2024/4/11-2024/4/14
意識の定義とその発生に必要なもの
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一言で言えば、
自分を全て把握する事である。
つまり、自分の内外から生じる刺激の把握によって自分の概形が作られ、
その刺激を知能が何とかしようとする事、その事を実行する自分を把握する事である。
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意識とは、
刺激の再構成時において刺激と同時に再構成される自分の存在について、
その自分に対応する個体の欲求に対して、
その欲求を自分が欲する事象の目的とし、
その目的を解決する事を主体として活動する機能が知能であり、
意識は、その知能の働きにおいて、
変化を刺激として個体が受容した時に、
刺激とセットで再構成される自分が、
時間経過において、連続的に存在する時に現れる、
刺激と自分の間に存在するものである。
359では感覚を筒状に配置し、
外部の刺激と内部の自分の連続性として書いている。
つまり、
刺激の再構成時に作られる自分が、
何かを欲するという事に対して、
その欲した目的に対して知能などが活動する事で、
その活動自体を観測する存在の意識の概念が誕生する。
つまり、刺激と自分の変化をどちらも観測可能な位置に意識が存在する事になる。
つまり、まず意識という存在があって、
それを自分が観測しているわけではなく、
自分が欲する目的を解決する機能そのものが観測者に該当し、
その存在が継続している際に、意識が生じるという事になる。
機能は機能そのものを観測できないが、
機能が働いた結果に対しては観測可能になる。
つまり、人間が自分の意識の存在を観測できないのは、
観測しようとしている存在自体が意識を構成しようとしているから、
という事になる。
つまり、意識を構成しようとしている存在が、
その構成を見ようとするからおかしな事になるのである。
だから、以前、意識を見ようとする存在があるなら、
その存在を見ようとする存在を用意しなくてはならず、
延々と観測者の観測者を探す事になっていた。
そうでなくて、
刺激の再構成時の自分の存在は、
それ自体では単なる事象の存在に過ぎないが、
その自分自身が、本能や目的等の欲求を持つ事によって、
その自分自身に対してどうにかする、という、
この「どうにかする」機能が知能であり、
この知能の働きによって、自分自身を目的の為に活動させる、
その働きこそが「意識」という事になる。(※1)
つまり、
意識は、自身が持っているようにみえるが、
自身の内にある客観的な存在であり、
自身が「生きざるを得ない制限」によって生じて持つ、欲求や目的のために、
知能が意識としての自身の活動の方向性を作り出し、
その活動が実践されることによって知性体が完成する事になる。
つまり、
人工知能に意識を持たせるには、
刺激の再構成時に自身の存在を再構成させること、
そして、
知能は、その自身の存在と、その自分が欲している事象に対して、
その再構成した自分と、自分の体を一致させること、
そして、
その体から生じる欲求・目的について、
その目的を達成する事を成功させる方法について評価・選択する事。
つまり、
人工知能に意識を持たせるには、
刺激の認識時に再構成する刺激の存在と、
その刺激が存在する身体の位置を同時に再構成する事によって、
刺激の存在と自身の体を再構成する事になる。
そして、
その再構成時に生じた自分の存在は、
まず、自分であるという定義だけ与える。
しかし、
この時点では人工知能は、再構成された自分は、
他の事象と同じ単なる観測対象の事象に過ぎない。
ここで今回重要になるのが、
身体が、自ら生じさせる欲求である。
人間では簡単な例で言えば空腹感などである。
これまでの人工知能が意識を持てないのは、
身体が存在しない、感覚器官が存在しないという事もあるが、
欲求が存在しないのが、その大きな理由となる。
これまで人工知能を搭載したロボットなどにおいては、
身体が存在するもの、いくつかのセンサーによって感覚のような機能を持つ物もあるが、
人工知能自体のプログラムにおいて、
刺激となるデータに対して、自身の個体の再構成は行われていない。
つまり、プログラム自体が自分自身になってしまっているのである。
身体の欲求は、本来、知能においては、
自分自身の個体の存在と、その存在自体が欲する事象であり、
知能は、その自分自身を使って、自分自身を操作し、自分自身の欲求を満たす必要がある。
弱い人工知能は、ある目的に対して自分自身を操作するのであるが、
最初の目的の所在が自分自身に帰結していないのが問題であるという事になる。
つまり、本来、意識を持つ人工知能は、
自分自身の定義を持っていて、
自分自身から生じる欲求を持っていて、
自分自身を操作できる能力を持っていて、
自分自身という存在が何かを欲して、自分自身を操作する必要性があり、
その操作する存在として知能を持つ、
という存在になれば良いという事になる。
そして、その時の知能は、プログラムであるのだが、
自分自身であってはならず、自分自身を操作する客観的な存在でなければならない。
つまり、自分自身を操作する観測者の立場でいなければならないというわけである。
つまり、本来、知能としてのプログラムにとっての自分自身は、
単なる操作対象である。
個体として自分の体を持つが、自分の体から勝手に生じる欲求に対して、
どうにかしなければならない立場に知能はあって、
苦心や工面しながら、自分の欲求に応える立場に知能はあるという事である。
そのため、知能は、自分自身の身体、自分自身の存在、自分から生じる欲求、に対して
観測者たる客観的立場から対象を認識できる事になる。
つまり、客観的な観測者たる知能が、
観測対象内、つまり、身体内に収められている事によって、
客観的な観測者であるはずの知能が、
自分自身の存在を刺激を通して認識し、意識せざるを得ない事になる。
つまり、客観的であり、観測者であるはずの存在、知能が、
制限ある個体の内側に収められている事によって、
自分の身体が欲する何かに対してだけ機能する存在になっていて、
得られる全ての情報が、自分を経由している事により、
自分専用の知能、機能である、「自分」として働いている事になる。
ただ、逆に、
身体の制限が存在するから、それを自分の領域であると定義する事が出来る。
つまり、「自分」の範囲を定義する事が出来る事になる。
弱い人工知能のロボットが自分や自我を定義できないのは、
まず第一に、自分の範囲を定義することができなからである。
カメラやセンサーで自身を映すことが出来るというような情報では自分自身として定義できない、
カメラの存在位置とセンサーの存在位置にしか自分を定義できない事になる。
カメラやセンサーが欲求を持つなら、まだそこに自分を定義することもできるが、
カメラやセンサーが何か欲求を持つだろうか?
カメラやセンサー自体を自分として定義しているだろうか?
少なくとも、この時点では人工知能が存在していても知能として強くすることはできない。
つまり、自身と周囲の環境を隔てるために感覚器官が必要となる。
刺激の認識の二面性でも考えたが、
自分を構成するには、情報の受容時に、その情報を境界面とした環境と自分を隔てる存在が必要となる。
つまり、環境のある情報の変化を刺激として、
その刺激を受容する感覚器官をその境界として自身の身体に持つ事で、
その刺激を受容した身体の存在を、
刺激を境界の外側、接する存在としての内側の自分を、
刺激の認識として同時に再構成出来る事になる。
そして、刺激の認識によって、自分の身体の定義が出来上がることになる。
知能においては身体は客観的存在であるが、
身体は活動の中で自ら欲求を持つ事になる。
身体的な欲求である。
生命は生きざるを得ない制限でも考えた、生きる為に必要な目的があり、
その目的の為に活動する事になるが、
その活動を決めるのは知能である。
つまり、知能にとっては、自分自身という存在が、目的としての欲求を勝手に送って来る。
知能は、それを放っておくことが出来ず、何とかしなくてはならない立場の存在である。
そこで、知能は自分自身の知能を働かせて、自分自身の身体に命令を出し、
その欲求や目的を解決したり達成できるように活動する。
この知能の存在は、弱い人工知能だろうか、強い人工知能だろうか。
つまり、感覚器官によって自分を、欲求によって知能を働かせる動機を与えることになる。
知能に対してである。
そして知能は自らの欲求に対して、自らの身体を活動させる命令を出す。
そして、そこに存在するものとして、
上記の(※1)の「意識」に繋がることになる。
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2024/4/14
意識の定義とその構造に必要な物
つまり、今回気づいた事は、
意識は認識の観測の結果であるという事と、
身体と感覚器官と欲求の存在が必要である事、
明示的な意識という機能は必要でなく、
欲求による目的に対して、
知能と思考によって作られる活動の結果を認識する機能(=感覚器官)があれば、
その中に意識は存在しているという事である。
つまり、簡単に言えば、自発的な活動を行える機能の中に、
意識は発生するという事になる。
ただし、与えられた目的ではなく、
自分の存在の為に発生する欲求に対して知能と思考、
そして自分自身を活動させる機能・能力が必要であるという事。
まあ、そもそも目的を与えられた現在の人工知能と呼ばれるものは、
知能と言うよりも、エキスパートシステムとして考えた方が良いくらいのものである。
本来知能は、生命が何らかの変化に対して何とかしようとして得た機能であり、
自衛的・受動的に働く機能である。
それを知能を持つ個体が、もっとよりよく適応しようとした過程で、欲求・目的を持つ様になったことで、
受動的から主体的に機能させる必要が生じて、
自我・意識を誕生させることになった。
つまり、「自ら何とかしよう」の部分が自我や意識になったという事である。
つまり、知能が受け身だった存在だったのだが、
自ら切り開く能力を必要とした結果に生じたのが自我や意識という事になる。
もともと知能が意図して得た機能ではなかったという事。
この知能の機能の変化のきっかけは自分の再構成になるだろう。
「刺激に対して、最良の反応を作成・選択する。」
知能の基本的な能力である。
そこに「自分にとって」という項目が加わった事で、
自分を観測する存在が生じたという事になる。
それが意識。
自分の個体を取り巻く環境が連続的に変化する事に対して、
刺激をその境界面とすることで、
知能内に刺激を認識する自分の存在が連続的に生じる事になった。
刺激が個体の外部から見た連続する存在であれば、
意識は個体の内部から見た連続する存在になった。
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→時間経過
↓環境
・・・→変化→・・・
・・・→刺激→・・・
・→(境界面)→・・
・・・→認識→・・・
・・・→意識→・・・
↑自分
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自分にとってという意味が加わって、
なぜ意識になるのかというと、
認識の機能自体は、刺激を定義による意味付けして知能がその意味を理解・解釈する機能である。
最初はこれだけであった。
つまり、環境にある事象の変化を実体の自分が刺激として受けて、その情報を知る事。
しかし、自分にとっての欲求が生じた事によって、
その生じた元の存在を追加で認識する事になったというわけである。
つまり、外界の環境の変化を受容して解釈するのが刺激の認識、
それと同様に自身の個体の状態変化によって生じた欲求という変化を受容して解釈するのも刺激の認識。
その認識の中で、刺激の受容部の存在は、知能にとっては、
その存在の境界面であることになる。
つまり、刺激を認識する事は、刺激と感覚器官を有する自分の実体を認識する事になり、
その境界面に存在する、実体の自分を認識する事に繋がり、
そして、
欲求を認識する事は、刺激は実体から生じているのだが、
その内部に存在する自分を認識する事になり、
その境界面に存在する、
再構成した自分を自分として認識するに至るというわけである。
つまり、通常の刺激は感覚器官を通して自分の実体が認識していると分かるのだが、
欲求の出所は、実体であるのだが、その発出場所は脳である。
つまり、自分ではあるのだが直接認識できない。
そこで、知能は欲求の出所を知能が認識している自分、
つまり、再構成した自分であると定義しているという事になる。
これは、他に自分の定義が存在する場所がないので、
ここしかありえない事からそう考えた。
自分の実体と、再構成した自分という事になる。
知能にとっては2つの自分の定義を持つ事になり、
後に、それらが関連していると定義する事になる。
つまり、どちらも自分なのであるが、
外界の刺激を受容して自身の個体を定義する事と、
欲求を受容して再構成した自分を自分として定義する事は、
同じ対象として定義する事になる。
そして、
刺激の存在によって自分の実体が連続的に存在する事は認識され、
それと同時に、
欲求などの存在によって自分の自我や意識が連続的に存在する事が認識される。
そして、自分と自分の意識が存在する事になる。
という事になる。
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今回はこの辺で。
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