2024/6/15-2024/6/18
認識の際に自分の再構成が起こる理由
これまでの考察では当たり前の様に考えてきたのだが、
認識の際に、なぜ自分の刺激が再構成されるのかについては、
詳しく考えてこなかったように感じる。
325・326の辺りで、自分の刺激が再構成され、
その自分の刺激の存在によって自分が認識されるように感じると考えるようになったが、
その理由や経緯、必要性までは考えていなかったので、
今回はその辺りについて考えてみる。
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感覚器官からの刺激の受容の場合は、
人間以外の知的生命においても、恐らく同じような自分の刺激の再構成が起こり、
少なくともミラーテストで自分を認識できるような知能においては、
刺激の認識に合わせて、自分の実体についての刺激が再構成されていると考えられる。
これは、例えばミラーテストであれば、
視覚において見えた対象の像が、自分自身であると認識できるからこそ、
ミラーテストをクリアできるわけであり、
もし、視覚の対象の像が、自分自身の刺激として関連されていなければ、
その個体の知能は、その対象を自分自身であると認識していない事になる。
つまり、仲間であるとか敵であるとか、別の存在という認識になる。
認識という観点においては、
刺激となる情報が自分が受けた変化であると知能が知る必要があるわけだが、
刺激とその反応だけを決める必要があるのが知能であるなら、
刺激は認識されなくても良い事になる。
つまり、先天的定義で全て済ませてしまえばよい事になる。
つまり、刺激と反応が反射のように定義されているものなら、
生命の知能において、この刺激は認識されなくても良い事になる。
つまり、ある刺激に対して固定された反応が先天的に定義されているなら、
刺激の認識も自分についての再構成も行わなくて良い事になる。
つまり、全ての知能において、
刺激の受容の際に、必ず自分の再構成を行っているわけではなく、
全ての知能が刺激を認識するという事でもなく、
もちろん、知能を持っている生命、種において、
感覚器官から得た刺激が、自分が受容したものであったとしても、
その刺激が自分が受容した刺激であると「認識」する事を必要としない刺激や知能も存在しても良い事になる。
つまり、ミラーテストであれば、
鏡に映っている自分の像を刺激として受容したとしても、
その対象が、自分の姿であると認識できない、認識それ自体を必要としない知能も存在しても良い事になる。
つまり、
知能を構成して保有する種においても、
刺激は常に全てが認識されるという事ではなく、
反射などの定義として保有するだけの場合が存在し、
刺激を「認識」するようになった知能は、
知能の進化や成長のある段階において、
刺激の認識のために自分の刺激が関連するようになったと考えられる、
という事になる。
つまり、先天的定義だけの刺激と反応であれば、
全てが反射という反応の選択だけで済むことになるが、
知能のいずれかの段階で、刺激は「認識」となり、
自分自身の刺激も合わせて構成されるようになったと考えられる。
つまり、知能の進化のどこかの段階で、
刺激に自分の刺激を関連させて「認識」をするようになったという事になる。
つまり、今回は、その段階か理由が分かれば良い事になる。
考え方のだいたいの見当をつけるとすれば、
恐らく自身の体、つまり、自分の身体から刺激を受容するようになった段階の知能ではないかと考えられる。
つまり、知能が自分の身体についての変化を認識する必要性が生じた段階であり、
自分の身体に変化が生じ、その対応を知能が選択するようになった段階、という事である。
つまり、知能が自分の身体について把握する必要性を感じるような身体になった段階という事になる。
自分の身体の状態の変化における刺激は、
基本的に感覚器官による受容となるため、
先天的定義の定義の刺激という事になる。
当然、知能が認識する為には、変化としての刺激の情報と、
その刺激の発生位置としての自分の身体の特定の場所の情報が必要になる。
知能がこの刺激を認識する場合、
刺激としては、自身の身体における変化と、その自分の身体の場所を認識する事になる。
こういった認識においては、既に自分の再構成は行われている事になる。
この場合における知的生命は、特に人間並みの知能を持っている必要はなく、
変化が自分の身体に起こっていると分かる程度の知能で良い事になる。
つまり、自分の身体に対する身づくろいをするような生物や、
自分の身体に痛みを感じる、空腹を感じる、という認識が行える知能であれば、
自分の再構成は行っていると考えられる。
この場合、昆虫などもその対象となるが、
感覚器官からの刺激の受容に対する反応としては、
ほとんど本能で獲得できる機能としての段階として、
自分の再構成は行われていると考えられる。
つまり、知能を持つかなり初期の段階で、
自分の再構成は行われるようになったと考えられる。
これらの場合は、感覚器官からの刺激の受容に対して、
先天的定義による定義の参照と、自身の状態変化としての自分の再構成を行い、
つまり、刺激を「認識」はしているが、反射に近く、
知能として自分が自分であるという認識までは到達していない段階である。
これは、377で考えた意識の定義、意識の二面性における、
その意識を構成する際の認識する刺激の対象として、
再構成する自分が、先天的側の自分の再構成であるという事になる。
そして、これが、
後天的な定義側の自分の再構成を行う「認識」となるのは、
もう少し知能が発達、進化した後の段階であると考えられる。
つまり、自分が受けた刺激に対して、自分が受けた刺激であると知能が判断できるのは、
かなり初期の知能でもできるが、
この自分が受けた刺激に対して、自分が受けた刺激であると「認識」できるのは、
もう少し知能の発達を必要とするという事である。
つまり、知能が自分を知るという事と、自分を認識するという事の間に、
何か隔たりがあると考えられる事になる。
これが「想起」なのではないかとも考えられるが、
刺激の認識における自分の想起は、先天的定義であっても後天的定義であっても、
実体と、仮想体の自分が違うというだけで、刺激に対して関連する励起という扱いにおいては、
どちらも「想起」に該当する事になる。
つまり、認識に対する自分の再構成において、
先天的定義の自分、つまり実体の身体のみを関連して「想起?」することになる場合、
刺激の認識はされるが、自分で自分を認識するには至らないことになり、
後天的定義の自分、つまり、自我となるような自分の定義を関連して「想起」することになる場合、
刺激の認識と共に、自分で自分を認識するようになるのではないかという事である。
つまり、刺激の受容に対して、関連して想起する対象の自分が、
先天的定義の場合は、「想起」であり、刺激も認識されるのだが、主観的な認識であり、
実際に実体を感じるような刺激の認識となり、
想起の対象の自分が、
後天的定義の場合は、これも「想起」であり、刺激も認識されるが、客観的な認識であり、
実体は存在しないが、自分であるという刺激の認識になるという事である。
つまり意識の二面性と同様に、認識にも二面性があり、
先天的定義の刺激:(認識):後天的定義の刺激
主観の自分:(認識):客観の自分
の結果として、
先天的定義側の自分:(意識):後天的定義側の自分
という意識に繋がっているのではないかと考えられる。
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つまり、主観的な自分の刺激の再構成自体は、
身体から発生する事になる変化を刺激として受容できるようになった段階で行われるようになると考えられるが、
この客観的な自分の刺激の再構成体と、感覚器官から受容した刺激を関連付けて認識するようになるのは、
もう少し知能の進化が必要になるという事である。
恐らく認識に至らない初期の段階においては、
刺激の再構成の為に自分の定義を必要としないか限りなく少ない定義として保持し、
つまり、先天的定義のみで知能は刺激を理解していたと考えられる。
つまり、自分の身体の定義は全て先天的に定義され、
遺伝的に継承されていて、身体に何らかの変化が起こった場合に生じる刺激は、
認識に至らずに先天的定義のみで意味付けされ、反応が自動的に選択され決まるという事になる。
つまり、反射のような反応であったという事である。
つまり、自分の再構成自体の機能は、
かなり知能の初期段階で得た機能であると考えられるが、
この「認識」が行われるまでには、もう少し進化した知能が必要であるという事になる。
つまり、認識さえできるようになれば、
その時点では自分の再構成は既に行われていたと考えられるため、
知能が認識の能力、つまり、「想起」を得た段階で、
認識の際に自分の再構成が行われるようになったと考えられる。
つまり、自分の再構成をいつ始めるようになったかは別の問題として、
認識の開始とともに、つまり自分の定義の想起の開始とともに、
自分は刺激と共に認識され始めるようになったと考えられる事になる。
つまり、上記の例のミラーテストをクリアできるような知能は、
この自分の定義の想起を始めるようになっていると考えられる。
認識と自分の再構成の関係における自分の再構成の必要性については、
刺激の受容に関連した自分の刺激の再構成が行われる必要のある「認識」の機能、
「想起」の機能を、持つために必要になった、と置き換えることが出来る。
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自分の再構成が起こる理由:
上記の事から、
自分の再構成は、認識機能を獲得するより前の段階で行われるようになっていたと考えられる。
そして、認識をするためには刺激と自分の刺激の再構成が必要であり、
刺激と自分の刺激を再構成する為には、
先天的定義による意味付けと、特に後天的な定義としての自分の定義が必要になる。
つまり、感覚器官から刺激として得た事象において、
その対象が自分であると定義するための定義を必要とするという事である。
つまり、先天的定義で、ある刺激が自分の身体に起こったものであるという意味付けは、
先天的定義だけで処理する事もできるが、
視覚などにおいて受容した刺激に含まれる事象における対象を、
自分として定義するには、必ず自分に対する定義が必要になるという事である。
つまり、
刺激にとっての自分の存在は、刺激に対して想起される自分の定義が存在する事であり、
刺激にとっての自分の情報の再構成が行われるようになった理由としては、
何らかの要因として自分の情報が発生したか、必要になったためと考えられる。
これについては以降で考える。
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2024/6/16
想起それ自体は、経験した際の刺激の再構成でもあり、
刺激の認識自体に自分の定義が含まれるため、
想起においても自分が再構成されると考える事もできる。
ただし、感覚器官から受容した際の刺激に関連する自分は、
自分ではあるが自分の身体であり、
想起を元にした刺激の場合は、仮想体の自分という事になる。
となると、感覚器官から受容した刺激に対して再構成される自分の刺激は、
自分の身体の刺激であるが、反射などにおいて自分の情報を必要としない反応があることを考えると、
認識自体が想起を必ず経由するのかどうかというのは少し疑問が残る事になる。
認識において、
感覚器官による変化情報の受容に対して、
脳が先天的定義を参照して刺激の意味付けを行い、
同時に、関連する自分の身体部位の情報を、自分の刺激として再構成するのであるから、
機能としては想起にも相当する事になる。
つまり、感覚器官から受容された情報に対して、
想起は、その情報を刺激として再構成する際に関連する事になる自分の刺激についてのみ、
想起の対象となるのではないか?
という事になる。
つまり、先天的定義は想起の対象ではないのだから、
刺激の認識において、想起を経由しない認識も存在する可能性があるという事になる。
または、先天的定義の定義による意味付け、それ自体も想起の対象とするなら、
やはり、刺激の認識には常に想起を経由していると考える事もできる。
どちらが正しいか?
認識自体が、ある再構成された刺激の知能による観測であるなら、
認識それ自体が、知能による観測としての機能が認識になる。
つまり、知能による刺激の観測が「認識」であり、
刺激の構成自体にはあまり関係ない、という事になる。
感覚器官が単なるセンサーでないのだから、
その変化情報を受容する本体としての自分の情報は、
知能にとっては不可欠なものとなるはず。
つまり、単なるセンサーでないのは、知能が、自身の身体に対する変化として、
その情報を得ようとしているためであるのだから、
自身の存在は、その情報を得ようとしている主体として、
その情報に加えられる必要がある事になる。
つまり、生体の感覚器官は、変化情報を単体で定量的な事象として認識されるモノではないという事。
つまり、刺激は、変化情報と常にその変化情報を受け取る本体を必要とする事。
であれば、感覚器官を経由して変化情報を受容して、刺激として認識する、という
知能の観測においては、
観測対象の発現においては、
変化情報のみが初期の全てのきっかけであるが、
脳内で再構成されるのは、常に変化情報+自分であるため、
自分の本体の定義が先天的定義だけであったとしても、
刺激を認識するためには、想起を必要とするという事になる。
もしくは、
自分の身体の情報は、先天的定義であり、
感覚器官の変化情報の受容に対して意味付けされる定義にあらかじめ含まれているものとしても考えることが出来る。
先天的定義の定義の適用を想起に含めるかどうかという話に置き換えられる事になる。
後天的定義が想起になるというのは間違いない事を考えると、
後天的定義の定義に先天的定義が用いられている事を考えると、
先天的定義だけの定義の参照も想起に含めることができると考えられる。
つまり、刺激の認識において想起は常に経由するものと考えることができる。
つまり、認識対象の刺激が、先天的定義だけで構成されていても、後天的定義だけで構成されていても、
両方から構成されていても、「認識」を行う場合は、必ず「想起」は行われると考える事が出来る。
つまり、刺激の受容において認識を用いない場合は想起は行われないという事になる。
つまり、反射のような反応の場合には想起は行われないという事になる。
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想起のはじまり:
知能が当初、知能と呼べるかどうかわからない程度の能力として、
反射として刺激に対する反応を決定していた際、
その反応自体は、世代間を継承し、
この反応に対する変化は、
突然変異か、エピジェネティクな変化継承によって、
その変化を継承していった事になる。
この時点での知能において、刺激は当然、自分が受けたものであり、
自身に対して変化が生じるために、知能が、その反応として、
この時点では反射の定義を保有していたという事になる。
実際、もし、この段階で刺激を「認識」できたとしても、
知能は刺激に対する反応としては反射を用いていたために、
知能は、勝手に反応する自分自身を反射の後で確認するというだけの事になる。
恐らく認識は、
ミラーテストの様に、自身に何か反射では対応できない変化が生じた際に、
それを反射以外の方法で知能が反応できるようになるために必要としたと考えられる。
つまり、知能が認識によって、反応の猶予、もしくは、
反応の選択の候補を持つためだったのではないかと考えられる。
つまり、ある刺激を受けた状況に対して、決まった反応しかできないのではなく、
決まっていない刺激を受けた場合に、その反応を作り出せるように、
知能が変化したのではないかという事である。
つまり、反射においては、自分は常に自分であると固定して定義されているのであるが、
「想起」においては、自分は常に再構成された自分であるという事になる。
つまり、知能が自分を観測する手間であり、猶予を持てたという事になる。
つまり、認識は学習の為ではないかと考えられる。
つまり、刺激に対する反応の定義を経験する事。
つまり、知能が刺激に対する自分の反応、それ自体を学習の対象として観測することである。
つまり、「認識」というのは、刺激に対する自分の反応、それ自体を経験する事。
結果的に、学習であり、経験の記憶、定義の獲得という事になる。
つまり、きっかけは、知能がある新しい刺激に対してどのようにしたらよいか?
という状況に遭遇した事であり、
知能は、生命は、その状況に対して、変化という刺激に自分を組み合わせて新たな刺激として、
その刺激を知能が知る、経験する、学習する、ために「認識」するようになったのではないかという事になる。
「認識」それ自体は刺激の自身の反応の学習ということであり、
「認識」を意識するのは、その認識した刺激を思い出す事、「想起」する事という事になる。
つまり、「認識」するために、知能は変化情報に対して自分を組みあわせて「刺激」として、
経験して記憶する事にした。
そして、この刺激の経験自体が、刺激にとって「自分」の情報が組み合わさっているために、
知能がこの刺激を経験した際に自発的に「自分」を感じるようになってしまっている、
という事になる。
つまり、「認識」することは、自分が刺激に含まれているために、
勝手に自分を感じる、自分の存在を知るようになっているという事になる。
ただ、この自分の存在によって、後から先天的でない事象に遭遇した場合に、
過去の自分の経験として、自分を経由して定義を参照できるようになったとも考えられる。
この刺激の認識に関する自分の情報の関連は、
378で考えた、想起における自分を経由した想起という考え方に繋がる。
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少し話が変わるが、
学習に関する「おまけ」として、
学習する定義の要素の定義について:
例えば数学の公式に対して、
公式で用いられている記号やxやyなどに対して、
必ず決まった定義がなされているという事について。
つまり、数学の公式のxやyに代入されるのは、
数字や数学的な記号などであり、そこに赤い色やリンゴ、言葉、画像、などは、
代入されないという事である。
これは、定義を学習する際に、
定義の情報の要素それ自体に、関連する事象の定義が決まっている、制限されているという事になる。
この定義を学習した時の経験された事象の制限であるとも言える。
つまり、経験時に定義に指定された事象に対して、数式であれば代入可能な事象は、
数字や別の数式であると学習したからという事になるのだが、
しかし、
逆にこの定義を用いる場合、これは想起においては、学習した際に接続された事象しか、想起の対象に無いという事になる。
これは制限でもあるのだが、
制限であると同時に、想起の際に用いる事の出来る事象の選択自体がすでに定義されているとも考えられる。
つまり、例えば y=x^2
という二次関数を学習しようとした場合、
この数式の認識において、
恐らく最初にはyとxには通常数字が入るという事、
後に代入などとして数学的な数字や数式が入るという事、
この決まりを法則として定義し、
この定義を認識して、経験し、学習するという事になる。
それは、今度はこの二次関数を何かに用いようとして想起した場合、
予め数式のyやxには数字や式が入る、代入できるとしか想起できない、
むしろ、効率的に想起できない定義で記憶されているという事になる。
算数などにおいて、最初は代入する記号などは存在せず、
直接数字を用いた式になっている。
例えば5+1=?といった具合であるが、
この時点でも、すでに「?」は定義としては答えの代入される記号であると学ぶ事になる。
この学習において、数学などでなかったとしても、
国語における文章で空欄に埋める何かを記入するような問いがあった場合、
一般的には、その文章の前後を認識した上で、意味の通る何か言葉を記入する事になると考えられるが、
それ自体も、国語における問いの解き方、考え方としての定義であるという事になる。
つまり、学習において、定義が常に経験や学習の対象であり、
定義を学ぶ事、経験、認識する事が学習であるという事になる。
であれば、知能の発達における学習は、定義を経験し認識し記憶する事という事になる。
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2024/6/17
想起の始まり:
当初の刺激は反射のような機能の要因として存在していたと考えられる。
つまり、生体のある変化に対して決まった反応を起こすという機能である。
この場合でも、変化に対する反応は、定義として存在していたと考えられ、
であれば、この定義は先天的定義として存在すると考えられる。
この状態から変化が起こるとすれば、
反射の種類や数が増えた場合の対応である。
つまり、反射はそれ自体、ある変化に対する反応を起こす事のなのであるが、
この反射が複数の変化に対してどのように反応すればよいのかを考えると、
身体のある場所で反射を起こし、身体の別の場所で反射を起こし、
という事をしていくと、身体がある程度の大きさになった場合、
または、身体がある程度複雑になった場合、
もしくは、生命が大きさか複雑さを得ようとした場合、
反射だけでは身体の維持に問題が生じるようになると考えられる。
つまり、身体の複数の場所で、もし生命として反応を異なる反射をしようとした場合、
生命としての存在に問題が生じる事になる。
簡単な例であれば、走光性で光が反射して複数の方向から光を受けた場合、
摂食する対象を複数得た場合など。
簡単な解決方法は、走光性であれば右往左往すれば、いづれどこかに到達するし、
摂食する対象が複数あれば、どちらにも摂食しに行けば良い事になる。
しかし、身体が大きく複雑になっていった場合、移動にもエネルギー消費はされることになるし、
摂食対象にあと少しづつ届かない位置に居たら、
身体を引っ張り合ってどちらにも届かないような状況になるかもしれない。
この場合必要となる機能は、「選択」ということになる。
つまり、ある変化が生命にとってどれだけ重要な変化であるかに優先順位をつけるという事になる。
これは、初期の神経細胞の接続の中であれば、
変化に対しての重要度を定義して、その変化に対する反応が強い反射を優先的に行えば良い事になる。
つまり、反射は変化に対して自動的に反応を起こす事であるが、
定義として、ある変化に対する反応の速さや強さが定義できれば、
反射の優先順位をつけることが出来る。
つまり、同時間に生じた多様な変化に対して、
優先的な変化に対する反応を決める機能として、
定義を設定する事。
つまり、頻繁に起こる変化に対して、現在の考え方であれば「強化」すれば良い事になる。
つまり、変化が強い方の情報を優先するという定義というわけである。
この時点においても、この定義は先天的定義として定義されるものであると考えらえる。
この定義は、選択を行うというよりも、生命体の中で、
ある複数の変化を受けた場合、その変化の中から、変化に大きく反応する反射を優先して実行し、
他の反応を保留し後回しにするのが最も簡単である。
つまり、知能のような自発的に選択してくれる機能がないのであれば、
スイッチのように優先される対象を有効にして、他の対象を切る・無視すれば良い事になる。
つまり、生命として同時に複数の反応を起こさないという前提、もしくは、
生命にとって大きな変化と捉える事の出来る変化を優先して対応するという前提、もしくは、
その両方が必要になるが、
比較と選択を行うのであれば、その比較と選択を行う定義は、
生命にとって唯一である必要がある。
この考え方は単純ではあるが、比較としては当然の定義で、
共通する量の要素を持つ2つの対象に優先を付けるなら、
量の大小、多少で比較するというのは当然・自然な事という事になる。
逆に考えると、比較と選択が必要無いのであれば、
変化に対してその部位が都度反応すれば良い事になる。
これは現在の人間でも反射、脊髄反射などでその機能を見ることが出来る。
膝の腱を叩くと腱の収縮と反対側の弛緩によりその足先が跳ね上がるというのは有名な反射である。
(ちなみに、この反射は腱の保護の為らしい。)
そして、この「比較」の定義自体は、
現在の知能においても刺激の強さとして用いられている。
現在の刺激においては神経細胞の関連の強化度合いとして考えられ、
ある変化情報に対する、
感覚器官の受容体の励起の回数がこの共通する量としての要素となっていて、
一定時間の受容体の励起回数が多い変化ほど、強い刺激として構成される事になる。
感覚器官の受容体の励起は単位時間の回数で刺激の強さを示すことになるが、
励起をデジタルでのエッジセンスやレベルセンスとして考えた場合、
この励起による波形の積分結果が刺激の強さとして考えられる事になる。
つまり、励起回数が多ければ多い程、面積が広くなる=強い刺激になる、という事である。
これまでの考察でも、「刺激量」として考えてきた要素である。
いずれにしても、比較には共通の要素とその量を得る方法は必要になる。
そして、現代には、比較しなくても良い変化と反応が残っている事も確かである。
つまり、まず、変化に対して比較できる定義、機能は、
どこかの段階で生命は手に入れる必要があったという事になる。
そして、その比較の定義、機能が、
知能に通じている事になると考えられる。
比較を得た次の段階として考えられるのは、
比較そのものを管理する機能という事になる。
まだこの時点でも先天的定義だけが存在し、
世代間継承における突然変異かエピジェネティクな変化の継承により、
生命が持つ定義は継承されていたと考えられるが、
例えばある変化に対して、当代の間に定義を得ることが出来れば、
大きな進化となると考えられる事になる。
つまり、後天的な定義の獲得である。
しかし、まだこの時点では、先天的定義しか存在していない、
まああえて比較と選択の定義・機能までは得られたと仮定しても、
機能としては先天的であり、当代間において新たな変化を受け入れる能力は無いことになる。
現代においては、神経細胞のシナプスの形成が待ち望まれるという事になるが、
どのようにしてこの機能を得たのか?これが知りたいという事になる。
世代間という関係においては、遺伝子の突然変異か、エピジェネティクな変化継承という事になるが、
定義自体は遺伝子に組み込まれており、生命の生体の成長過程で、
先天的なこの神経細胞の繋がり、関係は構築されている事になる。
これが、細胞の分化、成長過程で、後天的な変化を受け入れる事が出来れば良いのだが、
神経細胞が当代間で変化する能力をどのようにして手に入れるかという課題が残る。
突然変異は安直すぎるが可能性は低くとも常に存在する。
細胞の分裂や成長が長時間になることで適応という事も考えられる。
つまり、遺伝子的に細胞の配置などが完成するまでの間に活動する機会が得られれば、
その過程において、細胞の繋ぎ直し、置き換えなどが出来るようになるという事である。
これは生命の成長の定義という事にもなるのだが、
もしかしたら、現在の生命において、仮に人間などの脳は、
遺伝子的には成長途中のまま成体に成長しているのではないかという事が考えられる。
つまり、生命の器官毎に成長の完了するまでの時間に差があり、
寿命の間に成長が完了する器官と、寿命では成長が完了しない器官があるのではないかというわけである。
つまり、そもそもの神経細胞の繋ぎ直し、定義の後天的な獲得ではなく、
遺伝的な成長過程がずっと続いているのかもしれないという事になる。
細胞の分裂限界というテロメアなどの要素は別に存在するが、
生命の成長とは別の細胞的な成長が途中であるという考えもできる事になる。
生命としての死よりも細胞の死やmRNAの活動停止の方が遅い場合があるというのは、
そういうことに起因するのではないだろうか。
つまり、多細胞で構成されるために、
細胞の機能ごとに成長や寿命までも多岐に分かれたということである。
つまり、本来は遺伝子の通りに細胞を形成すれば、
その時点で成長は終了、生命としては完成するわけなのだが、
その成長過程が多くの時間を必要として長く伸びたために、
結局成長が完了しない間に、生命としての寿命が先に訪れるようになったのではないかという事になる。
その原因、一因としては、
成長過程においても、個体は活動を続ける必要があるという事。
つまり、成長過程でありながら生きる必要があるという事。
そのため、特定の機能を構成しながら、変化を受けて反応しなければならなかったから、
なのではないだろうか。
または、遺伝子としての設計図としての働きで、
成長し、細胞とその機能は構成するのであるが、
この設計図が元々完成しない設計図、
つまり、何か設計の情報が足りないままの状態であったとしたら、
生命の成長においては、未完成を完成として用いるように出来ているのではないかと考えられる。
または、そもそもの先天的定義の定義を持ちつつ、
その定義を構成する機能としての定義だけが変化し、
つまり、遺伝子に変化が生じ、
結果的に定義を後天的に定義できるようになった個体が生き残った、
ということも考えられる。
現時点では仮説であり確定できる事ではないが、
いずれにしても、神経細胞において、先天的な定義でない定義を、
当代間において後天的に定義を獲得する方法が、
生命の中で獲得される事により、次の段階に進める事になる。
これまでをまとめると、
単体で完結していた生命としのて存在が、
周囲の変化を受けて、その変化に対応する定義を獲得し(=情報の受容)、
変化に反応する機能を獲得し(=反射)、
変化を選択できる機能を獲得し(=刺激量)、
世代間の継承まではできるという存在になった。
次は、定義の後天的な獲得である。
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神経細胞が生命が成体になった後も成長が可能であるとすると、
情報に対する反射の優先度の定義などが後天的に定義できるようになる。
つまり、成長の過程を現在の状況や状態に合わせて変化させながら、
定義を固定・獲得できるということになる。
つまり、可塑性を持ち続けながら成長を進める事が出来るという事になる。
後天的な定義は、感覚器官の受容体から自身の本体の周囲の変化の情報を得て、
その情報を定義する事であるが、
最初の後天的定義を構成するための材料は、先天的定義である。
つまり、先天的定義を関連付けて組み合わせる事で後天的定義を作り出す。
その情報が何であるのか、この定義は突き詰めれば全て先天的定義から構成されることになる。
つまり、後天的定義も定義として分解していけば、全ては先天的定義で説明できるという事になる。
ただし、一応の例外も存在し、
人間の知能などにおいては、後天的定義を後天的定義で定義する事が出来て、
また、ある刺激の構成において、刺激が構成されるために許される時間には制限があるため、
励起できる関連の数に上限があるということになる。
そのため、後天的定義を認識する上で、定義を全て、先天的定義に至るまで、
隅々の定義まで励起して認識できない場合も存在する事になる。
つまり後天的定義を仮想的な定義とすれば、
仮想的な定義のまま認識して理解される場合があるという事である。
情報としての定義としては完全ではないのだが、
これの何が良いかと言うと、
複数の対象に対して共通する要素を付加する事で、
つまり、後天的に仮想的な共通する要素があれば、
それを変化に応じた共通する事象として定義できるという事になる。
つまり、複数の事象から共通する要素を定義して、
1つのまとまりを定義する事が出来るという事になる。
もし、ある事象が、必ず1つの決まった定義を持っているのだとしたら、
恐らくその比較にはある事象とまったく同じ定義を持つ別の事象に対してしか、
比較ができないことになる。
これは、つまり、情報の関連として、上位から下位に全ての励起が連続するのであれば、
事象の定義を知るためにはその全ての定義を必要とするという事になる。
これを、仮想的な共通する要素の定義の段階で、
別の事象なのだが共通する事象として扱う事が出来れば、
この別々の事象は、定義において、共通する事象として比較する事が出来る事になる。
例えば、Aさんの全財産はお財布に入っているお金はコインが1枚で1ドルである。という定義と、
Bさんの全財産はお財布に入っているお金はコインが1枚で100円である。という定義があった場合、
そのAさんBさんの持っているお金を比較するには全ての定義が必要であるはずである。
しかし、Aさんのもっている全財産とBさんの持っている全財産は比較できるか?という定義だけ考えた場合、
お財布やコインや枚数や通貨の種類などは関係なく、全財産は比較できるはず。という事になる。
これは、人物の定義と全財産の定義が後天的定義であり、
共通する人間である定義と、全財産の定義がAさんBさんにも共通し、
その後天的定義の共通する情報のみで比較できている事になる。
この定義は、別にAさんとBさんに限った事ではなく、
AさんとBさんという人間を共通の定義とした情報と、
全財産という共通した定義の情報であるので、
それぞれ、個別に共通した事象について関連させ、比較できるという事になる。
似たような考え方であれば数学の「集合」という事になるだろう。
少し本題から離れたので話すを戻すと、
情報の定義として先天的定義を後天的定義として得られるようになったのは、
経験としての変化の受容を記憶できる事という事になる。
つまり、生命として神経細胞の成長が完了していないまま活動するものと定義すれば、
学習が可能になるという事になる。
そして、逆に、この定義の学習ができないことには、その先に進むことができない。
つまり、前提として刺激の想起や認識、意識をするためには、
後天的な定義の学習、記憶能力が必要になるのである。
これまでをまとめると、
単体で完結していた生命としのて存在が、
周囲の変化を受けて、その変化に対応する定義を獲得し(=情報の受容)、
変化に反応する機能を獲得し(=反射)、
変化を選択できる機能を獲得し(=刺激量)、
世代間の継承まではできるという存在になった。
そして、
情報と対応を定義する機能を獲得し(=定義)、
次は、身体の位置の確定の機能の獲得である。
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元々、感覚器官は身体の各所に配置され、
その受容体から変化情報を得ているが、
初期の生命の感覚器官については、
身体のサイズはさほど大きなものではなく、
変化情報こそが目的であるために、
身体の位置についてはあまり情報としての有用性は低かった。
感覚器官の位置で変化のある方向などが分かれば良い程度で、
先天的定義も身体の位置についてまでは定義されていなかったと考えられる。
これが変化の受容箇所が、身体のどの位置なのかを知る必要が出てきたのは、
生命としての身体のサイズが大きくなってからと考えられる。
つまり、環境の変化、水や空気の運動に合わせて全身が移動してしまうような生命においては、
自ら方向などを指定して運動するなどということはほとんどできないため、
向きや方向を気にする意味が無い。
少なくとも、何かに接触して位置を固定できるか、自らの運動によって、
目的の方向に移動できるような生命でないと、向きや方向を情報として得る必要が無い。
そして、自らの位置を固定、自ら位置を移動する事が出来るようになったとして、
身体の向きや方向にどのような意味が生じるかというと、
ある変化に対する対応として、身体の方向や位置を変化させる必要が生じるという事になる。
例えば、
摂食において口をある方向に向けるとか、
外敵に対して反対側に逃げるとか、
光に向かって進むとか、
つまり、何らかの変化に対して、自分の身体を使って対応する事ができるのと同時に、
その必要性がある行動には変化の対象と自分の位置の把握が必要になるという事になる。
つまり、生命の身体の形は様々であるが、
変化に対する身体の向きや方向に大きな意味が生じるサイズになったという事になる。
人間であっても、何かが向かって飛んできたとして、正面で正対したら衝突するが、
横を向けば衝突しないという事があるかもしれない。
この場合、人間は飛来物と自身の身体の方向や向きについて把握している事になる。
それは、視覚において飛来物の方向であるとか、飛来物のサイズと自身の身体のサイズ、向き、
そういった情報を変化情報として受容しているからという事になる。
現在の人間では様々な感覚器官を所有するので容易な変化情報の受容であるが、
初期の生命においても、これらの情報の収集は重要であったと考えられる。
生命に対する情報の向きや方向は、単細胞であっても、
情報の量やサイズにもよるが「接触」位置によって特定は可能である。
当然、生命のサイズが大きくなれば、相対的に情報の量やサイズは小さくなるので、
身体における情報の向きや方向は特定が容易になる。
この情報を先天的定義において、変化に対応する反応として用いる場合、
感覚器官の受容体の位置が、そのまま身体における情報の向きや方向の意味を持つ。
つまり、変化を受容した感覚器官の位置が、そのまま変化情報の向きや方向になっている事になる。
そして、その対応を定義として持てるようになるという事になる。
向きや方向の定義は、身体における先天的定義として定義される事も、
後天的定義として定義される事も考えられる。
つまり、初期の生命、後天的定義の定義能力を得る前の生命においても、
情報の向きや方向については、ある程度定義を持っていたと考えられる。
つまり、基本的に変化情報は身体の外部から得るものであり、
生命のかなり早い段階で変化情報を得るようになったのだが、
その後、進化に合わせて身体のサイズが大きくなる場合が増える事になる。
身体のサイズの拡大と合わせて、
本来、周囲や環境の変化を情報として得るために感覚器官を配置したのだが、
身体のサイズが大きく複雑になるにつれ、
感覚器官の種類や数も増える事になるのだが、
自分の身体でありながら、自分の変化についても情報を得る必要が生じるようになったと考えられる。
つまり、身体のサイズが大きくなれば、情報の相対サイズが小さくなり、
身体が受ける変化の量が増える事になる。
当初は、変化情報は身体に対して大きく、情報の数も限られていたが、
それが数も量も増える事によって、生命として全てを把握できなくなっていったと考えられる。
つまり、変化情報を処理する優先順位に対して、
身体の場所の選択も必要になったと考えられる。
元々、向きや方向の情報は、感覚器官の配置場所に含まれているので、
後天的に定義をする必要はなく、
現在の人間においても、身体のどこから刺激を受けたかという定義は先天的に決まっている。
つまり、脳内の感覚器官の配置、「体性感覚野」は先天的に定義されている。
つまり、生命として後天的に定義する必要なく、
生命は進化の過程でどこかの段階で、身体が受ける情報の位置について定義を持ったという事になる。
基本的に先天的定義は、生命にとって欠くべからざる定義であったために継承されているものである。
そして、生命の身体の拡大と共に、
増えた情報は、単なる変化情報だけであったものから、
身体のどこで受けたかという情報が追加される事になる。
その必要性は、
身体の拡大による変化情報の向きや方向の特定の必要性、
身体拡大に合わせた身体自身の状況や状態の変化の収集の必要性、
などがある事になる。
つまり、身体の内外についての変化情報の位置の特定に必要という事になる。
であれば、ようやく身体の位置の特定の機能を獲得する事になる。
つまり、きっかけとしては身体の拡大であり、
それに伴う相対的な情報量の増加に対して、
感覚器官、受容体の増加に対する、
反応の選択の必要性から、選択する要因を増やしたという事になる。
効果としては、変化情報の向きや方向、身体における位置が特定できるようになり、
変化に対する反応が特定しやすくなるという事になる。
結果的に、定義として、身体における感覚の受容体の配置情報を、
「体性感覚野」のような定義として獲得したという事になる。
これまでをまとめると、
単体で完結していた生命としのて存在が、
周囲の変化を受けて、その変化に対応する定義を獲得し(=情報の受容)、
変化に反応する機能を獲得し(=反射)、
変化を選択できる機能を獲得し(=刺激量)、
世代間の継承まではできるという存在になった。
そして、
情報と対応を定義する機能を獲得し(=定義)、
身体の位置の定義を獲得し(=先天的定義で継承)
そして、最後に想起の獲得である。
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自分の想起:
この機能は「刺激の再構成の場」における情報の定義と自分の定義を関連付けて再構成する機能とも考える事が出来る。
つまり、感覚器官から変化を受容し、
その情報の定義を参照し、
その参照に合わせて、知能内で情報に関連した自分の情報を参照する。
そしてこれらの情報と定義を、刺激として再構成する。
この場合の自分の情報の参照が想起に当たる。
つまり変化情報だけが刺激として再構成されるのではなく、
変化情報の持ち主としての自分の情報が、この刺激に足される事により、
刺激として成り立つという事になる。
知能が刺激を観測する際、
刺激には変化情報とそれを受けた自分自身の情報を必要とする。
これは、「認識」ということになるのだが、
なぜ認識に自分の情報が必要になるのかというと、
今回これまで考えて来た全ての要因の繋がりが答えになるという事である。
つまり、
認識するために知能の観測が必要であり、
知能が観測するには対象が刺激として構成されている必要があり、
刺激の構成には変化情報の定義と自分の定義が必要であり、
自分の定義には自分の先天的か後天的な定義が必要であり、
後天的定義には先天的定義が必要であり、
先天的定義には神経細胞が知能となるための機能としての、
情報と定義の繋がりが必要であり、
情報と定義には、生命としての変化と対応の機能の保有が必要であり、
変化と対応は、生命の活動・存在に必要であり、
生命の存在は、そこに至るまでの定義の継承が必要であり、
定義の継承において遺伝子、突然変異、エピジェネティクな変化継承が必要であり、
その後、生命の誕生の秘密まで至ることになる。
「想起」自体は、知能の刺激の再構成に当たる機能なのだが、
行っている事は、ある変化情報に対して励起された神経細胞が、
その関連に従って、関連を持つ別の神経細胞に励起を伝達しているという事になる。
この際、変化情報の再構成に当たり、変化情報を刺激における実体として、
定義を参照して再構成するのと同時に、上記で定義した、
自身の身体の存在位置の定義も参照され、同時に再構成される事になる。
つまり、ある刺激としての変化情報の再構成には、
変化情報そのものの再構成と、その変化情報を受容した身体の部位の再構成が、
同時に起こることになる。
これは、生命にとって意図した事ではなく、進化の過程で必然的に備わった働きという事になる。
つまり、変化情報に対応するために必要な機能を備えていったら、こうなった。という事になる。
つまり、生命としての存在意義に対して、周囲や自身の変化というものは、
生命の存在自体に対する外的な力ということになる。
この外的な力への応力として、生命はその情報を刺激として受容し、
その応力としての反応として選択や自身の活動を定義して保有する事になった。
そして、その定義を固定されたものだけでなく、
可塑的なモノも利用できるように、一度受容した定義を記録して後天的に利用できるようにし、
その反応の後天的定義を参照するために自分自身の存在の定義と結び付け、
それを利用する方法が「想起」になった。という事になる。
人間以外の知的生命にとっても、「想起」は存在するはずである。
つまり、知能が、自分の身体を自分の身体として認識できる知能は想起を行っていると考えられる。
つまり、変化情報の受容に対して、自分の身体のどこに変化が生じたのかを認識できる知能は、
必ず想起によって、刺激の再構成時に、想起対象として自分の身体の再構成を行っていると考えられるためである。
そして、変化情報としての刺激と、自分の刺激を再構成すると、
知能にとっては、
感覚器官において変化情報を受容した事と、
その変化情報を受容した身体の部位の刺激が関連した状態で観測できる事になる。
ようやくここまでたどり着いたが、
これが「認識」になる。
そして、もし、この認識した刺激をきっかけにして、
刺激の想起が起こった場合、
つまり、この刺激の関連として感覚器官の受容ではない刺激が想起された場合、
つまり、この刺激は、後天的定義側の自分の定義の刺激を励起する事になり、
この刺激の再構成における自分の定義は、後天的定義の自分、
つまり自我などとして考えられている自分の定義としての刺激という事になる。
そして、この刺激を認識すれば、知能は自分の定義、自我を認識するという事になる。
これで身体の感覚器官による刺激の受容と、
想起による刺激の発生による「刺激」の認識に、
自分の再構成が起こる理由が分かった事になる。
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結果的に機能を組み合わせて行ったら「認識」に到達したという考え方になるが、
生命において、多くの個体が「認識」を行っていると考えられる事から、
「認識」機能を得る事は、生命にとっては重要な意味があったと考えられる。
つまり、簡単な刺激であっても、その刺激の変化情報に対して、
個体が反応を行おうとした場合、その個体は知能を持っていても持っていなくとも、
反応、それ自体を行う自身本体の定義は持っている必要がある。
そして、この定義は、参照されて用いられる必要があるので、
例えば植物が光の方に向かって育つような反応も、
時間的に長い期間で考えれば、定義に従ったゆっくりとした刺激に対する反応として考える事もできる。
つまり、植物は光を知能で認識しているわけではないが、
定義として認識し、定義として反応しているという事になる。
この場合、植物であっても、自分の本体は、その刺激を受容するという意味においては、
どこから刺激を受けたかという事において、自分の身体のどこに光を受けているかという事は、
情報として得ている事になる。
つまり、生命における知能においては、明示的な「認識」や「意識」の存在を感じる事ができるが、
生命全体においては、明示的ではないが、マクロな意味で、
周囲の環境の変化に対して反応を決める為に、
「自分」の状態や状況を知る事が必要であるという事が言える。
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今回の内容を
簡単にまとめると、
知能が刺激を観測する事が「認識」なのだが、
認識を行うためには、
この認識対象の刺激がどこに存在するのかという情報も必要になり、
それはどこかというと自分が所属する「どこか」であるために、
その自分のどこにあるのかの情報を再構成して用意する必要があるという事になる。
今回はこの辺で。
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