2024/7/21
感情の発生と自我の関係
今日は389の続きで、
感情の発生について考えていた。
感情は認識できるということなので、
刺激か概感として構成できる情報であるということは分かる。
学習しなくとも安心したり怖いと感じる事はあるので、
先天的定義で定義を持つ感情も存在する事になる。
後天的定義の感情があるかについては、
人間が分類して認識している感情としての要素において、
一部、尊敬、勇気、期待、など、
ある対象がまず先に存在する事に対して定義する感情らしき定義も存在するが、
これが本質的に「感情」に分類されるかということは、
先天的定義と後天的定義において、
感情となる事象が、同じ要素を持つ定義であるか詳しく考えてみる必要はある。
しかし、一応、現時点では、感情には、
先天的定義と後天的定義の両方の感情があるとしておく。
感情が刺激か概感として構成される場合、
きっかけとなる変化情報が必要となるが、
そのきっかけは体外的にも体内的にも存在しうる。
変化情報をきっかけとして再構成されるのであり、
感情は直接ある事象として構成されるのではなく、
自分が認識する自身の状態として再構成されるわけであるから、
ある事象に対して関連する要素として励起されることになる。
つまり、刺激や概感として直接、感情が再構成されるものではなく、
ある刺激や概感に関連して励起されて、その事象に関連した自身に対して生じる事象として、
感情は再構成されることになる。
つまり、感情の定義が先天的定義か後天的定義であったとしても、
直接、感情を事象として再構成するものではなく、
なんらかの前事象が存在して、その前事象に関連する後事象として、
感情は構成されることになる。
認識においても同様に、
他の事象と並行して認識される事象の1つという事になる。
意識される場合も同様である。
つまり、感情は他の刺激や概感同様に、
ある、まとまりのある情報塊として存在し、
それは、先天的定義または後天的定義によって定義される、
認識可能な1つの事象として構成されるという事になる。
しかし、直接感情を受容する感覚器官は存在しないと考えられるため、
定義としては先天的定義であったとしても、
何らかの刺激に関連する定義として遺伝的に継承されたものということになる。
後天的定義としては、他の定義同様に、他の刺激や概感に関連した定義という事になる。
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感情の関連元:
感情が何かに関連して存在するものであるなら、
その関連元が特定的に存在する事になる。
上記の例に挙げた安心や怖いなどの先天的定義の感情であれば、
その関連元も、先天的定義にその対象が存在する事になる。
恐らく、
オキシトシンやドーパミン、セロトニンなどの先天的定義の刺激で安心を、
コルチゾールやノルアドレナリンなどの先天的定義の刺激で怖さや不安などを関連して構成する事になる。
ホルモンや神経伝達物質については受容体が存在するので、
先天的定義として刺激は構成できる。
感情は、これらの刺激に対して関連して構成され認識されるということになる。
後天的定義の関連元について考えた場合、
感情を経験して学習する場合、
どのような関連元と関連が存在するかについては、
個体によって特定の対象に対して特定の感情を再構成・認識する違いがあるので、
関連元と感情の関連は、各個の知能毎に異なり、個体差を持つ事になる。
つまり、AさんはXという事象に対して尊敬を感じるが、
BさんはXという事象に対して尊敬を感じないという事があるという事になる。
もちろん、AさんもBさんも尊敬が何かという事は知っている上での話である。
この場合、個体毎、知能毎に後天的定義の感情の定義が異なる事になる。
厳密に言えば、現在一般的に認識されている「感情」の定義は、
抱える事象の範囲が広すぎるようにも感じる。
つまり、先天的定義として継承して感じる事の出来る感情と、
後天的に得る事になる感情の定義は、感情でありながら異なるものであると考えられる。
刺激と概感のようにである。
最初に後天的定義の感情について少し疑問に感じていた事はこの事になる。
とはいえ、感情として感じられる事象には、
先天的定義であったとしても後天的定義であったとしても、
関連元が存在するということには違いが無いと考えられる。
一応課題として、
先天的定義としての感情と、後天的定義としての感情の違いについては後で考えてみる事にする。
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感情と自我の関係:
上記の内容を考えれば、自ずと自我との関係をうすうす気づき始める事になるが、
基本、何らかの事象に対する関連は、自我の構成における自身の定義であるという事になる。
つまり、AさんとBさんのXに対する尊敬の感情の定義のように、
ある個体における、ある事象に関連する反応としての感情の定義は、
個体毎に異なるという事になる。
つまり、それが例え先天的定義の事象の関連する感情の定義であっても、
身体の機能に個体毎の違いがあるように、
感情の感じ方も遺伝的に定義が異なる可能性がある。
つまり、
ホルモンや神経伝達物質の分泌量や受容体の感受性に違いがあるという事である。
例えば昼行性の生命においては暗闇は本能的に怖いものであるが、
同じ種であっても暗闇をまったく怖くないと感じる個体も存在する可能性があるという事になる。
それは経験として暗闇に対して怖い経験をしなかったからとも考えられるが、
だとしても、であればなおの事、感情とその関連元と関連の定義は、
個体毎に異なるという事になる。
そして、その定義は何になるかというと、自我の定義に関係するのではないかという事になる。
つまり、自我における感情部分の定義である。
つまり、自我の定義の内、感情の定義が存在し、
その定義によって、ある事象に対する感情的な反応が決まるという事である。
ある事象に対して自分はこのように感じるという事は、自我の定義になる。
それが、先天的定義の感情であっても、後天的定義の感情であったとしても、
ある事象に対する感情の感じ方は、その定義次第ということになる。
そして、その定義の存在は、自身がその事象と反応を観測して認識した場合、
ある事象に対する自身の反応であり、自分の事象に対する感じ方そのものという事になる。
つまり、自分はこの事象に対してこのように感じる。
それは、自分で認識する自分の定義、つまり「自我」そのものという事になる。
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感情の定義の可塑性:
これまで通り、先天的定義についてはエピジェネティクス的変化を除いて定義は固定である。
つまり、ホルモンや神経伝達物質の受容に対する刺激をどのように再構成するかは決まっている為、
その反応や認識も個体においては固定されている事になる。
後天的定義の感情においては、感情の関連元も、感じる感情としての定義も可塑性を持つ事になる。
つまり、何に対して、どのような感情を、どのように感じるのか、
その定義は後天的に可塑性を持つ事になる。
つまり、「対象」と、「感情の種類」と、「感情の量」の定義である。
尊敬していた人物が、後に尊敬に値しないと変化する、
逆に見下していた人物が、後に尊敬の対象となる、
以前は楽しかった事が今は楽しくない、
逆に新たな楽しみを発見する。
など、感情の定義の変化は起こり得る。
本来、先天的定義であるはずの感情の感じ方が、
慣れなどによって、変化する場合も考えられるが、
これは、感じ方が変化したというよりも、
関連する想起の変化によって、認識される事象が変化する事と考えられる。
つまり、ある先天的定義の刺激によって構成される感情は同じであるが、
それに関連して想起される事象が変化し、
それまで認識対象としての事象において感情が大きなウエイトを占めていたものが、
後から関連付けられた経験、慣れによって、1つの事象における感情の占有率が低下して、
先天的な定義の感情と、後天的な経験の事象の関連によって、
相対的に先天的な感情の感じられ方に変化が生じるという事である。
つまり、慣れや習慣によって、
ある事象において、最初は新鮮で強烈な感情が感じられるが、
後に慣れによって、感情がマンネリ化するという事になる。
(逆の似たような考え方に、記憶の強化も思いついたが、
これは関連の励起がしやすくなるというだけで、
認識する事象の要素の占有率とは異なる。)
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認識との関係:
認識における知能の観測対象としての感情は、
感情の刺激か概感の再構成において、
認識可能な事象として再構成されるに至った時、
つまり、関連の励起によって、その情報塊が、「感情」であるという定義に合致した場合に、
認識プール内に認識対象として形成されるということになる。
例えば、怒り、恐怖、不安、悲しみ、恥、焦燥、愛しさ、驚き、苦しみ、
などは、実際に身体に感じる感覚のある感情として認識できる。
これは、感情の定義に対して認識しているというよりも、
身体に先天的に備わっている特定の事象の先天的定義に対して、
感情という定義を当てはめているものだと考えられるが、
であれば、その目的を考えると本来は自身の状態の変化に対して定義された状態ではないかと考えられる。
つまり、自身の状態変化に対して自身で認識するための情報、
つまり、刺激と同等のものであると考えられる事になる。
実際には直接的に感情を感じる感覚器官は存在しないが、
ホルモンや神経伝達物質自体は、受容体が存在し、
その受容の情報は定義の存在によって結果的に感情を再構成するに至っている。
これだけの種類の感情を認識する必要性まで考えると、
感情となるきっかけの変化情報は、もともと認識を目的として、
その定義が用意されているものとして考えられる。
つまり、刺激と同様という事である。
そしてその必要性を考えると、
自身の状態変化だけでなく、
人間以外の動物においても怒りなどの状態を表現する能力が先天的に備わっている事を考えると、
もともと感情は、
他我に対する自我の表現として感情を互いに定義して継承し、
それを互いに認識して共有するためのものでないかと考えられる。
つまり、感情の認識の反対側の二面性としての感情の対外的な表現という事である。
一応この感情の二面性は、今後の課題としておく。
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まとめ:
今回の話をまとめると、
感情の先天的定義の部分においては、遺伝的に固有の継承された定義が用いられ、
その定義による感情は、その遺伝的な定義に従う固定された感情になる。
異なるのは、後天的に関連し、感情を構成する定義であり、
ある感情の定義に対して関連する要素が変化する事によって、
その感情を持つ個体の知能毎に、固有の感情の定義が形成されることになる。
この定義は、自我を構成する定義の内、
自我における感情の定義として構成されるのではないかと考えられる。
つまり、自我の定義としての、
刺激や概感に対して、関連する要素の定義は、
感情の定義においても同様に用いられ、
刺激や概感の反応として、関連して想起される対象として、
感情として定義される反応が、この刺激や概感に関連するという事の定義が、
自我の定義における、感情の定義という事になる。
つまり、自分が感じる感情は、
先天的に定義された感情は、その定義に従って感じられ、
後天的に定義された感情は、自分固有の感情としての経験の定義によって感じられる。
という事。
そして、その感情の後天的な定義の部分は、
自分のその特定の事象に対する感情の感じ方であり、
それ自体が自我の一部であるという事になる。
つまり、自分はそれに対して自分らしい感情を感じる。
その定義は自我の一部である、という事である。
つまり、感情は、
刺激や概感の再構成や認識と同様に、
定義があり、きっかけがあり、関連して想起し、再構成して、認識して、意識される。
そういうものであるという事である。
しかし構成は共通化していても、
各個の感情が少し異質に見えるのは、各個体の固有の定義、つまり、各個の自我の定義に含まれるため、
別の個体との完全な定義の共有が難しいという事。
つまり、自感情と他感情に必ず差が生じるという事。
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今回はこの辺で。
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