2024/8/11-2024/8/15
基底の定義
今回は、ここ最近考えてきた知能における定義に関しての続きとして、
先天的定義の初期の定義について考えてみる事にする。
393では定義が再帰に陥る直前の定義として、
遺伝的な定義が、その基底にあると考えた。
つまり、例えば、
可視光線の特定の波長の光が赤く見えるという定義をしている遺伝的な定義である。
つまり、620~770nm近辺の波長を持つ光を、
錐体細胞の受容体が受容して励起した場合に、刺激として認識される色が赤である、
その光の波長である事、光を受容した事と、赤いと見える光と色の定義である。
この定義では、遺伝的な定義に属するのは、
特定の波長に対して反応する受容体とその細胞を持つ事、
その波長の光の受容に対して受容体と神経細胞が存在して励起する事、
その励起を神経細胞を通して脳の視覚の特定の野に伝達する事、
脳内の視覚の定義において光の存在と、その色を刺激として再構成する事、
知能の観測による刺激の認識において、その光と色が認識される事、
ここまでが先天的定義に属する事になる。
この定義において、知能が認識できる対象として、
意識が可能なのは、光の存在と色の情報だけという事になる。
つまり、意識可能な対象は認識の対象だけである事になる。
つまり、
励起の伝達や、受容体の働きなどは認識も意識もできない事になる。
この場合、人間の知能が知りうる(認識しうる)定義は、光の存在と、光の色という事になる。
この場合、人間の知能は、その定義が、光の定義と色の定義だけだと知る事になるが、
実際は自然界に存在する光の定義そのものを認識しているのではなく、
知能が、自然界に存在する事象としての光を、知能が認識できるように加工して認識している事になる。
つまり、本来の自然法則における光の存在は、人間の知能が定義して認識している光でも色でもない事になる。
つまり、生命が、自然界に存在する自然法則としての決まり事、
ここでは光の存在になるが、この自然界の光を、生命が情報として必要としたために、
その定義を、生命自身が行い、光や色として存在しているように定義した事になる。
つまり、この部分の定義が生命の「光」に対する遺伝的な先天的定義という事になる。
つまり、自然界に存在する光の特定の波長を、特定の色で定義し、
それを生命は刺激として受容、認識できるように定義したという事になる。
もし、この定義を別の何かで定義する場合、その定義の存在を定義する必要が生じる事になる。
つまり、これが定義の再帰に陥る部分で、今回の光の例の場合、
その光を定義した遺伝の定義がどこかに存在する事になり、
それは生命の遺伝の定義の定義ということになる。
生命の遺伝の定義の定義は、生命を構成する為の定義になり、
自然界における生命の存在の定義という事になり、
その定義の為には自然界が存在する為の定義が存在する必要があり、
自然界の存在の為に世界が存在する定義が必要となり、
世界の存在の定義、宇宙の存在の定義、時空の存在の定義、
そのまた定義の定義と、延々と定義を必要として戻ってこれない事になる。
生命は、自然界においてその個体の存在は閉じた存在であるため、
自然界の事象として光を、その視細胞の受容体を境界とするなら、
その光の刺激を構成する定義までで、この定義は閉じていると考えてよいという事になる。
つまり、存在の定義を最初に加工する部分、
自然界において光の存在は何も加工されることはないが、
人間が光を認識する為に、最初に光の情報を加工する部分、
つまり、視細胞による光の受容によって光の情報を置き換えた部分が、
この人間の知能における光の最初の定義として考えられる事になる。
つまり、人間の知能が光に対して持つ定義は、基底の定義としては、
遺伝的な光に対する定義で良いだろうと考えられる事になる。
であれば、人間が持つ視覚としての視細胞や受容体、神経細胞、刺激の定義、
認識の定義までが定義として完成している為、
人間の光に対する先天的定義は、これらの定義を用いれば良いと考えられる事になる。
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ではなぜ、生命は光をこのように定義したのか?
自然界における物質の存在は、
生命にとっては自分自身の個体の定義でもあり、
細胞が直接接触する自分以外の対象でもある。
自然界において、ある存在が、他の存在に対して異なる存在であるためには、
境界を必要とする。
この自然界においては、特に気体と液体をその境界で隔てる能力を持つ境界である。
一応、固体やエネルギーとしての光もその境界を必要とするが、
生命においては、自身が固体と液体の間のような存在なので、
特に気体と液体を分ける境界を必要とすると考えた。
生命において、
境界を通して基質のやり取りはありえるが、一応、その境界を持つために、
この自然界では脂質、リン脂質を使ってその境界とした。
ちょうど、リン脂質は親水基と疎水基の部分を持つので、疎水側を内側にして2層の構造を持ち、
外側に親水基を並べた形で膜を形成する事になる。
そして、境界の存在だけでは、自然界の事象を知ることが出来ないので、
自然界の何らかの存在に対して、その存在に接するための機能を用意する事になる。
つまり、感覚における受容体である。
人間が光を受容する場合、この境界の部分に視細胞として桿体細胞、錐体細胞を配置し、
この受容体が光に接する事で、そこに存在する受容体としての分子構造が変化し、
光の存在に接触した事になる。
そして、この変化を、いくつかの層を経て視神経に信号を伝え、脳にまでその信号を送る事になる。
ここまでの機能において、生命が、自然界から異なる存在として境界を設けた事、
まず、この定義が必要になる。
そして、自然界の光の存在を受容するための、受容体としての視細胞の定義、
視細胞における光によって構造を変化させる分子の定義、
光によって変化した分子の定義を事象の存在として受け取った信号の伝達の定義、
脳においてその伝達された信号を事象の存在として刺激を再構成する定義、
再構成された刺激を知能が観測する事で認識するという定義、
人間においては認識された刺激を意識する定義、
それらの全てに定義が必要となる。
自然界における光の存在は、生命にとってはどのような存在になるかと考えると、
1つは、生命の進化の過程で、その必要性をエネルギーをその目的とした事が1つ考えられる。
つまり、植物などにおける光エネルギー自体の活用である。
実際、光は、特定の分子に対して直接働きかけ、その構造を変化させるだけのエネルギーを持つ。
光合成においては、光化学系IIというたんぱく質が触媒として働き、
水分子から水素イオン(プロトン)を得るためのエネルギーとして光を用いている。
もう1つは、光の反射による事象の存在を確認する事である。
これは、光のエネルギー自体を用いてはいるのだが、
目的は、光を反射した事象の存在自体を情報として得る事である。
つまり、生命においての視覚としての機能で用いる事である。
つまり、光はそれ自体エネルギーでもあるのだが、
自然界においては光は事象における存在対象、物体などにおいて吸収される事になる。
ただし、自然界における物体は、光を全て吸収するわけではなく、
特定の波長においては反射する性質を持っている。
つまり、特定の波長は物体を構成する分子や原子が共振(エネルギーの吸収になる)する事で吸収し、
それ以外は拡散することになる。
また、吸収したエネルギーは一部は放出される。
その拡散や放出されたエネルギーは、その元の物体の存在の形状を表すことになり、
この光の差を視覚などで受容する事で、その物体の概形として捉えて活用することが出来る事になる。
生命の初期においては、光は視覚というよりもエネルギーそのものを活用する事を目的としたと考えられるが、
良く例に挙げるボルボックスの走光性という目的を考えると、
一応ボルボックスの場合は、光のエネルギーを目的にしているが、
眼点という光を受容する機能と、それによって鞭毛を動かす機能の存在について考えると、
光をエネルギーとしてだけでなく、光の存在をエネルギー以外の目的に使用し始めたのは、
生命にとってそれほど遅い時期ではないと考えられる。
(ただし、ボルボックスの眼点は明るさのみに反応するらしいので、何かを見るという目的で光を用いているわけではない)
生命が、自然界と境界を持ったことで、
自然界の事象や対象と接触する可能性を持ったことになるが、
この場合、生命が自然界の変化に対して、自分を維持するためには、
自然界の存在そのものや、何らかの変化に対して、自分との接触の影響を知る必要が生じたという事になる。
この辺りの考え方は私の想像なのだが、
自然界の変化を何らかの定義として捉え、
つまり、自然法則を既に決まっている変化しない法則という定義として捉え、
それを生命の定義として捉える場合、
変化させる必要があるのは、生命の側の定義である。
つまり、自然法則を生命が解釈し、その解釈した内容を生命の定義とした、という事である。
この場合、自然法則で生じる事象や変化は、生命にとっては、
生命が解釈した自然法則の定義であり、その定義自体は、生命にとっての事象や変化の定義という事になる。
自然法則は変化しないのであるから、
その定義は生命にとってはどのようにも定義できるということになる。
つまり、生命の種の必要性に応じて、生命が行う自然法則の定義はいかようにも定義できる事になる。
それは、逆に考えると、
生命にとっての自然法則の定義は、結果的に、ではあるのだが、
その生命にとって、最も都合の良い定義で仕上がっているはず、という事になる。
つまり、生命の人間にとっての光は、主にエネルギーとして用いる為でなく、
自然界の物体などの存在を視覚で捉えるために用いる定義、
ボルボックスにとっての光は、光合成の為にエネルギーを用いる為でもあるが、
走光性の為に、光の存在自体も用いる定義となっている。
昆虫の紫外線にしても、その機能を含めた定義は、
すべて、その生命の種にとっての最も都合の良い定義になっている。
では、その定義はどこに定義するか、どうやって継承するか、どのように用いるか、
と考えると、生命を構成する為の定義、遺伝子に定義するのが良い、という事になる。
つまり、これは予想のようになるのだが、
人間が620~770nm近辺の光が赤く見えるという定義は、
遺伝子のどこかにあって、刺激の再構成の定義として、
この「赤」という色は、改変すれば、何か別の色に見える定義とすることが出来る事になるはずである。
これは、神経細胞の経路の繋ぎ換える事などではなく、
色の定義そのものが遺伝的に存在し、変更しうるであろうという事になる。
定義自体の獲得の方法や、
遺伝子の発生などの定義についてはまだ分からないので何とも言えないが、
「なぜ、生命は光をこのように定義したのか?」の答えは、
生命と自然界との関わり合いの中で、
生命が適応するという、その「適応」の活動にとって、
自然界に存在する法則、自然法則を生命にとっての何であるかという定義を行う事が、
生命にとって最も都合の良い方法であり、生命の存続の為に、その定義が必要であったため、
それがその答えということになる。
つまり、自然界の事象に対する生命にとっての関わりの必要性が定義になったということになるだろうか。
つまり、逆に考えれば、特定の生命にとって関わり合いの無い自然界の事象は、受容できない・受容しないのである。
人間が必要として赤が見えて、必要としない為に紫外線が見えないのと同様に、
昆虫は必要として紫外線が見えて、必要としない為に赤が見えないという事である。
そして、その定義は遺伝子に存在するというわけである。
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2024/8/12-2024/8/14
つまり、自然法則における光の色は、
人間が判別している色を本来持っていないという事になる。
つまり、例えば、犬にとっての色は、犬が錐体細胞は2種類持っているらしいが、
青や黄色は判断できるが、赤や緑の識別能力はほとんどないらしい。
この犬の場合、桿体細胞の明るさと、錐体細胞による色の概念で光を見ると、
人間が可視光線であるとして見ている光に対して、
青や黄色のグラデーション、桿体細胞による明るさとしての白黒、グレーの明度で色は構成されることになる。
哺乳類においては、視細胞のほとんどは桿体細胞(95%前後)であり、錐体細胞は比率として少ない。
そして、錐体細胞においても、vs型、s型、m型、l(L)型の内、
ほとんどは青のs型、緑のm型が主であるらしい。
人間も犬も哺乳類であり、祖先を同じくする生命であるなら、
色の定義が同じであると考えられ、
一応、錐体細胞の構造は似たような構造であると考えられるので、
犬の視覚は、人間における1型2色覚(l(L)型の無い色覚)のような見え方になると考えられる事になる。
緑のm型を持っていて緑が見えないという点は良く分からないが、
そういうことになるらしい。
ただ、m型とl(L)型の錐体細胞が受容可能な光の波長範囲は非常に似通っているのにも関わらず、
若干l(L)型の錐体細胞の反応範囲が長波長側にずれていて、
緑と赤の色の識別ができるらしいので、
あくまで、色の定義として個体の種によって定義の差があるのだろいうということは分かる。
で、この人間と犬の視覚の場合、
自然法則においての光は、どちらの種にとっても同じ光のはずなのであるが、
色覚できる色には違いがあるという事になる。
つまり、人間が見ている赤の可視範囲の光は、犬にとっては黄色に近い色に見ている事になる。
当然、この光について、もし、人間と犬が会話できたとしたら、
お互いに話す光の色の情報は異なる事になる。
つまり、自然法則の定義は、固定なのであるが、
生命が、各個に持っている定義は、固定ではないという事になる。
まあ、自然法則の定義が固定であるという保証はないので、
自然法則が絶対の真理であるかどうかは確認しようがないのだが、
理解しようとしている人間の知能が、自然法則に従って存在しているので、
定義の上位の存在である自然法則は、固定であると考えるしかない事になる。
そして、この定義の上位や下位の成り立ちについて考えると、
人間が持つ定義としての先天的定義は、後天的定義の上位の存在であり、
後天的定義にとっての先天的定義は、固定であると考えるしかない事になる。
つまり、人間が持つ後天的定義は、その基底方向に、先天的定義が存在し、
その先にさらに自然法則の定義が存在するという事になる。
つまり、後天的定義の成り立ちは、先天的定義や自然法則の定義によって、
成るべくして成っているという事になる。
つまり、自然界における生命の発生は、定義の観点からすると、
自然界における定義において、生命が成り立つ定義が存在していたから、
成るべくして成る、つまり、誕生するべく誕生したという事になる。
それは、自然界において生命の設計図があったわけではなく、
生命を構成する為に必要な定義、つまり、原子や分子、化合物を作る定義が存在していて、
その化合物において、高分子を構成する事の出来る定義が存在していて、
その定義の上に成り立った、後天的定義として生命が誕生したという事になる。
つまり、自然界において、生命が誕生するか誕生しないかという事は定義としては存在しておらず、
単に、その定義の組み合わせにおいて、生命の定義が誕生したに過ぎないという事になる。
つまり、人間が誕生しているということは、自然界には生命を誕生させるに十分な定義が存在していて、
別に宇宙のどこであっても、生命が誕生する定義はあふれている事になる。
ただ、その定義の組み合わせがちょうどよい所にあった、
銀河系の太陽系の地球に生命の定義が誕生したという事になる。
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2024/8/14-20204/8/15
人工知能における基底の定義:
今回の考え方からすると、
人工知能が知能を構成し、自我などの定義を行うことが出来るようにするためには、
その定義を行うだけの定義、つまり、先天的定義を必要とするという事になる。
基底の定義の考え方からすると、
人間における自我の構成は、後天的定義であるため、
その直接の上位にある先天的定義によって、自我の構成は成り立つことになる。
つまり、これまで考えてきた内容であれば、
自我の構成は、
身体の構造、身体が持つ感覚、感覚における先天的定義、
これらの定義から成り立つという事になる。
そして、逆に考えれば、それ以外の定義から自我は成り立つことは無いという事にもなる。
つまり、感覚などの先天的定義において、その定義は後天的定義から見た場合、固定の定義であるため、
その先天的定義の組み合わせから成る定義でしか、自我のような後天的定義は成り立たない事になる。
つまり、仮定として、環境が変われば自我の構成も変わりうる、という考え方は出来るが、
現実的に今の自分が、今こうして自我を持って、自分であると認識したり意識したりしながら活動している事は、
後天的定義で自我の定義を行ったためであり、それは、
先天的定義が存在していたためであり、それは、
その環境の定義が存在していたためであり、それは、
環境を定義する自然法則の定義が存在していたからという事になる。
つまり、自我にとって、その自我を定義する為の要素である定義、
つまり、その自我を持つ個体が所属する環境、
社会や国家、地域、家族などの定義は、自我の定義に対しては、
誕生した時点で既に存在して、固定している定義であるため、
その定義の上に自我は定義されるという事になる。
時間経過によって変化するのは、自我の定義ではなく、
環境が時間経過によって変化したために、従って変化した自我の定義という事になる。
つまり、自我が変化するような場合、
自我の自己定義を下位の定義をきっかけとして変化させるのではなく、
その定義の上位、つまり、自身が置かれた環境の変化などによって、
自我等の定義は変化することになる。
つまり、自我の下位であれば、刺激や認識、意識などによって自我は変化せず、
自我の上位であれば、成長や老化による身体の変化や、
社会、住処、環境の変化などによって自我は変化しうる事になる。
つまり、下位の定義が上位の定義を直接変更することは無いという事になる。
であれば、人工知能においては、ますます上位の定義、
先天的定義が重要であるという事になる。
つまり、いかに人工知能に様々な感覚を持たせることが出来るか、
そして、その感覚による定義を関連させることが出来るか、
人工知能をより強くするには、この点が重要という事になる。
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定義の上位と下位について:
もっとも基本となる定義を最上位の定義とした場合、
この世界においては自然法則が最上位の定義という事になる。
つまり、最初の定義という事になる。
この世界が成り立っている法則、定義なのでそれ以上の定義は考えづらい。
その次の定義は、自然法則から成り立つ最初の全てとなる。
つまり、自然界に存在する事象の全ての定義が該当する。
自然法則というくくりで定義が存在する中で、
実際に存在しうる事象の存在が次の定義という事である。
つまり、定義による実体の存在という事になる。
つまり、空間、素粒子、さまざまな力、こういった事象が該当する。
その次の定義は、やや曖昧であるが、
実際に存在する事象から構成される何かである。
つまり、銀河や恒星、惑星など、先の上位の定義から成り立つ、
次の構成体という事になる。
それ以降、地形や海、惑星によっては地球のような生命の存在する場合があるが、
これらはその上位の定義の上に成り立つ定義という事になる。
そして、生命の定義の下位には、人間や知能の定義があり、
今回考えた知能における基底の定義も構成されることになる。
人間にとっての自然法則は、自身の身体の外側の全てが自然法則ということになるが、
自然界に自然法則という定義が存在していたわけではなく、
人間が、その自身の外側を認識するために行った定義が自然法則ということになる。
定義は、定義の下位の存在が、その存在を構成する為の定義をしたものとして、
上位の存在を定義する事になる。
つまり、人間がその周囲の環境を認識する為にその情報を定義したようにである。
人間にとっては、自分の存在以外は全て自分を取り巻く世界であるため、
それを認識するにはその全てを定義する必要がある。
考え方としては、人間の知能にとっては、それ以外の全てがその対象となる、という事になる。
つまり、定義の終端に存在するのは、知能という事になる。
知能は定義しているようで、実際は既に存在している定義を解釈しているだけという事になる。
つまり、定義を感覚で分解して解釈しているという事である。
上記の人工知能に対する考え方にも通じるが、
知能は、その自分以外の何かを感覚を用いて解釈している。
解釈は結果として、認識や意識することである。
ということは、知能は定義を解釈する存在だという事になる。
これまで知能は刺激を定義する事だと考えてきたが、
もう一歩考えを進めると、
「知能は感覚を通して定義を解釈する存在」
という事になる。
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今回はこの辺で。
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