必要性が、受動的な対象から、能動的な対象に代わったのではないかと考えたわけである。

つまり、知能が意識を保つためには認識を連続して行う必要があるが、
認識を連続して行うためには刺激を連続して受容する必要がある。

刺激が無ければ概感を連続して想起しても良いのだが、優先されるのは刺激である。

つまり、知能が今の機能を持ち、それを維持するためには、
刺激がどうしても必要になる。
知能のほとんどの機能は、刺激を元にした想起として構成されたものであると考えられるので、
刺激なしには知能は働きようが無いのである。

そして、生命の存在自体の話になるが、
生命が知能を有し、その知能が生命のそれ自体を維持、存続させるための機能であるなら、
現在の生命にとっての知能は、自身の維持・存続の最も都合の良い機能の形という事になる。

そして、現在の人間の知能においては、
その機能が複雑化して、一応、自身の維持、存続の為の知能ではあるのだが、
その生命としての存在の定義さえ、置き換える事の出来るほどの機能を有する事になった。

つまり、生命としての自身の維持、存続よりも、
選択として死や犠牲となる事、生命の維持、存続以外を目的とする事、
そういった目的を自身の維持、存続より優先する事を定義することができるようになった。

これは、本来の生命の存在意義からはかけ離れた定義である。
別に存在意義の定義があったから生命が誕生したわけではないが、
生命は本能として、自身と種の維持と存続を目的としてその存在を継承してきた。
そして、基本的に後天的定義は、生命の誕生後の環境や自身の変化に対して適応する為に獲得した機能である。
はず、であった。

後天的定義は、先天的定義の組み合わせであるが、
事象の定義としては、その先天的定義は自然法則の定義を元にしている。
つまり、後天的定義は、もともと先天的定義だけを組み合わせた定義ではあるのだが、
その定義の範疇は、生命における先天的定義だけが対象ではない事になる。
つまり、後天的定義で、自然法則の定義も定義する事が出来るという事になる。

つまり、先天的定義を経由はするのだが、後天的定義と自然法則は関連を持てるという事である。

まあ、少し壮大な話になってくるのだが、
つまり、知能が後天的定義を行うことが出来るようになり、
生命としての本来の先天的定義だけでなく、自然法則に通じる後天的定義を得たということは、
知能はその把握対象が、生命の存在自体の枠から逸脱するようになったという事になる。

これは、先天的定義の刺激を通して、自然法則を後天的定義で定義できるようになり、
それは、生命にとっての定義だけでない定義を持てるようになったという事になる。

つまり、後天的定義の定義の対象は、本来の自身以外の定義になるのではないかという事である。

それは、自我も含めてである。

人間以外にも知能を有する生命はいるが、先天的定義を主に活用する種における範疇では、
その定義は生命の維持や存続だけに用いられる機能である。
また、一部、後天的定義を持つ事の出来る知能も人間以外にもあるが、
その用途は、あくまで生命の維持、存続の為の延長上の用い方である。

そして、人間の知能における後天的定義は、
生命としての人間以外の定義を得ることが出来るようになったという事になる。

つまり、そしてようやくここに戻ってきて、
「思考をしよう」という刺激は、
人間の知能限定ではあるが本来存在する先天的定義であるのか?
きっかけとなりうる後天的定義であるのか?
という疑問が生じるが、

例え後天的定義が、知能の本来の機能を逸脱した機能を持っていたとしても、
その直接の定義を構成する要素は、先天的定義であることには違いない。

であれば、「思考をしよう」という定義も、
先天的定義を元にした定義として存在する事になる。

つまり、「思考をしよう」の定義は、本能的に持つ機能ではなく、後天的定義ではあり、
何らかの先天的定義の刺激の組み合わせをきっかけとして想起される概感に相当するという事になる。

しかし、知能それ自体が何らかの刺激を元にして、
「思考をしよう」とする事はあるという事になる。

つまり、知能が突然「思考をしよう」と想起することは無いが、
何かきっかけの刺激を元にして「思考しよう」とする事はできるという事になる。

それを考えながら気になっていたのは、
知能による観測である。

なぜ知能は刺激や概感を観測して認識とするのか。

本来、刺激を認識して、その反応のみを個体に割り当てて活動させれば良かったはずである。

この場合は、先天的定義と刺激で、この機能は成り立つはずであった。

なぜ意識を持つに至ったのか?

これは後天的定義が関わっていると考える事は容易だが、
その理由が分からない。

認識においては、刺激として、変化情報と自身の情報が組み合わさり、
それを知能が観測する事で認識に至った。

意識は、認識された刺激と経験した刺激の概感における自分の存在が、
存在し続ける場合に現れる事象ということになる。

この場合、知能は、「思考をしよう」という事をなぜ優先させる事があるのか。

「思考をするべき」という刺激が存在したのか。

それとも刺激に対する反応、適応として「思考をしよう」と優先したのか。

考える時の仕草として上の方を見るという反応があるが、
それが絶対起こる反応ではないとしても、
つまり、視覚の焦点を合わせる必要のない何かに焦点を移動し、
視覚からの情報を制限するために行っていると考えられるのだが、
目をつぶってしまった方が、余計な刺激を受けなくて済むが、
目をつぶってしまわないのは、何か刺激を必要としているからなのではないかと考えられる。

つまり、想起する為に何か励起の参考・想起の参考となる刺激を必要としているという事が考えられる。

つまり、「思考をしよう」とする事は、
生命本来の活動ではない定義として、
後天的定義の定義であるのだが、
そのきっかけとしては、
先天的定義としての生命の自身に対するより良き反応であるための刺激が存在するという事になる。
つまり、先天的定義としての現状の刺激と認識に対して、
知能が、後天的に定義した自身のより良き反応として「思考をしよう」としているのではないかという事になる。

それは、自身に対する後天的定義ではあるのだが、
生命としての定義に当てはまらない、人間の知能独自の反応であるのではないかと考えられる。

つまり、後天的定義として、生命の定義ではない定義として、
自分独自の定義としての反応として「思考をしよう」は存在するのではないかという事である。

つまり、現時点における人間の知能において、
本能である先天的定義に対して、優位に立つことのできる後天的定義を定義できる。
少なくとも、これは言える事になる。

そして、それは「思考しよう」だけではなく、後天的定義全体に言えるという事になる。
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つまり、先天的定義でない定義は、ここでは後天的定義になるが、
後天的定義は、先天的定義を元にしてはいるが、
その構成要素である情報の要素は、
刺激として直接認識している刺激を構成するものではなく、
想起した概感を構成している情報の要素という事になる。

つまり、後天的定義における、ある「目的」となった概感は、
その時点では知能はまだ現実的に実際に認識していない事象という事になる。

つまり、経験として記憶されている何かに対して、
「目的」という概感として認識している事になる。
つまり、経験した事象であれば、後天的に仮想的な「目的」として構成することが出来て、
その定義自体を、知能が保有(記憶)している事になる。
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396について考えて、
少し視野を広げて考え直すと、
思考は想起の1機能であるから、
思考にはきっかけとなる刺激か概感が必要となる。

概感は、刺激か概感のどちらかをきっかけとして必要とするので、
いずれその発端には刺激を必要とする事になる。

知能は単独で何かの反応を示すことは無く、
機能としては基本的に受動的に働く。

つまり、「思考をしよう」においても、
知能は、自発的に「思考をしよう」とすることはなく、
刺激のきっかけを必要とする事になる。

知能において自発的な何かはありえるのか?

私が自分自身で考察する人工知能や知能についての内容の全てにおいて、
私は自発的に考察しているようにも感じるが、
実際は考察の前には目的が存在し、
目的の前には自身の目的の結果を得る事に対する充足を満たす期待がその先にある。
期待は自発的ではなく、期待自体を目的として想起しているに過ぎず、
結果を得て充足出来たら良い、という事を目的としているだけである。
つまり、考察を行う準備をしている段階では、
充足は存在せず、充足されるかもしれないという想起、
つまり、目的としての要素として、充足を想起して、
概感として構成している状態という事になる。
充足の概感は、認識においては後天的定義の自我の定義ではあるが、
実際に主観的に認識されるものではなく、客観的な事象という事になる。
つまり、充足を概感として認識した状態というのは、
客観的に自分が充足状態にある、という状態を想起で再構成しているものであり、
実体の主観的な自分は充足をまだ感じていない状態ということになる。

つまり、概感の感覚は、想起される感覚だけが存在するが、
それを実体験として感じている自分ではないという事である。

つまり、感覚だけが存在するが、自分はそれを認識できるが、
感じていない状態ということになる。
つまり、この状態では、充足であれば、
充足が存在するであろうと認識はしているが、
自分はそれを感じていない事象ということになる。

つまり、目的は存在するが、その目的に相対する自分が主観的には構成されていない状態。
つまり、認識において言えば、
期待される変化は目的として構成され存在するが、
それを変化として認識するための「自分」の構成が、
想起や概感における本来の認識では、それは「自我」などに相当する「自分」であるのだが、
この目的の時点での「自分」は、実際の自身の個体である「自分」ではない、
仮想的な「自分」という事になる。
つまり、恐らく未来に存在する「自分」の状態を、
目的に対して構成して認識しているのではないかというわけである。

つまり、知能において自発的な何かはやはり無いことになるが、
ある刺激に対して想起する何かについては、
実際に存在しない何か、
つまり、想起した対象についてと、想起した自分を合わせる事で概感とし、
それを認識して目的に出来るという事になる。
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つまり、この想起が目的になるのではないかと考えられる。
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つまり、何らかの充足に関連する刺激の認識に対して、
概感である充足、つまり、過去に経験した充足に関連する経験と、
その知能が持つ、自我における充足に関連した事象を想起して、
概感が構成され、この概感が目的になるのではないかというわけである。

つまり、知能は自ら何かを得たい、充足したいのではなく、
何かが充足された事があるので、この先、別の充足も得たい、
という事になる。

人間以外の知能において、充足と満足は先天的定義であり、
後天的定義の充足がほとんどないというのは、
知能としての脳の能力によるものであるが、
もし、後天的に充足に関連する先天的定義以外の事象を関連付けることが出来れば、
人間以外の知能においても、後天的な目的に対して行動を行う事ができるようになるのではないかと考えられる。

つまり、類人猿の一部には、
ある目的の為に直接的な行動でない行動を経由することが出来る種がいる。
確か、自動販売機のような機構で、コインを特定の場所に入れると、
飲食物が得られるというような機械に対して、
実際にコインを投入して飲食物を得ている映像を見た記憶がある。

自然界においては、得ようとする対象が実際に存在するかしないかと、直接得るか得られないという事で、
充足するかしないかが決まるが、
充足を目的とした別の行動を経由して、結果の充足を得るという行動は、
後天的定義の充足に対する目的ということになる。

つまり、現時点で認識していない充足の対象に対して、
何か行動ができるということである。

先天的定義での本能としては、獲物を探すような行動は考えられるが、
後天的定義の対象について、その行動を目的として関連させるには、
後天的定義を定義する能力が必要になる。

つまり、本能などの先天的定義でない目的は、
当然、後天的定義による充足に対する関連を持つ事象の記憶によって、
それらの後天的な目的を作ることが出来るのであるが、
この後天的な目的は、先天的定義の目的と少し異なるのは、
先天的定義の目的の様に決まった事象である対象が存在して、
その対象に対して刺激として再構成されて認識されるのではなく、
直接的ではない事象の認識に対して、目的となる充足に関連した事象であった場合に、
充足の定義と概感としての対象の想起が起こった後に目的として構成されて、
その後の行動に繋がっていくという事になる。

つまり、定義としては、先天的定義であっても、後天的定義であっても、
充足とその対象の関連は同じ様に関連していて、
刺激や概感として再構成されるのであるが、
先天的定義と後天的定義の目的が少し異なるのは、
その目的を欲するきっかけが先天的定義においては先天的に存在するのであるが、
後天的定義の場合は、他の充足の目的に関連して想起される概感としての目的であるという事である。

つまり、先天的定義の目的は、そのきっかけを認識した時点で欲求が生じてきっかけ自体が目的となるが、
後天的定義の目的は、そのきっかけが実際に存在していなかったとしても、
充足に関連している事できっかけになり、目的になるという事である。

つまり、
先天的定義では、直接認識可能な対象と充足の関連が存在し、それが目的となる。
後天的定義では、充足は明確であるが、その後、目的となる対象は明確な対象でなくとも、
充足に関連さえしていれば目的に成りうるという事である。
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つまり、先天的定義の目的は、自分である個体が実際に認識している対象を目的とするが、
後天的定義の目的は、自分である個体が、今実際に認識していない対象であっても、
つまり、想起した概感であっても目的とすることが出来るというわけである。
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つまり、例えば、
今、目の前の木に生っている果実を欲しいと思うのが先天的定義の目的であるとすれば、
以前、その木に生っていた果実を欲しいと思うのが後天的定義の目的であるというわけである。

この例で言えば、後天的定義の目的を想起した場合、
知能はどのように働くかというと、
また後でここに来ればよいと思うとか、
その時期として、以前果実が生っていた季節を思い出すとか、
そういった事を関連して想起するという事になる。

この場合、その後天的定義の目的を想起するきっかけは、
実際に存在する事象に関連して想起するものではないので、
そのきっかけは必ず別の刺激か概感をきっかけにしている事になる。

つまり、同じ果実を食べたとか、その食べた事、味などを思い出したとか、
似たような木を見たとか、必ず関連のある別の刺激か概感をきっかけとする事になる。

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つまり、まず、

1:
目的には先天的定義の目的と後天的定義の目的が存在するという事。

2:
先天的定義の目的の場合は、
その事象自体がきっかけとなり目的になっているという事。

3:
後天的定義の目的の場合は、
目的に関連する刺激か概感の認識に関連した想起として、
目的に成りうる充足に関連した事象の想起が目的と成る事。

これが言えるという事になる。
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そして、話は戻って「思考しよう」という事象がどのように現れるかというと、
まず認識において、「刺激」<「概感」となる事象が発現する事。

つまり、認識の二面性において、想起による客観的な自分が構成要素となる事象が、
認識プールに構成される事。

そして、その概感が認識プール内で最も強い刺激量(励起量)を持つ事。

この状態であれば、知能はこの概感について認識、意識することになる。

後は、刺激に対する反応と同様に、
知能は受動的にその概感に対して反応を想起する事になる。

そして、具体的に「思考しよう」の場合、
認識プール内に刺激量の大きい緊急的な刺激が存在しない事。
その状況を認識するための刺激において、想起が行われる事。

この時点で、認識対象は刺激による主観的な自分の認識から、
客観的な自分の認識が主になる。

つまり意識が、想起される客観的な自分を含む概感の意識に移る事になる。

この意識の対象の変化が起こりうる状態については明確な答えは出ていないが、
現時点で考えられるのは、「定義」なのではないかと考えている。

つまり、先天的定義としての変化と定義の関連については、
先天的定義としての関連の重要度が定義されている。
当然、刺激としての変化の大きさと、刺激としての刺激量の反映の定義は、
この定義に従う事になる。

つまり、例えば、ある強さで触れられた感触が、弱い感触か強い感触か、
という事自体の定義が存在するというわけである。
つまり、定義においては、
1の力で触れられた力を、1の感触として定義することもできれば、
1の力で触れられた力を、10の感触として定義する事もできるというわけである。
この定義は、人間の定義においては先天的定義としては、
変化情報と刺激の関係として遺伝的に定義されている。

この定義において、後天的定義においては、先天的定義を元にしてはいるが、
その定義の刺激量の定義は、個体毎、定義毎に変えることが出来る。

つまり、ある状況の認識において、
その認識から関連して想起される後天的定義である概感は、
個体毎、定義毎に何か決まった想起による、決まった概感が構成されるという事になる。

つまり、ある個体において、
ある状況を認識した場合、その想起によって、
刺激よりも刺激量の大きな概感が構成される事があるという事になる。

そして、その概感が「思考しよう」であれば、
その知能は「思考しよう」を認識し、意識する事になる。

ここまでくれば、後は知能が意識した「思考しよう」について、
その前段階における「思考しよう」の認識に関連して想起した事象を、
「思考した」結果として再構成し、概感の「思考した」結果として認識、意識する事になる。

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つまり、人間の知能であっても、
「思考しよう」を経験する前の段階であれば、
「思考しよう」を想起する事はないので、
目的として「思考しよう」が再構成されることは無い。

知能における「思考」すること自体の経験と、
「思考」する事自体に対する定義として、
その知能を保有する個体が、「思考する」事に対して、
刺激よりも大きな刺激量を定義し、
その定義が後天的定義として想起される状況を認識する事が出来た場合、
その知能は「目的」として「思考しよう」を想起できる事になる。

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知能における定義と、「思考」の刺激量の定義について:

となると、「思考」する事に対して、
知能や個体がその刺激量の評価の定義をどのように定義するかという事が疑問に上がる。

つまり、ある同じ状況下にあったとしても、
個体と知能によって、刺激を認識する場合と、概感を認識する個体が存在する事になるので、
知能毎に定義は異なる事になる。

この定義は先天的定義ではなく後天的定義になるので、
人間に共通する定義とはならない。

つまり、ある個体の知能にとっては「思考」をする事の刺激量は大きいという定義であり、
別の個体の知能にとっては「思考」をする事の刺激量の定義は小さいという事もある事になる。

「目的」自体は、意識を維持する為に刺激か概感の認識を必要とするので、
刺激から概感としての「目的」、
または、概感から概感としての「目的」、
として再構成される。

ただし、この「目的」は、知能毎に経験や定義が異なるため、
「目的」としては同じ定義なのだが、
「目的」としての対象となる事象は異なる事になる。

つまり、「目的」として「思考する」を再構成する知能もあれば、
「運動する」知能もあり、「休む」「料理する」そういう知能もある事になる。

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意識の為の想起であるのか、という点については、
結果的なものであり、
生命における認識の扱いは、
あくまで、個体に対する自身の外か内からの変化情報に対して、
刺激として受容した情報に対する知能の観測が「認識」であり、
意識は生命そのものに対してはそれほど重要なものではない。

知能の記憶する能力と、定義する能力によって生じた、
刺激の受容と認識に対して副次的に生じた「想起する」という機能が、
自分の定義の記憶と、自分の定義の想起に対して、
客観的な自分を再構成し、客観的な自分を認識するに至り、
その客観的な自分を認識する状態を、知能が観測する事によって「意識」が生じた事になる。

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人工知能に対して:

人工知能に目的を持たせるには、
そもそもの知能毎の固有の定義を持つ機能が必要となる。

つまり、自身の個体に対して変化をもたらすような変化情報を受容し、
その変化情報に対する、自分にとっての定義を設定することのできる能力、
そして、その定義を記憶し、後の状況によって、
その定義された事象と、自分を関連して想起し概感を構成できる能力、
これが必要となる。

特に、自分にとっての定義を設定する能力で言えば、
ある事象に対して、自身の刺激量の「評価」を定義する能力。
これが重要となる。

つまり、社会一般的に言えば自分にとっての「価値」の定義である。
「価値」の言葉自体はコミュニケーション上の評価の定義であるとしたので、
あまり適切ではないが、
つまり、ある事象の自分の評価基準にのっとった結果としての評価である。
つまり、好き嫌いとか、良し悪し、高低、など、
「刺激の評価」の結果、これを定義することになる。

当然、知能にとって評価の高い事象は、
より想起しやすく、認識されやすく、意識されやすい。

知能にとっては、この事象は頻繁に認識や意識がされ、
「目的」になりやすいという事になる。

つまり、明示的に「目的」という定義を設定する必要はなく、
どのような状況においても、より想起されやすい事象というのは、
その知能にとって認識、意識されやすい事象という事になる。

そのため、その定義を設定する時点、
その知能が定義する評価に注意を払うべきという事になる。

人間に限らず知能においては教育の期間、自ら学習する期間、
つまり、その教育や学習に対して気を付けるべき、という事になる。
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今回はこの辺で。

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