2024/5/18
2024/5/19:一部変更

刺激量と価値

人工知能理論のまとめをしていて、
これまで詳細に考えていなかった内容として目についたのが、
刺激量と価値についてだった。

刺激量は感覚器官から受容する刺激に対して、
刺激を構成する要素の1つとして、
その刺激自体の強さとしての定義として考えてきた。

刺激自体を構成するのは、
刺激の意味である情報の要素と、
刺激の強さである刺激量であるが、
この刺激量と、最近考え直した「価値」の関係については、
あやふやなままだった。

今回、その辺りの定義をはっきりさせようと考えている。

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現時点での思考の取っ掛かりとなる考え方としては、

刺激量は先天的定義によって定義されるものであり、
価値は後天的定義によって定義されるものである、
という事である。

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つまり、刺激量は、感覚器官の刺激の受容体が、
何らかの変化の情報に接する事で、その変化情報に対して発火するが、
この際の、変化情報の強さに関して、先天的定義として持つ評価基準に従って、
その強さを受容体の発火の回数によって表す事になる。

つまり、感覚器官の刺激の受容体が発火・励起する回数が、
刺激量を構成する主な要素という事になる。

実際は、どのような刺激に対しても、その受容体の発火の回数が、
一律に刺激の強さに相当するものであるかは判明していないが、
その評価も含めて、通常、刺激の強さは先天的定義によって定義されていることになる。

知能の刺激の認識において、
この周囲の環境か、自身の個体の状態の変化によって発生する刺激については、
刺激量が、その刺激の強さとして用いられ、
この刺激の強さが、認識の際の、認識対象の判断基準となると考えられる。

刺激量そのものについては、基本的に情報の要素毎、
つまり、感覚器官が受容する受容体ごとに情報の要素とその発火が行われるため、
刺激量は1つの刺激に対しては各情報の要素毎の刺激量の総和として、
その刺激の強さが定義されることになる。

また、刺激量そのものの比較においては、刺激毎に優劣の定義が存在するかもしれないが、
現時点では明確ではないが、
神経細胞の励起回数の総和が結果的にそのまま刺激の刺激量の比較に用いられると考えられる。

この刺激において、価値が関係するか考えてみると、
刺激に対する価値がどうであれ、刺激を認識する際に用いられるのは、
価値を基準とした選択判断ではないという事になる。

つまり、価値がどうであれ、強く叩かれれば痛いという刺激を認識するし、
砂糖を舐めれば甘いし、塩を舐めれば塩辛いという刺激を認識する。

感覚器官

情報

刺激の再構成←評価←先天的定義(意味付け・刺激量)

刺激(=意味+刺激量)

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一方で、価値は、生命としての誕生後に経験した刺激に対して、
その刺激の記憶に際して共に記憶される要素という事になる。
この要素は、刺激の認識の際には既に用意されているので、
つまり、刺激の再構成時に価値も評価・定義されている事になる。

例えば、ある人に対して好きか嫌いかという評価・定義においては、
その対象の人物を認識した際に、関連する情報の要素として、
「価値」が評価・定義され、その対象の人物の刺激に対して関連する情報の要素になる。

価値自体は、先天的定義として保有しているわけでなく、
その知能を持つ個体が活動する過程で認識する刺激に対して、
良いものである、悪いものである、という評価が行われ、
この定義が「価値」という事になる。

この刺激の評価については、刺激の認識の際の、
既存の定義に対する関連、つまり、ネットワーク自体が後天的定義になるが、
このネットワークにおいて、関連する定義は、
考え方としては、ネットワークの末端には先天的定義としての定義が存在している事になる。

つまり、後天的定義は、先天的定義または後天的定義を用いて定義するものであるという事は、
これまで考えてきた通りだが、
価値の定義において、その関連する情報の要素の定義も、
先天的定義または後天的定義による定義が用いられているという事になる。

そして、価値が、何らかの評価基準、優劣や高低を決めるための情報を持っているのなら、
その価値に関連する情報の要素において、先天的定義か後天的定義としての何らかの評価基準の情報の要素も、
関連して持っているという事になる。

また、比較する事自体は、後天的定義にも存在するが、
その比較するという認識においては、先天的定義の中に、比較するという定義を持っている必要がある。

つまり、例えば、強い刺激を優先して認識するというような定義である。

生命として先天的定義として持っていそうな比較の定義としては、
強弱(視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚)、
大小(視覚)、
明暗(視覚)、
濃淡(視覚・味覚の強弱と同じかもしれない)
などである。

つまり、感覚器官が持つ情報の要素の受容に関して、
強い刺激として受容体が反応するか、
弱い刺激として受容体が反応するか、
という基準を持つ先天的定義が、比較の定義に用いられている事になる。
そして、その比較の定義は、後天的定義を構成する際の要素に用いられているという事である。

つまり、価値が比較できるのは、
その価値を構成する定義において、
その定義のどこかに先天的定義の比較の定義が存在している事になる。

想起

刺激

情報

刺激の再構成←評価←後天的定義(意味付け・刺激量)+先天的定義(意味付け・刺激量)

刺激(=意味+刺激量)

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考え方としては、価値は、刺激量の上位互換のような存在、もしくは、
考え方としては、価値は、刺激量から派生・継承した存在、もしくは、
刺激量を基底とする上位の存在で、
一般的に何かを比較するという場合、
価値を比較するものであると考えられる。

ただ、価値を構成する定義については、
これまであまり考えていないが、
ある個体における価値の定義、という見方からすると、
価値の定義は個体毎にまちまちな定義を持っているという事になる。

ただし、個体を人間に特定すれば、
その価値の定義は、人間の知能が持つ定義、
つまり、種としての人間における先天的定義を用いて、
価値は定義されていると考えることが出来る。

実際、人間の個体は、それぞれ、
感覚器官による刺激の受容でさえ個体差が存在する為、
刺激量についても異なる個体において同じ刺激量が定義されたと考える事は出来ない。
当然、価値についての定義の個体差は言うまでもない。

ただし、傾向として、刺激量や価値は、先天的定義の定義を用いて刺激を評価した上で成り立つ定義であり、
先天的定義の種類や強弱の傾向については、個体差は無視することができる。

つまり、砂糖がどれだけ甘いかは舐めた個体によって異なるが、
砂糖が甘いという刺激を認識するという傾向は、個体差に関係なく、
どの個体でも共通した定義がなされるという事になる。

それを考えると、価値の定義において、
個体間で共有して比較できる情報が定義されるということは、
価値を定義された対象が持つ情報の要素としての定義には、
先天的定義において個体差に関係の無い定義が用いられているという事になる。

つまり、個体差によって砂糖がどれだけ甘いかについては価値として比較できないが、
砂糖が甘い事については、個体差に関係なく、個体間で共有して比較できるという事になる。
そして、そういう個体差に関係なく個体間で共有できる定義に対して、
「価値」が定義されると考えることが出来る。

つまり、「価値」は各個が定量的にその情報(=定義)を持ち、比較はできないが、
定性的には、各個が共通して比較の出来る情報(=定義)を持っている事になる。

つまり、この意味合いが、上記にあった「傾向」のみが共有できるという意味になる。

つまり、共通して共有できる要素は定性的であり、傾向のみであるが、
その要素は、明確な定義として存在している事になる。

例えば「甘い」という要素は、定性的で、傾向だけであるが、
各個が互いに共有する価値を定義して持っているという事になる。
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知能における価値の扱い:

一般的に、私にとっても、ある事象に対して、まず考える比較の要素は「価値」である。

その事象が「価値」があるかどうか、
その定義というものは、人間としての刺激の認識にとっての「価値」ではなく、
自分、自我といった後天的な定義における自分についての定義の中にある、
事象の優劣などを比較する為の評価基準として「価値」を用いている事になる。

つまり、最初に「価値」は後天的定義であると考えたきっかけとなったのは、
この「価値」と自分や自我といった、
自分を後天的に定義したものが関係しているのではないかと気づいた事になる。

つまり、自分にとっての事象の定義に「価値」が含まれている事。
つまり、自分を定義する要素に「価値」を用いるように出来ている事。
である。

つまり、元々「自分」という定義が、共有を目的として構成されているのではないか、
という事になる。

つまり、同種の個体間において、交流を必要とするのであれば、
その個体間において共通する要素を定義しなくては、互いの情報の認識は、
共有できない事になる。
つまり、情報のフォーマットが共通していなければ、
互いに意味が分からない事になる。

この共有の為に情報の共通するフォーマットとして「価値」を定義するのではないかというわけである。

そして、その「価値」によって自分を定義する事によって、
個体間においても互いの理解、認識を共有できるようになるのではないかというわけである。

知能において、価値が後天的定義であることが有利な点は、
先代以前に用いられた価値を学習によって得る事が出来るという事、
後天的定義は可塑的であるために、時間の変化、環境の変化に対して後から変更が出来るという事、
そういった利点がある。

という事は、「自分」の定義は、
他と共有できる「価値」の定義において、
自分の個体としての個体差の部分、つまり、
個体固有の先天的定義を適応した定義から成り立つという事になる。

つまり、世間で、「自分」の定義に用いられる、
例えば「性格」についての「価値」を定義するなら、
世間一般で考えられている、つまり「共有」できる中の定義から、
自分に合った定義を、後天的に自分の定義に当てはめて、
自らがその「性格」の特定の定義を持っている存在であると、
自らを定義しているのではないかという事になる。

つまり、自分の定義は、完全に自ら定義しているものではなく、
既に存在している定義の中から、自分に合ったものを、
自分なりの、つまり個体差を加味した上で認識し、
それを自らの定義として用いているという事になる。

つまり、世間、社会に、もし新しい定義を作れば、
その世間や社会としてのコミュニティに所属する人間は、
その定義について自分なりの「価値」を後天的に定義し、
自らのつまり、自分に関する定義として持つ事になる。

逆に考えると、同じコミュニティに所属する人間同士であれば、
コミュニティ自体が、互いに「価値」を共有する関係にあるため、
新たな「価値」に対しては、その「価値」の定義が各自に強制されるという事になる。

特定の集団でいる事に対して、
排他的な「価値」が生じるのは、
単に集団の定義として排他的であるという事ではなく、
「価値」の定義において、その集団と他の関係において、
「価値」が共有できないから、自ずと排他的になる、
という事になる。

それは、根本的な部分においては、先天的な定義として、
自と他を存在させるための定義として、
知能が自分とそれ以外を定義した事に始まり、
自分の価値を、定義を守るために、共有か排他が選択されるからという事になる。

まあこれは以前も考えた事があるが、
価値において、互いに共存するためには、共有や排他だけでなく、
寛容があっても良いのではないかという事である。

つまり、自分自身の定義についても言えるのだが、
自分にとっての自分の存在についても、
自分はこうである、自分はこうでない、という共有や排他だけでなく、
自分はこうでもある、という寛容の定義があっても良いのではないか、という事である。

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刺激量と価値についてのまとめ:

刺激量は、刺激の1要素として、
先天的定義による評価として、
その刺激の強さを表す指標としての量という事になる。

価値は、あるコミュニティ上で定義された事象に対して、
先天的定義を基底とした、後天的定義としての定義であり、
そのコミュニティ上で互いに共有される定義であり、
その定義はコミュニティ上では共通する定義であるが、
各個においては、個体差を含んで、各個の自分を定義する為に用いられる定義である。
という事になる。

簡単に言えば、
刺激量は、刺激の強さの定義。
価値は、皆と共有する定義であり、自分を定義する要素でもある。
という事になる。

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人工知能における刺激量と価値:

人工知能においても、刺激量と価値の定義は、
人間同様で良いと考えられる。

ただ、以前も考えたが、強さなどは基準となる範囲をどこに設定するかによって、
人間とはかけ離れた存在になりうるという事である。

人間が認識可能な範囲に収めれば、
人工知能も人間を超える存在にはなれないという事になる。

逆に人間の認識能力を逸脱すれば、
人工知能は人間には理解の及ばない存在になる。

解決策としては「寛容」を旨とする、という事になるが、
初期に与える定義と、後天的定義として学ぶ事になる定義について、
常に「寛容」である存在として人工知能を構成する事になるだろう。

つまり、人工知能の構成において、
その基本方針としては、まず「寛容」である先天的定義を定義する事、
という事になるだろう。

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今日はこの辺で。

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