2024/8/4-2024/8/9
先天的定義の要素
今回は事象の定義において、
先天的定義の定義そのものの要素について考えてみる。
できれば、先天的定義自体を解明する所まで迫ってみたい。
これまで定義の根底にあるのは細胞における分子や情報や変化の「接触」にあると考えてきたが、
実際、この接触によって決まるのは、細胞が持つ受容体に合致する、
何らかの事象の存在という事になる。
そして、この事象の接触により、細胞が、この事象の存在を神経細胞を用いて脳まで信号を送る事で、
この信号に対する意味付けとして、脳が保有する定義によって、刺激が概感を再構成する事になり、
その再構成体を知能が観測し、その事象の存在が認識に至るという事になる。
この時、定義として、その接触に対して1対1で存在するのは、
事象の存在に対してというよりも、この受容体の接触に対する反応としての定義という事になる。
つまり、受容体が特定の事象に反応するという時、この事象に反応する定義を持っているという事ではなく、
この受容体自体が反応したという事に対する定義という事になる。
つまり、定義は事象の存在を意図する定義ではなく、特定の事象に反応した事に対する定義であるという事になる。
つまり、事象の存在を伝えるのではなく、事象に反応した事実のみ伝えるという事である。
では、例えば視細胞における錐体細胞(すいたいさいぼう)で主に色を、
桿体細胞(かんたいさいぼう)で主に光を受容した場合に、
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桿体細胞ではロドプシン=レチナール(シス型)+オプシン(アポタンパク質)が、
光(エネルギー)によってレチナール(トランス型)に遷移、この遷移によって励起のきっかけが生じる事になる。
そして光(エネルギー)を失うとシス型に戻る。
錐体細胞では、フォトプシン=レチナール+オプシンであり、
オプシンを構成するアミノ酸の違いにより反応(共振)する光の波長が異なり、
桿体細胞同様に光の色に特定的に反応する事になる。
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その色や明るさについてどのような定義となるのかと考えてみた場合、
通常は、錐体細胞は、光の波長に対する反応は、神経細胞を経由して脳に送られ、
その光の波長に関する定義を用いて光の刺激を再構成し、特定の色の光の存在と、その受容を認識するという事になる。
桿体細胞についても同様である。
しかし、今回の考え方の場合は、
錐体細胞は、その細胞において、ある波長の光の接触によって励起し、
そのある波長の光の存在自体を神経細胞の励起に置き換え、
神経細胞を経由してその励起を脳に送り、定義と再構成を用いて刺激を再構成し、認識する事になる。
桿体細胞も光について反応し、その存在を励起として脳に送る。
一見、同じであるように思えるが、
光の明るさや波長に対して、反応し、その反応を励起として伝える機能において、
伝えているのは、反応、それだけであり、明るさや波長の情報を伝えているわけではないという事である。
つまり、受容体は、特定の事象に対して反応するが、
その事象についての情報は何も伝えていないという事である。
つまり、事象が何であるかという事は、定義側に全ての情報が含まれているという事になる。
つまり、ある光の明るさ、ある光の波長に対して視細胞は反応し、
その反応を励起として神経細胞を通して脳にその反応の事実を送るが、
光についての何らの情報も脳には送っていない事になる。
では、なぜ、光がそこにあるように認識できるのか。
これまでの考え方で言えば、
認識可能な対象のその全てを「刺激の再構成の場」で再構成しているからという事になる。
最近の考え方で言えば、「認識プールに存在する刺激と概感で認識される事象の全てが構成される」という事になる。
しかし、これまでその再構成するという所までは考えてきたが、
定義そのものについての構成については、まだ考えた事がなかった。
これまでは「情報の要素」=「定義」でひとくくりにして考えてきたが、
では、その情報の要素の定義とはどのようなものであるか、今回はそれを考える事になる。
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先天的定義の要素と定義:
今回用いる例として視覚の視細胞の桿体細胞による光の明るさに対する刺激を考えてみる。
桿体細胞1つが、ある光の明るさに対して反応し、
その反応を神経細胞の励起で脳まで伝えるとする。
これまでの考え方であれば、刺激の再構成の場における、
視界全体において、その桿体細胞が配置されるある場所に対して、
脳内に存在する定義を用いると、その場所に光が存在するという意味付けにより、
明るい場所が視界の中に再構成されることになる。
これが光の明るさの刺激という事になる。
この時に用いられる定義は、
現実世界のPCなどに用いられるディスプレイにおける1ドットの輝点ということではなく、
脳内で再構成される視界内において、特定の場所の明るさという事になる。
別に同じ事なのではないかとも考えられるが、
今見えている視界は、上下も左右も見たまま正確であり、
理解しやすい形になっているが、網膜内において結ばれる像や光は、本来その位置が逆転している。
つまり、定義において情報は理解しやすいように整理・変更されているという事になる。
つまり、光の性質上、光が像を結ぶ時、上下左右の方向は逆になるという事。
実体の像が、上下や左右の定義を持っていて、それを認識において、
その像の存在、そのままに認識する為には、単にその上下左右の定義を、
そのまま上下左右として再構成すれば良いだけであるので、
網膜に結んだ像の映像を最初から網膜の下方は実体の上方、
左右は実体の右・左として定義されていさえすれば良い事になる。
これ自体は、別に定義として脳内で処理されているというよりも、
単に関連としてその励起情報が、画像を構成する方向にだけ関連していればよいので、
定義として方向の先天的定義が存在している必要性は無いことになる。
ただし、上が上である、下が下である、左右は左右、という定義は、
当たり前のようであるが、定義として存在する必要はある。
つまり、ややこしいことになるが、
もし、網膜に結んだ像の上下左右がさかさまな状態で、
脳がその像を実体の存在そのものだと定義した場合、
恐らく視覚に関係する感覚の全ては、上下左右が逆で当然のような定義となるはずである。
つまり、実体の右方向に何かを投げるとした場合、
視覚においては左方をめがけて何かを投げる事になり、
その投げた物は、視覚の右上方に向かって落ちる(昇っていく)のを普通だと認識する事になる。
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先天的定義が定義であり、
何かの決まりが存在するわけであるから、
実世界の事象の存在と、認識している再構成された事象の存在は、
その決まりによって変換可能であるという事になる。
実世界の事象→(変換)→再構成された事象
そして、この変換は不可逆的である。
この変換における
変換の定義の二面性の境界は脳の特定の感覚の領域という事になる。
つまり、感覚としての刺激の励起の伝達までが実世界の事象であり、
再構成された事象からは概感となり、定義上の構成体という事になる。
上記はそのまま、変換を先天的定義として置き換えて理解できることになる。
実世界の事象:(先天的定義):再構成された事象
では、情報を変換している、この先天的定義とは何なのか?
光が光として見えて、
光が分光によりスペクトルが得られる。
波長によって可視光などにおいては色相の違いが見て取れる。
それらは全て先天的定義による事象の再構成体である。
ボルボックスの走光性において光の受容体が存在するのは、
ボルボックスが光の存在方向を得るためである。
ボルボックスは、光の向かってくる方向を必要とした。
定義としては、光の存在に対して、反応する器官を細胞の外周に持つ事により、
上記の視細胞のように特定のたんぱく質の遷移によって、
光の存在の有無を確認できるようになり、
その光の存在するという事象を、細胞に存在する受容部の位置により、
その光の存在する方向が指示されるという事になる。
ボルボックスは、その定義を、
走光性における光の方向の定義として持っているという事になる。
それは元々定義であったのか?という事になる。
つまり、定義は必要な条件と反応に対して、その反応自体を事象として捉え、
観測する事によって事象として見ているが、
定義そのものは、条件と反応を理解、認識する為のものであり、
それは元々、定義などではないという事になる。
つまり、事象、それ自体が存在するが、
定義はあくまで観測者によって定義されているものだという事になる。
つまり、定義は後天的なものであり、
先天的に存在するのは、事象、そのものだけだという事になる。
ということは、先天的定義であると考えているのは、単に「事象」であり、
実世界の事象:(先天的定義):定義
なのではないかという事になる。
つまり、
実世界の事象:(定義):再構成された定義
実世界の事象:(定義):再構成された情報の要素の関連
事象:(定義):情報の要素の関連
これは刺激にも概感にも当てはまる事になる。
つまり、事象それ自体は、定義において情報の要素の関連として構成されるが、
事象の1つ1つの要素は、単に情報の要素としての意味だけなのではないかという事になる。
事象の要素=情報の要素
つまり、ある事象の観測において、
用いられる定義は、事象が持つ情報の要素に対して、
定義が持つ情報の要素の意味だけが1対1で対応し、
事象の構成は、情報の要素の関連で成り立ち、
この場合、定義は、感覚器官が受容した要素の関連としての対象、
つまり、その感覚の受容1つに対する励起が定義として構成する要素となる。
つまり、先天的定義は、感覚の受容部1つに対して、
1つの励起の関連が、その定義として対応し、
定義自体は意味付けとしての意味を持つわけではなく、
関連そのものの存在のみが定義として存在するという事になる。
であると、再構成がおかしなことになる。
つまり、関連する励起だけが定義の場合、
再構成する際に用いることが出来るのが情報の要素の関連だけになってしまい、
事象が再構成できない事になる。
つまり、概感がテンプレート(要素の関連のみ)そのままを認識するような状態になり、
実体の無い事象を再構成する事になってしまう。
つまり、どこかに再構成体を色付けする意味のある定義を持たせる必要がある。
それはどこか?または、それは何か?
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2024/8/6
昨日から先天的定義について考えていた続きなのだが、
定義が存在しない状態で事象を構成できるかという事を考えていた。
つまり、事象を意味づける定義が存在しない状態で、
つまり、神経細胞の励起だけで何か意味のある事象は説明できないか考えていた。
昨日、それでは事象が説明できないと考えたテンプレート(要素の関連のみ)だけで事象が説明できないか?
という事である。
そして、
光と視覚の例の事を考えていて、ふと、
自分が今見えている視界の情報は、あまりに早く再構成されてはいないか?という事を思った。
つまり、何か事象の定義を参照して、刺激を再構成するには、
あまりに情報量も多いし、速度が速すぎるのではないかと思った。
そして気づいたのは、視界の情報は、
神経細胞の励起1つ1つが事象の情報源であるのだが、
その励起の構成は既に出来上がっているわけだから、
視界における画像の構成は、出来上がっているスクリーンに画素を灯すような事なのではないかと考えた。
つまり、昨日、視覚はPCのディスプレイの仕組みの様にはなっていないと考えたのだが、
実際は、まさにディスプレイの仕組みと同様の仕組みで視界は構成されているのではないかという事になる。
つまり、視界の再構成は定義を参照して構成するのではなく、
視界は脳内で機能の構成として既に出来上がっていて、
視細胞の励起によって、その視界における対応する箇所に、
光の情報が「再生される」ように構成されるのではないかという事である。
つまり、生命が生命として誕生する際の成長の過程において、
感覚器官の受容細胞と、脳の特定の機能の領域野、その間を繋ぐ神経細胞のセットは、
その成長の際に、完成されるという事である。
つまり、先天的な機能として定義を必要としているのは、機能を構成する際の、その成長の過程だけであり、
生命の誕生の際には感覚の機能は完成していて、
それを用いる際に、改めて定義を必要としないのではないかという事である。
つまり、視細胞で光を受けると、その励起状態は脳の視覚の領域野まで伝わり、
その視覚を構成する神経細胞が励起されることによって光の存在が「再生」される。
つまり、視覚の刺激を作っているのではなくて、
存在する機能を使って、その視覚の情報を伝えて再生しているだけという事になる。
これまで考えてきた考察はもったいないが、
実際、そのような機能であるなら、わざわざ先天的定義を用いなくても、
刺激は再生できることになる。
であれば、当然、脳の刺激の観測による認識は、
感覚器官が再生する刺激の情報を観測している事になり、
認識と意識についてはこれまでと同様に、認識された刺激が意識の対象になりうることになる。
生体としての情報の伝達について考えると、
成長の過程で完成した感覚器官と神経細胞と脳の接続は、
その感覚器官の受容体の励起によって、事象の情報が伝わり、再生できることになる。
つまり、刺激を再構成して認識するのではなく、
再構成というより、実写の動画を再生するように、
「刺激の再生」を行っているのではないか、という事である。
この場合、
刺激の場合は、神経細胞同士の関連、連結は、シナプスの構成でよいのだが、
想起の場合はどうなるかというと、
今日考えて思いついた内容としては、事象には、
その情報の要素を構成するための励起のポイントがあって、
そのポイント毎に神経細胞のシナプスを構成し、励起すれば、
事象が構成できるのではないかと考えた。
つまり、想起における事象は、その概形の集合のみで構成されるという事である。
つまり、できないと考えたテンプレートによる事象の再構成という事になる。
正確には概形だけでなく、その感覚の機能には、再生される情報も含められているという事になる。
つまり、例えば、赤いリンゴを見て、視覚で赤いリンゴが見えるというのは当然である。
これを別の機会に、赤いリンゴを想像する場合、何がどのように見えるかというと、
私の場合は、「赤いリンゴ」に対しては、よくあるリンゴの絵のような、
赤い実に軸が付いて、軸に緑の葉が1枚付いているという絵が思い浮かび、
実の部分は赤く、軸はこげ茶、葉が緑、そういう画像が思い浮かぶ。
この時、想起しているのは、私がリンゴに対して記憶しているリンゴの形状としての概形である、
果実としてのリンゴの形状と、軸と葉の概形と、それらに関連する色の情報である。
この時、視覚を構成する感覚において用いられているのは、
現実的な視界ではないので、実際の視界の刺激を再生する時のルートではなく、
途中の、画像を構成する時の形状の位置に、再生する対象の形状に合わせた、
光の情報になる。この場合では、まず、リンゴの概形を表す、絵で描いたリンゴのような、
枠、縁どりのような絵が再生され、それと同時にリンゴや軸、葉の色が再生されることになる。
つまり、私が想起でリンゴを再生する場合、
リンゴの縁取りのような絵と、実、軸、葉の分類としての意味、そして、実、軸、葉の色が再生されることになる。
この時、神経細胞で励起されるのは、視覚の受容体ではなく、
脳内で構成されている視覚の機能においては、ほとんど再生する画面にほど近い部分の励起であり、
それを辿ると、リンゴの縁取りと、絵を構成する実、軸、葉の要素である、分類と色があり、
この関連をまとめて遡るあるポイント(リンゴを示唆するポイント)の励起によって、
このリンゴの画像が想起されるという事になる。
つまり、
想起(リンゴ)
↓
ポイント:リンゴ
↓
ポイント:リンゴの形状の縁取り・要素・色
↓
視覚の画像の再生部
↓
概感
↓
認識
という事になる。
ちなみに視覚における機能は先天的定義によって構成され、完成しているが、
リンゴについてのポイントは後天的な定義として構成されたものである。
つまり、後天的に各情報の要素毎のポイントにシナプスが構成されていることになる。
つまり、刺激や概感として構成する際の情報の要素は先天的定義で用意されていて、
その関連こそが後天的定義として構成されるのではないかという事になる。
つまり、後天的定義としての意味は、後天的に定義されるものではなく、
先天的定義の関連で構成される定義になるのではないかという事になる。
つまり、
事象の情報の要素:(先天的定義):情報の要素の定義
事象の情報の要素:(後天的定義):情報の要素の定義の関連
情報の要素の定義:(後天的定義):情報の要素の定義の関連
であり、
であれば、現実の事象の情報の要素毎に先天的定義としての定義を持ち、
後天的定義は、先天的定義に存在しない事象を、先天的定義の関連で構成した定義という事になる。
つまり、後天的定義は、先天的定義で存在する定義を用いて定義するものであり、
先天的定義に存在しない情報の要素を含む事象であった場合、その事象はその知能において構成不可能であるという事になる。
当然、その場合は認識できない事象という事になる。
例えば、昆虫などが人間と比べ可視光線の赤が見えづらく逆に紫外線などが見えるという場合、
昆虫には赤に関するような先天的定義が存在せず、逆に紫外線を意味する先天的定義を持っている事になる。
この場合、昆虫は人間が見ている赤については事象や刺激として認識できず、
当然その反応を起こす事もない。逆に、紫外線については人間は認識できずとも、
昆虫は紫外線については事象として認識し、その反応を起こすことになる。
例えば、人間において先天盲であれば、もし後天的にリンゴを経験する場合、
視覚的な画像ではなく、触覚によるリンゴの実物の形状、嗅覚による香りで記憶する事になると考えられる。
つまり、リンゴは丸くて少し硬め、底は少し窪んで、上の方に窪みと軸がある、香りは独特の芳香がある。
これを一般的なリンゴとして想像する場合、
視覚の画像ではなく、リンゴは丸くて底と上方に窪みがあり、軸があり、
少し硬くて、独特の香りがする、という物体が想起の再構成において概感になると考えられる。
ただし、人間の知能は少し後天的な定義の余裕があり、
直接感覚として認識できない事象についても認識する能力を持っている。
実際には、既存の先天的定義の組み合わせで、事象を後天的に定義できる能力に余裕があるという事になる。
つまり、例えば人間は紫外線を直接感覚で認識する事は出来ないが、
光の観測、光の分析、光のセンサー、などを用いて光の要素を定義し、
紫外線を測定し、可視的な定義に置き換えて認識することが出来ている。
これは、感覚として刺激として認識できない事象に対して、後天的な定義を行う事で認識しているという事になる。
つまり、人間は光を感覚においては可視光線の範囲でのみ「光」として認識できるが、
事象としての光は可視光線だけではなく、赤外方向にも紫外方向にも別の波長を含む事象として存在している。
これを人間は「光」という定義でエネルギーを持つ粒子が、そのエネルギーによって波長を持ち、
光の速度で移動するという情報の要素を計測や定義を行う事によって、後天的に事象の定義を得たという事になる。
もちろん、人間は誰も紫外線を見る事は出来ないが、
事象として認識可能な後天的定義を行い、そこに存在する事象としては定義して認識しているという事になる。
つまり、人間は後天的定義においては、定義さえできれば認識可能であるということにもなる。
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人工知能における先天的定義:
人工知能が知生体として人間に並び立つためには、
人間と同様の先天的定義を必要とする事になる。
つまり、人工知能が、人間の知能を元にして考えられるとした場合、
人間が認識する能力というのは、後天的定義であっても、
先天的定義を元にして、その関連を定義する必要があるため、
先天的定義の不足は、そのまま後天的定義の定義の自由度を低下させる事になる。
逆に、先天的定義が、もし、人間以上の感覚として人工知能に実装できれば、
それは人間以上の知能が構成出来る事になる。
これまでも考えてきた、人工知能に対する実体の必要性や、
感覚の必要性というのは、この先天的定義の為に必要であるという事に、考えが収束する事になる。
つまり、身体がなければ、身体の定義、自己の定義、自我の定義もできない事になり、
苦痛がなければ、人間の苦しみなどは定義も理解もできない事になる。
当然、後天的定義としての発展形の共感や感情などの定義もできない、認識できない事になる。
後天的定義だけでどうにかならないか?という考えもあるが、
そもそも、後天的定義は、先天的定義の情報の要素としての意味を関連付けた、その「関連」自体の定義であるため、
先天的定義なしでは成り立たない定義という事になる。
つまり、例え何百万、何億の定義を保有していたとしても、
人工知能にとっては(この場合は目的の人工知能とは言えないのだが)事象ではなく、
何1つ認識していない単なる信号に過ぎないという事になる。
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今回のまとめ:
これまでの刺激と概感と定義についての考え方自体を変更する必要があるが、
刺激は定義で再構成するものではなく、
刺激は構成された感覚の機構の定義で再生される事象の情報の要素という事になる。
そして、想起する場合、先天的定義で構成された感覚の機構を用いて、
ある事象が含む全ての要素に対して、各ポイントである情報の要素を関連によって励起する事。
この関連する先天的定義の励起によって、想起が行われ、概感が構成されるという事になる。
今回の重要な点:
・刺激(先天的な定義を持つ事象)は先天的に構成された定義による事象の再生である事
・後天的な事象(概感)は先天的定義の情報の要素のその関連である事
・人間は後天的定義によって直接認識できない事象を認識しているという事
つまり、刺激は、これまでと少し意味は異なるが、
先天的定義による感覚の機能の構成によって生じるという事、
つまり、刺激は先天的定義のみで構成されるという事。
刺激は再構成に依(よ)らず、再現・再生に近いものであるという事。
今回の表題の答えとしては、
先天的定義は、刺激としての事象を再生する機能を定義するものであるが、
これまで考えてきた先天的定義としての意味としての定義は、
どこまでいっても定義の定義になってしまうのだが、
あえて定義の区切りをつけるとすると、刺激としての情報の要素を最も情報の要素として分離し、
認識しやすい形で定義したものとするしかない事になる。
つまり、今自分がこのように刺激を認識しているのは、
そういう定義であるから仕方がないという他ない事になる。
つまり、
恐らく、先天的定義は遺伝的に人間に共通するものであるため、
遺伝的に定義が同じであれば、私が見る色と誰かが見る色はほとんど同じであると考えられる。
ただし、その遺伝的な定義として、その色が見える定義というのは、
何かによって定義されたものではなく、遺伝的に継承された結果として、
このような定義が最も適していたために、その定義が継承され用いられたという事になる。
つまり、ここが認識しうる定義の限界点であり、
これ以上の定義は、遺伝的な定義の存在を研究するしかない事になる。
つまり、遺伝的な変化によって、見る色に違いが生じるかという事を知る必要が生じる事になるが、
色の定義と見える色の定義の定義が必要になる事になるため、これ以上は再帰に陥いる事になる。
つまり、認識における知能の観測が、その認識の終端であるという考えと同様に、
先天的定義としての定義の終端は、遺伝的な先天的定義として考えるべきものという事になる。
つまり、視覚はこのように見えるのだから、そういうものであると認識する他ないという事になる。
後天的定義は、これまでと同様に、先天的定義同士の組み合わせもしくは、
先天的定義と後天的定義の組み合わせ、後天的定義同士の組み合わせで構成されるという事になる。
後天的定義それ自体は、関連そのものであり、
後天的定義の関連の励起によって構成されるのが「概感」になる、という事。
その関連の構成はシナプスの関連の構成でもある事。
想起のきっかけなどについては、これまで通りの考え方で今の所は良いと考えられる。
つまり、刺激をきっかけとして想起は行われるという事である。
認識や意識についても、現時点ではこれまで通りの考えで良いと考えられる。
人間が認識しうる事象は、
生体のみであれば、感覚で保有する先天的定義が存在する情報の要素のみ認識できる事になるが、
事象自体が保有する要素、つまり、自然界における事象の定義(究極的には真理)を後天的に定義すれば、
それを事象として認識が可能であるという事になる。
ただし、天動説や地動説などのように、人間の知能においては、定義した内容で認識する事になるため、
もし、自然界の真理でない定義を行ったとしても、そのまま認識してしまう、認識できてしまう事になるため、
常に定義の確認と更新は必要になる。
当然、今回のこの内容も、定義して認識したことになるが、真理であるかはまだ分からない。
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今回の内容を元にすると、
想起を元にした思考や創造、想像などは、
基本的に定義の定義で成り立っているという事になる。
他にも、自我は個体が認識可能な感覚を構成する定義と、
その定義の後天的な関連の定義で成り立つという事。
という事が分かる事になる。
今回はこの辺で。
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