2024/4/19-2024/4/20

認識と意識の構成

認識と意識は、
これまで何度も考えてきた内容だが、
今までの考察を統合して、
改めて認識と意識の構成について考えてみようと思う。

今回は、
特に認識と意識の発生場所に注目して、
その構成について考えてみた。
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意識するという事は、
自分が感じる刺激について、
その刺激に対する自分の感じ方というものが、
自分が主体的にその刺激を感じているものとして知る事、
という事になる。

つまり、意識自体は、
何らかの対象の持つ刺激を、
主体的に認識している状態という事になる。

そして、
この主体的に認識している状態という感覚は、
今、この瞬間、刺激を持つ、ある対象が存在し、
それを認識している自分が存在していると、
自分自身で知る事、
という事になる。

つまり、
ある対象の刺激を認識する場合の、
刺激と自分の存在を認識する事で、
何かの対象を意識している自分を感じる事、
という事になる。

そこで、今回の新たな考え方は、
これまでの考え方としての、
意識は認識の連続性の中に生じる、ある状態の事である、
という点に、
意識の発生個所に二面性の考え方を加えてみる事にした。

これまで、
刺激の認識においての二面性としては、
個体の刺激の認識において、
刺激の受容と想起として、
環境から刺激を受けるという側と、
脳内から刺激を再構成するという側において、
その接する境界面に、自分の体が存在すると考えてきたが、
その接する面をより詳細にして考えた場合、
どこにその境界面があるのかについて考えた事になる。

環境→刺激←想起

刺激が刺激となりうるのは、
環境の変化情報が、個体の感覚器官に接したとき、
その刺激の最初の情報の要素が誕生する事になる。

この刺激としての情報の要素は、
神経を経由して脳に送られ、刺激の再構成によって、
認識可能な刺激としての形が作られる。

そして、この刺激は、定義によって意味付けされ、
刺激として認識されることになるのだが、
この刺激の定義による意味付けと、認識の間で、
何かに接する面は存在しないかと考えてみた。

つまり、今までは、
刺激と想起による刺激の再構成の間に接するのが、
個体の実体であると考えてきたのだが、
より詳細に考えた場合、
この外部の刺激と、内部の刺激の接する面は、
個体の実体のどこの場所に位置するのか?と考えた事になる。

これまでは、刺激としての情報の再構成において、
その意味付けと認識がされる場所として、
刺激の再構成の場として、
脳内のどこかか、そこに近い所であると考えてきた。
刺激として構成される情報の要素の実体としては確かにその通り、
脳内の刺激の再構成の場に存在するのだが、
認識や意識においては、その刺激の存在が感じられる場所が、脳内であるのかと考えると、
少し異なるような気がした。

つまり、刺激自体は脳内で再構成され、確かに脳内に存在するが、
認識や意識される刺激は、その再構成後において、
身体のどこかに情報が偏在していると感じられるようになる、
という事である。

つまり、刺激の意味付けとして、
刺激と自分の境界の存在を加味して考えた時、
認識される刺激というのは、
自分の個体のどこかと接して存在する事になるのではないかと考えたわけである。

では、それはどこなのかというと、
感覚器官の表面が思い当たった。

つまり、
脳内で認識している刺激の位置は、
感覚器官の存在する場所という事になる。

刺激の情報塊、つまり、情報の要素とその関連は、
確かに脳内に存在する。
もちろん、認識や意識も、脳内で行われる。

しかし、認識している刺激自体は、
どこに存在する情報として再構成しているのかというと、
感覚器官の存在する位置という事として考えられた。

つまり、
刺激としての情報そのものが、感覚器官にあるという事ではないのだが、
刺激を感じられた場所に刺激が存在するように感じる事が認識になるのではないかというわけである。

内容的には、これまで考えてきた内容の補強と補足という事になるが、

環境

変化

感覚器官

情報の要素と関連

再構成→自分↓

刺激

認識←自分←

意識

なのだが、
認識や意識する刺激の情報塊は脳内であるが、
刺激の情報塊の情報の要素として、
その刺激がどこに有るものかという定義は、
感覚器官の位置という事になる。

これは、刺激を認識する為には、
刺激の再構成と合わせて、
自分の再構成も必要であるという事を、これまで考えてきたが、
その刺激と自分の接する面が、
感覚器官の位置にあるという事を今回考え出したという事になる。

つまり、
刺激の存在を再構成するに当たって、
その認識の為に自分が必要であるというのは、
その刺激の受容において存在する位置情報そのものが、
自分自身の実体に所属する位置情報であり、
自分自身の個体を構成する部位、部分である情報にもなっているという事になる。

つまり、
刺激を受容した場所は、そのまま自分の個体が、
実体として存在する為の情報の要素になっているというわけである。

例えば、
触覚において、右手の人差し指の先が触れた何かの刺激は、
刺激としての感触と共に、自分の右手の人差し指の先が存在して、
自分の個体の部位として再構成されているという事になるというわけである。

別の例で言えば、
視覚において見える画像は、
網膜の感覚器官に映った光の刺激の情報であるが、
その画像が存在するのは、自分の目が存在して、
そこに光で画像が映り込む目の存在が再構成されているという事になる。

つまり、刺激の認識において、
刺激と自分が接するのは、感覚器官の位置であり、
その面の存在によって、
刺激と、刺激を受ける自分の存在を隔てて構成する為の情報となり、
知能が情報を自ら認識する、という事において、
その自らの存在を刺激と関連付ける事が、
「認識」である、という事になる。

つまり、脳内、知能内において、
刺激の存在と、その刺激を受けた自分の存在が再構成される際に、
刺激と自分を接している・関連しているが、
別の物として定義できる事が「認識」という事になる。

つまり、刺激の存在を認識している位置に、
自分が存在していると「認識」する事になる。

逆に言えば、
認識は、刺激と、その刺激が位置する自分の体の刺激を再構成する事。
という事になる。

別の考え方で言えば、
刺激によって、自分の体のある位置が励起され想起される事。
という事になる。

体表面に存在する無数の感覚器官は、
そのまま、自分の体の体表面を構成する境界であり、
皮膚の存在によって点は面として認識されることになる。

認識において、自分の体・個体が必要になるというのは、
これらの事が理由であるという事になる。

つまり、刺激の再構成において、
刺激が再構成されるのと同時に、
自分が刺激を受けた箇所が自分自身の存在の刺激として再構成され、
その箇所が、感覚器官の位置になり、
実体の感覚器官の位置に刺激が存在するという「刺激」を
脳内で再構成する事になるというわけである。

つまり、脳内で再構成される刺激は、
実体の感覚器官に再構成されるわけではなく、
脳内で再構成された自分の身体の感覚器官の位置に刺激を受けたものとして、
再構成されるという事になる。

つまり、実体に刺激を受けて、認識するには、
刺激と実体の刺激ごと再構成する必要があるというわけである。

当然、人工知能が認識できるようになるには、
感覚器官を持つ自身の体が必要であるというのは、こういう事から言える事になる。
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この場合、
この考えの時点で未解決なのは、実体の定義の部分という事になる。

自分の体を再構成するのは、どのような定義によるものか、
というわけである。

人間の生命の誕生と成長の順から考えてみると、
刺激などの感覚器官は、先天的定義として遺伝的に継承され、
生命の成長に合わせてあらかじめ用意される。

つまり、先天的定義は、遺伝的に生命にあらかじめ備わっているという事になる。

この場合、自分の体についての定義はどうかと考えると、
感覚器官の配置において、身体の存在との関係について考えれば、
感覚器官の配置は、遺伝的に身体の各所に決まって配置されている事になるため、
身体の構成における定義は、先天的定義として定義されていると考えられる。

右手の人差し指の先の触覚は、生まれ持って右手の人差し指の先に存在するはずという事である。

つまり、先天的定義として、感覚器官や自分の体の位置というものは定義済みであると考えられる。

つまり、刺激を認識できる用意は誕生前の成長過程において準備されているという事になる。
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さて、では次に「意識」になるが、
知能の認識において、刺激の存在と自分の存在を再構成できるようになり、
知能は、刺激の存在と、自分の存在を知ることが出来るようになる。

ここから、その存在を「意識」できるようになれば良いという事になる。

これまでは、認識から意識へ到達させるためには、
連続的な認識の存在が必要になると考えてきた。

つまり、意識自体は、連続的な認識の状態として生じるものであるという事なのだが、
連続的な認識を必要とするには、連続的な目的や欲求としての、
生命が連続して刺激を認識するための、その必要性が不可欠になる。

つまり、特に目的がなければ、
ぼんやり認識していてもいいのであるが、
意識であるためには、その連続する認識の必要性である目的や欲求の存在が不可欠だという事である。
つまり、目的や欲求によって、自発的に連続した認識を行う事が意識になるという事である。

意識、それ自体は、目的や欲求が存在しなくても、
連続した認識の上に成り立つ。
つまり、ぼんやりしていても意識は存在し、意識を失うという事は無い。
これは、脳の活動として、知能の活動として、
生命活動において連続した認識が有用・必要であるからという定義を得たからという事になる。

まあ定義というよりは、機能の方が意味が近いかもしれないが、
つまり、基本的に知能ある生命が活動する間、
その目的や欲求に対しての活動時間の間は、刺激を常に受容して認識するべし、
という機能を知的生命が得たからという事になる。

それ自体は、急な変化や危機に対して常に警戒できるなどの利点があるため、
当然な結果である。

ただ、この時点では意識と目的や欲求が必ずしも関連している必要は無いという事になる。
意識的な何かを行うという事については目的や欲求が必要であるが、
意識そのものを維持するのは、連続した認識だけあれば良いという事になる。

そして、今回の注目点の1つ、
意識の発生であるが、今回のこの意識には、
連続的な認識における受動的な意識と、
意識的に機能する自発的な意識という2つの側面がある事に気付いた。

つまり、
受動的な意識は、連続する認識に従う形で、
自動的に生じるものであるが、
自発的な活動を決めるような、自我意識のようなものは、
単に連続する認識によって、自動的に生じるものではない。

自我意識のようなものは、自らが何かを選択するような認識によって、
感じられる。

自我のようなものは、基本的には欲求などの身体の状態変化によって生じる刺激が元になっている。
最近、神経伝達物質やホルモンについて少し調べているが、
こういった要素によって生じる状態変化の刺激は、
基本的に先天的定義で定義される刺激の意味付けが元になっている。
例えば、緊張したり、恐怖を感じたり、幸せを感じたり、
このような定義は、遺伝的に定義されている先天的定義の定義である。

実際に、このような定義の刺激を知能が認識した場合、
その刺激によって関連して励起され、想起される刺激は、
個体の経験にもよるが、ある程度限られる事になる。

つまり、本能の反応として現れるような状態変化に対する刺激に対しては、
個体の経験として、ある刺激に関連して想起される刺激は限られるという事である。

つまり、身体にとっては自発的であり、
知能にとっては受動的な刺激の認識はある程度限定される。

要するに、本能にあるような先天的定義の意味付けを持つ刺激に対しては、
反応するための、個体の経験における対応が優先されるわけではなく、
個体固有ではあるのだが、より本能に近い反応が優先されるという事になる。

例えば、緊張を認識してどのような反応をするのかというのは、
個体固有の反応ではあるので個体ごとに様々ではあるが、
緊張すれば顔が赤くなったり、汗をかいたり、照れ笑いをしたり、
そういった反応は決まって限られている。

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ここで、自発的な自我意識のような意識が、
どのような理由が元で発生するのかについて考えると、
自らが何かを成したいと思う事は、目的や欲求が元になっているという事になる。

つまり、知能が何かをしたいから意識が働くのではなく、
個体が何かをしたいから、知能を働かせて、
その結果を刺激として認識し、意識する事になるというわけである。

つまり、自発的な意識も、認識の結果の上にある、という事になる。

つまり、意識の発生の二面性で考えると、
環境の刺激を受容して認識する意識と、
身体内から発生する刺激を受容して認識する意識が存在する事になる。

環境→刺激←想起

刺激→認識→意識

つまり、

環境→刺激→認識←刺激←想起

環境→刺激→認識→意識←認識←刺激←想起

という事である。

境界面は、認識の連続性であるから、
認識における刺激と自分のように、
意識にも2つの面が存在するということになるだろう。

何かを意識する時、
それは、何かを集中して認識する事になる。

であれば、自身の実体の外側の環境にある対象を集中して認識する事と、
自身の内側にある対象を集中して認識する事は、
同じ意識の機能ではあるが、その対象となる面が異なる事になる。

実際、それは、刺激の認識の工程において、
環境に存在する変化を刺激として受容して認識する事と、
想起によって再構成する刺激を認識する事の違いに、
その発生源の違いが生じる事になる。

つまり、
自分でない何らかの対象を意識する事と、
自分以外の何かでない自分自身を意識する事には、
同じ意識でも異なる面があるという事になる。

結果的にそれは、「意識」が
刺激の認識の連続性の上に成り立つという事には違いないのだが、
その意識を構成する要素として、その構成の前に認識する刺激が持つ要素として、
自分以外の何かであるか、何か以外の自分であるか、
その意識に含まれる要素には違いがあるという事になる。

つまり、
認識する先の刺激の対象の違いによって、
客観的な意識と、主観的な意識が構成できるという事になる。

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意識それ自体は、
刺激の認識の連続性の上に成り立つ、ある状態である、
という事は今回は考え方に変化はない。
ただ、今回は、刺激の対象によって、定義の異なる意識が存在するという事を考え出した。

それは、つまり、認識においても定義の異なる認識が行われるということであり、
これは、刺激の構成において、環境から変化を受容して刺激を再構成する場合と、
個体の想起によって刺激を再構成する場合の違いによって、
この定義の違いが生じるという事になる。

この場合、疑問が生じるのは、
これまでの考え方では、
認識される刺激は全て想起によるものなのではなかったか?
つまり、どのような刺激も、脳内で再構成されるわけだから、
刺激は全て身体内から発生するのではないか?
という事が思いつく。

つまり、
これまで、刺激は感覚器官からの変化の受容であっても、
想起を起点とした想起であっても、
刺激が再構成されるのは、全て想起による再構成であると考えて来た。

それは、刺激の再構成に用いられる情報の要素は、
脳内にある定義の記憶を励起して用いるものであると考えられるからである。

であれば、感覚器官による刺激の受容によって再構成される刺激も想起によるものならば、
この刺激の認識は、どちらも身体内から再構成された刺激になるのではないか?という事になる。

今回の考えで、この疑問の考え方が修正できるのは、
刺激に含まれる情報の要素において、
その情報の要素の発生場所の関連する要素が異なるという事である。
つまり、刺激の再構成、それ自体は、機能として常に脳内、身体内で行われるものであるのだが、
この刺激において、その認識の際の境界面における自分の存在は何処になるかというと、
想起を起点とした場合は、完全に想起による、つまり、自分自身の定義を記憶から思い出す形で再構成することになるが、
感覚器官から受容された刺激の場合は、認識の際の境界面における自分の存在は、
上記に書いた、実体の感覚器官の場所になる。

この場合、感覚器官から受容した刺激は、
その再構成する場所は、再構成される自分の実体の感覚器官の位置に所属する事になる。
そして、
想起を起点とした場合は、実体ではなく、想起された自分の存在に位置する事になる。
つまり、
実際に実体が受けた刺激の場合は、実体が受けた刺激として再構成されるが、
想起を起点とした自分の場合、その自分は想起された自分であると最初から認識されることが予定されている。
つまり、自分自身の認識において、その自分自身が想起されたものであると定義されているという事になる。
少し説明が難しいが、
つまり、想起を起点とした場合の再構成される自分は、実体の自分として再構成されず、
想起された自分であるという定義になっているというわけである。
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今回の内容から外れるが、
その考え方からすれば、
自分が思う自分、自我というものは、
この想起を起点とした自分の再構成した姿という事になる。
であれば、当然自我意識は、
この想起を起点とした自分の再構成した姿を認識した意識という事になる。
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人工知能に対して認識と意識を実装するのであれば、
人間と同様に意識する対象を切り替えられるようにした方が良いという事になる。
これは認識についても言えるが、
運動などである動作が連続して継続されるのは、

336:選択の先導と誘導

で考えた運動の維持において、
刺激が単一で存在しているわけではないという事も関係している。
つまり、個体の活動の中で意識は常にその対象を切り替えながら存在しているという事。
そして、実際の行動においては、
認識や意識に、複数の刺激や認識を対象とする準備をしておく必要がある。
つまり、都度、その対象を切り替えるのでなく、
刺激や認識を複数並行して保有することが出来て、
その中の最も強い刺激、最も強い認識に対して、認識と意識が出来るようにする必要があるという事になる。
OSのようなタスクとプライオリティの機能になるだろう。
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今回の内容を簡単にまとめると、

まず、認識の境界面が感覚器官の位置に存在する事。
認識対象の刺激の違いによって、
認識する対象が異なり、
認識の対象が異なれば、
意識にも違いが生じるという事。

結果、刺激の発生対象によって、
認識も意識も、2つの構成を持つ事が考えられる。
という事になる。
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今回はこの辺で。

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