2024/5/5

目的という刺激が作られるきっかけ

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369で考えた刺激の評価や優先が目的に関係しているという話の続きとして、

目的によって優先して認識する事の出来る刺激がどのようにして選択されるのか考えるのだが、

目的として意識的に自分の関連する要素を想起することで認識する刺激を選択する事が出来るなら、
それは、認識が刺激と自分の刺激を関連させる事によって起こるから、
それなら、目的がどのようにして発生するのかが分かれば、
意識的な選択が、なぜできるのか分かる事になる。

つまり、「目的」がどのようにして作られるのかを考えれば、
意識的に何かを選択・認識しようとする機能も分かる事になる。

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これまで考えてきた「目的」に関する事項の参考は以下の通り。
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参考:

277:目的を持つという事
目的を持つための欲求や、その対象となる価値について考えた。
まだ目的の理解については至っていない。

290:欲求の認識と目的の発生
不足による刺激から欲求が生じ、その欲求を満たすことが目的であると考えた。
つまり、生命にとっての不足が欲求となり、欲求を感じる事で目的を作ると考えた。

315:目的のきっかけと刺激の定義
価値ある対象の認識によって、不足と充足を変位差としての刺激として認識する事が、
目的の発生の認識となり、
目的の達成によって充足の認識を起こすと考えた。

知能は不足に対してだけ欲求を感じるのではなく、価値に対する不足と充足を起こす刺激の認識によって、
目的が作られ、目的は充足を満たすために知能が作り出すと考えた。

331:目的と認識とその選択の優先
人間の知能においては、
目的は作られて満たされるまで保持することができて、
ある瞬間における状況と刺激によって、
優先される目的が選択されて、
目的を達成するための行動や刺激の選択が優先的に起こされると考えた。

目的は刺激であり、
目的は意識される存在である。

332:目的の選択と価値の関係
331の続きとして、
刺激としての目的が選択される基準などについて考えた。

339:選択と思考と目的の関係
思考における目的と結果の関連について考えた。

目的は、様々な要素がセットで関連したものであり、
目的となる対象や、活動・行動、結果のスレッショルドなど、
様々な定義が関連して成り立っている刺激であると考えた。

結果として目的に対して実行した行動・活動に対して得られた結果を関連させる事により、
その目的が完結するか継続されるかが決まる事になる。

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目的と成る刺激のきっかけとして考えられるのが、
これまで考えてきた不足や充足である。

不足<->不満
 ↑          ↑
 ↓          ↓
充足<->満足

それぞれの状態に価値の様なものが存在し、

つまり、

それらは刺激としてある状態の変位差、
つまり、

例えば不足の変位差として、
本体の何らかの不足に対して、生じる刺激が認識される。

この刺激は、本体にとって何かが不足している刺激であり、
それを認識することは、本体の自分自身に何かが不足していると
認識させるものとなる。

刺激の定義において、不足の認識は、
本体にとっての否定的な状態を認識させることになる。

それは、二面性において、本体にとっての不足の解消状態を与える事になる。

現状においては、不足であるという否定的な状態の認識によって、
本体の否定的な状態の刺激を認識させることになっているが、
この認識は、知能にとっては、不足の解消の向きの力、
つまり、この不測の解消状態への移行の向きの力、
つまり、否定的な状態を解消する向きの力を生じさせるきっかけでもあり力ともなる。

つまり、この不足の状態を刺激として認識することは、
その不足を解消させる反対の力を生じさせるきっかけとなる。

つまり、目的になるのだが、

不足の力→境界←充足の力

この境界に存在するのは、不足している対象であり、充足の対象でもある。
つまり、目的となる。

不足の力ー>目的<-充足の力

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不満は自己内の想起の認識における不足の状態を表したものである。
つまり、不足が実体の実際に不足している事象の変位差としての刺激であれば、
不満は、想起の対象となる自己内の不足に対する自己の定義における変位差としての刺激としての認識となる。

つまり、簡単に言えば、不足の認識に対する自分の定義における不足分に対して生じる刺激である。

もっと簡単に言えば、不足に対する感覚と言えるだろう。
不足に対する感情とも言ってしまいたいが、まだ少し不明瞭な点があるので、
現時点では保留しておく。

つまり、不足や充足が、感覚器官における刺激としての実体が感じるある状態の定義であれば、
不満や満足は、想起する自分の、その不足や充足に対する自分の状態として想起されるべき対象となる刺激という事になるだろう。

そしてそれは、認識における、刺激と自分の存在の定義と同様に、
相対して関連する存在という事になる。

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つまり、あらゆる目的のきっかけは、不足と充足という事になるのか?

つまり、不満や満足が、不足と充足に対する本体の補足される関連する刺激であるのなら、
不足と充足がそのきっかけとして考えられる答えとなる。

不満や満足が優先して存在しうるか考えてみると、
不満や満足を認識するためには、それに相対する刺激が必要となる。
それは、不満の刺激や、満足の刺激であるのか?
いや、この場合、不満の刺激は、不足に対して充足に至らない状態の変位差が刺激として生じていて、
不満の直接的な刺激でないと言える。
また、満足の刺激も、同様に、充足に対して生じる本体の状態の変位差として満足を生じることになり、
満足の刺激が直接生じたために認識される刺激ではない。

ということは、本体が直接認識しうる刺激としての不足や充足に対して、
必ず不満や満足といった刺激を認識する事になるのか?という事になるが、

例えば後天的な定義における事象についての不満についてはどうだろうか?

例えば、人間は温暖化を定義し、その現実に起こっている変化を認識しておきながら、
なかなか人間全体はその事を他人事のように考えて対策の行動を起こさない事に不満を持つというような場合はどうだろうか?

私自身も温暖化は実感しているが、行動を起こしていない側の人間なので、
身につまされる事でもあるのだが、仮に自分が行動を起こしている側の人間だが、
人間全体ではあまり本気になっていないように見受けられると不満を感じているという場合についてはどうだろうか。

この不満の対象は、実際に自分にとって何かが不足していたり、充足するような事象ではない。

どちらかといえば、仮定的な事象で、温暖化であると直接にその変化を認識することはできない。
認識できるのは、世界の平均気温が上昇しているとか、極地方の氷が溶けているなどの間接的なデータを見るしかない。

この場合、不足する何かが存在するか考えると、
自身が行う行動に対しての結果が何か得ている、得ていないにしても、
実際に自分が行動して何とかしようとしている、とした場合、
自身の充足は、この本来仮想的である事象の変化に対して、温暖化の状況が改善されるという結果を認識、
つまり、刺激として認識できる事という事になる。
それは、自身が定義している充足の為の事象が、実際に生じて自身が認識できる事という事で、
これは、きっかけとなるのは、不満から生じたものではなく、目的から生じた行動に対する結果としての事象という事になる。

つまり、
不足に現実的な不足と、仮想的な不足が存在するという事になる。

つまり、
上記で考えていた不足に対する考え方は、実際の実体における不足と、その関連としての不満、充足、満足であり、
仮想的に不満から何か発現する何かが存在しないか考えて見つかったのは、
実際の実体における不足ではなく、その現実と仮想の相対する、仮想における不足と、その関連としての不満、充足、満足という事になる。

つまり、

現実や実体の

不足<->不満
 ↑          ↑
 ↓          ↓
充足<->満足

と、
仮想における

不足<->不満
 ↑          ↑
 ↓          ↓
充足<->満足

が存在するという事である。

これらは、刺激と自分の存在としての認識において、
二面性として接する存在であるように、
不足は同じ不足ではあるのだが、

実体の不足<->不足<->仮想的な不足

であるように、認識においても不足を認識することになっても、
どちらかに接しているという事になる。

ということは、目的においても実体に関連した目的と、想起としての仮想的な自分に関連した目的が存在すると考えられる事になる。

つまり、実体が刺激として、つまり、感覚器官から受容する刺激としての不足や充足のように、
想起する自分の存在に対しての刺激として不足や充足を感じるものが存在するであろうという事になる。

つまり、実体の刺激においては、その目的のきっかけとなる刺激としての原因として、
空腹や満腹、痛みや快楽、などが存在するように、
仮想的な自分の存在に対する刺激として、その目的のきっかけとなる刺激としての原因として、
価値などが定義される事象、お金の豊かさや貧困、権力の高低といったものや、
プライド、優越感、劣等感、賞賛、軽蔑、などが存在するという事になる。

これらは、知能にとって、その事象の高低や多少、有無などによって、不足や充足を認識する事になる。
それは、その相対する存在として、解消や維持のための目的を生じるためのきっかけとなる。

つまり、現実的であっても、仮想的であっても、
その事象に対して不足や充足が存在する場合、それによって不満や満足といった状態変化が生じ、
その認識によって知能は目的として何か相当する行為となる刺激を作り出す、持つ、認識する事になる。

何の気なしに行う行動も、何か不足と充足に関する刺激と目的が存在する事になる。

例えば、ふと見えた埃(ほこり)を拾って捨てる。
そこには、現実的に見えた埃に対して、いらないもの、そこに存在すると嫌な物という認識が起こり、
それを拾って捨てる事に充足となる目的とその行動が生じたという事になる。
そして、その目的を行動を認識して、行動が実施され、埃は拾って捨てられたという事になり、
自分は充足、満足するという事になる。

大した不足や不満、充足や満足ではないのだが、
目的の発生と、その目的達成のための行動を思考して(想起して)認識して実施するのは、
知能による活動そのものという事になる。

少し背中がこわばってきた感じがしたので、疲れて椅子にもたれかかる。
それが解消されて再び起き上がり、キーボードに手をのせる。

今私が行った事だが、それぞれ不足や不満、充足や満足が随所にちりばめられている。
しかし、基本的に知能が行わせている事は、不足や不満に対する充足や満足するための目的と行動である。

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今回、目的のきっかけと原因が、現実的と仮想的の両方の状態変化に対して生じうるという事が分かったので、
一応今回の目的は達したとして少しだけ満足するべきだろうか。

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目的のきっかけと原因としては、
不足に対しても不満に対しても生じる事は考えられる。
ただ、充足や満足が目的のきっかけや原因になるかについてはどうなるか?

充足や満足している状態の認識に対して、目的などは生じ得るか?

充足を維持したいという考えは生じるが、
この認識は何に相当するか?

自分の認識後の仮想的な欲求に相当する事になるため、
欲求の未達成状態であれば、仮想的な不満ということになるだろうか。

つまり、

仮想的な欲求→仮想的な不満

という事になる。

であれば、知能は仮想的な不満を解消して、仮想的な満足を得る為に、
目的と行動を想起して本体に認識させ、実施させる事になる。

つまり、充足や満足については、その状態自体の認識としては完結しているが、
それ自体、つまり、充足や満足自体の変化によって状態変化を刺激として認識する場合、
上記の例では、充足を維持したいという状態変化を刺激として認識する事が、
それ自体が目的のきっかけにも成りうるという事になる。

これは、不足・充足・不満・満足、どの状態においても言える事で、
さらに現実的・仮想的のどちらでも起こりうることになる。

つまり、各状態が目的の対象となること、
という条件が付くことになるが、
つまり、それぞれの状態が、何らかのきっかけとなる刺激の認識によって、
別の状態に遷移する、つまり遷移されて認識対象となるという事になる。

つまり、上記の例では、充足を認識している状態で、維持したいという刺激が加わった場合に、
不足の認識に変わったという事になる。

認識それ自体が刺激を知ることが目的であり、
本体にとっての必要情報を得る事の手段でもある。
自身にとって何かが不足であるということは、充足の為の行動を必要とすることになる。

刺激の認識それ自体が、反応としての状態の遷移を起こしているという事か?

不足しているのは充足するための刺激の認識だけであり、
別に実体が存在する事とは無関係である。

例えば空腹であっても、満腹中枢のみ刺激できれば、
満腹と充足と満足を認識する事になる。

現実的には、実際に食物や食事が対象や目的や行動として実在する事になるが、
刺激と認識だけにおいては、その刺激だけがあれば再現可能という事になる。

つまり、知能において何らかの刺激を作り出しているから、
つまり、想起しているために、それが生じうるという事か?

まあ結局、実体の生じる刺激か、想起による刺激によって、
全て知能は受動的に活動するという事になるが、
仮想的に目的は、想起による刺激をきっかけとするものであるとすれば、
さらにそのきっかけは、自分に対する状態変化の刺激に対する認識ということになるため、
つまり、自分の存在の状態の良化、つまり欲求や我欲、自我、
つまり、「自分に都合の良い何かを得るため」、という、
その定義の存在が、そのきっかけとなっているという事になる。

つまり、仮想的な目的のきっかけは、
「自分に都合の良い何かを得るため」
これが目的の根底にあるという事になる。

そして、現実的な目的のきっかけは、
実際の周囲か、自身の状態の変化によって刺激が生じ、
その刺激を認識した「自分に都合の良い何かを得るため」
という事が目的の根底に存在する事になる。
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つまり、現実的においても仮想的においても、
目的は、ある刺激の存在によって自分が認識した状態が現れ、
その状態を自分が認識した事によって、
自分にとって都合の良い何かを得ようとする反応が知能によって作られる。
この反応が、自分にとって「目的」となるものであり、
自分はその目的に対して活動や行動を起こすことになる。

今日はこの辺で。


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