2024/7/19-2024/7/20
自我の定義と想起
今後の自我や感情を考える上での予備的な考察。
自我や感情が認識可能な対象であることから、
自我や感情は、刺激か概感として構成されるという事になる。
基本的に自我の定義は、後天的定義であるが、
自我を構成する身体の反応の定義などは先天的でもある。
感情の一部は、
人間以外の知的生命においてもその反応として、
人間と似たような感情的反応を起こす種がいるので、
先天的定義としての定義を持っていると考えられる。
人間特有の感情の定義も存在するので、
こういった感情については人間の知能特有の後天的定義になる。
このため、感情の定義は、
一部が人間誕生以前の種から存在し、
人間の知能において遺伝的に継承されたもの、
また、
人間の誕生以降に新たに定義されたものがあり、
人間の進化の過程で遺伝的か社会的に継承されたものがあるという事になる。
今回は、感情の生じる少し前、感情の基礎である自我、
特に自我の定義と想起の関係や、自我の構成について考えてみる事にする。
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知能における自我の定義:
ここでは一般的な「自我」の定義ではなく、
知能における働きとしての自我について考えてみる。
一応、「自我」の一般的な定義について考えてみると、
ある生命の個体が、主体的にある事象、つまり、環境か個体本体の変化情報に対して、
その個体自身の反応を決める時の定義。
という事になる。
この定義は、他の個体の自我、つまり、自我に対する他我との差でもあり、
ある個体が自らの定義として他我と異なる自我と認識できる定義ということにもなる。
簡単に言えば、自分で感じる事の出来る自分が「自我」という事になる。
ここからが知能における少し異なる自我の定義となるが、
自我の定義は、後天的定義であり、
知能が生まれ持って継承している定義ではないという事になる。
個体の物理的な機能などの定義は、先天的に継承されたものであるが、
その定義を経由して、その個体の知能が、自らに対して定義した「自我」は、
後天的な定義となる。
つまり、そのまったく同じ個体が、別の環境に同時に存在したと仮定すると、
その個体が自らに対して行う定義は異なると考えられるため、
個体の素性に関わらず、自我の定義の構成には後天的な影響が大きい事になる。
では、自我の定義の構成において、先天的な要素と後天的な要素がどのように影響するか考える。
先天的な要素の影響:
自我が、自分による自分の定義であるとすれば、
自我の先天的な要素は、自身の身体の機能などが主な要素となる。
他には生まれた環境が先天的に決まっている事でもある。
つまり、ほとんどは遺伝的に決まる身体能力・身体機能であり、
一部に自分が誕生した環境が影響し、
自身の定義が決まるということである。
身体的な遺伝要素として主に自我に影響する要素は、骨格、筋力、免疫、脳、などの身体の特性が考えられる。
つまり、物理的に存在する自分としての構成要素である。
これは、遺伝的に決まっているので、基本的に後天的に定義が変化するものではない。
そして、自我を構成する要素として身体以外に関わるのは、
環境としての自身が属するコミュニティである。
つまり、家族、地域、社会、国家などである。
こちらは、誕生時は先天的な要素であるが、後天的に定義が変化する場合はある。
つまり、人間としての個体として、
自身の自我を構成する要素は、
先天的な要素においては、そのほとんどは、身体の定義、
つまり遺伝的な定義によって決まっている事になる。
これは、この定義によって自我が構成されるというよりも、
誕生後に構成される自我の定義に対して、
その参考・参照としての定義として用いられるものとなる。
つまり、遺伝的に自我が決まるものではなく、
その身体の定義によって、自我を構成する要素が誘導される事になる。
それは、生まれた際の環境も同様である。
つまり、自我の定義における先天的な要素は、
自分の身体や、環境における、自分自身の認識、
つまり自分自身の定義の受け取りと表現、
つまり、自分自身の定義の構成の内側の存在が自我という事になる。
つまり、自分の身体の定義と、環境の中にある自分の存在の定義の間に自我が構成されることになる。
二面性の考え方で言えば、
自分の身体:(自我):環境の中の自分
この自我の定義が知能内に構成されるという事になる。
そして、その自我に影響する先天的な要素は、
自分自身の身体の定義、つまり自分の人間としての遺伝情報と、個体そのもの、
そして、自分が誕生して存在するコミュニティが、自我の構成に影響するという事になる。
後天的な要素の影響:
身体的な遺伝的な要素はほとんどが先天的なものであるが、
身体機能については後天的に変化が起こり得る。
つまり、筋力トレーニングや学習による身体能力や思考能力の向上による後天的な能力変化である。
また、環境についても、自身が属するコミュニティに変化が生じる可能性はある。
つまり、自身の移住やコミュニティ自体の変化である。
あらかじめ存在する自身の先天的定義を保有した状態で、
人間としての誕生後、常に刺激にさらされることになるが、
この刺激によって、後天的な要素は構成されていくことになる。
つまり、刺激による経験として、後天的定義の自分の定義が構成されていく事になる。
つまり、刺激に対して自分はこのように感じた、こう思った、そういった定義が、
自我における後天的な要素となる。
それは、身体内の刺激であり、環境から受ける刺激であり、
自身の知能が想起する概感である、という事になる。
つまり、基礎となる自身の身体や知能に対して生じた変化に対し、
それを定義として知能が観測、経験として蓄積していく事になる。
それは、想起の段階においては、
ある刺激に対する自分の感じ方、考え方として、
自身の定義としてその想起の概感の再構成に用いられる事になる。
つまり、自我に影響する後天的な要素は、
後天的に生じた刺激や概感に対して、
記憶として蓄積していった結果の、その刺激が概感としての反応、
それ自体が自我を構成し、その後の自我の変化に対して構成する際に影響する事になる。
つまり、後天的な部分の自我については、
既存の自我の定義を元にした反応を新たな定義として重ね、蓄積して構成していくようなイメージとなる。
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自我の構成:
先天的にはほとんど固定されている自身の身体や知能の能力において、
生じた変化情報や、概感に対して、新たな定義を経験として蓄積する事になるが、
この定義自体が自我の定義という事になる。
そして、この経験である自我の定義は、後天的定義であり、この定義と、
先天的な身体の能力を自身が認識対象として定義・観測した結果を合わせて、
「自我」として扱う事の出来る情報が構成出来る事になる。
つまり、知能にとって「自我」は、
自身の身体や思考能力を操作して用いる為の、
自身の物理的な身体能力の定義と、
その身体が置かれた環境における自身の定義という事になる。
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知能の目的:
知能→(管理・操作)→自分自身
自我の定義の取得:
知能←(反応・定義)←自分自身
実際の操作:
知能+自我の定義→(管理・操作)→自分自身
知能は自分自身を操作する目的がある。
知能は、自分自身を操作するための定義を必要とする。
知能は、刺激と概感によって自分自身の定義、自我の定義を取得する。
知能は自我の定義を用いて、自分自身を操作する。
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つまり、知能にとって、自分はこういう能力を持っている、
こういう考え方をする、環境においては自分はこういう存在、立場である、
その定義を「自我」として持っているという事になる。
つまり、知能がそれを想起した時、
その概感は「自我」、自分なのである。
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自我の存在の定義:
先天的な要素と後天的な要素は、
自我の構成において自身の定義となるが、
この場合の自我の認識においては、
知能が、これらの自身の定義についての刺激や概感について、
認識における観測が必要となる。
そして、この場合、「自我」の存在は、
自分の身体:(自我):環境の中の自分
上記のこの定義は、
自分の定義(先天的または後天的):(自我):自分の定義(環境の中の自分)
であり、
自分の定義(刺激または概感):(自我):自分の定義(環境の中の自分の役割の定義)
これらを認識対象として想起→再構成→観測する場合、
自分の定義(刺激または概感の想起)の認識:(知能による観測):自分の定義(環境の中の自分の役割の定義)の認識
という事になる。
つまり、この場合、
知能による自我の観測においては、
知能から見えるものは、
内的な自分の定義として自身を見つめる場合、
自身を構成する身体や知能の能力や定義が見える事になり、
外的な自分の定義として自身を見つめる場合、
環境における自身の立場や在り様の定義が見える事になる。
そして、その間に「自我」が存在する事になる。
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今回のまとめ:
自我は、簡単に言えば、自分自身が持つ自分自身の定義である。
上記でも簡単に書いているが、自分でこれが自分だと言えるものが「自我」であることになる。
基本的に自我は、自分で想起する対象であり、
例えば何らかの刺激を受容して何らかの感じを受ける、その最中に自我を認識するようなものではない。
もちろん思考や想像においても同様で、思考や想像における想起をしている際に、
自我を想起して認識するようなことも無い。
結果的に、そうした刺激や概感に対する反応を経験として蓄積したものが自我を構成するのであるが、
自我の存在は自我(の定義)を働かせている(用いている)最中には認識できず、
あくまで自分を自分で認識した経験の蓄積が自我となる、というわけである。
どのような事象に対しても、
「自分がそうする事、それを決める定義が自我なのである。」
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人工知能に対する自我の実装:
人工知能に対しても、その人工知能を有する個体の人工知能自身が、
その個体自身に対して行う定義が自我となる、という事になる。
この定義の上で必要なのは、人工知能が、自分の個体に対して、
ある事象に対して自分はどのような振る舞いをするのか、
その定義を経験として蓄積できる機能である。
この定義はあえて自我であると定義づける必要はなく、
人工知能は、この定義を想起する時、それが自分自身の定義であると人工知能自身が知っているはずである。
つまり、経験として蓄積、記憶できる時点で、
人工知能における自身の振る舞いの定義がそこに存在しているため、
それを想起する場合には、その定義には自分である定義が含まれている事になる。
人工知能においては、こちらの後の方が重要となるが、
上記のある事象に対して行う振る舞い、反応の定義を必要とする部分である。
つまり、実際に刺激を受けて、その反応を自ら認識する事。
人間においては、その成長過程で少しずつ経験し、その定義を蓄積する事によって自我となすのであるが、
人工知能においては、その事象の反応の感じ方、それ自体の定義がまず必要とする。
そして、
反応の定義自体は、ある事象に対する感じ方の定義となるので、
今後の課題とするが、
自我よりもうすこし実体よりの身体の構成に関する部分が割と深刻で、
それは実際に必要とする感覚器官や受容体の実装の数の方である。
人間は感覚器官と体内の多くの受容体がそれに応えるのだが、
人工知能の個体に対しても同様の感覚器官と様々な変化に応える感覚同様の受容体が必要となる。
この部分を省いてしまうと、以前から考えてきたように、
ある事象に対する反応の定義としての自己定義の量は、
そのまま自我の定義の量に直結する事になり、
当然定義が少なければ単調な反応しか示さない対象になり、
そこに人間同様の自我の存在を見る事ができない事になる。
これらの機能については現時点で再現の可能性があるのは仮想空間くらいである。
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今回の内容で不足している情報は、
自我を構成する定義として、
どのような刺激と概感が存在し、
その刺激と概感に対するどのような反応が存在するか、
という事になる。
具体的に言えば、
子犬を見た時にかわいいと感じて笑顔になった、
大好きなフルーツを食べた時に満足感を感じた、
帰り道で知らない夜道で一人心細い感じがして足早に急いだ、
などのある刺激や概感に対して、自身が感じる感覚である定義、
その関係が、ある元の事象に対する自我としての自身の反応の定義であり、
その結果、どのように感じて、どのような反応を起こすか、
そこまでが経験としての自我としての1つの定義のまとまりという事になる。
これらの定義は先天的に持つものではなく、
生命活動の上で後天的に得る定義である。
人間においてはその後天的な活動の上で常に得るものであるが、
それは、自我としての先天的定義が既に保有している事、
認識する刺激や概感に対する自我の構成方法が既に確立されている事によって、
難なく自我を構成出来ているが、
人工知能においては、まず自我を構成する基本的な先天的定義の反応が必要である事、
人間と同様の後天的な自我を得るためには、それ相応の刺激と概感の構成と反応を記憶する必要がある事、
という課題が残る。
つまり、人間が認識可能な全ての対象に対して、人工知能も認識可能である事がもっとも良いが、
身体構造における人工知能の身体の刺激の種類の少なさはこれまでも考えてきた通りである。
つまり、神経伝達物質による幸福感や興奮は人工知能の身体にどのように定義して構成するべきか、
また、人間は本能的に暗闇に不安を覚えるが、人工知能はどう感じるべきか、
という定義からまず必要になるという事である。
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今回はこの辺で。
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