2024/7/28-2024/8/3
感情と情報の要素
ここ数日、感情について考えていた。
まず、
感情を刺激や概感として構成する時の定義、
つまり、例えば、心地よいとか、気ぜわしいとか、
心苦しいとか、淋しいとか、哀しいとか、
そういった定義の意味付けは、情報の要素としては、
先天的に定義されたものである。
そして、
この感情の情報の要素がどのようなものであるかというと、
変化情報としては、自身の身体の状態が変化したという、
感覚器官が受容するのと同様の認識の情報・定義であり、
感情を刺激や概感を再構成する場合においては、
その構成要素に用いられる、という事になる。
そして、身体に起こる反応としては、
その身体に感じられる上記のの心地よさとか、気ぜわしさなどの、
実際の身体に感じられる状態変化を起こす意味のある存在でもある。
そして、
ある刺激の元となる変化情報に対して、
身体が、その変化情報に対する実際の反応を示し、
この変化情報と反応を知能が観測、認識する事によって、
身体が体験した変化と、その身体の反応が刺激として認識できる事になる。
つまり、何か変化を知るのに感情を用いる場合、
身体で受容する変化情報については実際に体感して分かる事になる。
では、それ以外の要素として、
なぜこのような感覚の定義になっているのか、まで考えると、
その体感に用いられる反応の定義によって、知能はその後の目的を作り出すのではないかと思いついた。
つまり、その身体の反応としての「感じ方」は、定義として、
知能に目的を構成させる時のきっかけや理由になるのではないかという事である。
つまり、単にある変化情報に対する反応の定義という意味だけではなく、
その反応を身体に感じさせる事で、知能にその反応の次を考えさせるためのきっかけになっているのではないかと、
気付いたという事である。
つまり、情報の要素に、知能にその後の先の事を考えさせるきっかけが含まれているという事。
そのきっかけは、変化情報の認識の仕方として、身体にある特定の状態を与えているのではないかというわけである。
これは、五感の感覚において、その情報の必要性として、
生命は変化情報を刺激として受容し、
その刺激に対して何らかの反応を起こすことになるという事から、
感情も、その感情の状態を刺激として受容するなら、
その感情に対して何らかの反応を起こすのは、
感覚同様の情報の必要性を持っているからではないかと考えた事になる。
つまり、上記の例の、心地よいとか気ぜわしいという感覚の体感は、
別に変化情報自体が持っている意味ではなく、
変化情報を刺激や概感として再構成する際の参照した定義に含まれている意味であるから、
結果として再構成された刺激や概感を認識した時に、
知能がその後の反応としての行動や目的を作り出すきっかけは、
単にその刺激や概感を認識したから自動的に知能が目的などを作り出すのではなく、
もう少し情報の要素の定義には意味があって、
身体に感じさせる感覚をそのきっかけの情報として含んでいるのではないかというわけである。
つまり、身体的にある感覚変化の意味を定義しておいて、
その感覚に対する感じ方を定義しておいて、
知能に、その感じ方に対する反応を用意させる、というわけである。
つまり、身体的に心地よいなどであれば、反応の緊急性は無いが、
気ぜわしいとか、心苦しい、淋しい、哀しいは、できれば早く回避、忌避したい状態である。
これらの状態を身体に与え、知能が観測すれば、
知能はどうするべきかというと、この否定的な状態を回避する何かを作り出そうとする事になる。
つまり、知能が自発的に何か目的のようなものを掲げるのではなく、
感情に対しては、その体感によって、知能が働くよう促されているのではないかというわけである。
------------------------------------------------------
これまでは、
情報の要素の定義=情報本来の定義
として考えてきたのだが、実際は、
情報の要素の定義=情報本来の定義+自身に与える状態の定義
こうではないか、という事である。
つまり、生命にとっての変化の情報は、
生命がその変化に対して反応を起こすためのきっかけになっているのではないかというわけである。
逆に考えれば、反応を起こす必要がなければ、生命はそれを変化として受け取らないという事になる。
------------------------------------------------------
だから、感情に限らないが、知能がある状況や状態を認識する事によって、
自発的な次の行動の目的や目標を作り出すというのは、
この自身に与える状態の定義が、情報の要素に含まれているからではないかという事になる。
これは、知能の意識的な活動のきっかけそのものとなる。
つまり、これまでは、ある刺激や概感の認識に対して、
知能が意味や価値などを評価して、その反応を決めると考えていたのだが、
実際は、これまで考えていた「評価」部分の反応は、もう少し前倒しされた工程、
つまり、認識前の刺激や概感の再構成時にその情報や意味が含まれているという事になる。
そして、その刺激や概感の認識において、知能は自身の状態の変化として現れているはずであるから、
知能が、これを観測した時点で、では次に知能は、その反応や対応の次の行動や目的を作ろうとする事になる。
であれば、この本質的な定義の意味合いは、何を基にしているかという事になるが、
これは、生物的な定義、本能としての意味を元にしていると考えられる。
つまり、その身体への状態を与えるという定義は、
生命として、その状態に意味があるという生命的な変化を受け入れたという事になる。
この辺りの変化は突然変異というよりもエピジェネティクス的なものであると考えられる。
つまり、命の存続にとって、もっとクリティカルな変化であれば、
その定義の有無によって種の遺伝情報が完全に変化する必要があり、
その定義の有無によって生存と絶滅の差が生じるほどに違いが出るが、
種ごとに知能が完全に機能を分けるでもなく、機能の複雑さにおいてのみ、
知能の存在の違いがあるということは、他の先天的定義から比べると、
生命の存在にとってのかけがえのない定義というよりは、
有利か不利かという程度のものであったのではないかというわけである。
つまり、環境がそっくり変化するような変化ではなく、
適応というような形で、より明確な意味があって、
その変化を遺伝的に受け入れようとした生命の段階があったのではないか、という事である。
生命と変化情報の関係は、根源的な定義は「接触」であると考えているので、
であれば、その変化状態に対する接触について、自身の状態をある状態に変化させる事で、
その変化状態を、自身の身体の状態変化に置き換え、知能はその変化状態を、
自身の身体の状態変化として観測、認識するという事になる。
つまり、自身の状態変化を、その変化情報の状態として受ける事で、
自身の状態に対して、知能が自発的に何か反応を起こせるようにしたという事である。
つまり、単に変化情報を認識しただけでは、知能がその変化に対する反応を決めることが出来ないので、
実際に自身の身体の状態を変化させる事で、実際に自分の状態が変化し、
その反応や対応を決める必要性を生じさせている、という事である。
今回は感情を元にして考えているが、
であれば、他の刺激や概感についても、その再構成に用いられる情報の要素には、
同様の自身の身体の状態変化を起こす要素も含まれていると考えることが出来る。
つまり、感情を発現させる変化情報だけでなく、
認識によって、次の行動や目的を決める必要性を生じさせるような変化情報は存在し、
その刺激や概感の再構成時には、そこに含まれる情報の要素には、
知能に次の行動や目的を決めさせるきっかけを含む定義が参照される、
という事になる。
例えば、「空腹」が感情かそうでないか、という分類は今回の考え方では難しい事にさえなるが、
空腹を感じる変化情報の受容によって、刺激の再構成において、
その空腹の情報の要素には、空腹であるという情報的な意味と、
身体における空腹感の状態の付与も情報として含まれる事になる。
これは認識における、主観的意味と身体的意味の二面性の情報の存在そのものでもあるが、
この刺激の再構成後、認識によって知能は何を知るのかというと、
空腹であるという刺激と、身体が空腹感を感じているという刺激を観測する事になる。
では、知能はどうするか?と言えば、もう、それほど難しい事ではなく、
空腹に対する反応を起こせばよい事になる。
つまり、認識において、自身の身体を用いる事で、
変化情報と身体の状態変化を結び付けて、
自身が実際に受けている変化として認識できるようにしているというわけである。
当然、自身に変化があれば、知能はその自身の変化に対して何か対応を起こす事になる。
そして、この場合の自身の変化というものは、
その定義を獲得した際に、生命として実際に実体におこす変化を情報として必要としていたために、
その定義を獲得したわけであるから、知能としては、その変化には必ず何か対応を必要とする事になる。
つまり、知能は、その自身の変化に対して何らかの対応を起こすことになる。
------------------------------------------------------
つまり、感情は、
他の刺激と同様の身体を用いた状態の変化を認識する方法の1つという事になる。
つまり、五感に代表されるような明確な感覚とは少し異なるが、
感情も感覚と同様にある変化情報を受容する1つの方法として考えられる事になる。
------------------------------------------------------
五感の刺激←受容体←感覚器官←変化情報
感情の刺激←受容体←感覚器官←身体への変化情報←ホルモンや神経伝達物質←受容体←感覚器官←変化情報
五感はある変化情報を感覚器官の受容体で受容し、刺激として認識する。
感情はある変化情報を感覚器官の受容体で受容し、その先天的な身体的反応として、
ホルモンや神経伝達物質を分泌や放出し、そのホルモンや神経伝達物質を変化情報として、
身体の受容体で受容し、感情として認識する。
つまり一段階、ホルモンや神経伝達物質という冗長性を持つ代わりに、自身の明確でない状態として感情を持ち、
その明確でない状態を認識できる事になる。
------------------------------------------------------
そして、この変化情報の受容には、その再構成する情報の要素において、
自身の状態を変化させる定義が含まれていて、
この状態の変化によって、自身の状態の変化から、自身の存在について認識させるための
情報が付与されるという事になる。
つまり、刺激や概感を認識していれば、
意識的や意図的に目的や目標を作り出さなくとも、
刺激や概感には、その認識の反応として目的や目標を作るきっかけが含まれていて、
知能は、そのきっかけを元にして目的や目標を作り出す機能を持っているという事になる。
つまり、
情報の要素の定義=情報本来の定義+自身に与える状態の定義
から構成される刺激や概感に対して、
知能は、「自身に与える状態の定義」をきっかけとする反応として、
目的や目標を作り出そうとするという事になる。
つまり、自身に与える状態の定義は、
他の感覚より、より主観的にその変化を受容させる事になる。
つまり、例えば、暗闇を単に視覚で見るという事と、
暗闇を視覚で見て、自分が不安に感じるという事は、
同じ事象を元にした認識ではあるのだが、認識した時の情報量と、
その暗闇という事象についての自身の知能の反応に違いが出る事になる。
つまり、暗闇を事象として認識した後の、反応を決める時の意味・情報が異なる事になる。
------------------------------------------------------
感情にとっての情報の要素:
感情がある事象の刺激か概感を認識する前、
その再構成が行われている際に、
その関連する情報の要素の励起において、
感情を感じるための先天的定義の定義が励起され、
それによって、きっかけの刺激か概感が持つ情報の要素と関連して、
その事象と感情が関連する事になると考えられる。
つまり、
事象の発現
↓
変化情報:事象が含む変化
↓
受容:身体
↓
神経細胞の励起
↓
刺激の再構成:変化情報→刺激→認識
↓
関連する励起
↓
情報の要素:感情
↓
概感の再構成:感情
↓
感情
↓
認識
こういう事である。
内容の解説としては、
ある事象が起こった時に、
その変化情報を受容し、
刺激として再構成する際に、
関連して励起される対象に、
情報の要素として、
感情を構成する情報の要素が対象になっていた場合、
その元の事象に対して、
感情が関連して再構成される場合があるという事である。
例えば、暗闇を刺激として受容する場合に、
先天的定義として不安や恐怖の感情が、
関連して再構成される場合があるという事である。
そして、この例の場合、
感情を構成する情報の要素としては、
身体的に感じさせる状態が定義として用いられている事になる。
暗闇に対する反応としては、
人間が昼行性であるために暗闇に対して不安や恐怖を感じると考えられ、
であれば逆に、夜行性の動物であれば、明るさにこそ不安や恐怖を感じるのではないかとも考えられる。
つまり、ある事象に対する関連として感情は存在しているが、
その関連次第で、事象と感情は、
どのようにも定義される可能性はあるという事になる。
基本的な感情については、先天的定義として、
その身体に与える状態は、定義されている事になる。
つまり、ホルモンや神経伝達物質の受容に対する感覚の定義である。
身体の状態付与によって、不安や恐怖を感じたりという事である。
つまり、基本的な感情は、
実際に身体で感じる事の出来る感情としての状態が存在し、
定義されており、実際の感覚として感じられ、これが認識できる。
身体の感覚は定義として存在しているが、
その定義をそれ以上細分化することは難しい。
つまり、これを定義の終端であるとすれば、
基本的な感情の情報の要素は、
身体的な状態として定義されているものという事になる。
つまり、喜怒哀楽のような感情は、
身体で感じられる状態としてその情報の要素が定義されているという事になる。
そして、その感情が生じるきっかけは、
この情報の要素に関連する励起の元となる、
神経細胞の励起、つまり、ホルモンや神経伝達物質の受容による励起である。
そして、そのホルモンや神経伝達物質の分泌や放出のきっかけは、
基本的な感情においては、先天的に定義された特定の事象の刺激としての受容、
これをきっかけとしている事になる。
大雑把に順序を並べると、
変化→事象→受容→関連の励起→
→ホルモンや神経伝達物質の分泌・放出→受容→関連する感情の励起
という事になる。
機構としては、刺激と想起、その関係とよく似ている。
異なるのは、ホルモンや神経伝達物質を経由する事。
つまり、実際に身体に感じられる感覚が再現されるという事である。
刺激の再構成において、身体性が再現されるのは、
実際に自身が認識する事になる刺激を身体と関連付ける必要があるからであるが、
感情の場合、当然、身体の関連付けも存在する事になるが、
感覚として、感情としての感覚が、そこにプラスされている事になる。
この違いは、上記でも考えたが、
単なる刺激の認識と異なり、
感情を構成する事によって、
身体の状態変化に対する反応を促すためでないかという事になる。
つまり、単なる刺激の認識ではない、
事象と感情を認識することによって、その感情に対する反応や対策の必要性を向上させるため、
というわけである。
つまり、単なる刺激より、その認識対象を強く認識させるため、
という事になるだろう。
つまり、例えの不安や恐怖は、先天的な身体の状態であるので、
それ以上でもそれ以下の存在でも無く、
そういうものとしてしか理解のしようがない。
つまり、感情は、その先天的な身体の状態と、
それを関連付けて励起する、呼び出す側のきっかけとの関連が重要である。
つまり感情自体は、身体の状態としての感覚だけであるのだが、
それを認識するには、それを励起する、きっかけの事象も必要になるという事である。
つまり、
感情の感覚=身体の状態
感情の構成=きっかけの事象+身体の状態
つまり、突然、感情となる状態変化が起こることは無く、
感情が生じるには、そのきっかけが必ず必要となる。
また、感情自体は、
二面性で表せば、
実際の身体で感じられる状態の感覚としての感情と、
認識対象としての構成される感情の二面性を持つという事になる。
身体の感覚(刺激):(感情):身体の感覚(概感)
つまり、感情は認識としては「刺激+概感」の認識であるという事になる。
------------------------------------------------------
後天的な感情の有無について:
感情に関連づいた事象が後天的であるという事は普通にあり得るが、
感情自体が後天的な定義として成り立つかどうかについて考えてみる。
391で後天的な感情ではないかと思った「優越感」について考えてみる。
この場合、「優越感」を感じる状態・感覚が、
ホルモンや神経伝達物質を分泌・放出した後の状態として、
この状態が後天的に定義として存在しうるかどうか、という事になる。
基本的に、ある対象同士を比較する場合、
これらの対象は後天的定義の対象である事が多い。
つまり、この対象の片方が、たとえ自分であったとしても、
自分自身が後天的定義であるために、比較の対象としては、これは成り立つことになる。
当然、自分以外の対象であっても、認識するのは後天的であるため、
ホルモンや神経伝達物質を分泌・放出するきっかけの要素として、
これらを対象とする事も考えられるため、
であれば、まず、少なくとも感情を励起する為のきっかけとして、
後天的な対象が存在する事は考えられるという事になる。
ただし、現時点で、
これは感情に関連した事象として後天的な対象が存在するという事にはなるが、
感情自体を後天的に定義していることにはならない。
優越感を感じる時の身体の状態としては、
何となく嬉しいような、誇らしいような、
そういった身体の状態の感覚が存在する。
この身体の感覚は、優越感を感じて定義したものではないと考えられる。
優越感という意味を知る幼い頃であっても、
何らかの比較によって、自身が優位にあれば、優越感というものは感じる。
子供が得意になって何かをするという事は教えなくとも行う事である。
その状態を呼び出す、関連するきっかけとしては、後天的なものも存在しうるが、
実際に個体が感じる状態の定義は、先天的定義であると考えられる。
つまり、感情は、それを表す状態としての定義は先天的定義であり、
そのきっかけとなる定義が後天的定義である事もあり得るという事になる。
つまり、感情のきっかけは後天的に定義する事もできるが、
感情の感覚それ自体は先天的定義であるという事になる。
つまり、上記で言う
身体の感覚(刺激):(感情):身体の感覚(概感)
であれば。
身体の感覚(刺激)は先天的定義であり、
身体の感覚(概感)は、後天的に定義が可能であるという事になる。
つまり、後天的な感情は、感情の状態を生じるきっかけは後天的にもあり得るが、
感情としての状態は後天的には無いという事になる。
ただし、唯一考えうる方法としては、
きっかけの関連において、ホルモンや神経伝達物質の分泌や放出の対象や量を変化させる事で、
その組み合わせとして後天的な定義ができるかもしれないという事である。
つまり、感情を感覚として感じさせるホルモンや神経伝達物質の種類や量の組み合わせによって、
身体に感じられる感覚を変化させれば、異なる感情として認識できる事になると考えられる。
つまり、同じ個体であっても、
子どもの頃に感じる優越感と、大人になってから感じる優越感が、基本的には同じだが、
恐らく、感覚としては異なっているだろうと考えられるのは、
きっかけの定義の変化によって、
ホルモンや神経伝達物質の分泌や放出の量などが異なる事になると考えられるためである。
つまり、不安や恐怖、喜怒哀楽などの基本的な感情の定義は先天的定義であり、
追加や変更が出来ないが、後天的な感情として、
そのきっかけの関連の定義を後天的に行えば、後天的な感情として、
定義できるであろうと考えられるという事である。
つまり、後天的な感情の有無は、はっきりとある・ない、とは言えないが、
後天的に定義すれば、定義できないこともない、という答えになる。
まあ、それだと答えにならないので、
あえて定義すれば、
身体が感じることのできる状態変化は全て先天的定義で定義されており、
基本的に新規に定義できないが、それを呼び出す定義は後天的に定義することは可能であり、
それを新しい感情であると定義するなら、後天的な感情も定義できる、
という事になる。
つまり、上記の例である空腹であれば、
空腹の身体感は身体の状態変化であり、この定義は先天的に定義が存在する。
この身体の感覚を、例えば感情:貪欲さ、であると定義すれば、
自分は空腹で感情的な貪欲さを感じる、という事が言える事になる。
実際は、単に身体の感じる状態変化であるので、
別に感情であるかどうか、というのは定義次第という事になる。
------------------------------------------------------
まとめ:
情報の要素から感情を考えた場合、
感情自体を認識する際に、
身体的な反応が生じている事から、
感情も五感のような刺激と同様の、
先天的な定義を持っていると考えられる。
つまり、ある事象の変化に対して、
その変化情報の定義と、実際に自身の身体で感じられる変化に対する反応の定義を持つという事である。
五感の感覚と少し異なるのは、
感情としての感覚が身体に現れるために、
ホルモンや神経伝達物質を用いるという事である。
この場合、五感のような直接的な感覚器官の受容体による変化情報の受容の代わりに、
1段階、抽象的な置き換えを、ホルモンや神経伝達物質を用いる事で、
ある事象の状態を表す事になる。
つまり、後天的な定義を用いることが出来るという汎用性の代わりに、
冗長性を用いた事になる。
不利な点としては、事象を明確に表せない事、
逆に利点としては、定義次第で自身の複雑な状態を表せるという事。
感情における後天的な定義としての情報の要素は、
明示的に認識する場合に、その感情を構成する情報の要素という事になる。
つまり、本来先天的定義で定義されている反応であるのだが、
知能の認識において「感情」であると定義されている事象を構成する要素という事になる。
つまり、人間の知能が「感情」を「認識」する為に、あえて明示的に定義した情報の要素の構成という事である。
それは、感情の先天的定義としての情報の要素に関連する、後天的定義として、
知能が把握できる関連として、その情報の要素に関連を持たせ、その情報塊を「感情」であると定義する事になる。
この「感情」の後天的定義部分を構成する情報の要素は、
身体が感じうる、実際の感覚に対して定義されたものであり、
認識においては、刺激や概感を構成する際に「感情」が引き出された「きっかけ」であるという事になる。
つまり、
身体感覚・感情
↓
先天的定義・情報の要素・身体の感覚
↓
後天的定義・情報の要素・感情のきっかけ
↓
認識:刺激・概感:感情を引き出したきっかけ
これは、実際に身体で感じた感情の感覚は、
定義としては先天的定義で意味付けされ刺激や概感を構成するが、
その定義に関連した後天的定義を用いる事で、
認識において、感情としての感覚と、そのきっかけとなった事象を、
後天的定義で意味付けして、
自身がきっかけによって感情を発したと感じる・認識するという事を
知能が観測できるようにしている。
つまり、
本来、感覚同様の認識であったものを、
後天的定義を用いて自身が感じる感情として構成したという事になる。
つまり、感情の感覚は、「自分」の存在を抜きにして考えれば、
五感のような感覚と同様のものである、という事になる。
つまり、この場合、
自分を明示的に認識・意識していない動物と同様の感情らしき反応のみ見て取れるという事になる。
人間の感情が異なるのは、「感情」の定義を、
その感じ方を感情として、きっかけをその感情の理由として、
後天的に明示的に定義している事であり、
その為に、「感情」を認識したり意識したりしている事という事になる。
------------------------------------------------------
人工知能に対する実装:
感情を感じる定義として、先天的定義である身体感覚の意味を持たせる事。
これが一番難しいことになるが、
人間がある感情において感じる、身体の状態を人工知能にも与える必要がある。
つまり、不安な時に感じる心細さというか、身体の感覚や心臓の周囲が狭まるような、
こういった不安などの状態の定義である。
これは言葉でいくら定義しても定義のしようのない状態である。
先天的な自身の状態の変化として定義をして、
これを人工知能にも持たせる必要がある。
例えば「不安」を
何とか先天的定義として定義するなら、
根本的な先天的定義として、
自身に対して「良い」「益のある」定義を求め、
自身に対して「悪い」「不利益」な定義を回避するという定義を与え、
不安の情報の要素として、身体に不利益を被っている状態として定義、
この場合、
生命や身体の平常状態の維持を「良い・利益」として定義し、
その反対の状態として生命や身体の異常状態として「悪い・不利益」として定義し、
「不安」はこの「悪い・不利益」状態の関連として定義。
また、「不安」それ自体の身体の感覚として、
明示的な悪い事象は無いが、不確定な悪い事象の存在が関連しているとして定義。
不確定の定義として、未経験であるが存在するであろう事象の定義。
つまり、未経験である事象の定義として、
関連先が決まっていない状態の事象という定義。
これまで考えてきた記憶の構成からすれば、
定義の中断された事象の記憶ということになる。
つまり、何にでも関連できるが、まだ関連先の決まっていないという状態の事象の定義。
それらの定義を総合して関連し、
「不確定である事象の、未経験である、自身に悪い・不利益である、
身体に不利益を被っている状態が、「不安」である。」
という定義をする事になる。
------------------------------------------------------
今回はこの辺で。
TOPに戻る