2024/7/6-2024/7/12

刺激の感じ方と想起の誘導

385で考えた刺激に対する自己の感じ方と、
想起対象の選択や優先の機構について考える。

以下は383で「概感」を定義した直後に書いたものだが、
383が長くなりすぎたので分割した内容である。
今回の内容に関連していてまだ掲載していなかったので、
加筆修正して、ここで掲載しておく。

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2024/6/26

概感と刺激の認識:

昨晩、右手で何かに触れつつ、同時に何かを想起するという事を試しながら、
刺激と概感のどちらかをどのように認識しているのかについて考えていた。

そして、その試みの間、
認識における対象は、
刺激と概感のどちらかにどのように切り替わるのかと考えていた。

結果的には、刺激と概感は併存するために、
どちらかに切り替えて認識しているというよりも、
どちらかに認識している量を振り分けているという感じだった。

つまり、認識する対象をどちらかに割合として振り分けているだけで、
認識においてはどちらも併存しており、
どちらか一方に完全に切り替わるようなことは無かった。

ただし、別の試みとして想起しながらも視覚の画像は見えるが、
視覚の画像を注視すると概感が意識できなかったりするので、
この場合、想起は行って概感も再構成できているのであろうが、
刺激量としては刺激>概感となり、
原則的に認識対象は刺激と概感であれば刺激を優先するものであると分かる。

概感の認識は、想起をするという目的の活動の結果として、
概感を認識することを意識的な知能活動として行うが、
この場合、概感の認識は、刺激と概感の合わさったものとして認識されている事になる。

つまり、刺激と概感は同時に認識され、
認識対象を概感に振り向ける程度によって、概感の認識する程度も変化するという事になる。

つまり、概感の想起を意識的に開始しようとした場合に、
想起をするという目的において、
どれだけの想起を行うかによって、
構成される概感が異なり、
結果として認識される刺激と概感の割合が変化するという事になる。

想起は刺激をきっかけとしていると考えているが、
ある想起において、どれだけの労力の配分をした想起を行うかというのは、
後天的定義としての自己情報による定義に依存するという事になる。

つまり、刺激による想起は、
これまでの基本に立ち返ると、刺激の再構成の結果として、
変化情報と自己情報を認識する事になるのだが、
この自己情報の認識においては、自己情報自体が刺激の一部であるので、
この自己情報をきっかけとした想起も行われるという事になる。

つまり、想起は刺激がきっかけであるのだが、
刺激の変化情報と自己情報の、おそらく両方の関連として想起されることになると考えられる。

つまり、ある状況や状態、変化に対する想起であり、
そのある状況や状態、変化に対する、自分の想起でもあるという事である。

この場合、刺激の変化情報に対しては、
基本、先天的定義が存在するので、その反応は決まっている。
ここで、刺激の自己情報については、
過去の経験としての、この変化情報に対する、
自分の経験した感覚、感じ方、反応等が定義されている(=記憶されている)ことになる。

つまり、ある変化情報を刺激として受容した場合、
刺激の認識において、刺激の変化情報の認識の他に、
刺激の自己情報の認識、
つまり、過去に経験した自分の感じ方も合わせて認識する(=記憶する)事になる。

これは、現時点における刺激の認識において、
過去に経験したことのある、自分の反応を、
刺激の自己情報の再構成体として認識するという事になる。

つまり、刺激の認識は、
現時点の変化情報と、過去の自分の、この変化情報に対する感じ方を認識する事になる。

この自分の感じ方というのは、つまり、
認識における自分の存在の身体性とその身体における変化情報の感じ方という事になる。

刺激の変化情報に対する先天的定義は遺伝的に存在するが、
刺激の変化情報に関連する自己情報は、
その身体の定義としての部分は先天的定義が存在するが、
過去の経験における自分の感じ方は後天的定義になる。

あ、
つまり、
刺激は、変化情報と自己情報の先天的定義の部分、
つまり、刺激の変化情報と、刺激の受容した身体性、これで完成するという事になる。

つまり、自分の感じ方は後天的定義だから、
認識で変化情報と自分の感じ方を認識するのではなくて、
認識はあくまで、先天的定義の変化情報の意味付けと、
自己情報の身体性部分のみ、ということ。

つまり、この刺激の認識によって、この刺激の認識をきっかけとして、
想起される概感は、
認識された刺激に対する、関連した過去の経験の記憶という事になる。

つまり、先天的定義で定義された変化情報と、
自己情報の身体性の組み合わされた刺激の励起に対して、
過去に経験した、実体験の記憶が想起対象となる。

つまり、ある刺激をきっかけとして、過去の記憶を思い出す事、
それが想起という事になる。

そして、この想起は、意識的、意図的に思い出すのではなく、
必ず何らかの刺激をきっかけとして想起しているという事。

つまり、意識的、意図的に突然、何かを思い出す、思い出そうとすることは無い。

つまり、私が突然何かを思い出す事は無いという事になる。

つまり、過去の経験において、刺激に対して関連して経験、覚えた事は、
後でその刺激を認識した時に、関連して想起対象になる。

つまり、自分のベッドで寝て起きて、起きた覚醒の際に認識した刺激には、
都度、関連した自分の経験が記憶され、
次にまた寝て起きた、覚醒した際に、その刺激を元に、
過去の起きた時の経験が想起されることになる。

つまり、起きて、今日は休みの日だからゆっくりしようというのは、
まず、覚醒の後に状況として、時間や曜日の刺激を認識する事によって、
過去に経験した、例えば日曜は祝日でお休みであるという想起が行われるという事になる。
それは、この想起は意識的に今日がお休みであるかを選択したり認識したりしているのではなく、
過去に経験した状況や自分の状態と同様の刺激の認識によって、
想起として、今日が休みである等の概感を認識しているという事になる。

つまり、

刺激の認識は、先天的定義の変化情報と自己情報を刺激として構成して認識する事。
この変化情報は、感覚器官から受容した情報であり、
この自己情報は、感覚器官としての自己の身体性の情報という事になる。

そして、想起は、これら刺激をきっかけとして行うものであり、
知能が自発的に行うものではないという事。
これは、「必ず」である。

そして、この想起のきっかけとなるのは、
刺激における変化情報と自己の身体性の組み合わせた神経細胞の関連に対して、
過去に自身が経験した、刺激に対する反応の選択や結果としての記憶がきっかけとなる。

そして、このきっかけを元に、想起されることになる。

つまり、ある刺激が、まったく同じ刺激であった場合、
そこから想起される対象は、まったく同じであるという事になる。

実際、人間の知能にまったく同じ刺激を受容させることは不可能なので、
(これは、時間の経過による変化が存在するためという事になるが、)
まったく同じことを想起させることはできないが、
もし全く同じ刺激と概感が認識されたとしても、
変化情報と自己の身体性に関連する後天的定義としての状況や経験というのは、
想起されたからといって、その想起に対する自分の知能の反応というのは、
その想起された時点における状況と自己情報になるため、
必ず決まった反応や選択となる訳ではないという事になる。

つまり、ある状況においてある刺激を受容、認識した場合に、
過去の経験が想起されるが、過去の経験があまり自分にとって良いものでなかったなら、
過去の選択とは異なる選択を行うために知能を働かせることになるかもしれない。
また、状況によっては、良くない経験を想起したとしても、
状況が自己の知能活動と新たな選択を許さないような状況であれば、
自分はまた同じ事を行う事になる。

想起対象が決まっていたとして、
現時点の状況において、自分の知能が、何か機能を用いて、
新たな事を想起したり、選択したりするという事はどういうことか?

つまり、これは知能が、思考したり、想像したりという機能そのものである。

想起が知能の機能の全てであるという考え方は、
これまで通りのままで良さそうである。

で、思考や想像の機能は、想起のどういう働きであるかというと、

ある刺激の認識に対して、知能は想起で概感を構成する。
概感は、この刺激に対する後天的な反応そのもので、
過去の自分が認識した状況や状態、反応や結果という事になる。

ここで、もう1つ関連した想起対象になるのが、
自己情報としての目的である。

つまり、ある状況に対して、自分はどのように反応するか、
行動するか、という定義である。

俗っぽく言えば「自我」という事になる。
恐らく一般的な「自我」とは少し異なるような気が今の所はするが。

(※1:最下部:説明追加)

つまり、ある刺激の受容に対して、想起される概感は、
刺激に対する後天的定義の全てという事になる。

この概感において、自己情報の定義は、
この刺激をきっかけとして想起した概感であるため、
この刺激に対する反応と結果などが情報に含まれる。

つまり、この刺激に対して自分は過去に何をしたか、
そして過去にどのような結果となり、
過去の結果に対してどのような定義をしたか、
という事が含まれることになる。

当然、自己の定義において、この結果が良いものであれば、
自分は同じような事を再現できるよう、
次の想起として目的を想起すると考えられる。

また、自己情報として、新たな現時点が、
自分のもっと良い状況を望むような自己情報を想起した場合、
つまり、過去に自分をもっと良い状態に導くような経験をして、
それが想起された場合、
次の想起として、新たな目的が想起されるかもしれない。

また、例えば自分で自分を諦(あきら)めているような場合、
次の想起として、過去の目的をそのまま想起するとか、
そもそも目的を想起しないという事になる。

つまり、
刺激の認識によって、知能の機能としては、
認識が初回でなければ、想起は必ず起こり、
もし、未経験であっても、未経験に対する経験をしていた場合は、
その想起が必ず起こり、過去の自分の経験が概感として想起される。
この概感は、自分が経験した後天的定義の全てであり、
そして概感に対して、現在の自分の状況や状態において、
自分が行うべき、つまり、自分が行うであろう定義が参照されることになる。

この定義は「自我」や「自我意識」として考えられているような事であり、
この定義によって、自分らしい反応が次の想起の対象となるという事になる。

そして、この次の目的となるような想起、概感は、
単に過去の記憶を思い出すというような概感ではなく、
次の時系列における自分が認識した目的としての存在となる。

この概感が目的となる想起はどのようなものであるかというと、
つまり、自分が自分でこうあるべきとか、の自己の自身の後天的定義か、
自分の先天的な欲求に関わる先天的定義の、関連によって想起された対象が、
目的として再構成されることになる。

つまり、ある刺激による想起による概感が、
現時点における自分の定義による誘導か、
先天的定義による誘導によって、目的に作り替えられた対象を想起する事になるという事である。

つまり、概感+後天的定義の自分もしくは、
概感+先天的定義の欲求によって、目的となる概感が想起されるという事になる。

つまり、
刺激→想起→概感+後天的定義→目的
刺激→想起→概感+先天的定義→目的
という事になる。

つまり、想起対象に現時点の自分の状況もしくは、
想起対象に自分の定義としての目標のようなものが関連した場合に、
知能は、自分がこの目的を想起したと認識したと、感じる事になる。

つまり、想起なのであるが、
知能は、自分が選択した目的であると感じ、思う事になる。

これは、この想起の概感に、どのような関連対象が想起されるかによって、
思考や想像などの知能の働きに変化するという事になる。

ということは、想起時点の自分の状況や状態によって、
自分が想起する対象は決まってしまう事になる。

これは因果と自由意志の話に収束する。
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これで何となくであるが、
刺激をきっかけとした想起によって、
知能の機能が働く順序が示せたことになる。

つまり、
刺激としての先天的定義の変化情報と先天的定義の自己の身体性がきっかけとなって、
想起し、概感が作られることになるが、
この概感自体は、全部後天的定義であって、
概感は、刺激に対する反応の全ての記憶であるという事になる。
そして、その想起の概感の認識によって、
刺激をきっかけとした自分の想起が決まり、概感を認識することになる。

また、もし、概感の認識によって、
次の想起、つまり、現在の自分の状況や状態の後天的定義が想起された場合、
この定義によって新たに目的が生じる可能性が出る。

これは認識の連続性の上に成り立つ。
つまり、ある共通の関連を持つ認識や想起が連続して行われるという可能性。

結果的に、結局なんらかの刺激をきっかけとはするのであるが、
自己情報に関連した共通の要素を、連続性の共通要素として、
ある特定の要素に対して連続する認識や想起が行われるという可能性。

これが結果的に知能の機能になるのではないかという事。

つまり、意識の中で、認識は連続性をもっているのだが、
きっかけの刺激によって、ある特定の目的を持った認識や想起の集団が構成されるのではないかという事。

つまり、次に行うべき目的を作る事などは、
ある刺激をきっかけとして、認識と想起を繰り返して、
自分がOKを出すか、中断されるまで続けられる事になり、
この連続性が意識になるのではないかという事。

つまり、意識している対象が決まっている、
つまり、今自分が考えていると意識しているとか、
これを見ていると意識しているというのは、
知能がある共通する要素を持つ刺激と概感の連続したある単位で認識している事、
ということになるのではないかという事。

・・・→認識A1→想起A1→認識A2→想起A2→認識A3→想起A3→
割り込み・きっかけの刺激B1→認識B1→想起B2→・・・

これに対して知能はAを意識した、Bを意識したと観測して、
その意識の存在を感じる。

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ここまでが、2024/6/26の内容となるが、
内容としては、ほとんど表題の答えそのものという事になる。

つまり、想起対象の概感は全て後天的定義であり、
この後天的定義は、自身が経験した刺激とその刺激に対する、
刺激を経験した時の自分の反応と結果の全てであるという事になる。

そして、同じような刺激を受容した際に、
その概感は想起されることになるが、
その直前の認識によって概感は維持されており、
後の経験時の反応と結果は再び、その概感の元になった
後天的定義にフィードバックされることになる。

つまり、この繰り返しによって、
ある刺激に対する記憶と、それを想起すること、
その想起した概感の定義が出来上がるという事になる。

その定義は、まさに自身のある刺激に対する感じ方、
反応、結果の記憶・定義の全てであり、
その存在は、ある刺激の認識をきっかけとした想起、
つまり、自分がその刺激に対して思い出す事であり、
自分がその刺激に対して何をするかという目的の素になっているという事である。

そして、この定義は、自分が次に何をするのか、
何を思うのか、何を考えるのか、といった、
全ての知能の機能として想起を行うためのきっかけになっている、
という事になる。

つまり、自我や自由意志の定義に関わる事になる。

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2024/7/8

概感における認識対象としては、

刺激による想起対象としては、
過去の変化情報か過去の変化情報に対する自己情報が概感として構成され、
その想起対象を認識する場合、
この過去の変化情報を主に認識するか、過去の変化情報に対する自己情報を主に認識するか、
という事になる。

つまり、ある瞬間において、
刺激の再構成の場に認識対象としてプールしている対象は、
感覚器官の刺激、想起された刺激、想起された刺激に関連した自己情報、
この3つが存在するという事になる。

つまり、これは、ある瞬間において認識できる対象の全てという事になる。

つまり、
まず、感覚器官の刺激は、
感覚器官の受容体が受容した変化情報に対して、先天的定義を用いて定義した「刺激」であり、
この刺激は、先天的定義の変化情報の定義の意味付けと、先天点定義の身体性の定義の意味付けを合わせたものである。

そして、過去の変化情報は、過去に経験した感覚器官による刺激の記憶という事になる。
これは、過去に経験した先天的定義によって意味付けされた変化情報と身体性のみの自己情報、
つまり、「刺激」の経験からなる概感を構成するための定義の記憶(関連と関連順序)という事になる。

そして、過去の変化情報、つまり過去の刺激に対して定義された後天的定義としての自己情報という事になる。
これは、過去に経験した刺激に関連した自己情報を主とした、刺激に対する自己の感じ方、反応の定義の記憶(関連と関連順序)という事になる。

この後半の2つの違いは、認識における変化情報と自己情報の情報強さの割合の違いによって生じる違いとなる。

分類としては、「刺激の記憶」、1種類それだけなのだが、
より変化情報に重みを置いた刺激の場合と、自己情報に重みを置いた刺激の場合があるという事になる。
つまり、それは概感においても、上記の変化情報を主としたものか、自己情報を主としたものかという違いになる。

つまり、イメージとしては体験としての刺激の記憶か、自身の感想としての刺激の記憶か、
といったところだろうか。
どちらも、ある刺激の記憶なのであるが、認識や意識された二面性の両極の刺激と記憶という事になる。

つまり、概感には認識に対して2つに分けられるだけの違いを持つという事になる。

概感は、刺激の経験の記憶であるが、
変化情報を主にした刺激の経験であれば、刺激の記憶としては励起の初期の方の記憶という事になる。

つまり、刺激を認識する初期の方、つまり、きっかけになりうる、刺激に近い状態の励起の初期の方という事になる。

また、自己情報を主にした刺激の経験であれば、刺激の記憶としては励起の後半、つまり、関連においては、
自己の身体性や、自己の刺激に対する反応、それ以降の自己の刺激の認識後の経験の感想などの部分、
関連する励起においては後半の方という事になる。

刺激は変化情報と自己情報を合わせて持ち、
概感も刺激の記憶とその関連する自己の反応の結果を合わせて持つわけであるから、
概感には、刺激の変化情報と自己情報(身体性)と、刺激に対して関連した経験の記憶、その関連が含まれる。

つまり、概感は、
きっかけとなる刺激それ自体を主とした場合と、
自己情報を主体とした場合が存在するという事になる。

逆に考えれば、概感の定義を構成するのが、刺激中心の場合と、反応中心の場合があるという事になる。
ということは、認識の刺激の再構成の場にプールする対象は、「刺激」、「想起で刺激」、「想起で自己」、
この3つという事になる。

言い換えれば、「今受けている刺激」「体験の記憶」「体験の感想(反応)の記憶」という事になる。

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そして、ここから、想起の選択や優先度となる、
目的や誘導の力となる部分について考えると、
「体験の感想(反応)の記憶」の部分に、その答えがありそうだという事が分かる。

そしてこれは、以前考えた内容にある、「後天的定義の自己の定義」という事に繋がる。

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自分の想起や意識というのは、生きていく事だけに関して言えば本来行わなくても問題ない。

別に自分の考えなどはなくとも、何かに従う、自然の摂理に従う、
それだけでも十分なはずである。

つまり、自己情報を想起して認識、意識しなくても、
生命や知能としてさえも問題は無い。

それを必要とさせるのは、自己の定義である。
つまり、自己の後天的定義。
自分とは、自分とはこうである、自分とはこうあるべきである、自分はこういう存在である、
自分はこうでなくてはならない、そういった定義である。

例えば倫理観などを取っ払い、理屈だけで言えば、
何かの教育において、常に何かに従う個体の知能に教育するということはできる。
つまり、自分で考える事を経験させなければ良いという事になる。
全て賄う、全て与える、考えるいとまを与えない。
そういった経験による個体の知能は、自ら考える事さえ思わない、
つまり、自ら考える経験がないため、自ら考える事を想起する事ができない知能になる。

そして、今度はそれを全くの逆に考えてみれば、
何か、知能においての主観的な、自発的な、意識的な何かを行う知能というものは、
その経験を持っていて、その経験を想起する事が出来るという事になる。

自分とは、あれが好き、これが嫌い、こういう時は何をする、何をしない、こういう存在である。
自分についての定義を、常にどこかで行ってきた結果である。

私の事になるが、
私は人工知能について考える、想起とは、認識とは、意識とは、刺激とは、こう考える存在である。
私は以前のどこかで、自分で自分をこのように定義してきたのであろうという事になる。
もちろん、その私自身の定義があったから、今こうして人工知能について考えているわけだが。

それは刺激とその自己情報としての反応としての結果を、経験として、
その神経細胞の励起の関連と関連順序を後天的定義として記憶したものである。

どこまでその関連を辿る必要があるか分からないが、
私について言えば、
世界の全てを知りたいと思い、世界の全てを知ることはできないと感じ、
強い人工知能を作りたいと考え、認識や意識の何も知らず、
考える事を考える存在であり、定義の楽しさを知り、
生きている間に強い人工知能を見たいと考え、そのために考える存在であり続ける。
そういった定義を自分自身について行いながら、自分を定義してきた。

自己の定義は、その想起において、自分の目的の想起に至る。
つまり、充足を目的とした定義の想起である。
明確に意識的であることもある、不明瞭に習慣であることもある、
ただし、そこには~しなければならない、~するべきである、~したい、
などの充足や満足に通じる定義が存在する事になる。

であれば、先天的定義の充足や満足、自己定義である後天的定義の充足や満足、
これを結果の目的とした「きっかけ」の刺激または概感の再構成、
つまり、刺激の受容か、概感の想起、これが、「目的のきっかけ」である、という事になる。

つまり、人間本来の充足や満足のための刺激、
または、自己定義の充足や満足のための概感、
その再構成、認識によって、目的が生じるということになり、
目的によって、知能はその機能を活動させることになる。

つまり、知能が知能自身を含めて自分を働かせるという事になる。

つまり、知能の活動は、自己定義次第という事になる。

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2024/7/9

意識する対象の優先:

何かを考えている時、
次に意識される対象がすんなり出てくる事を考えると、
意識する対象の選択で行われている事には、
それほど深い設定は無いと考えられる。

つまり、何かの機能が特別に働いて選択を行っているのではなく、
あるきっかけに対して自動的に行われる反応などのように、
決まった機能が自動的に反応するように、この選択は行われていると考えられる。

つまり、都度何かを作り出しているのではなく、
既に存在する何かを今思い出す、作り変えているだけなのだろうというわけである。

現時点ではどうしても「想起」がその対象に思い浮かぶが、
これまで考えてきたどの考察や考え、気づき、
その全てに共通するのが、結果の認識や意識である事を考えると、
知能内で行われている機能としては、
仮想的な結果を生じる機能と、その結果を、
これまで判明している認識や意識として観測しているものと考えられる。

シンプルで、機能としても自然であり、
特別な機能を必要としない、
そういった目的を持って機能たらしめるには「想起」はうってつけとなる。

では、「想起」でどのように意識する対象を選択しているのかという事になるが、
基本的な考え方としては、
もともと想起は、ある刺激に対して強く関連づいている経験したことのある刺激を励起する事になるが、
この強い関連は、経験によってその強さが定義されている(シナプスの結合・関連)。

つまり、もともと想起される対象は、その関連の強弱は、
経験によって定義が済んでいる事になる。
そして、想起においては経験の追体験のように、
その経験が繰り返される事になる。

つまり、強い刺激として経験した事象は、
想起においても優先される対象であるという事になる。

つまり、ある刺激を意識した場合、
この刺激によって優先的に励起される事象は、
その過去の経験によって定義されているはず、という事になる。

この時の優先度は、経験した刺激の強さと、その後事象の関連の強さであるが、
きっかけの刺激の強さは、想起においてはあまり関係が無いことになる。
であれば、想起対象の優先は、この後事象の関連の強さで、
想起対象の優先度は決まるという事になる。

しかし、これが全ての優先度を決める要素であるとすると、
何かの刺激を受容して想起する対象は常に同じものになってしまう事になる。

それが起こらず、想起の対象が都度、その時の状況・状態によって変化する場合があると考えると、
この優先度を決める要素に、経験として記憶された関連の強さ以外にも何か要素が存在する事になる。

では、その要素は何か?

目的であるとか、384の「達せられなかった欲求の記憶」であるとか、
前々から考えてきた事であるが、
変に訳の分からない対象が要素になっているとは考えられない。
つまり、認識可能であるが、まだ定義が存在しないので認識できていない要素であると考えられる。

きっかけはまだ分からないが、
結果は意識されるわけであり、
想起されるわけであるから、概感という事にはなる。

概感の変化情報か、自己情報か、という事については、
感覚としては、そのどちらでもあるという感じがする。

単に刺激を認識している状態での想起であるため、
刺激の変化情報+概感の自己情報という事も考えられる。

刺激の自己情報と、概感の変化情報ではないとは考えられる。

であれば、刺激の変化情報+概感の自己情報という事になる。

刺激の自己情報+概感の変化情報をきっかけとする想起か?

つまり、
現時点での自己情報+現時点で認識されている刺激の変化情報を想起元とした概感の変化情報か?

なぜ今、これを考えようとしているのか。
なぜ今、これを思い出そうとしているのか。
今は、これを考えようとしている状態である。
今は、これを考えようとしている定義された状態である。
その定義の状態の認識の上で、つまり、
その定義の状態を再構成して維持した状態で、考えている事になる。
その考えるという状態の定義の再構成した事象の認識は、
その考えている間、ずっと認識が維持されている。
目的の認識の維持。

その定義の状態を認識したまま、その考えるという状態に関連した項目に対して、
今考えている。

認識の維持は、変化情報ではなく、自己情報の励起に関連した維持である。
これは、以前考えた。

「自分は考える」という定義を再構成して認識において維持しているという事になる。

その認識の上で考えているという事になる。

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・・・→思考A →思考B →思考C・・・
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
→「自分は考える」という定義の再構成と認識→
・・・→認識の維持→・・・
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一応これで、自分が思考する、考えるという状態が維持されるという事は分かる。
認識の維持は、概感の自己情報が関連して想起され続ける事で再現できるはず。

つまり、「自分は考える」状態の定義を概感として再構成している状態は、
次の関連した考えにおいても「自分は考える」の概感の自己情報が関連しているはず。
考える対象も、関連によって維持されているので、
概感ごとに考え方や考える対象に多少の変化は起こっても、
「自分は考える」の連続性という点においては、再現できる。

考え方はどうか?

つまり、上記の思考A、思考B、思考Cのように、
ある連続する「自分は考える」の上で行われる各項目の思考である。

すぐに思いつくのは「想起」であるが、
であれば、「自分は考える」の定義と、自分が考える対象として掲げている事項について、
関連する要素があり、これが思考のきっかけになっているということか?
つまり、「自分は考える」認識の上での、考える対象として掲げている事項に関連する、
未解決の事項、つまり、既に解決している事項について考える事はしないのだから、
あえて考えるのは、未解決の事項であるという事になる。

つまり、知能がもし既に定義として確立された事象を記憶していて、
それについてその知能は再び同じ定義を確立する為に思考するかどうか、
それを逆に考えるという事である。
つまり、既に定義が存在していて、その定義を知能が用いているのなら、
定義に変更が起こらない限り、定義を再定義することは行わないであろうという事である。
つまり、知能が思考するのは、定義がまだ未確定の事項、事象という事になる。

例えば、私が今、知能の意識において、何らかの要素がその次に意識する対象として、
何らかのきっかけをもって想起、意識しているなら、そのきっかけは何か?
という思考において、もし、この定義を既に私が定義していて記憶しているなら、
その事について思考するであろうか?という事である。

であれば、意図的に、結果的に意識的に思考を行うということは、
意図的に、結果的に意識的に思考を行う事、つまり、
意図的に、結果的に意識的に「想起」を行う事になる。

つまり、「自分は考える」が維持された状態において、
考える対象、考える項目があり、この対象・項目は、
自身の知能において明確な定義が存在しない事象である。
であれば、「自分は考える」という認識された状態が連続的に維持された状態で、
特定の事項において「思考」する事は、基底の状態「自分は思考する」に関連した、
考える対象の事項について、関連した想起を行う事という事になる。

この時点で、恐らく、「思考するきっかけを得た」状態までであり、
この先、「どのように思考する」のかは、その想起によって再構成される概感に依る事になる。
つまり、どのように思考するのかは、自身の思考の経験によって想起される概感次第ということになる。

認識は、ある知能がある状態の定義を維持している間、
その状態で維持されるということは結果的に意識に関係している事であり、
この知能の維持された定義の状態が変化する要因は、
基本的に刺激によるものである。

であって、もし、この知能のある定義の状態が維持されている場合、
知能は、その状態に関連した事象を優先的に想起する事になる。
これは、この知能の状態の定義として、明確な定義を持っているからという事になる。

これは後天的な自己情報の定義であり、元は経験として周囲から得たものであるが、
自身の知能が自身について定義したものでもある。

つまり、上記の「自分は考える」の定義は、知能ごと、個体毎に異なり、
その思考の方法、考え方は経験によりまちまちである。
また、その思考の状態が認識において維持されている際、
何を思考するのか、考えるのか、その対象も、知能ごと、個体毎にまちまちである。

当然、思考で想起する内容もまちまちである。

つまり、
想起の誘導は、認識における自己情報の、自己に関するある状態の定義の維持を基底とした、
つまり、認識の特定の状態としての誘導によって、想起も誘導されるのではないかという事。

つまり、認識の状態の定義が存在するのではないかという事になる。

もし、認識に状態としての定義が存在していた場合、
確かに刺激によって直接認識する事は出来ない。
もちろん意識もできない事になる。

認識の状態の定義でなかったとしても、
ある知能の状態の定義が存在していると考えた場合、
この状態の定義の刺激の認識が維持されている間、
想起が誘導されるということは考えられる。

つまり、自身の個体をある状態として維持する定義が存在する事になる。

つまり、こういう事になる。

・・・→認識(状態A)→刺激→認識(状態B)→刺激→認識(状態C)→・・・

つまり、何らかの刺激のきっかけによって、認識はある状態になる。
状態と言っても、認識のプールの中に、ある維持された状態の定義が存在し続けている状態、
という事になる。

つまり、刺激のきっかけとして「自分は考える」状態を認識してそれが維持されている間、
認識は、その状態に関連した刺激や概感を優先して認識する、想起する、という事になる。

これは、優先に定義が存在するわけではなく、単に関連を持つ事象を励起しているに過ぎない。
結果的に優先や選択して励起、再構成、認識をしているように感じるが、
関連を持つ事象は経験時に限定されているため、それを励起するのは自然な事になる。

つまり、知能の機能としての使い方の定義を、知能が行い、それを当然の様に用いているために、
知能は思考したり想像したりと様々な機能のような活動を行うという事になる。

つまり、「思考」や「想像」「創造」そういったものは、知能の機能としての状態の定義であり、
「自分は考える」のではなく、「自分は考える」定義を認識して、
それを維持しているから「自分は考える」状態になっている、という事になる。

つまり、私が今回、想起の誘導について「考えている」のは、
完結していない満たされていない目的「想起の誘導」について考える事を想起して概感として認識し、
その概感に含まれる自己情報の定義である「自分は考える」という知能が考える事の状態を認識して、維持し、
その目的に関連した想起を行っているから考えることが出来ている様に感じている。
という事になる。

そして、恐らく次に何か「自分は考える」状態の定義を変える刺激の認識があった場合、
現実的には、何らかの割り込みとなる変化が起こった場合、
認識対象となるその状態の定義を変更して、「自分は考える」とは異なった行動を行い、
その状態の定義を認識で維持するという事になる。はずである。

例えば、「自分は考える」の中で、何かの考える目的があり、
その目的に関連した内容の事象を想起する場合、
例えば、私を例とするなら、「例を挙げる」とか「別の見方をする」「二面性の反対側を想起する」
「過去の考え方を思い出す」「自分で試してみる」などの事や行動を想起する。

この想起は、「自分は考える」状態であるから想起している事象であり、
「お腹がすいた」状態では想起しない事象であると考えられる。

恐らく「お腹がすいた」状態では、過去の「お腹がすいた」状態に関連した経験となる、
対処を想起するはずであり、「お腹がすいた」状態で「別の見方をする」は想起しないと思われる。

つまり、意図的に、意識的に「自分は考える」の対象を変更することは、
過去の経験において、それをしたことがあり、それを経験して記憶しているからという事になる。
つまり、思考する方法として「別の見方」をした事が無い知能は、
思考している最中に「別の見方」をする事は無いという事になる。

恐らく、「別の見方」をする最初の人間の知能が、それを何かから再構成して定義として、
その定義を作り上げた事で、別の人間がそれを学ぶか経験する機会を得て、
その「別の見方」の定義が共有化され継承されたという事になる。

現在の人間における教育において、思考方法はその定義ごと教えられているが、
それを考えるに至った最初の知能は存在し、古くその定義を行った知能があったという事になる。

となると、やはり知能は定義によって構成や発展してきたものであるという事になる。

つまり、定義=情報の要素の関連と関連順序
という事になる。

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また少々長くなりつつあるので、
今回は一度この辺にしておく。

一応まとめとしては、
刺激の感じ方については、
知能にとっては刺激は経験としての学習の対象であり、
実際の変化情報と自己情報から構成して刺激となして、
認識においては、その刺激に対する概感を構成する用の経験としての反応と結果も、
この刺激に足して記憶する事になる。
これは、全て経験としての記憶をするために必要な情報であり、
想起を簡単に行うために必要な情報でもある事になる。

結果的に刺激を経験として記憶する事で、
後に行う刺激をきっかけとした想起が容易になる事になる。

つまり、
刺激=変化情報+自己情報(身体性)

経験=刺激+自己情報(反応)+結果(自己情報(反応))

経験=刺激+現状変化

記憶=経験

という事になる。
そして、この刺激と同じものを受容した場合、

想起=概感(刺激)=記憶(刺激)

が起こることになる。

想起の誘導については、
ある知能の状態を定義した概感を認識する事によって、
認識が維持される事で、知能がその定義された状態として維持され、
その際に、目的の存在によって、特定の想起が優先して誘導されるという事。

つまり、

上記の
経験=刺激+自己情報(反応)+結果(自己情報(反応))
における「結果(自己情報(反応)」
の部分が、同じ後天的定義であるが、実際の自身で起こした反応=自己情報(反応)に対する、
その瞬間に用いた自身の反応=自己情報(反応)の結果としての後天的定義となり、
これが記憶された後、
後の同様の刺激の受容に際して、刺激に関連して想起される対象となる。

そして、その際、つまり、後から生じた刺激に対して、
経験した際の現状変化、つまり、過去の状況変化について想起する事になるが、
この過去の状況変化と、現在の状況に対しての違い、
新たな反応を構成する機能が、知能における想起の機能の種類としての「思考」
に相当する事になる。

つまり、この際、想起の誘導は、過去の刺激の経験における、
結果(自己情報(反応))に対する、現在の状況との違い、変化に対するだけの適応として、
想起を誘導する事になる。

つまり、過去と現在の状況が同じ、期待される結果も同じであれば、
想起の誘導は、過去の経験をそのまま想起する事で誘導した事になる。

過去と現在の状況が異なり、自己の定義において、異なる結果を期待する場合、
その自己の定義に対する変化、つまり、「思考」などとして、
異なる自己の定義を参照して、想起を誘導する事になる。

この際、異なる自己の定義は、どこにあるものかというと、
関連していたが試されなかった定義、
つまり、満たされなかった欲求であるとか、
過去には無かったが現時点で保有している似通った関連を持つ刺激の経験であるとか、
そういった自己の定義として新たに獲得(記憶)した自己情報の反応にあるものだと考えられる。

新たな考え方なので、
今回はここまでにして、
改めて次回以降で考えをまとめる事にする。
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※1:追加 2024/7/12

ある刺激に対する概感を構成する要素の内、
その概感に対する自己情報として、
実際の刺激の経験以外の部分、
つまり、刺激が直接経験として記憶される要素としての、
刺激と、身体の反応と、経験した時の感じ方、はそのまま記憶として想起されるが、
経験した時の結果、つまり、自身の反応の結果に対する定義、
これが、ある刺激に対する自己の定義という事になる。
そして、この自己の定義は、身体性などの先天的定義ではなく、
自身の自己に対する定義であって、「自分らしさ」などの定義ということになる。
そして、これは、刺激によって想起された時に、概感の自己情報、
つまり、

概感=想起・記憶(刺激+刺激の受容の際の自己情報)+想起・現時点(自己情報)

の内、現時点の自己情報の定義から刺激の関連として参照して想起されるものとなる。
そして、これは、ある刺激によって想起される過去の記憶ではなく、
現時点の自身の状態、自身の考え方、自身が行うべき反応の定義を参照して構成されるものであり、
これが、次の自己情報における「目的」の基底部分となる。
つまり、この現時点の反応としての自己情報を想起する事で、
自身の次に行うべき反応のきっかけができる事になる。
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