2024/7/23-2024/7/26

感情という機能

390で後天的定義の感情に種類があるのではないかという事について考えていて、
先天的な感情でなさそうな例として思いついた「優越感」について考えていた。

感情は認識できる対象であるから、優越感も刺激か概感であるという事はこれまで考えた通りである。

優越感は根幹で本能的で先天的な定義が関連しているとすれば、
同種内における生存競争として、同種の他個体との違いとして、
優れている事に意味があるという考え方であれば、
この定義が先天的に存在している可能性はある。

本能的でなかった場合の後天的な場合の定義では、
社会性の中で、他の個体との違いとして差としての自己満足に関連する、
自己における充足の感情という事になる。

つまり、後天的であれば、優れているということは良い事だという社会通念的な価値と、
自身自体を関連付けて認識するという事である。
本能的な競争の延長上にあるように考えられるが、
定義としては、いくつもの後天的定義を必要とする感情である。
基本的に後天的定義も先天的定義の関連の上に成り立つので、
感情として仮想的な概念という見方においては優越感は後天的定義として考えられる。

そして、後天的定義であると考えられる優越感とは異なる他の感情の例として、
本能的に感じる愛おしさについても同時に考えてみた。

一般的な人間対人間の愛情としての感情という事ではなく、
我が子に対する母性愛や物への愛着としての特定の対象に対する愛おしさとして考えた場合、
我が子を見て感じるような愛おしさと、
趣味などで保有する物に対する愛おしさは感覚としては同じ様に愛おしいのであるが、
対象の定義が異なるという事になる。

我が子を見て愛おしく感じる際は、オキシトシンなどのホルモンが関係するので、
先天的にその対象に愛おしさを感じる定義が存在すると考えられるが、
趣味などの所有物に対する愛おしさは、先天的な定義の対象ではなく、
その対象自体に対する後天的に得た自身の定義、自我の定義としてその対象に愛着を感じる事になる。

これらの例において、
ある感情に対して390でも考えた、
「対象」・「感情の種類」・「感情の量」の定義について考えると、

感情を抱く対象の違いに対して、その感情自体に違いがあるのではないかと考えた。

つまり、本能や遺伝として感情を発現するきっかけを持つ場合、
つまり、ホルモンや神経伝達物質の受容をきっかけとする場合であるが、
この場合に構成される感情と、
後天的な定義によって構成される感情、優越感などに違いがあるのではないかというわけである。

そして、この場合、感情を感じる対象として、
自分である場合と、何らかの事象に対して感情を感じる場合の2つがあるのではないかと考えた。

つまり、ある感情において、
感情を感じる対象が、自分である場合と、自分でない何かの場合があるという事である。

感情は常に何らかの対象に対して感じるもの、というわけではなく、
ある刺激、ホルモンや神経伝達物質の受容を刺激として、
本能的、先天的定義として、自分自身に対して自分自身が感じる感情と、
自分以外の対象に対して自分自身が感じる感情の2種類があるのではないかというわけである。

つまり、
我が子を見て、愛おしさ、愛情を感じるのは、
我が子に対して愛おしさ、愛情を感じているのではなく、
我が子を見た自分が、愛おしさ、愛情を感じていて、
その愛おしさや愛情に関連して認識している対象が、我が子であった、という事である。

表現が少し難しいが、
つまり、感情の向かう所、感情自体は、自分が感じるものであり、
対象が存在する理由とは無関係である、という事である。
まあ実際に感情が発現するには、対象の存在は不可欠であるのだが、
感情自体は、それ自体で認識可能であり、
その関連する事象が存在する為に、
その対象に対して感情を抱いたと感じるという事である。

つまり、我が子と愛おしさ、愛情は、関連があるが、
我が子の認識と、愛おしさ、愛情の認識は別の物であるという事である。

つまり、オキシトシンの分泌の理由が、我が子の認識だけでないように、
感情の発現理由や対象には、先天的定義以外には特に定義は決まっておらず、
後天的定義によって、対象の関連が生じ得るという事である。

感情=対象+感情の元となる感覚
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これで何が考えられるかというと、

先天的定義としてのホルモンや神経伝達物質の受容による感情は、
それ単体で認識に耐えうる情報塊として構成できて、
先天的定義として存在する感情は、ある対象に対して感情を関連付けられれば、
その対象に対して感情を感じる存在として定義できるという事。

そして、この場合、感情を感じる対象は、自分であるという事。
つまり、対象に対して感情を感じているのではなく、
対象の認識に対して関連して自分が感情を感じているという事である。

そして、先天的定義として存在しない感情、
今回の例では「優越感」などは、
上記の先天的定義としての存在する可能性も考えられるが、
後天的に感情であるという定義を定義し、
ある自分の状態の認識を、この感情の定義に割り当てているという事。

そして、この場合、感情を感じている対象は、自分であるのだが、
優越感の場合は、対象と自分のある状態の差をきっかけとして感情を発現させていて、
この場合、先天的定義としてのホルモンや神経伝達物質などの分泌は直接関係していないという事。

認識した後の事象としてホルモンや神経伝達物質を分泌するという可能性はあるが、
同じ状況において、異なる個体がまったく異なる感情に対する認識を行う可能性がある事を考えると、
つまり、個体によって同じ状況で優越感を感じる個体もあれば、感じない個体もある事を考えると、
後天的定義による感情は、先天的定義による感情とは少し異なるという事。
もちろん、先天的定義にも個体差はあるので、対象によって反応する、反応しない、
という事は考えられるが、後天的定義よりは固定された定義であるので、
その差は小さいと考えられる。

であれば、
感情であると認識している時に、
先天的定義による本能的な反応と、後天的定義による自我的な反応という、
2つの異なった感情が存在するという事が考えられる。

そして、この感情の認識において、
対象と感情は別々に存在し、その関連によって、
対象に感情を感じているという事が考えられる。

つまり、対象と感情は別ルートで再構成され、

刺激・概感→対象の再構成
刺激・概感→感情の再構成

認識においては対象と感情の関連によって、
その対象に対する感情として認識される。

認識→対象+感情
認識→対象+(先天的定義の感情 または 後天的定義の感情)

つまり、例えば、我が子を見て愛情を感じるのは、
我が子の再構成と認識によって先天的定義としての定義の反応としてオキシトシンが分泌し、
このオキシトシンの受容によって愛情が再構成され、
認識のプールに存在する我が子と愛情が同時に存在し関連することで、
我が子に愛情を感じるという認識になる。

優越感の例であれば、
対象と自分の認識において、その関連で事象の差としての、
自身の優位性を情報塊として想起、この概感の認識に対する感情として、
関連する想起として優越感が再構成され、
認識のプールにおいて対象と優越感が同時に存在し、関連する事によって、
対象に対する優越感を感じるという認識になる。

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2024/7/25

後天的な感情であっても、
優越感の認識において、満足や充足のような身体的な反応の感覚を認識しているので、
先天的であっても後天的であっても、
感情としての認識の感覚は、どちらも本質的には先天的な身体の変化として現れるが、
その変化のきっかけの関連対象が、先天的であるか、後天的であるかという違いがある。

つまり、認識される感情は、先天的であっても後天的であっても、
本質的に身体が感じて認識しうる変化としては先天的なものである。

その先天的な変化を生じさせるきっかけが、先天的と後天的な違いがあるという事になる。

先天的定義の感情←関連←先天的定義
後天的定義の感情←関連←後天的定義

先天的定義・後天的定義の感情

関連

先天的定義の身体の反応
↓←認識
感情

つまり、上記の感情の分類において、
感情として定義するには、感情として決まった身体の反応が存在する定義が存在し、
その定義に関連して身体の反応を起こすきっかけの種類や定義によって、
感情は分類されるという事になる。

つまり、感情は特定の身体が感じる感覚としての先天的定義が存在し、
そこに、その感覚を発現させる理由、きっかけとしての定義が存在するが、
この定義で用いられる定義と関連によって、感情は分類されるという事。

つまり、先天的にきっかけの定義を持っている感情もあれば、
後天的に定義を学び関連づく感情もあるという事になる。

人間以外の動物で、まあ動物自身で愛情などを意識するという事にはならないが、
それでも、本能的にわが子の面倒を見て育てるというような本能は、
それらの動物において特定のホルモンや神経伝達物質の存在を示唆するものであり、
これらのホルモンや神経伝達物質の分泌と受容において、
人間同様の感情らしき身体の反応を刺激などとして認識していると考えられ、
そして、その身体の反応の認識によって、先天的定義として存在する感覚、
愛情などの感情となるが、それは人間と同様に認識をしていると考えられる。

つまり、

感情←先天的定義の感情の反応←(関連)←先天的定義の感情のきっかけ

感情←先天的定義の感情の反応←(関連)←先天的定義の感情のきっかけ←(関連)←後天的定義の感情のきっかけ

こういう2つの種類の感情がまず考えられる事になる。

つまり、後天的定義の感情として、優越感は先天的な充足の感情に関連があると考えたが、
優越感が先天的でないのは、先天的に比較する対象の定義を持たないからという事になる。
しかし、先天的には同種の個体差において、優れている事は生命の本能において良いとされる定義であり、
個体として誕生後、他の同種の個体との間において、何らかの事象の比較において、優れているという事象の認識は、
この先天的な自己満足に関連して認識される事になり、結果的に先天的な充足を感じる事に繋がる。

つまり、もともと、充足のような定義は先天的に保有しているのであるが、
その充足の定義を励起するような関連として、
自己満足のような定義を後天的に得ている感情があるのではないかというわけである。

つまり、人間は、ある自身の状態について、その状態を生じた自身の感覚を、
感情として定義しているのではないかという事である。

自然界の人間以外の種において、優越感などは感情として存在してもほとんど意味は無い。
もちろん、劣等感が存在しても意味がない。
自然界であれば、今優れていて機会を得るか、今を諦めて次の機会を待てば良いだけである。

つまり、例えば、人間が優越感を感じた場合、
先天的定義の充足という点において、感覚としては良好な状態である。
ただし、優越感の定義は、人間の個体ごとによって異なり、
単に充足として良いものというだけの定義を持つ個体もあれば、
最初から特に意味のないものという定義を持つ個体もある、
また、優越感を感じても、別の機会に劣等感と感じる可能性を経験している個体もあれば、
常に優越感だけを感じている個体、優越感を知っていても経験した事の無い個体もある事になり、
各個体において、優越感自体に対する定義も異なる事になる。

常に優越感に固執するような個体、最初から優越感を放棄する個体、
優越感も劣等感もどちらもその場の状況として認識する個体、
つまり、個体によって定義はまちまちであるという事になる。

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このことから分かるのは、
例えば感情における先天的定義の充足のような定義に対して、
現在考えられている様々な感情は、それぞれ特定のきっかけとなる定義と、
対象の先天的定義を持つという事になる。

つまり、充足は優越感だけではなく、何かしらの満足感、
快感や、安心、幸福感、親近感、などの感情の定義の関連先になっているとも考えられる。

つまり、ホルモンや神経伝達物質を物理的に受容して感じる身体の感覚に対して、
知能はさまざまな状態を、それらの物理的な感覚に対して、様々な定義を使って関連して、
様々な状態として認識ているという事になるのではないかと言うわけである。

つまり、全ての感情に個別に対応する身体の感情の認識が存在するわけではなく、
多様な状態に対して、その多様な状態をきっかけとして、
特定の実際に存在する先天的な感情の身体変化を関連させ、
自身の様々な状態を効果的に認識するための機能が「感情」であるという事になる。

であれば、人間が持つ先天的に感じる事の出来る感情の要素の感覚が分かれば、
感情を構成する基本的な要素は分かる事になる。
感情を構成する身体の要素自体はそれほど多くないが、
感情自体は個体差があるので、あえて「一般的」にとして考えるほかないが、
そのきっかけが分かれば、感情の分類や、感情の発生自体も定義出来る事になる

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2024/7/26

人工知能における感情:

感情の発生理由がホルモンや神経伝達物質であるとすれば、
その受容体が存在する対象には感情が関連づく可能性があると考えられる事になる。

つまり、何らかの対象の刺激を受容する事によって身体の状態変化が現れホルモンが分泌され、
何らかの対象の刺激を受容する事によって神経伝達物質が放出され、
その受容によって感情としての刺激が構成されるのであれば、
その分泌や放出のきっかけが感情の対象となり、
感情としての刺激が身体の反応となり、
その関連が認識プール内で存在すれば、感情を認識することになる。

人間は、この感情についての感覚を先天的に定義として持っているが、
人工知能についても、人間と同じ感情を認識するためには、
人間が持つ感覚と同じ定義を持つ必要がある。
ただし、人間が充足について満足感を感じるのと同じような感覚を持つ必要はなく、
人工知能については、充足と満足感に対する定義を持てば良い事になる。

理想的には同様の感覚として身体に受容体を持つのが最良である。

つまり、人間が物理的にホルモンや神経伝達物質で刺激として感情を認識するのではなく、
定義として、ある事象の認識に対して、人間と同様の感覚である定義を再現出来れば良いという事になる。
実際、この場合、人工知能も、充足や満足感を認識する事になるが、
身体的な感覚として、充足を感じることは無い。

定義としては、人工知能は感情を「感じていた」と観測するだけになる。
これは、認識の身体性で考えた、身体に直接感覚器官や受容体が存在しない場合、
身体性を再構成できないという制限から生じる状態となる。

つまり、人間も人工知能も、例えば定義によって、
子犬を同じ様に「かわいい」と感じることが出来るようになるが、
人間は、何かこう心地よいようなくすぐったいような可愛らしさを子犬の認識と同時に、
身体に感覚として認識するが、
人工知能は、「可愛らしい」と「子犬」を知能内で認識するに過ぎない事になる。

ただし、人間も人工知能も、子犬に対して互いに「可愛らしい」と認識する事ができて、
互いに「かわいいね」と意思疎通できる事になる。

これは他の感情についても同じ事となる。
人間はホルモンや神経伝達物質の受容に対して特定の身体の反応を起こし、
その反応自体を認識し、その反応に対して感情を関連付けるが、
人工知能の場合は、各個が持つ定義として、ある事象に対して、
感情らしき定義を再構成し、それを感情として認識する事になるが、
身体的に何らかの反応を起こすには、物理的な受容体を必要とする。

自然界のシンプルさを加味して考えると、
人間の感情の認識は冗長性があるように考えられるのだが、
元々の感情の働きを機能として考慮すると、
遺伝によって感情の対象を特定して継承するよりも、
後天的に感情の対象の定義を得た方が良いという事になったのだろうと考えられる。

つまり、先天的に定義を必要とする感情は既に揃っていて、
後は後天的定義でどうにかしようという事なのであろう。

つまり、先天的に感情としての身体的反応が存在する定義は、
本来の意味での「感情という機能」であり、
現在、人間が認識している「感情」は、
多様な状況や状態に対して「感情という機能」を用いて認識できるようにした後天的定義である、
という事になる。

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今回のまとめ:

感情は、人間がホルモンや神経伝達物質の受容に対して生じる身体の反応、
身体性における刺激の再構成よって認識される事象に対して、
その反応を生じるに至った対象との関連において感情が構成されるという事になる。

つまり、

感情=認識(きっかけの対象+身体の反応)

という事になる。

細かい事を言えば、

きっかけの対象=きっかけの対象の刺激または概感
身体の反応=きっかけの対象の再構成に関連して励起された先天的定義の再構成

という事になる。

つまり、基本、感情の元となる身体の反応は先天的定義で保持しているものであり、
そのきっかけとなる対象の定義は、先天的定義の場合と後天的定義の場合があるという事になる。

つまり、

きっかけの対象=事象(先天的定義または後天的定義)

であり、

感情の元となる身体の反応=事象(先天的定義)

という事になる。

つまり、先天的定義である感情の元となる身体の反応に関連付けられる定義は、
先天的定義として遺伝的に継承する定義と、
後天的定義として経験的に得る定義がある、という事になる。

発展的な事を考えれば、
この身体の反応に関連付けられる後天的定義は、
自我の定義でもある、という事になる。
つまり、自分が何についてどのような感情を生じるのかという、
その定義自体という事になる。

先天的定義の部分は個体差はあるが、
全ての個体において共通する感情の定義となる。
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人間が感情であると考えている事象は、
何かしら先天的定義としての身体の反応に関連しているはずである。

つまり、この身体の反応を呼び出す事象が感情のきっかけであり、
それらの関連の定義を知能は自身の感情として蓄積していることになる。

今回はこの辺で。

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