2024/5/10

目的の評価と定義の想起について

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目的に対する「評価」の必要性:

最初に、
人間が持つ様々な定義において、
目的の定義はどのようなものであるか考えていた。

目的を認識する際、
つまり目的を持って意識的に何かを行う際は、
目的がきっかけとなり、それが動機となり、これが必須であると考えた。
そして、
目的の実現の為に行動するという事と、
意識的に何か行動や活動をするという事について、
認識や定義との関連について考えた。


意識的に何かを行うという行動に対して認識が働くには、
最初にそのきっかけとなる目的の存在が必要となる。
意識的に何かを行うという事は、
つまり、目的の解決方法としての行動を認識して実行する事になるからである。

では、
その目的自体はどのように発現したり、自ら作り出したりするのか、
つまり、目的の、その存在意義や意味の定義をどうやって作り出すのか。
そして、その目的自体は、自分にとって何か意味や価値が存在するのか、
そういった事について考えてみた。

そこで気が付いたのは、
意識的に何かを行うという事についての認識で、
意識的な何かが目的に対して行動や活動を行う事であれば、
その行動や活動の途中や結果に対して、
「評価」ができる事というのは必要であると気づいた。

つまり、目的が目的であるためには、
目的自体に何らかの意味を持たせる、意味や価値の定義が必要になると気づいたわけである。

目的が意識的に何かを行うきっかけの対象であるのなら、
その目的は、自分にとって何か意味や価値がある存在である必要がある。

先天的定義においては、意味や価値の定義が存在するが、
後天的定義においての意味や価値は、後天的な定義の存在が必要となる。

目的は後天的な定義である。

つまり、目的が目的であるためには、
目的が何らかの意味や価値を持つ必要があるという事になる。

つまり、目的の評価として、
目的それ自体に意義や意味を関連付けて持たせる何かの機能が必要になると考えたわけである。

目的が評価の出来る意味や価値を持っているから、
人間は、その目的に対して行動や活動を行う必要性を持つ事になる。

それは、人間が自ら何らかの行動や活動をするためのきっかけとなる。

では、
目的と意義とどちらが先かという話においては、
先天的定義における目的は、意義が先、
後天的定義における目的は、目的が先であると考えられる。

つまり、先天的定義における目的は、
身体の刺激の認識における状態変化に対して、
先天的な定義を持つ反応を身体は表すことになる。
例えば熱い、寒い、痛い、気持ちいい、お腹がすいた、お腹が一杯、など、
先に反応を必要とする刺激を認識して、それに対して目的を持つ事になる。
つまり、
先天的定義を持つ刺激の認識に対して、それに対する目的を持つ事になる。

後天的定義における目的は、
自分の定義における変化に対してまず認識することになる。
つまり、自分の認識であるから想起による刺激を元にする。
例えば、自分は、あれをするべき、これをするべき、しなくてはならない、してみようか、
やってみたい、こうしたい、そういった自分にとっての何かをまず想起することになる。
先天的定義と異なるのは、後天的定義のみの刺激を想起しただけでは目的にならないという点である。
つまり、自分が「何かをする」それ自体を想起しても目的として行動するきっかけにならないのである。
当然、意義や意味だけを想起しても目的にならない。
先天的定義が、あらかじめ状態の変化に対して感じる感覚が定義されていて、
その感覚に対する反応が決まっている為に、後は目的が必要になるのだが、
後天的定義においては、先にお題となる目的が必要になる。

つまり、先天的定義は決まり事として、既に定義と理由が存在するが、
後天的定義においては、あえて定義と理由が必要になる。

つまり、後天的定義において必要な定義と理由は、
自分にとっての目的という定義と、
自分にとっての理由という定義が必要になるというわけである。

それは刺激の認識における、環境と自分の変化を認識のきっかけとするか、
想起による自分を認識のきっかけとするかという認識の方向、向きの違いという事でもある。
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2024/5/10 夜 つづき

意識的に何かをするのには目的が必要だが、
目的を作り出すには意義や価値のようなものが必要となる。

つまり、何か自分にとって得になるようなものが存在するから、
人間はそれを目的として行動や活動する事になる。

目的の意義や価値としての定義は、
充足や満足で定義されるような脳にとっての褒美のようなものが存在するが、
これが目的の意義や価値としての定義に用いられる事になる。

つまり、目的の対象を得る、認識する事で、
充足や満足などの認識が起こることになる。

そして、
その考えが、どうして「評価」の必要性に繋がるかというと、
目的はあくまでまだ行動や活動が完結していない仮想的な存在で、
つまり、結果としての成果をまだ得ていない状態で、目的となり得るためには、
未達成の目的自体が何か意義や価値のようなものがあらかじめ関連して存在していないければならない事になる。
つまり目的の結果としての目標のようなものである。

つまり、知能が何か意義や価値があるから目的とするために、
目的自体があらかじめ何か意義や価値のようなものを持っていなければならないというわけである。

つまり、その意義や価値が存在するから認識に足りえる刺激になることが出来るという事でもある。
それは、目的だけが存在しても認識対象にならないという事でもある。
認識されるには刺激としての強さを持つ必要がある、
この刺激としての強さとして、目的にとっての仮想的な価値となる目標が必要になるというわけである。

そうでなければ、目的を認識しても、
目的を認識したというだけの事であり、
それに関連した行動に結びつかない事になる。
つまり、目的に意義や価値のようなものが存在するから、
目的を認識した際に、それを欲するというような感覚が湧き上がる事になる。

その意義や価値を見出す事が目的の「評価」というわけである。

つまり、意識的に何かを行うというのは、
目的として得られる価値ある何かが関連した事象を作り出し、
それを得るための行動や活動に対して知能が働き、
その成果物が目的となり、その目的を認識して、
実際に目的に関連した行動や活動して、その過程の変化を刺激として認識すると、
それを人間は意識して行動していると感じる事になる。

つまり、「評価」によって、ある事象の意義や価値を定義する事ができるようになる。

つまり、目的はいきなり目的として生じるのではなく、
ある事象の知能による評価によって、意義や価値を関連して定義され、
それを刺激として認識した時に、目的として認識する事になる。

つまり、目的の評価によって、目的が認識に足る刺激となるために、
目的に対する意義や価値を関連付ける事、
これが必要という事になる。
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「今何をするべきか、これから先何をするべきか、」


本来生命である人間は、
食べてさえいければ、他に何かを必要としなくても良いはずである。
つまり、生命としての生を全(まっと)うするだけであるなら、
生きていられる間の食にさえ困らなければ、それで良いはずである。
これは人間に限らず、どのような生命体であっても、最低限の生においては、
エネルギー源や食にさえ困らなければ良いという事になる。

ただ、人間は、それだけでは生きる意味がないとさえ考える。
生きがいなくして生きている意味がないと考える。

そこに何があるのか?
若干哲学的や心理学的な内容であるのだが、
人間はそこに存在の意義にようなものを定義する。

つまり、自分がそこにいる理由を自ら定義するのである。

実際、それ自体は別に自分が生命として生きるという事だけに対しては、あってもなくても問題はない。
もちろん、そういう事を考えられるのは、
生きる事だけに関しては問題がないくらいの余裕があってこそ考えられる事であるが、
なぜ、人間は自身の存在の意義や目的のようなものを自ら作り出すのか?

基本的に全てこれらは後天的な定義である。

おそらく、ここで、人間は定義する事を始めたが故に、
自分の定義も始めてしまったのではないかと考えた。

つまり、自分はこういう存在である、自分が持っている価値はこういうものである、
この事象について、自分はこう考える、自分はこうあるべきである、
自分は、自分は、と定義していったために、
自分を認識する自分が、「自分とは」という自らの定義で自らを作り出したのではないか。

つまり、
「ある事象に対する自分にとっての評価が定義である。」
という事になる。
「ある事象に対する自分にとっての評価は定義である。」
とも言える。
「ある事象に対する自分にとっての定義は評価である。」
とも言える。

以前から知能は定義する事を目的としているのではないかと考えてきたが、
ある事象の定義を扱う事の出来る機能をもった器官が脳であり、
その機能が知能という事になるのではないかと考えられる。

つまり、知能は定義を操作する能力を持った器官なのではないかという事である。

「評価」それ自体は、ある事象に対する定義を関連付ける事、
つまり、ある事象に対して別の情報の要素を関連付ける事が「評価」という事になる。

この場合においては、

評価する事=目的を作る事

だけではないという事になるが、
そこは考えを改めて、
つまり、「評価」というのは、
ある事象に対して価値を関連させて付属させるというような事だけではなく、
ある事象に何らかの別の事象を関連付ける事、それ自体が「評価」ではないかというわけである。

つまり、
ある事象が、自分にとって必要や、不必要、価値がある、価値がない、
関係がある、関係がない、そういった情報の要素であるとか、
ある事象が、別の事象について関連がある、関連がない、
そういった事についての関連も作り出す事が出来るという事になる。

例えば、赤いリンゴを見て、「リンゴが赤い」と認識できるのは、
視覚におけるコントラスト差によってリンゴの輪郭を見出し、形状の情報の要素として「評価」し、
また、視覚の色彩の赤を色の情報の要素として「評価」し、
つまり、「評価」=「定義」であるので、
それらが関連付けられる事によって「赤いリンゴ」として評価した結果が刺激として作り出され、
認識する事ができるようになる。

そして、それは、認識した刺激に対して評価した結果ではないかというわけである。
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話を元に戻すと、
目的が意義や価値を持っていて、
人間が意図的に、意識的に行う何かとして目的が存在するのは、
目的が意義や価値を持っているから、なのであるが、
目的が意義や価値を持っているためには、
その目的に対して意義や価値が関連付けられている必要がある。

この目的は、不足や満足の観点から言えば、
何か自分にとって意味のある何かが不足しているか、得て意味のある満足を目的とすることになる。
そして、不足は充足によって、満足は取得によって目的の達成となる。

この目的における行動や活動が、どのように作られるかというと、
これは完全に知能の思考の部分の機能となる。

つまり、これまで思考として考えて来た、目的と結果の関連付けの間の部分を作り出す事である。
つまり、目的の対象と、結果の対象を結びつける手段としての行動や活動を探し出す事、
つまり、想起する事になる。

そして、そこに今回考えた「評価」の考え方を加えると、
思考における評価の活動内容は、
目的と結果に対しての評価として、それらにそれぞれ関連する事象を見つけ出して関連付ける事になる。

つまり、知能が思考している事としてこれまで考えて来た目的と結果の関連付けの、
この関連付けの部分が「評価」していることになる。
つまり、目的の評価と、結果の評価として、それぞれに関連付けられる事象、情報の要素を
「評価」として探し出し(=想起し)、目的へ関連付ける、結果に関連付ける、
そして、それぞれに関連付けられた事象、情報の要素同士を関連づけようとすること。
それが「評価」であり、知能の思考で行う事、
という事になる。

つまり、目的と結果の関連において、評価(=思考)によって、思考の結果として認識に足る刺激としての、
強い刺激となる意味合いを持たせるという事である。

つまり、思考における目的と結果の関連付けする内容を評価、想起する事。
それが知能における思考の働きである。

結局、事象の評価基準としての尺度となるのは、
目的に対しても結果に対しても、それぞれの目的や結果に対する関連の強さによって、
その評価や想起が行われることになる。

この関連の強さは、認識においては刺激の強さであり、
それは刺激として認識されたときの刺激の強さでもある。

つまり、認識される対象は、
明確に刺激として関連していて、その関連が強い、強かったという事。

何か明確な答えを出す必要のある事象において思考する場合、
その思考対象の目的と結果に明らかに関連していて明確な評価、想起の出来る事象が存在する場合、
その目的と結果に対しての評価であり、思考の結果としては、目的と結果の関連において、
明確な答えとなる関連する事象が想起できる事になる。
この場合は、思考の結果、明確な答えが得られたという感じがして、その感覚となる刺激が認識される。

その思考対象の目的と結果に明らかに関連していて明確な評価、想起の出来る事象が存在しない場合、
思考したとしても、目的と結果の関連において、
明確な答えとなる関連する事象が想起できないため、
考えてはいるが答えが思いつかず、目的と結果だけが関連しないまま、問題として認識されるだけとなる。
この場合、考えたけれども分からないという感じがして、その感覚となる刺激が認識される。
この「分からない」も認識対象としては強い刺激であるという事になる。
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「評価」それ自体は、知能におけるある事象、
ここでは刺激の構成要素である情報の要素とその関連を持つ、
ある程度の大きさを持った刺激(=事象)に対して「評価」を用いる事が出来るという事になる。

つまり、事象それ自体に対して、何か別の事象を関連付ける事が「評価」という事になる。
実際は「定義」なのであるが、
用語としての「評価」はある対象についての価値の設定などとして用いられるのだが、
今回の内容における「評価」は、
知能が扱う刺激としてのある事象に対して「評価」は、
その事象が「どのような意味を持つのか」という意味付けを目指して、
別の事象を充てる事、関連付ける事、として用いている。

つまり、対象の事象を持ち出して、どのような別の事象の関連付けができるのか、
別の事象の関連を試してみる、評価してみる、といったイメージになる。

つまり、機能としては想起であり、定義である。
という事になる。

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思考としての定義の想起について:

思考時の想起は、どちらかというと試行の意味での想起という事になる。
今回考えた評価も、直接的な定義というよりも、試行の意味での想起によって結果を得ようとし、
結果が得られた場合に定義にたどり着くというイメージになる。

つまり、明確な想起対象が決まっているなら、
その想起の目的は明確な事象が想起されて認識される。
想起の対象となる事象の刺激が明確であるからである。

思考や評価における想起対象は、
思考においては目的と結果は明確だが、そこに関連する事象はまだ明確ではない。
評価においても、まだ未定義であるがゆえに、改めて定義するための事象を見極めるため、
明確でない何らかの事象を対象とする。


つまり、
上記の途中で書きかけた、

「今何をするべきか、これから先何をするべきか、」

その評価であり思考というのは、
今何をするべきかの目的と結果、
これから先何をするべきかの目的と結果に対して、
それらの目的と結果を関連付けれることのできる事象を想起、
それを試行しながら、より強い関連付けができる事象を想起する事、
という事になる。

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これは人間における目的の創出という事になり、
人間が意識的に、意図的に何かを行う事のきっかけになるのであるが、
それは人工知能においても同じことが言えることになる。

つまり、人工知能が意識的に、意図的に何かを行う事ができるようになるには、
もちろん目的としての不足や満足となる対象の事象を持つ事。
これは、後天的であり、自分に関連付けられたものである必要がある。
つまり、刺激の認識において、自分側に関連付けられている事象である必要がある。
これは、感覚器官から受容される刺激において、自分側の定義として持つべき定義である。
そして、その定義によって目的を作ることのできるきっかけ、
つまり、

上記の
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評価する事=目的を作る事

だけではないという事になるが、
そこは考えを改めて、
つまり、「評価」というのは、
ある事象に対して価値を関連させて付属させるというような事だけではなく、
ある事象に何らかの別の事象を関連付ける事、それ自体が「評価」ではないかというわけである。
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として、自分に関連する事象としての不足や満足を充足、取得するための我、欲求として、
目的を持つ事が必要という事になる。

そして、改めて、評価する事、試行する事によって、思考を行い、
目的と結果の関連を作り出して、実際に自発的な意識的、意図的な行動、活動が出来る事になる。

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思考における想起対象については、
現時点では何をもって、何を優先しているのかはまだ不明である。
想起対象は、目的と結果に関連する事象であるということまでは分かっているが、
その思考における想起の試行に際して、
何をもって想起の優先を行っているのかについては、まだ良く分かっていない。
これについてはまた、項目を改めて考える事にする。

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2024/5/11

評価は定義(=想起)する機能の1種。


定義の制限と想起の制限:

想起によって事象を再現するなら、
その関連は、認識の時の関連がそのまま用いられる。
つまり、想起の制限は、認識の制限でもある。

当然認識に制限があれば、認識できる事象に対する定義にも制限が存在する事になる。

人工知能が人間の知能を超えるように設計するなら、
この刺激の認識の際の関連対象を増やせば良い事になる。
それは、単純に想起の際の情報の要素の関連対象を増やす事にもなる。

記憶のマジカルナンバーで考えたような、
人間の生体としての認識能力の制限を超える知能であれば、
当然、想起においてもその制限を超える事になり、
思考によって想起できる対象の数を増やすことが出来る事になる。

そこで考えたのは、
逆に、人間の認識に制限が存在するなら、
普段行わないような関連付けをした刺激を認識すれば、
想起の際にも、普段行わないような想起が出来るようになるという事である。
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定義の存在位置について:

刺激の情報の要素にある程度似通った関連が存在するという事は、
脳内に配置されている刺激の情報の要素の配置には、
ある程度、関係する要素毎に近しい位置に配置されている傾向があるのではないかと考えられる。

つまり、数字を記憶している近くには、計算する機能の定義が配置されているとか、
文字と文字の音声、単語や意味などが近しいとか、
そういった情報の要素の関連は、事象の意味の近しさにも同期するのではないかと考えられる。

身体の脳の実体としては、
脳の機能としては、物理的に近しい位置にある方が関連のしやすさとしては有利ではあるが、
軸索のシナプスの結合における強度としては例え離れていても、
関連としては強い、近しいという関連を持つ事が出来る事になる。

あくまで情報としての存在の近しい傾向があるという事について思いついた内容である。

ただ、想起において情報の要素が近しい傾向があるという事は、
ある事象について関連する、近しい事象が存在するということでもあり、
その人物が持つ、想起の傾向のようなものも存在する事になる。

これは、思考パターンであるとか、性格であるとか、
自我に関わるものであり、定義が皆、個体毎に異なる個性の元になるものでもある。

それは、上記の認識の制限を超える「発想」「創造力」などに関係させるなら、
人間においても、普段とは異なる認識を試みる事で、
通常の思考や認識に変化を与えることができるようになる。

例えば、カラスを見て、黒い鳥のカラスと認識するだけではなく、
もし異なる色を持っていたらとか、異なる材質であったら、
実はカラスは地球外生命体でとか、そういった定義で認識すれば、
それは、次にカラスを想起する際に、普段とは異なった想起が出来る可能性を持つ事になる。

166「知らない価値は目指せない」のように、
認識していない関連は想起においても持ち出せないという事である。
つまり、認識の経験として、ある事象に対して関連を持つ別の事象を認識しないことには、
想起の際にも、関連して想起できないという事になる。

逆に言えば、刺激の認識において事象の関連付けを行えば、
想起の際に、想起対象になりえる可能性を持つ事になる。
それは、気づきや思い付き、発想、創造、など、
様々な想起の機能において、その想起対象になり得るという事である。

つまりそれは、一見不要と思われるような事象にも、
もしかしたら新たな発想となりえるような情報の要素の関連が存在するかもしれないという事になる。

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注意:今回の内容で「価値」という言葉を用いているが、
この価値はコミュニケーション上の共有する定義における意味ある「価値」という事ではなく、
良い言葉が思いつかなかったために、一般的なvalueとしての「価値」として用いている。
意味合い的には一般的な「価値」でもあり、刺激の強度としての「価値」でもある。
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今回はこの辺で。

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