2024/5/20-2024/5/24

先天的定義における価値に代わる定義

まとめを書いていて気づいた内容。

まとめでは、
価値の定義において、

「先天的定義で定義される刺激において、
一般的に価値として考えられている定義は、刺激量の評価基準としての情報の要素である。
これは、生体にとっての本能・欲求などによって価値を持つ対象であると考えられているが、
この定義は本来の価値の定義ではなく、先天的定義における、ある刺激の反応強さの定義であり、
これは先天的定義における刺激の刺激量についての別の定義である。」

と書いている。

つまり、
後天的定義の価値においては、ベクトルと刺激量がその定義の要素とされているが、
先天的定義における定義については、
刺激量という刺激の量は、その定義の要素として考えられているが、
ベクトルに相当するものがまだ考えていなかった。

つまり、先天的定義において、刺激の意味付けの要素として、
刺激の量以外の、その向き、二面性についての内容はまだ考えられていないという事になる。

それ自体は、次回の「価値のベクトルと刺激量」でも考える事になるはずである。
現在この次回の内容も並行して書いているので、
両方の面から核心に迫れれば良いと考えている。

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先天的定義において、情報の要素の良し悪し、好き嫌い、といった定義は、
本能的に考えると、快楽物質であるとか、報酬系などで考えられる要素が関連している事になるはずである。

つまり、生命の本能として、その刺激が自分にとって良い物か、悪い物か判断する機能は、
あらかじめ備わっていると考えられる。
であれば、生命にとって本能的に良いものと感じるには、刺激に対してどのように判断すれば良いかと考えると、
快楽や報酬として刺激を意味づけて認識すれば良いという事になる。
実際、それ以外に生命の機能として、自分にとって何か良いと感じる方法が無い。

人間において、
視覚においてはそのような刺激は思い当たらないが、
聴覚においては、心地よい音のような波長は存在する。
嗅覚においても、特に経験したことのない匂いであっても、
良い匂い、悪い匂いというのは感じ取ることができる。
味覚においても、好ましい味、嫌な味というものは存在する。
触覚、感触においても、布団などで寝心地の良さのようなものは、
学ばなくとも感覚として心地よさは認識できる。

ということは、先天的定義においても、
ある種の感覚と刺激については、価値に代わる定義として、
良し悪しを決める要素の様なものは存在する事になる。

視覚における対象が無いと考えられるのは、
視覚において認識される事象が、基本的に後天的定義でしか定義できない刺激であるという事になる。
つまり、視覚において認識する対象は、
基本的に視覚が構成された後、さらに言えば、生命として誕生した後に見る事象がほぼ全てである。

自分自身でさえ、視覚的に認識できるのは誕生後である。

この場合、エピジェネティクな定義が存在しなければ、
遺伝的に視覚において認識される事象について、先天的定義において刺激の比較はできない。

明るい間は不安で、暗くなってから行動するような夜行性の動物などにおいては、
視覚による明るさに対して先天的定義を持っているということも考えられる。
人間は基本的に昼行性であるので、その定義からすると先天的に逆の定義を持っていると考えることはできる。

行動できるから良い悪いという事でもないが、
行動の選択の判断基準として視覚による刺激が用いられているという場合もあることになる。

とすれば、人間も含めて感覚においては、
何らかの判断基準となる定義が存在するということが考えられる。

つまり、感覚において受容される刺激について、
その性質と量において比較できる定義が存在するであろうという事になる。

ただし、明らかに後天的定義の定義のような複雑多様な要素が関連した定義ではなく、
もう少しシンプルな定義であると考えられる。

人間の例であれば、ある感覚の刺激に対してホルモンや神経伝達物質が放出されるような事象についてという事になる。
これは、先天的定義として、ある種の刺激に対して、自動的に選択、活動が発生するような反応が、その対象となるという事になる。

つまり、先天的定義の定義として、意識的に選択したり、比較するような対象ではなく、
遺伝的に、生命の性質、機能として、自動的に起こる反応の定義としてそれらは存在する事になる。

逆に、自動的に起こる選択に用いられる要素でなければ、先天的定義に含まれない事になる。

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ある刺激に対して先天的定義における反応が起こり、
ある種の刺激としての変化を脳が知ったとする。
脳では先天的定義であるため、知能による反応としての機能というより、
小脳や間脳(視床下部など)などの働きの為に、その変化情報は用いられる事になる。

この場合、ホルモンや神経伝達物質の放出に対して、
何らかの閾値のようなものは存在するはずである。
対するは刺激の刺激量という事になるであろう量となる。

つまり、情報の要素としての意味、良し悪しのようなベクトルが関係しているかどうか、
という事に関しては、恐らく関係していない事になる。
つまり、ベクトルではなく、良い刺激に対する定義と、悪い刺激に対する定義は別に存在して、
範囲や二面性として共存するものではなく、
個別に定義が存在すると考えられる。

つまり、先天的定義における刺激の要素の意味における定義は、
性質が同じで量が異なる定義が同居するわけではなく、
性質毎に異なった定義が存在すると考えられる。

つまり、上記の例で言えば、味覚の美味しい味の刺激に対しては特定の定義があり、
悪い味の刺激に対しても異なった別の定義が存在し、
それぞれにその定義と量が存在すると考えられる。

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ということは、後天的定義において、先天的定義の個別の定義を二面性の定義として定義する事は、
後天的定義として、それら先天的定義の性質に対して、それぞれの面を与える事として関連し、定義する事になる。

つまり、意味付けと言う点においては、

先天的定義1=性質1(の定義)
先天的定義2=性質2(の定義)

後天的定義=性質1+性質2=性質1と性質2を二面性として持つ要素(の定義)

という事になる。
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つまり、先天的定義の定義は、性質と向きのない量、
後天的定義の定義は、二面性を持つ性質と、性質のベクトル(刺激としてはどちらかの向きを持つ)を持つ量、
その定義という事になる。

つまり、例えば、先天的定義として感じる美味しい味は、
性質として美味しさを持ち、美味しさの基準としての量だけを持つ。
そして、後天的定義となる「美味しさ」は「美味しさ」としてのベクトル、
つまり、「美味しさ」と「不味さ」の二面性が関連した「味」の刺激となり、
ある味に対して認識された刺激に対して、「美味しい」か「不味い」のベクトルとその程度となる量が、
定義から参照されて設定され、再構成されることになる。

つまり、美味しさは先天的定義から定義が参照され再構成され、
味は後天的定義から定義が参照され再構成されるという事になる。

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これらの事から考えられるのは、
先天的定義における定義では、その情報だけで比較できるのは、
同じ性質の刺激に対してのみであり、その比較基準は、その刺激の量、刺激量という事になる。

つまり、先天的定義の比較において、上記の例の「美味しい」と「不味い」は、
刺激の強さとしては比較ができるが、
その意味における性質においては、比較対象にはならないという事になる。

つまり、単に感覚器官から受容される刺激として、
複数の刺激が同時に受容されないのは、このことから考えられるという事になる。
つまり、味における刺激が「美味しさ」と「不味さ」だけだったとした場合、
ある味に対して同時に「美味しい」点と「不味い」点が同時に刺激としては存在しない事になる。
つまり、ある瞬間においては、どちらかの定義から再構成された刺激しか用いる事が出来ないことになる。

つまり、味覚において受容される刺激において、先天的定義から構成される味の刺激は、
先天的定義の定義として、個別の比較の出来ない性質の刺激としてそれぞれ刺激が構成されるため、
味覚において、同時に複数の味が刺激として存在しないという事になる。

つまり、先天的定義において、ある瞬間に存在する刺激は、1つの性質を持つ刺激だけであり、
その比較は、様々な刺激の中にある、その刺激の量、強さのみが評価基準となる。

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それを後天的定義において、味覚における「味」の定義の比較として扱う場合、
「味わう」事で、様々な先天的定義の定義から構成された要素と量の関連として、
「味わい」という刺激を構成して、様々な味が関連した刺激を認識する事になるというわけである。

つまり、味覚の刺激は先天的定義であるため、単独の味を認識する事になるが、
「味わい」の後天的定義は、想起によって再構成された様々な味覚の味の関連した刺激という事になる。

それは、つまり、意識にも関係することになるが、
自分が感じた味について、想起する事、後天的定義による味を想起する事、
その味の刺激を認識する事で、
つまり、感じた味を自分が感じた味として意識する事になる。

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今回の内容をまとめると、
先天的定義における刺激の定義は、

先天的定義の刺激=性質+刺激量

であり、
後天的定義における刺激の定義は、
複数の先天的定義、恐らく比較できる対象として2つのみの定義を用い、
それらを境界の定義として、刺激を定義し、
各先天的定義の性質毎に、異なる向きを持つベクトルと、
そのどちらかのベクトルの向きを持つ量から成る、
という事になる。

←定義1:(後天的定義):定義2→

つまり、後天的定義として定義できるのは、
定義に先天的定義かまた別の後天的定義となるため、

先天的定義・先天的定義
先天的定義・後天的定義
後天的定義・後天的定義

つまり、
←先天的定義1:(後天的定義):先天的定義2→
←先天的定義1:(後天的定義):後天的定義2→
←後天的定義1:(後天的定義):後天的定義2→

の何れかの組み合わせから成るという事になる。
そして、それらの関連においては、刺激の量の比較ができるように、
同じ性質を、その関連として持つ必要がある。

つまり、以前考えた、異なる刺激において比較ができるのは何故か?の答えになる。

例えば何かを買うのを迷っているのは、
自分のお金と買いたい品において、共通する「貨幣」と「品」の価値を、
貨幣を同じ性質として関連するから、比較できるという事になる。
つまり、自分のお金が減ることと、品を手に入れる事が、貨幣の価値で比較できることになる。

また、例えば物々交換では、互いの知識量や認識の違いにより公平であるかは別として、
自分の保有する品の価値と相手の保有する品の価値を互いに認識しあい、
互いの価値の比較の後に交換が成立する事になる。

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人工知能にとっての先天的定義:

後天的定義の刺激を構成する方法として、
先天的定義は必要であるが、
刺激として構成するための要素の選定についてはもう少し考える必要がありそうである。

つまり、ある事象の刺激が存在するために、情報量の制限というのは以前も考えたが、
その刺激を構成する要素としての取捨選択の為の働きは何か考える必要がありそうである。

人工知能においては、
先天的定義の種類の選定と実装が重要である事と、
後天的定義の構成の方法を考える必要があるという事が分かる。

つまり、後天的定義の刺激を構成するための主となるきっかけと、
そのきっかけに対して関連する情報の要素の選択機能である。
現時点では、ある事象の認識において登場する刺激の内、
その事象に関連して、同時に認識される事になる刺激の情報の要素が、
事象の刺激として同時に関連する情報の要素となると考えられるが、
これについてはまだ良く考えていないので機会を改めて考える事にする。

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まあ、今回の収穫としては、
先天的定義にベクトルが必要なかったのと、
先天的定義と後天的定義の関連と構成などが分かったのは大きい。

今回はこの辺で。

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