2024/6/30

想起と自発的な目的

自発的な目的が生じる際に、
想起がどのように関わっているのか考えてみた。

この場合の自発的な目的は、
本能としての先天的定義にある欲求に対する目的ではなく、
目的を自ら作り出すという意味での自発的な目的である。
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自発的な目的が生じる事が特に人間の知能において発達した部分。

他の知的生命においては、
先天的定義の刺激の認識といった変化に対する受動的な刺激の受け方であり、
この刺激に含まれる欲求に対して行動するという具合に、
基本的に受けた刺激に対して何かを決まって行うという行動をとる。
この時の知能は、刺激に対して、遺伝的に持つ先天的定義としての決まった反応をするのであり、
後天的な目的の様なものは存在していない。

一応、この人間以外の知的生命においても、
一部の後天的定義を持つ事もできるが、
他の対象を識別するとか、地形を覚えるなどの後天的定義を持つ事は出来るが、
自分にとっての定義を後天的に持つ事は出来ない。

つまり、後で何かしようとか、これはどういうことなのか考えるなどは、
そもそも思いつくことが無いという事である。

恐らく、人間の脳と、人間以外の脳の違いにおいて、
この思い付きに相当する能力が異なるから、という事は分かる。

先ほどの、対象を見分けたり、何かを覚えたりすることは、
人間もその他の知能でも出来ると考えたわけだが、
それを自発的に思いつくことが、人間以外の知能では希薄だという事になる。

自分が人間以外の脳を持っていたとして、
考えてみた場合、刺激の受容によって何か過去に経験のある概感を想起した場合、
基本的に認識できる情報は、顔とか風景とか、などの一部の情報の識別が出来る程度であった。

顔を見たからと言って、名前が思い浮かぶとかではなく、
この顔は知っている、好意的な存在だ、とかいう程度が分かるくらいであった。

だから、自分はどう思うとか、そういう事は一切思いつかず、
だから何かを考えるという事も無かった。

つまり、人間以外の知能では、ある刺激に対して想起できる情報の量が少なすぎるのである。
それは、つまり、ある刺激に対して経験として記憶できる情報の量が少なすぎるという事が元になる。

刺激の再構成における自己情報の構成は、
後天的な定義の記憶や、想起にはあまり関係なく、
先天的定義としての刺激として、自身の姿を受容したとして、
それが自分であるという認識に至る知能は、
認識における刺激の自己情報が存在するわけであるから、
刺激の対象についてわずかでも自身の認識に関連付けられれば、
自分を意識しなくとも、自分であるという認識は出来る事になる。

つまり、自分を意識しなくとも、
自分は認識可能であるという事になる。

ただ、自分を意識するためには、
想起における概感において、認識可能な自己情報の量が必要になるというわけである。

刺激の認識において、変化情報と自己情報が、
先天的定義を用いて構成出来れば、それは刺激となって認識に至る。
刺激の認識には、必ず想起は行われる。
ただし、想起するには、過去に同じ刺激の認識が必要になる。
刺激の認識による記憶では、刺激の全ての情報が記憶できるわけではない。

つまり、まず、ここで、人間の脳と人間以外の脳の能力において、
記憶できる経験としての刺激に含まれる情報の要素の量に違いがあると考えられる事になる。

想起は恐らく刺激に対しては、当然、人間でも人間以外の脳でも同じように行われると考えられるが、
そもそもの記憶された情報量に違いがあるので、想起される情報の量が異なるのである。

想起によって概感が構成されることになるが、
概感が構成されるためには、刺激とまったく同じでなくても良いが、
最低限認識可能な情報量は必要となる。
つまり、刺激と同様の、変化情報と自己情報が必要であるのと、
その情報の関連において、認識可能な情報の要素とその関連が必要になるというわけである。

どれだけの情報量が必要になるのかは現時点では分からないが、
少なくとも、ある感覚の刺激において、
同じ感覚で受容できる情報として、「異なる」という認識が出来る程度の情報量は必要になるはずである。

つまり、視覚においては、事象の大きさや明るさ、色彩など、
何かの情報を比較して、事象ごとに異なると判断できる程度の情報量である。

「異なる」と判断できる程度の情報量であれば、
少なくとも認識できているわけであるから、
刺激としても構成できる、つまり、認識できるという事になる。

この情報量を記憶し、想起できれば、概感も構成できるという事になる。

人間以外の脳において、事象が「異なる」という程度の情報量が記憶できないか?というと、
動物が家族を認識、識別できるということから、変化情報の記憶は出来ていると考えられる。

しかし、自己情報についてはどうかというと、
刺激における自己情報は、人間以外の知能においても自己情報は構成出来ていると考えられる。
それなら、変化情報と同等の記憶もできていて、想起もできているのではないかと考えられるが、
実際は自分を認識してはいても、意識しているようには見えない。

変化情報も自己情報も記憶出来ているのだから、概感も構成出来て、
想起によって、自分を認識するに至っているのではないか?
という事になるが、実際はそうではない。

人間の知能とそれ以外の知能の、この違いは何か。

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違いの生じた理由の案:
寿命が短いから?経験が少ない?
人間以外は適応しすぎて進化が最適化し過ぎたから?
人間は逆に中途半端な進化だったから?
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人間以外の知能には、意識的な自発的な目的が足りない。
つまり、意識的な自発的な欲求が足りない。

これは、後天的定義の自己情報の量の違いに関係するのでは?

人間も人間以外も、
先天的定義の刺激における欲求を認識して行動するのは分かる、
でも、人間は、後天的定義の自分が認識した以前の自己情報における目的を、
後から想起して、目的を思い出す事がある。

刺激として欲求を認識するのは、人間もそれ以外もあるが、
概感の欲求を認識するのは人間くらいなものである。

刺激の認識も、想起による概感の認識も、
人間もそれ以外の知能もできるという事は考えられるが、
何か決定的な違いがある。

後は関連の構成できる量か?

結局、後天的に記憶できる量という事になるが、
先天的定義の刺激の認識において、自分を意識できないという事を考えると、
以下の事が考えられる事になる。

刺激の経験としての記憶に、自己情報の関連が作れていない。

人間においても、先天的定義の自己情報と、後天的定義の自己情報は異なる。
後天的定義の自己情報は、
刺激の経験の中で、刺激に対する自己の感じ方の結果が含まれることになる。
この感じ方自体は、先天的定義なのであるが、
その関連が生じるのは、刺激の認識の後であり、
刺激を受けた自分が持つ感想のようなものである。

つまり、刺激を経験として記憶した際に元の刺激について付加されて記憶される情報である。

これは、関連対象の定義(感じ方)は先天的であるが、
関連自体(神経細胞のシナプス形成)は、刺激に対する後天的な定義であり、
つまり、この関連が生じ得るか、これが生じるかどうかに関わって来る。

つまり、関連があれば、想起において、概感における自己情報も十分なものとなるが、
これが不足すると、想起の概感において、変化情報はあるが、誰が想起するのか分からないので、
認識や意識に至らないという事になる。

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そして、話しは少しずれるが分かって来ることがあり、

認識は、先天的定義の定義を想起する事、
意識は、後天的定義の定義を想起する事、

なのではないかという事である。

つまり、
刺激の再構成において、先天的定義は、刺激を構成する定義として用いるのではなく、
刺激を構成するための想起対象が定義されているのではないかということ、
そして、概感の再構成において、後天的定義は、
概感を構成するための想起対象として定義されているのではないかという事。
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つまり、人間は、想起の為の刺激の記憶において、
多くの情報を刺激の認識の際に記憶できるので、
想起した概感において、意識できるだけの自分を再構成できるという事。

人間以外の知能は、刺激の認識は、先天的定義の想起によって構成できるが、
概感の構成においては、想起できる後天的定義が少ないため、概感が構成できずに意識できない、
という事である。

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2024/7/1

今朝、昨日の自発的な目的の発生について考えながら、
顔を洗っていて気づいた事。

「達せられなかった欲求の記憶。」

つまり、想起によって目的が生じるという事は、
想起時に目的となる何らかの欲求のようなものが必要となる。
それを想起時に思い出しているのではないか?
であれば、欲求を記憶しておけば良いという事になった。

つまり、達せられなかった欲求が記憶できれば、
想起時に認識される概感において、
自分の目的を作るための欲求が再構成できるということになる。

想起時は、刺激としての欲求の存在も並行して認識する事は出来るが、
刺激の欲求を目的とする場合と、
想起の目的を思い出す場合の目的は、
異なる目的であるため、
想起によって目的を思い出す(実際は作り出す)場合は、
想起用の目的のきっかけとなる欲求が必要になるという事である。

つまり、人間が思い出すように、あれをしよう、これをしよう、
あれをしたい、これをしたい、と思い出すのは、
刺激として経験した時の欲求や目的を、記憶していて、
これを後から思い出す、想起するから、
想起時に目的が生じるのではないかと考えた。

つまり、自発的に目的を作り出している様に感じるが、
そのきっかけとなる欲求は、過去の経験における欲求であり、
その記憶された欲求を、現時点で想起によって目的として再構成しているという事になる。

つまり、人間以外の知能において、あれこれを後からしようと思う事ができるのは、
相応の記憶能力が必要となるという事である。

この事を考えていた際に思い出したことは、
無意識やフロイトである。
今も無意識に何か働きがあるとは考えていないが、
無意識の部分に欲求が記憶されているという考え方と、
フロイトが考えていた欲求に対する考え方、
エスやイド、リビドーなどの考え方が思い浮かんだ。

つまり、蓄積された欲求というような考え方ではなく、
記憶された欲求という考え方であれば、
蓄積は、強く記憶された欲求という事であるし、
その記憶された欲求が想起されたなら、
目的としても強いエスやイドとしてのエネルギーを含むという事になる。

実際には、想起によって記憶された欲求が認識されることによって、
目的が生じるという事になるので、
無意識に何かが働いて、目的が生じているという事にはならないが、
結果的に、想起による概感の再構成をきっかけとして、
「~したい」というような欲求の目的が生じている事になる。

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習慣の目的:

自発的な目的と欲求に関するアンチテーゼとなるのが習慣であると考えているが、
習慣は欲求として「~したい」というよりも、
「~しなければならない」
「~するべきである」
という事である。

習慣も行動の目的の対象となるが、
今回、考えた結果としては、
習慣は、自分に不利益がある未来の想定によって、
それを回避する為の目的として行われている事、
という事になった。

つまり、習慣自体は、その瞬間においては目的となって行動のきっかけになっているのだが、
その目的の欲求内容としては、その瞬間に対する刺激の対応・適応ではなく、
後々、遭遇するであろう状況に対する予備的な対応・適応として行動する、という事になる。

つまり、それをしない事で自らが被るであろう状況を回避する事を欲する、という事である。
習慣的に散歩をしているのに、それをしない、運動不足や習慣自体の未達成に対する不満、
習慣的に朝顔を洗うのに、それをしない、他人の自身の評価が落ちる、不潔である、
習慣、それ自体は、「~しなければならない」という事にもなるかもしれないが、
直接行動を起こす時点では自分の目的として「~したい」事になっている。

つまり、習慣は「~したい」欲求ではなく、
「~しないために不利益をこうむりたくない」欲求ということになる。

人間以外の知能においては、
習慣というよりも、本能的に、先天的に、習性としての行動を取るが、
例えば、動物が自分の縄張りを巡回するなどの行動は、習性とも考えられるが、
習慣であるとも考えられる。
この場合、習性であっても、習慣であっても、
目的として想起されるのは、対象が先天的定義か、後天的定義であり、
どちらにも欲求の定義、欲求の記憶、が存在する事になる。
そして、どちらを認識するにしても、欲求が認識される事で、
知能は目的を生じさせることになる。

つまり、習慣を始める初期においては、明確な欲求や目的があり、
それを習慣として開始するのであるが、
後に、この習慣自体が行うべき目的となり、
行わない事で不利益を被る事に対する回避の対応・適応として、
「~しなければならない」「~するべきである」という目的として、
行動を行う様になるのではないかという事である。
つまり、
「~したい」+予期した不利益の回避→(対応)→「~しなければならない」
という事になる。

これは、元々の欲求の記憶と、欲求の想起ではなく、
経験として不利益を被る、被った、事に対する対応として、
想起された結果であると考えられる。
つまり、もう、この辺りの機能は、想起を元にした思考や予想、想像の範疇に入ってきているのだが、
基本的な機能の部分は、
想起によって目的を作るための欲求を、どのようにして解消するか、
という事に繋がっていく。

いずれにしても、自発的な目的は、欲求を想起することを元にしていると考えられるので、
習慣は、その当初の目的の欲求に対する解消、対応の方法を行動として、
継続して行っている目的という事であり、
そこに欲求は存在しているという事になる。
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自発的か自由意志か?

「自発的」であり、「自由意志」ではない、という事になる。

個人的に自由意志の存在の可能性を捨てたくは無いが、
現時点でも以前から考えていた通り、
知能における目的は、変化を受動的に得た結果としての反応として、
自発的に生じているように見えるもの、という事になる。

つまり、今回の「気づき」の考えを含めると、
刺激の受容によって、想起が行われるが、
この時の想起される概感に過去の欲求が含まれていた時に、
これが自分の目的として認識される、という事である。

つまり、想起されて概感が構成された時点では既に自由意志は間に合わないという事になる。
となると、自由意志が関与できる可能性は、
刺激の受容の選択まで、という事になる。

しかし、刺激の受容の選択は、感覚器官で受容された時点でも既に間に合っていないので、
その刺激の生じる前、その刺激が生じる可能性のある時点の前の、
自分の行動になら、自由意志が関与できる可能性がある。

つまり、その直前の自身の行動によって生じる刺激に影響を与えられる部分、
という事である。

これは、刺激が発生しうる事象に対して、直前の自分の行動を関与させて、
次に発生するであろう刺激を誘導するのであれば、
次に受容して認識する刺激については、自分の意図として関与できるという事である。

ただし、完全に自分の行動が次に発生する刺激を操作できるという事ではないので、
必ずしも、完全なる自由意志ではないのだが、
自身が思う所の、自分の意志のようなものが関与できるのは、このタイミングしかないという事になる。

深掘りすれば、この直前の行動を目的とするきっかけ、さらにその前、と考えていくと、
結局は刺激と、自分が達せられなかった欲求まで行き着いてしまうのだが、
その過程は、自分らしさの関与する余地のある一応、自分らしい「選択」として考える事もできる、
という事である。

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今回はこの辺で。

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