2024/4/25-2024/4/26

意識の二面性

刺激が周囲の環境の変化をきっかけとして得る場合と、
想起をきっかけにして生じる場合の2種類がある場合、
それらの刺激の認識も2種類が存在する事になる。

つまり、身体の感覚器官を発端とする場合と、
脳内の想起を発端とする場合の刺激に対する認識である。

であれば、認識が2種類存在するなら、
その意識にも2種類が存在する事が考えられるようになる。

つまり、

感覚からの刺激→意識→刺激の認識→周囲の意識
想起からの刺激→意識→刺激の認識→自分の意識

感覚による刺激は、周囲の環境か、自身の体の変化について知る事になり、
想起からの刺激は、自身が持つ経験した事のある記憶について知る事になる。

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意識があらゆる対象に対して一様でない事を、
自分で実際に確認できる方法としては、
何か頭の中で考え事をする時、
例えば「これから何をしようか」と頭の中で言って考えてみた時、
意識されているのは、自我であり、
目の前にある何かの物の組成の成分を考えたみた時、
意識されているのは、その目の前にある何かの物である。

この場合、想起された自分を意識している時は、
目の前にある物は意識されず、
目の前にある何かの物を意識している時は、
自分について意識することは無い。

つまり、意識は対象毎に意識されるものであり、
全体を平均的に意識できるようなものではないという事は分かる。
そして、少なくとも、自分と周囲の物は同時に意識できない。

同時に意識できないという事は、
同時に認識されないという事で、
それは、
対象が異なれば、刺激としての情報の要素に関連が無いという事になる。

もし、意識する対象が、目の前で、
キー入力している自分の両手であっても、
その両手を意識している時に、
「これから何をしようか」と同時に考えて自我を意識する事は出来ない。
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想起による刺激の場合、
実際には環境に存在しない刺激であるため、
その刺激を認識する場合、
想起によって刺激と、その刺激を感じるべき自分が再構成されて認識される。
この場合、意識される認識は、
想起内に存在する刺激と自分であり、
この意識された対象となる自分の感覚は、
自我意識を対象とする事になる。

つまり、自分が、意識的に、想起して、認識している、刺激であると、
感じていることになる。

この刺激は、実際には存在しないものであり、
知能が作り出している刺激に過ぎない。

自らの意識的な想起によるものなのだが、
自分自身の実体には関係しない。

つまり、自らの意識的な構成物・創作物としての刺激なのだが、
その対象は、自分の実体とは関係がない。
それは、自分自身を想起しようとした場合についても同じである。

つまり、想起した対象の自我は、自分の実体とは直接関係がない。

この場合に再構成される自分は、自分が持つ、自分自身についての記憶から構成されることになるため、
認識や意識の対象になる自分の姿は、自身が自分について持つ定義、
つまり、自我を持つ自分として構成されることになる。
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一方で、
感覚から受容された刺激を認識する場合、
感覚で周囲の環境から実際に変化のあった情報に対して、
刺激として受容するため、
その刺激を認識する場合、
感覚器官で受容したという刺激と、
その刺激を感じた自分の体の部位(感覚器官に存在するものとして)が再構成されて認識される。
この場合、意識される認識は、
上記の想起を起点とした刺激と同様に、
想起内に存在する刺激と自分なのであるが、
この意識される対象となる自分の感覚は、
実体の感覚器官が配置された部位となる。

つまり、自分の、感覚器官が、受容して、認識している、刺激であると、
感じていることになる。

この刺激は、実際に感覚器官が受容した事象の変化によるものだが、
刺激自体は、脳内の想起によって再構成される。

刺激の認識自体は、どのような刺激であっても、
再構成において、刺激と自分が必要となり、
どちらも再構成されるのだが、
刺激が存在するとして再構成される場所の定義が異なる事になる。

この場合、対象の刺激自体は、意識されているのだが、
想起による自我意識とは関係しない。

この場合に再構成される自分は、自分の実体の体が持つ、
感覚器官が配置された自分の実体として刺激と共に構成されることになる。
つまり、自分自身の実体について構成されることになる。
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つまり、
感覚器官が受容した刺激の場合は、
実際の身体の感覚器官が存在する位置に刺激が存在するものとして再構成されて認識され、
想起を起点とした刺激の場合は、
自分自身の身体の特定の部位に刺激を受けたものとして想起した場合も、
そこで再構成される刺激と刺激を受けた自分の存在は、
実際に存在しない自分が刺激を認識したものとして観測される。

つまり、仮に自分の体が経験した刺激を思い出すという想起において、
その想起で再構成される刺激は、確かに自分自身が経験した刺激であり、
再構成された場合も、自分自身の体の特定位置の刺激として再構成され、
認識されるのだが、この場合の自分の体の再構成された自身の存在は、
あくまで仮想的な自分の存在であり、
自らが客観的に観測しているように感じる自分である。

つまり、刺激の存在は、再構成され実際に感じる事が出来るのだが、
想起された自分を認識しようとした場合、
実体ではない、想起された仮想的な自分を認識していることになる。

感覚器官からの受容→刺激→実体+刺激→認識
想起による刺激→仮想体+刺激→認識

つまり、刺激自体は、どちらも実際に存在する刺激として認識されるが、
刺激の存在場所としての自分が異なる事になる。

つまり、刺激は共通するが、自分の対象が異なる事になる。

意識している自分という存在は、
意識しようとして想起している自分という事になる。

つまり、自ら意識しようとする対象は、
全て想起によって再構成される対象という事になる。

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では、
感覚器官から受容された刺激は意識されないのか?
と疑問が生じる。

全てが想起による刺激の認識であれば、
感覚器官から受容された実際に存在する刺激は認識されないのか?
認識されないのであれば、意識もされないという事になる。

これまでの考え方では、感覚器官から受容した刺激は、
想起によって知能内で、仮想的な刺激と自分の実体が再構成され、
実体の感覚器官が存在する位置に刺激を受容したものとして認識される。
それは、あくまで仮想的な想起によるものなのだが、
実体の感覚器官が存在する事で、
その想起において、より現実的な刺激であると認識される。

そして、意識は、認識の連続の上に成り立つ状態であり、
この場合の認識による刺激の意識は、
実体が、刺激を受容しているものとして、認識されていると意識される。

しかし、認識対象自体は、全て想起による刺激と自分の再構成体であるため、
感覚器官から受容された実際の刺激であっても、
想起から再構成された刺激であっても、
刺激は想起によるものとして扱われる。
この場合、
自分の再構成体は、想起の場合は、仮想的な自分の実体そのものでよいのだが、
実体の感覚器官が受容した場合は、自分の再構成体は、
対象自体は自分の実体なのであるが、
再構成場所が、「刺激の再構成の場」つまり、
仮想的な想起の場に、実体として感じられる対象の刺激が再構成されることになる。

つまり、実体が刺激を直接、感覚器官から受容しても、
その刺激を受容して認識する事になる自分の存在は、仮想的な実体の自分という事になる。

つまり、感覚器官から受容された刺激は、
仮想的な実体の自分の感覚器官が存在する位置に受容された刺激として認識した事を意識するという事になる。

つまり、意識としては、実体の感覚器官の存在位置で刺激を認識した事になるのだが、
実際にその刺激と自分が存在しているのは、刺激の再構成の場であるという事になる。

どちらも仮想的な自分であるのなら、
その自分の認識対象は、常に仮想的な自分という事になる。
しかし、実際は、感覚器官から受容された刺激の場合、
その刺激を認識しているのは、自分の実体であると感じる。

その理解は少しおかしなことになるのではないか?
という事になる。

実際は、感覚器官から受容された刺激を認識している自分は、
実際に存在する体にその刺激があるように感じ、
想起による刺激を認識している自分は、
自分の体ではあるが、仮想体としての体にその刺激があるように感じる。
しかし、その刺激も自分もどちらも再構成の場に構成されたものである。

つまり、今自分が見ている世界は、
おそらく実体として存在しているのだが、
認識している対象が存在するのは脳内の刺激の再構成の場である。
という事になる。

これは、世界が仮想世界であるとか、
そういう意味や考えではない。
むしろ、仮想的に考えるべきは、自分の想起された刺激の方である、という事になる。

遺伝的に存在する先天的定義は、
より実態の世界に即した定義や規則である。
つまり、実際に存在する遺伝子の定義や規則において、
先天的定義が定義されており、
どのような仮想的な想起を行ったとしても、
この定義を変える事は実質不可能である。
(エピジェネティクの例外を除いてであるが)

つまり、例えば、赤いリンゴを見て、
赤色の定義を異なった色として見る事はできない。
感覚器官によって定義された色にしか見えないというわけである。

つまり、先天的定義は、
想起における再構成された刺激の要素としては、
限りなく現実的という事になる。
つまり、既に確定している定義である。

しかし、後天的定義による刺激の構成要素は、
全てではないが、一部が仮想的、一部が現実的という定義で構成される。

つまり、感覚器官から受容された刺激は、
その刺激の再構成において、先天的定義の情報の要素を直接関連して含むことになる。
全てが先天的定義で定義されるわけではなく、
分類としては後天的定義になるのだが、

(これは、どのような刺激であっても、生体が認識する刺激は後天的定義である事になる制限がある。)

その刺激に含まれる情報の要素の定義に先天的定義が含まれることで、
よりその刺激は現実的に存在する刺激として認識されることになる。
つまり、実際に感覚器官が受容した刺激は、
その感覚器官の存在自体が、自分の再構成において、先天的定義として、
その自身の身体の一部として存在する部位としての定義を持つという事になり、
その自分自身の刺激の再構成において、より現実的な存在として再構成され、認識されることになり、
意識されることになる。

つまり、現実的に存在するか、仮想的に存在するかの程度として、
その先天的定義の定義としての現実性と、後天的定義の定義の仮想性が、
認識や意識において、感じられるという事になる。

つまり、感覚器官から受容された刺激は、構成においては仮想的なものであるが、
より現実的に存在する刺激として認識、意識される、
想起による刺激も、その構成は仮想的なものであるが、
その再構成時に用いられる定義によっては、現実的にも仮想的にも認識、意識されるという事になる。

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つまり、例えば、
ラバーハンド錯覚において、
ラバーハンドを自分の手であると錯覚するのは、
視覚で捉えているラバーハンドが自分の手であると構成し、
その特定の位置に刺激が与えられたと再構成したからという事になるが、

この時、
ラバーハンドを自分の手であると認識するのは、
このラバーハンドが、自分の手であるという定義が存在するから、
このような認識が行われることになる。

つまり、もし見えているラバーハンドが、
別の何か、単なる箱であったりしたら、
それを自分の手であると錯覚することは起こりづらいはずである。

また、実体の手に筆が触れるのと異なり、
ラバーハンドには氷を接触させたなら、
この錯覚自体も起こりにくいと考えられる。

この錯覚が起こるには、自分の実体の手に与えられた刺激と、
見えているラバーハンドに与えられた刺激が同様のものであり、
実体の体と、見えている物体の自分にとっての実体に近い形である必要があり、
その為に、視覚で捉えているラバーハンドに与えられた変化と、
実体の手に与えられた刺激を共通の変化として知能が扱い、
実体の手とラバーハンドを錯覚するという事になる。

そして、恐らくだが、
この錯覚が生じている際に、
想起によって錯覚された刺激を自分の手で経験した刺激として思い出した場合、
このラバーハンドの特定の位置に、その刺激があったとして想起される事になり、
そして、同時に、見えない自分の手に刺激があったと感じられる事になるはずである。

つまり、
ラバーハンド錯体においては、
その視覚的な対象としての自分の手の構成部分が実際の自分の手の視覚的な定義と置き換わった為に、
そこから再構成された自分の手を錯覚したという事になる。

つまり、
刺激の再構成において、刺激の定義と自分の体の定義が関連すれば、
それは、自分の体に起こった刺激として認識されるという事になる。
(共感なども同じ事になるだろう。)

しかし、
刺激の存在は、あくまで自分についてのものであり、
自分が認識できる刺激である必要がある。
つまり、定義の存在しない刺激については、
そもそも認識できないという事になる。

先天的定義による刺激の定義により、
その刺激がより現実的に感じられるのと同様に、
後天的定義においても、定義さえ存在すれば、
どのようにも認識できるという事にもなる。

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ある対象を意識するという事:

自らが何らかの対象について意識するという場合、
意識の対象は刺激である事は疑いようは無い。

つまり、認識できない対象を知る事ができないのと同様に、
刺激でなければ認識できないわけであるから、
意識するのは刺激である必要がある。

ここで、意識には2つの面が存在するのではないかという事について考えてきたが、
刺激の発生が、周囲の環境におけるある変化か、
知能が持つ想起の機能によって生じる2つしか刺激が存在しえないなら、
当然、認識も意識も、その2つの刺激を元にして機能するしかない事になる。

そして、実際、刺激の発生する可能性が、
感覚器官または、知能の想起だけであるから、
認識も意識もこの2つの面を関連として持つ事象として扱える事になる。

そして、特に意識においては、
自分の体を境界面として、周囲の環境を含む世界か、
知能が蓄えた記憶の世界か、どちらかの対象について意識する事になる。

つまり、周囲の環境を含む世界に存在する対象、
または、知能が蓄えた記憶の世界に存在する対象について意識する事になる。
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そして、特に知能が蓄えた記憶の世界は、どのようなものから出来ているのかと考えると、
「刺激と定義」という事になる。

つまり、遺伝的に継承された刺激とその定義、
そして、自分の身体が持つ感覚器官を経由して得た刺激とその定義、
その「刺激と定義」から構成されているという事になる。

つまり、先天的定義と後天的定義によって意味付けされる刺激という事である。

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「意識」それ自体は自分にとっては唯一のものであるが、
意識が向かう対象には少なくとも二面性が存在する事になる。
つまり、周囲を意識する場合と、自分を意識する場合である。

意識が存在している間、
常に意識はどちらかを向いている事になる。

逆に考えれば、
意識がもし2つの対象を同時に見る・意識する事ができるなら、
それは2つの対象の刺激を同時に認識できることになり、
それは、2つの対象の刺激と2つの自分を同時に再構成できることになる。

人間の知能においてもそれは不可能である。

意識は常に1つの対象を見ているから意識として成り立つわけである。

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意識的に何かを行うという事:

喉が渇いてきて、目の前のコップの中にまだ飲み物が残っていないか確認する。

今私が行った事だが、
その行動、活動を全て意識して行ったわけではないが、
この行動自体は、自分で意識的に行った行動である。

タイミング的に、これを書き始めて、
丁度よい例を思い浮かべようとして、
コップを見て、ちょうど少し喉が渇いてきたので、
意識的な行動としてコップの中身を確認して、
意識的な行動の例にしようと考えたわけである。

行動自体のきっかけはここで書くための例となる
意識的な行動を行おうとした、という考え、思い付きである。

目的を作り、実際に行動した、
意識は自我における目的を作る事と、その実行に向かう。
実際に行動する際は、意識は手の動き、運動に意識を向け、
コップの中身を見て確認、コップを元に戻した。
そして、その一連の行動の結果として、
実際の行動を、意識的な行動を行ったという経験として、
最初の目的の例として認識し、意識したという事になる。

この一連の知能活動において、
自分に意識が向かっていたのは、最初と最後の思考部分ということになり、
途中の実際の行動は、自分の身体の動作と、
対象のコップについて意識が向かっていた事になる。

つまり、意識的に何かを行うという事は、
簡単に考えれば、
最初と最後に自分の知能活動に意識を向け、
途中の何かを行うという行動の部分は、実体の活動に意識を向けるという事になる。

・・・・→意識→・・・・(意識は常にある)
・→自分→周囲→自分→・(意識の対象は不定だが、この繰り返し)

基本的に人間の活動は、
その繰り返しであると考えられるが、
その辺りについては、また機会を改めて考えてみようと思う。

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今回はこの辺で。

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