2024/6/8-2024/6/9

心情や感情の刺激としての認識と意識

今回は、
379の最後で、
心情や感情は、
先天的定義+後天的定義の刺激として成り立ち、
その内の後天的定義として理解されているものではないかという事について考える。

心情や感情としては、
人間の知能が、
生まれながらに教えられる事もなく反応することのある事象の1つとして理解できることになる。

つまり、あるきっかけとなる刺激の認識に対して、
知能が、こうあるべき反応の定義を先天的に持っていて、
当然の如く、その自身の身体に反応を示させる事のある事象である。

つまり、ある刺激に対して、
知能が反応を示すことになるが、
その反応の内、先天的に心情や感情として反応が決まっているものがある、
という事である。

例えば、
急に周囲の人間が一斉に居なくなってしまったら不安を感じるとか、
お腹が一杯になって満足に思うような事である。

ある刺激に対する反応が決まっている事象には、
様々なものがあるが、
基本的に行っている事は皆同じである。

つまり、「想起」である。

つまり、先天的定義の刺激にしても、後天的定義の刺激にしても、
ある刺激の認識に対して行われるのは想起である。

まあ、認識の時点で、ある刺激に対する再構成として、
その刺激と自分の刺激が想起として再構成された結果として認識となっているのであるが、
その刺激の認識に対しても想起が行われることになる。

特に心情や感情において、
先天的定義+後天的定義の関連として構成されている刺激は、
その反応においては、必ず先天的定義の関連を持っている事になる。

つまり、教えられなくとも感じる事の出来る刺激があるということは、
先天的にその刺激の定義を保持している必要がある。

であれば、ある刺激において、
その反応としての刺激の定義に関連している情報の要素を持つ刺激を認識した場合、
その反応は、知能が意識的に選択することなく、想起の対象となり、
認識される可能性のある刺激となる、という事になる。

想起はされるのであるが、必ずしも認識対象になるかは分からないというのは、
刺激の構成における後天的定義の部分の情報の要素に関わっている事になる。

つまり、ある刺激、つまり、先天的定義の要素を持ち、
心情や感情に関わる反応としての先天的定義の関連先も持つが、
後天的定義としての関連が少ない為に、刺激として再構成される刺激量が小さいという場合があるという事である。

つまり、この辺りの後天的定義は、自分の定義に関連する部分である。
つまり、自分がその心情や感情についての情報の要素の関連を持っているかという事になる。

つまり、個人の性質や性格の定義の一部として、心情や感情についての定義が、
後天的定義として保持されているという事になる。

つまり、生命としての誕生直後、
人間であれば、赤ん坊の時期においては、
これらの心情や感情の定義は、
きっかけとなる刺激も、反応としての刺激も、

先天的定義+少ない後天的定義

として構成され、その後、個体としての成長後は、
個人、自分の定義を多く持つ事によって、

先天的定義+多くの後天的定義

として構成されるようになるという事になる。

だから、先の例において、急に周りの人が居なくなったとしても、
全ての個体が不安に感じるような刺激を認識するが、
個体によってはすごく不安に感じたり、
多少気にはなるがそれほど興味を持たない個体も存在するようになるという事である。

つまり、心情や感情における先天的定義は、

先天的定義

関連する反応

先天的定義

である反応として、人間においてはどの個体も同じ様に
先天的定義として持っているが、

先天的定義+後天的定義

関連する反応

先天的定義+後天的定義

それを認識の段階で再構成する場合に付加される後天的定義においては、
全個体に個体差が生じるという事になる。

そしてそれは、以下の様に、

本能の定義+自我の定義

関連する反応

本能の定義+自我の定義

つまり、きっかけとなる刺激の内容においても、
その反応として認識される刺激の内容においても、
先天的定義として定義される情報の要素に、
後天的定義として定義される個体固有の情報の要素が関連することになり、
この反応を自身が認識する事になる。

つまり、心情や感情において、
大雑把に分かりやすく定義すると、

刺激の認識

心情や感情

個体(本能+自分)の反応

という事になる。

この定義自体は、特別に目新しいものではなく、
単に、何かの刺激を認識すると、人間は心情や感情の変化が生じて、
それに対する反応をする、という事だけである。

つまり、上記で刺激の構成から辿(たど)りながらここまで到達したという事になる。

2024/6/9

昨日の続きを考えていたのだが、
心情や感情としての反応の刺激を想起させるきっかけとしての刺激、
つまり、先天的定義を持ち、知能に対して何らかの反応を起こさせる刺激について、
知能が心情や感情としての反応として、後天的な定義を持つ刺激を想起して認識した時、
この刺激にも心情や感情の情報の要素を持った先天的定義の要素が関連していると考えられる。

そして、この刺激について、自分に関係する要素がどれだけ関連しているのか考えてみると、
先天的定義の要素には関係しないのだが、後天的な要素として、
自身が心情や感情について感じる時の刺激において、
この後天的な要素は、その個体が、心情や感情として認識する、
その認識による感じ方のほとんど全てであると考えられる事になる。

つまり、
先天的定義の要素は、刺激のきっかけであり、想起のきっかけの刺激であるので、
そもそもの生命と知能が、刺激の受容とその刺激に対する反応の選択という基本的な部分に関わっている、
というのは分かるのだが、
そこに追加される形の後天的定義である自分は、どのような関わりになるのかというと、
最初のきっかけとなる刺激の認識、つまりは、その刺激の自分の感じ方としての定義となり、
その刺激をきっかけとして想起された刺激については、
自分が、そのきっかけとなる刺激に対して、つまり、
感じ方への反応としての定義として関わる事になると考えられる。

分かりづらいかもしれないが、
つまり、

先天的定義

認識

想起

先天的定義

この認識と想起における先天的定義同士の関連は存在し、
この先天的定義の刺激について、
認識と想起に関連した

後天的定義

認識

想起

後天的定義

という後天的定義同士の関連も存在し、
それは、
きっかけの刺激←知能→刺激の想起
先天的定義←遺伝→先天的定義
後天的定義←自分→後天的定義

という関連を持ち、さらに、
後天的定義=自分=後天的定義
という関係を含むために、
この前後の一連の刺激を認識することで、
結果的に自分は、心情や感情を意識するという事になる。

つまり、
先天的定義の刺激の認識と想起については、
知能ある生命には個体固有の刺激と反応としての定義が存在し、
人間には、さらにその先天的定義に関連した自分としての後天的定義が関連するようになったために、
心情や感情を意識する、意識できるようになったと考えられる。

この仕組み自体は、刺激と想起の反応であるので、
心情や感情に限った機能ではないという事になる。

つまり、思考であっても、想像、創造、空想、そういった知能の働きにおいて、
刺激と想起が関連する機能は全て同じ様に、
きっかけの刺激と、その刺激によって想起される刺激の関係は、
刺激と想起された刺激について、
自分の後天的定義がともに関わる事になり、
そのために、その刺激と対応の刺激の一連の働きが、
認識の対象、意識の対象となり、
自分が関わって感じた、決めた、という感じ方で意識されるという事になる。

つまり、認識において、
ある刺激と、その次の刺激の連続性において、
それらの刺激に関わる自分の刺激としての後天的定義の刺激が関連する事により、
認識の連続性の上で、刺激と自分の連続性が生じる事になり、
自分が刺激を認識し、意識している様に感じるという事になる。

つまり、
例えば人間の知能において、自分が存在している様に感じるのは、
この刺激の認識において、常に自分の後天的定義の部分が想起対象になっているからという事になる。

実際は、以前にも考えた

377で「意識の定義」を二面性で捉えて、
先天的定義側の自分:(意識):後天的定義側の自分

として考えたが、
今回の心情や感情の認識自体は、
心情や感情自体は、全て後天的定義側の自分ということになるが、

「意識の定義」は、つまりはこういう事になる。

先天的定義+自分:(意識):後天的定義+自分

つまり、

先天的定義+個体の自分:(意識):後天的定義+定義の自分

という事になる。

つまり、

「先天的定義+個体の自分」の部分は、
基本的に感覚器官から受容される刺激であり、
その刺激に対して認識する場合の「個体の自分」の定義が加わる事になる。

一方で、「後天的定義+定義の自分」は、
一般的に自我などとして考えられる自分についての性質、性格などの定義であり、
これは基本的に想起によって生じる刺激である。

つまり、意識は、きっかけとなる刺激の認識によって生じる場合と、
想起による刺激の認識によって生じる場合があり、
認識はいずれも想起によるものではあるが、

きっかけの刺激(身体)について認識、意識する場合、
------------------------------------------------------
きっかけの刺激(身体)

-←自分の個体

きっかけの刺激の再構成←個体の自分の定義の再構成

想起→自分の定義→自分の想起↓

想起される刺激の再構成←定義の自分の再構成

認識

意識
------------------------------------------------------
となり、想起による刺激を認識、意識する場合
------------------------------------------------------
想起

きっかけの刺激(想起)

きっかけの刺激の再構成←定義の自分の再構成

想起→自分の定義→自分の想起↓

想起される刺激の再構成←定義の自分の再構成

認識

意識
------------------------------------------------------
となる。

つまり、きっかけの刺激が、
個体による刺激の受容による刺激の場合、
その刺激の中に、自分の身体の存在を感じるのは、
きっかけの刺激の再構成時に自分の個体の定義が加わるからで、
想起による刺激の場合に、
その刺激に直接自分の身体の存在を感じないのは、
きっかけの刺激の再構成時に、自分の身体の定義が加わっていないから、
という事になる。

------------------------------------------------------
この考え方であれば、
人間以外の知的生命において、
自我の存在をあまり感じられない生命というのは、
身体によるきっかけの刺激については、
人間も、それ以外の生命においても大きな違いは無いと考えられるが、
自らの想起によって刺激を認識、意識するか、できるか、
という知能の構造の違いによって、
個体の自我の存在に違いが生じるという事になる。

つまり、自らを定義する余裕のある知能とその能力、
この有無によって、自我の定義の量に差が生じるという事になる。

つまり、人工知能においても、
きっかけとなる刺激の受容と、認識や意識らしい機能は、
再現しやすいが、定義の自分の部分、
つまり、「自分の後天的定義」を持たない事には、
心情や感情は再現できないという事になる。

つまり、人間が持つ様な、
ある心情や感情を生み出すきっかけとしての刺激の受容能力と定義の存在と、
その刺激に対して自分の感じ方を定義できる知能の能力、
つまり、自分の感じ方を定義できる知能の余裕と能力、
これを人工知能が持たない限りは、
人工知能に人間と同様の心情や感情を持たせる事は出来ないという事になる。

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そして、この場合の、
ある刺激に対する「自分の感じ方の定義」という事になるが、

この定義自体は最初の方で考えた先天的定義である、
心情や感情の関連する反応後の先天的定義に関連する事になる、
自分の後天的定義という事になる。

つまり、個体としてきっかけの刺激を受けた後で、
個体と知能が、その先天的な反応を示すことになるが、
その反応について自分はどのように感じたか、感じるか、
この、どのように定義するか、定義したか、
その定義が、この場合の定義に相当する。

例えば、人間におけるきっかけの刺激が、
セロトニンやオキシトシン経由の刺激であったとして、
身体と知能が、「なんとなく幸せ」の感覚の刺激を示したとする。
それに対して自分がどのような定義をするか、
というこの定義の仕方という事になる。

この場合、
人間においては、自分はこの刺激に対して「好ましい」とか、「安心できる」とか、
「幸せである」と定義する事になる。
基本的には、その刺激の発生する前後の状況や状態、事象を含めて、
人間は、このようなケース・場合・場面としてまとめて、記憶としての刺激として、
まとめて記憶・自分の定義とする事になる。
つまり、ある状態で、このような刺激を受容、感じた場合は、
自分は「好ましい」「安心できる」「幸せである」と想起する事を、
自分の定義として記憶する事になる。

つまり、次に同じ、または、似たような状況や状態において、
これまた似たような刺激を受容した場合、
知能は、この刺激の受容によって認識する為の想起を行い、
過去の同様な刺激が励起され、以前記憶した状況や状態、そして、自分の定義を想起し、
自分は「好ましい」「安心できる」「幸せである」という刺激を再構成して認識する事になる。

ということは、
ある刺激に対する「自分の感じ方の定義」には、
身体と知能が先天的に保有する、今回の例では「なんとなく幸せ」の感覚の刺激が必要になるが、
これをあらかじめ保有していたと仮定すると、
この刺激を構成するきっかけとなる要因について、情報の要素として定義する事と、
その結果としての自分の感じ方、つまり、「好ましい」とか「安心できる」などの定義が必要になる。

刺激自体は、上記の解説の通り、刺激も認識においても先天的な定義が必要である事になっているが、
この場合に関連させる自分の定義が必要になるという事である。

つまり、心情や感情として働く自身の情動の定義という事になる。

つまり、「なんとなく幸せ」を感じた場合に、
生命としての基本的な定義である「充足」や「不足」に関して、
今回の例の「なんとなく幸せ」であれば、「充足」の定義と、
恐らく人間においては「価値」として共有できる定義の「幸福感」としての後天的定義と関連付ける、
などの定義が必要になる。
さらに、個体固有の定義として、その刺激の経験自体の状況や状態も関連付ける事になる。

つまり、それらの関連をまとめて
「なんとなく幸せ」という定義として作り出すということになる。
そして、
後天的定義である自身の定義として記憶する事になる。

再現として、想起する場合は、
これらの定義の要素に関連する刺激がきっかけの刺激として受容された場合、
認識に至るかどうかは別として、
関連する想起対象としてこの定義の情報の要素が励起される事になる。

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ちなみに情報の要素の定義の関連は再帰的ではないと考えられる。

ここからは次回以降の課題となるが、
励起する情報の要素には高次的なものから低次的なものへの向きか順序があるという事。

つまり、後天的定義の関連が多い刺激ほど高次的で、
先天的定義の関連が多い刺激ほど低次的であるということである。

つまり、高次的な概念やイメージ、概略、定理や理論、仮想的な定義は、
ある刺激に対しては早い段階の関連として励起され、
近く関連を持つ定義が励起の対象として残る、というイメージである。

つまり、受容された刺激に対して多くの関連を持つ記憶された定義が励起されるため、
関連は持つが、その関連が多くない定義に対しては励起はされるが、
まとまった定義の記憶としては想起されない事になる。
そして、高次の励起から、関連した励起というのは、
その刺激を認識する為に必要となる要素が次々に関連して励起されることになる。

つまり、ある程度、高次の励起の時点で、想起される対象というのは決まる事になる。
通常は、連続した時間的制約によって、知能が意識を保つために認識しなければならない刺激が、
次々に必要となるため、性急でなければ通常は認識対象の刺激は一定時間維持されるが、
変化を刺激として受容した場合は、出来るだけ速やかに刺激を想起、認識する必要がある。

この場合、想起して認識する対象の刺激、定義は、
ある程度関連の順序を持っている必要がある。

例えば、心情や感情ではないが、コップを認識するのに、
材質や重量などは最初から認識しないということである。
コップはまずその概形・形状がコップに該当すれば良い事になる。
色や模様、大きさや材質や重量などはその後、関連して想起される定義である。

つまり、ある事象を認識するために、
その事象の情報をふるいにかけるために、
高次的な情報の要素から、低次的な情報の要素が存在することになると考えられる。

今日はこの辺で。

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