2024/5/20-2024/5/25

刺激の比較と選択


まとめを書いていて気づいた内容。
当初は「価値のベクトルと刺激量と比較」として考えていた内容。

373で刺激量と価値について考えていた際に、
ふと、刺激を比較する場合の刺激が持つ要素として、
その量の大小は何をもって比較しているのかという事を思った。
その時は、大小を比較するような定義、
つまり、比較対象の内、量が大きい、多い方を「大」として、
量が小さい、少ない方を「小」とする定義が存在すると考えた。
そして、この定義を対象を特定しない概念としての定義として扱い、
様々な対象について比較ができるようになるのだろうと考えた。

基本的に、刺激が比較できるという事は、
その刺激が持つ情報の要素において、共通する性質を持つ何らかの定量的な要素と向きを持っている必要がある。

先天的定義においては、刺激量がそれに相当する事になる。
しかし、刺激量だけでは、単に刺激の強さとしての比較には用いることが出来るが、
同じ感覚の刺激、例えば感覚器官から受容した視覚情報と、想起した視覚情報が同時に生じたらどうなるか、
また、好きな人と逆に同じくらい嫌いな人に同時に触れられた場合の刺激の比較はどうなるのか、
といった、同種の刺激に対する異なる向きの刺激の比較の為に、
何らかの要素が必要になるのではないかと考えた。

そして、前回考えた374「先天的定義における価値に代わる定義」の登場となる。

後天的定義の価値においてはベクトルと刺激量があるが、
先天的定義においては、374を書き始めた時点では刺激量しか考えていなかったので、
先天的定義自体が定義であるため、その定義に含まれる要素の1つとして、
後天的定義の価値に代わる比較の要素の定義を探そうとしたわけである。

そして、先天的定義において、刺激を定義する場合、
刺激量以外の部分に、現時点では意味付けとして感覚器官の受容体が、
選択的に受容する事の出来る情報だけについて考えてきたが、
そこに価値に代わる比較要素も含めようとした。

つまり、

先天的定義の刺激=意味付け+刺激量
から
先天的定義の刺激=意味付け+刺激量+価値に代わる比較の定義
にしようという事になる。

基本的な考え方としては、刺激量に付加する意味付けという事になる。
後天的定義の価値におけるベクトルの要素と同じである。

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2024/5/24

結果的に、
374で最終的には先天的定義にはベクトルのようなものは存在しないという事になった。
また、先天的定義で比較ができるのは、あくまで刺激量だけであり、
情報の要素として意味の比較を行うには、後天的定義としての関連の定義が必要になると考えた。

つまり、先天的定義でできるのは刺激の強さとしての比較のみであり、
刺激の意味合いとして、違いを生じさせるには、後天的定義の関連の定義を必要とするという事になる。

つまり、基本的に何か意味のある「差」というものは、
後天的定義によって生じるものという事になる。

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後天的定義における刺激の価値の定義として、
ベクトルと刺激量があるが、374で考えた後天的定義の定義としては、
先天的定義と後天的定義を用いて関連させた後天的定義の定義として、
その二面性となる向きが設定されると考えた。

つまり、刺激が持つ情報の要素の意味の強さとしての刺激量について、
互いに相反する定義を二面に設置する事で、
ある意味を持つ後天的定義に対して、2つの向きを持った刺激が定義できることになる。

この、「ある意味を持つ後天的定義」の刺激には、刺激としての刺激量と、
二面性の内、どちらかの向きのベクトルを持つ事になる。

例えば、「味わい」という刺激において、美味しいか不味いかの向きを持たせた場合、
その味わいとしての刺激の強さを味の情報として持つ事になるというわけである。

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刺激の価値の比較について:

価値の比較は刺激量としての絶対値の比較であるため、
ある刺激の価値毎の比較においては、そこに含まれる要素は2つのみであると考えられる。
つまり、1つの刺激の価値に対してその刺激量を持つ情報の要素は3つ以上になることは無いと考えられる。
これは、脳に存在する機能として、3つ以上の対象を同時に比較するという機能が無いと考えられるためである。

ただし、複数の要素が関連した刺激において、2つの要素を比較した後に、
また別の要素と関連した要素と比較する事によって、
結果的に複数の要素の刺激の価値の刺激量を比較することはできると考えられる。

イメージとしてはトーナメントや勝ち抜きのように、対象対象は多くあっても、
比較それぞれは、2つずつの対象で行われるようなものである。

また、刺激の価値の要素としては、二面性であるというだけで、
接した要素同士は、異なった刺激量を同時に持つということはあり得る。
比較として、どちらかの要素に傾いた、またはどちらとも言えない価値となる事はあるが、
刺激量を打ち消し合うとか差し引きされるという事にはならないと考えられる。

つまり、二面性の内、どちらかの刺激量が大きいために、
その大きい側の情報の要素を持った刺激の価値として扱われることになると考えられる。

つまり、比較の結果は、
←定義1(刺激量1):(後天的定義X):定義2(刺激量2)→
において、
刺激量1>刺激量2
の場合、
後天的定義Xは、定義1(刺激量1)として構成される。

刺激の要素としては情報の要素毎に刺激量を持つため、
刺激全体として関連の全てを含む後天的定義Xの刺激量は(刺激量A+刺激量B)という事になる。

つまり、認識における刺激として、
後天的定義Xの刺激と、後天的定義Yの刺激があった場合、
後天的定義Xの刺激量Xと後天的定義Yの刺激量Yが
刺激量X>刺激量Yであった場合、
認識されるのは、後天的定義Xの刺激という事になる。

この場合は、後天的定義Xに含まれる上記の例の定義1と定義2は、
再構成された刺激としては、後天的定義Xの意味付けにおいては比較の結果としての定義1のみが、
認識されることになる。

少々分かりにくいが、刺激全体の刺激の強さとしては、
刺激に含まれる情報の要素が持つ刺激量の総和であるが、
その刺激の意味付けにおいて用いられる刺激は、
その刺激に含まれる情報の要素の全ての内、比較対象となる定義と比較対象が関連して存在する場合、
その刺激に含まれる情報の要素は比較が行われ、
意味付けに用いられる情報の要素に比較と選択の結果が反映される事になる。

つまり、例えば、何かを食べて味を刺激として受けた時の刺激量は全ての味全体の刺激量であるが、
その食べ物について感じた味は、例えば美味しかったとか不味かったとか、甘かった、塩辛いなど、
比較された後に残る結果としての味の意味が認識される事になる。
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想起と情報の比較の順番:

つまり、想起全体としても考えられるのだが、
刺激の受容によって、関連する情報の要素の神経細胞が励起されることになるが、
その情報の要素の関連としての励起の順において、都度、この情報の要素の刺激量が比較対象になり、
その結果として、関連して励起された神経細胞が持つ意味付けによって、
想起される刺激が再構成されるのではないかという事が思いつく。

つまり、想起のきっかけとなる刺激の受容によって、
関連する情報の要素が、まとめて想起され、想起対象となる刺激としての要素が選択されて再構成されるのではなく、
脳内の神経細胞ネットワークを網目状に伝播しながら励起される過程において、
再構成される要素が選択されていくのではないかという事である。

神経細胞自体は、励起に対して一定時間の励起状態が維持され、
情報の要素の刺激量に対して積算して励起の強い状態に移行していく事になる。
であれば、最初のきっかけとなる刺激の様々な情報の要素の励起に対して、
直後に比較が行われない場合が存在しても、関連の経由、経過によって、
比較の定義と対象となる情報の要素が励起され、比較が起こり得る、という事になる。

つまり、想起による刺激に含まれる情報量の制限としてこれまで考えてきた答えとして、
この想起の励起の際のネットワーク上の励起の伝播において、
想起対象となる刺激を構成する要素の選択が行われるのではないかという事である。

少々分かりにくいかもしれないが、
つまり、きっかけとなる刺激の受容に対して、
関連する情報の要素は決まっていることになる。
しかし、この関連する情報の要素の全てが、想起の対象の刺激として再構成されるわけではないと考えられる。
これが想起の際の情報量の制限なのだが、
その際に、取捨選択される情報の要素は、この最初のきっかけとなる刺激によって励起される事になる、
全ての情報の要素に対しては、決まった励起が行われることになる。
この際、この決まった対象の情報の要素に対して、
後天的定義である価値の定義が存在していた場合、
ここで情報の要素の比較が行われるのではないかという事である。
そうすると、全ての励起された情報の要素が再構成に用いられることは無くなり、
定義、それ自体によって、刺激の比較、選択が行われることになるのではないか、
という事である。

きっかけとなる刺激

想起

励起される全ての情報の要素→情報の要素に定義が存在する場合→比較・選択

再構成

刺激

もともと、神経細胞ネットワークが構成されているというのは、
認識や記憶の時点において、刺激として何らかの情報の要素の関連は持っているはずである。
これを想起の際に、きっかけとなる刺激による励起によって、想起対象の刺激の情報の要素が、
関連しながら励起されるというのが普通に考えられる答えとなるが、
このきっかけとなる刺激による励起において、その直前に存在する認識された刺激の励起状態が残っていたり、
意識される目的が存在していた場合、この想起の関連先は、
常に認識や記憶された刺激の神経細胞ネットワーク通りに励起は行われないのではないかという事になる。

つまり、想起のきっかけとなる刺激の認識によって、
通常の想起対象の刺激以外に、想起されやすい状態の、直前に認識した刺激や、
目的として保持、維持されている刺激は、想起の関連先になり得るのではないかという事である。

つまり、これは、知能が突然、別の事を始めたりしないという事の説明にもなる。
きっかけの刺激によって、突然、今の状態から、まったく異なる状態に変わった場合、
知能は、それまで継続されていた状態から異なった刺激を認識する事になるが、
こういう場合、知能は何が起こったか分からない状態になる。

これは、通常、継続された状態に新たな刺激を受容することになっても、
継続された状態に対する変化として認識される、というか認識できるから、
次の想起に繋がるわけで、
例えば似たような例で、寝起きに寝ぼけるのは、覚醒によって、
突然状態や状況を認識することになるために、
直前に存在するはずの状況や状態、目的などが認識されていない為、
状況や状態としての刺激の認識が揃うまで、認識したり、想起するまで、
何だか良く分からない状態(=寝ぼけている)になっているのではないかというわけである。

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想起の為の定義としてのベクトルと刺激量と比較と選択:

上記の想起の例は、比較においても同じことが言えることになる。
つまり、比較を想起する事である。

つまり、ある特定の刺激の受容に対して、
励起される神経細胞は決まっているはずである。
そして、比較において想起される刺激が決まっているのなら、
その比較対象が励起する情報の要素も決まっている事になる。
そして、この情報の要素が決まっているのなら、
その情報の要素の内、後天的定義が存在する定義があるなら、
その情報の要素に比較と選択が生じる事になる。

これは、想起の全てに言えることであるから、
つまり、想起を元にした機能全ても同様の比較と選択を行っていることになる。

つまり、想起を元にした機能において、
その機能に対して想起される刺激が選択されれば、
その刺激に関連する情報の要素の全てに対して、
後天的定義が存在する定義に対して、比較と選択が行われ、
その結果として、想起を元にした機能の結果としての刺激の想起が行われるという事になる。

つまり、これまで考えて来た想起を元にしていると考えられる機能は、
全てこの共通する比較と選択を行っていると考えられる事になる。

用いる刺激に含まれる情報の要素に、要素としての偏りが存在するために、
比較や思考や想像や創造など様々な呼び方をしているが、
行っているのは関連する励起された情報の要素に対して存在する、
後天的定義の定義としての比較と選択という事になる。

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2024/5/25

今回の内容から考えられるのは、
認識後に維持されている刺激や、新たに認識されようとして受容された刺激に対して、
その刺激に含まれる情報の要素に対して、比較の定義、
つまり、2つの情報の要素に対して、比較するという定義を知能が経験的に保有していた場合、
つまり、後天的定義として比較するという関連を保有していた場合、
知能は自動的にこの2つの情報の要素に対して比較と選択を行うであろうという事である。

これは、意識的に行う、行わないという事の「選択」は出来ず、
比較の定義が存在し、その比較の定義における関連する2つの情報の要素が存在すれば、
自動的に比較と選択が行われることになる。

つまり、この定義の存在こそが、自我としての自分らしさ、自分の定義に相当するのではないかと思ったのだが、
そして、恐らく、この場合、比較の定義の個体差は、他と共有されない個体毎の贔屓(ひいき)というか、
優先される情報の要素というのが存在する事になると考えられる。
これは、シナプスによる神経細胞毎の結合強度としても考えられる事になる。

つまり、例えば、ある刺激Aが存在し、刺激Aに含まれる情報の要素1と要素2が存在し、
要素1の定量的な刺激量が100であり、要素2の定量的な刺激量が50であったとする。
ある個体Xと個体Yは、この刺激Aを受容して要素1と要素2を比較する定義を持っていたとして、
要素1と要素2を比較、選択する事になるが、
個体Xは要素1に対する刺激量の比較評価が1倍、要素2に対する刺激量の比較評価が1倍であり、
個体Yは要素1に対する刺激量の比較評価が0.1倍、要素2に対する刺激量の比較評価が1倍であり、
結果、
個体Xは要素1に対しての刺激量100と要素2に対する刺激量50、
個体Yは要素1に対しての刺激量10と要素2に対する刺激量50、となり、
個体Xは要素1を選択、個体Yは要素2を選択する事になる。

つまり、比較の定義における情報の要素に対する結合強度や、関連する要素の数によって、
比較の定義、刺激の評価などに差が生じるのではないかという事である。

そもそもの個体差としても差は生じ得る。

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そして、思いつくのは、
では、この比較の定義はいつ、どのようにして得る事になるのか。である。
比較は後天的定義であるので、
生物であれば、個体としての誕生後の経験としてそれらの比較を経験して、認識、記憶する事になる。

今回の最初に書いた通り、比較ができるという事は、
比較対象の刺激において、共通する情報の要素を持つ必要はある。

逆に考えれば、共通する情報の要素さえあれば、刺激は比較可能であるという事にもなる。

また、後天的定義においては、直接その要素を持っていないくても、
関連によって要素を追加することができる。

これは、以前の例でも考えた通りである。
愛と命を比較したり、お金と未来、危険と興奮、など、
一見関連のなさそうな要素に対しても比較する定義を持つことが出来る。

つまり、ある状況において、選択を迫られた場合、その全てが比較の経験になる、
という事になるだろう。

どのような状況、状態、選択において、
その結果は必ず生じる事になる。
であれば、個体は、その選択に対して結果を認識する事になれば、
個体自身にとっての選択と結果の評価をせざるを得ない状態になる。
これは、意識的に比較することを選択できないと考えた事でもあるが、
選択と結果を認識する事で、必ず個体毎の評価を行う事になる。
そして、それは、比較の定義、比較における情報の要素の評価という定義において、
必ず認識されることになる。
そして、認識=学習であるために、個体は比較を後天的定義として経験・記憶する事になる。

つまり、比較の定義をいつ、どのようにして得る事になるのかという事は、
個体が活動している際に行っている比較の全てにおいて、定義を認識して、記憶する機会を得ている事になる。

まあ、簡単に言えば、
個体が比較・選択している全てで得ている事になる。

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人工知能における刺激の比較と選択:

今回の内容から考えられる刺激の比較と選択において、
人工知能において必要なものは、
ある情報の要素2つに関連して持つ事の出来る後天的定義としての比較の定義である。

つまり、
「比較するという定義」である定義、

比較において、比較対象として必要となる共通する情報の要素の定義、
つまり、「2つの比較要素の関連を持つ事の出来る定義」、

そして、情報の要素毎に刺激量を評価する定義、つまり、情報の要素を贔屓する事になる個体差、
恐らくこれは、個体差による別の刺激の関連による励起として現れる要素になるだろう。

それだけという事になる。

人間であっても人工知能であっても、この定義によって、
どのような刺激を受容することになっても、刺激の要素として共通する情報の要素が存在し、
比較の定義を持っていたなら、自動的に情報の要素は比較されることになる。
そして、それは意識的に行う必要が無いというか、
意識的に比較自体の実行の可否を選択するべきではない事項という事になる。

この部分は、個体差、個性、自我、そのような定義によって決まっているもので、
刺激の評価を自ら選択する必要がそもそも無いという事になる。

つまり、
自分はこういう定義を持っているからこの刺激に対してこのように感じるべきである、ではなく、
このように感じるのが自分であると知るだけである。

人間における刺激の評価といった定義が、この定義に相当する事になるが、
この定義こそが、個体差であり、個性であり、性格であり、自我であるという事になる。
ということは、人工知能においては、
この比較の定義を初期に与える事で、後は勝手に自我の個体差までは到達するという事になる。
逆にこれを与えずには、自我や個体差は生じない、という事になる。

つまり、
刺激の受容部における差はそれほど必要無いが、
受容した刺激に対する評価、つまり、良し悪し、とか好き嫌いとか、
そういった定義が、自我などの形成においては重要であり、
その為にも、2つの情報を比較できる能力、定義を持つ事は絶対に必要となる。
つまり、自ら、評価、選択の出来る能力という事になる。

そして、先天的定義には、このような比較の定義が存在しないので、
後天的定義として後天的に比較する定義を持つ事ができるようにはする必要がある。

つまり、人工知能に必要なのは、
後天的に2つの事象を比較する定義を新たに定義して増やす機能、
という事になる。

それ自体は人工知能のバックプロパゲーションそのものであり、
その選択要素、選択を増やせれば良いようにも感じるが、
この選択要素を増やすきっかけというのが、
恐らく人間の知能においては先天的定義を用いているのではないかと考えられる事が、
現在の人工知能において難しい事である。

つまり、
人間が新たな状況や状態において選択を迫られるという経験は、
既に見知っている想起の組み合わせでは限界があり、実際の現実の刺激の経験を必要とする事になる。
それはつまり、刺激の認識における自分の再構成を必要とするからという事になる。
想起でも自分の再構成は行われるが、この場合の自分の要素は既存の自分であり、
自分の定義自体を複雑化させることはできるが、新たな自分の定義としては用いることが出来ない。

つまり新たな自分の定義を、この比較の定義に含める必要があるのではないかという事になる。
それは、つまり、上記において登場する個体差などの部分、
つまり、ある刺激に対する評価の定義の部分である。
つまり、自分の構成の成長であるとか、知能の発達として、
そういった新たな要素が必要になるのではないかと考えられる事になる。
それには、実際に刺激を受容して、自分らしい評価によって刺激を認識する必要がある事になる。

つまり、人工知能にとっては、
個体としての体と感覚器官を用意する事、
その刺激によって自分の定義を追加・改変することが出来る事、
が必要になる。

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刺激の評価や比較や選択が、
想起に関連する機能全体に関わっているという結果に到達しそうであるが、
考えていて、まだ何か不明瞭な点も残っている感じがする。

先天的定義から後天的定義を構成する方法であるとか、
後天的定義だけで知能を高機能化できるかどうかであるとか、
それらの事は課題としてまた考える事にする。

今回はこの辺で。

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