2024/4/9-2024/4/13

認識の情報量の制限

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刺激の認識できる情報の要素の制限について:

ある刺激の情報の要素の認識において、
刺激に関連する情報の要素の1つに意識を向けた場合、
つまり、情報の要素の1つを優先して認識する刺激とした場合、
同じ刺激の対象の関連した情報の要素であっても、
同時には認識できないという事。

これは、実際に試してみても分かるのだが、
目の前の特定の物に対して意識を向けると、
確かにその物は認識される。
周囲の画像も含めて認識されるが、
意識的に見ている対象は1つに限られる。

また、その対象の情報の要素の1つ、
例えば色や形、そこに印刷されている文字などに意識を向けると、
同じ関連を持つはずなのに、その対象の情報の要素は、
ある瞬間には1つの情報の要素しか認識・意識できない。

恐らくこれは、例えば視覚において、
全体が画像として見えていたとしても、
ある特定の物を対象として見た場合、
その対象の物しか、認識できない、意識できないという事になると考えられる。

また、その対象の物の情報の要素に関しても、
例え、特定の対象が持つ情報の要素であり、その情報の要素に関連を持っている別の情報の要素であっても、
その対象が持つ情報の要素には、
ある瞬間においては同時に1つの情報の要素しか認識・意識できないのではないか、
という事が考えられる。

つまり、刺激としてまとまりのある情報の要素の関連は、
1つの認識において制限となる上限があるのではないかという事になる。

例えば、自分のコップを見て、
コップを認識している際は、コップ全体の概形を認識できるが、
コップにプリントなどがしてあり、そのプリントの画像に注目すると、
コップの認識が出来ないという事になる。
これは、コップを構成する情報の要素には、
このプリントの画像が含まれているが、
画像の詳細な情報の要素は、コップの構成される情報の要素には含まれていないというか、
認識できないという事になる。

つまり、

コップの情報の要素としての定義として、

コップ→概形→プリント→画像→画像の情報→・・・

において、コップの認識の際には、
→画像までが認識され、
それ以降の画像の情報としての詳細などは認識されておらず、
また、
このコップの画像を認識しようとした際には、
画像以降の画像→画像の情報→・・・以降が認識されるが、
コップの画像に関連する
画像→プリント→概形→コップ、側の関連は、
認識において刺激の構成の対象になっていない、範囲外という事になる。

つまり、ある事象の認識において、
ある事象を構成する情報の要素を刺激として認識する場合、
刺激の主たる情報の要素に関連できる情報の要素には数の制限があり、
刺激の主たる情報の要素を含む、1つの刺激が構成できた場合、
その刺激がすぐに認識され、他の情報の要素に関連する間が与えられないという事になる。
そして、次の瞬間には、また別の事象の刺激が認識される事になるため、
認識のある瞬間に存在する刺激には、そこに含まれる情報量に制限が生じる事になる。

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この場合、
後天的定義などにおいて、情報の要素が多く関連した後天的定義の場合、
つまり、後天的定義を用いて後天的定義を定義するような場合、
一度に認識できる情報量が多いという事になるのではないか?という事が考えられるが、

一度に認識できる定義自体には制限があると考えられるため、
後天的定義で認識されるような事象は、
その後天的定義から関連した対象の定義が漠然としている場合、
つまり、概念や割合などの正確な定義ができない定義である場合、
これらが関連した定義は、漠然としたまま認識される、認識できるという事になる。

つまり、後天的定義のある事象の定義は、定義に定義が関連する形で存在するが、
認識を維持する為に刺激の認識後に用意される刺激を再構成する際に、
その用意に用いる事ができる時間の間に励起できる定義の数には限界があるという事になる。

つまり、例えば、
誰かの人の顔などを識別する能力として、
人の顔を見る場合、顔の各パーツを細かい所まで認識しているわけではなく、
配置や、大きさ、色、概形などの各後天的定義を1つ1つ関連させて認識しているのでもなく、
「ある人の顔」という後天的定義で1つの情報の要素として認識しているのではないかというわけである。
つまり、要素という定義だけを関連させた全体の定義として
「ある人の顔」を定義しているのではないかというわけである。

つまり、識別ができる程度の刺激が再構成された時点で認識に至るというわけである。
つまり、この場合、誰かの人の顔を識別する目的に対して、
知能が思考した結果、識別可能な刺激が再構成できた時点で、
知能は、その刺激を認識する事で識別できた、目的の結果が出たと認識する事になる。

写真などにおいて顔部品の置換によって、一部の顔のパーツを置き換えても、
同じ人だと認識できるという実験などもあるが、
ということは、
例えば、人間の顔の認証は、細かいパーツを個別に正確に認識しているわけではなく、
特徴的なパーツの配置、相対的な位置、パーツの大きさ、
などでしか定義が構成されていないのではないかと考えられる事になる。

つまり、特徴的な顔のパーツと、その他のパーツとの相対的な位置、大きさといった、
定量的というより定性的な定義によって、
人の顔の定義は作られているのではないかという事になる。

そして、それは、顔の識別に関しては、
実際に識別結果が正しいか正しくないかまで思考して結果を出しているわけではなく、
実際に見た人の顔と、その顔によって関連した想起により、
思考によって識別のために再構成された顔の情報の要素の関連が認識され、
特定の人の顔の想起に至った場合、
顔の識別ができたと知能は認識する事になるというわけである。

つまり、後天的定義に限らず、
1つの認識における定義の数には限界があるのではないかという事になる。
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視覚において、ぼんやり全体を見る事は出来る。
画像全体には様々な対象が含まれているが、
全体を見た時は、その刺激は全体の画像である。

その中の1つの対象は全体の画像の中にある画像の一部であり、
個別に認識する事は出来ない。

しかし、この1つの対象を見ようとすると、
全体の画像は存在しているが、
ただの背景の絵のように感じることが出来るだけとなる。
その代わりに、この1つの対象の細かい情報が認識できるようになる。

この刺激を構成する情報の要素の数の制限は、
記憶と関係があるかというと、少し異なる意味を持つと考えられる。
短期記憶におけるマジカルナンバー7のような事ではなく、
人間の知能の生物的な認識能力として、
意識を維持する認識の連続において、
その意識を維持する為の認識の更新の時間的制約として、
この制限が存在するのではないかと考えられる。

少し個体差のある感覚的なものになるが、
集中したり、ゾーンに入ったり、
危機的な状況で時間がゆっくり感じられるというような状況において、
何かの刺激を認識できる能力が向上したりという事はないはずで、
であれば、認識する情報の要素の関連する幅を制限すれば、
情報の量としては少ないが、細かい緻密な詳細な刺激が認識に至る事になる。
つまり、刺激を細かく区切れば区切るほど、
一定時間に認識できる刺激の数が増えるという事になる。

平常状態においては、五感を含む様々な刺激が入力されていて、
そこから刺激を認識する事になるが、
集中時に、特定の刺激の入力、受容を制限すれば、
他の刺激の情報の要素が関連する可能性は、相対的に増加する事になる。

製作における熟練工が、その指先でマイクロオーダーの違いを認識できるなどの感覚の制限や、
集中して思考している間、音の刺激が気にならなくなったりとかの刺激の制限によって、
主たる目的の刺激の認識する刺激の数を増やすことができるようになるのではないかというわけである。

時間の制限によって、
刺激を再構成する為の情報の要素の関連の励起自体の数も減ってしまうのではないかとも考えられるが、
そもそも集中における認識の刺激の連続のなかで、
刺激として存在しうる意味は、その「差」にある。
つまり、刺激の認識において、「差」が生じうる刺激が、
その連続性の中で生じれば、その刺激は別の刺激として認識可能になる。
つまり、集中の中で、わずかな「差」が、刺激となり得れば、
刺激と刺激の連続性は、より細かい刺激の連続した認識で構成出来る事になる。

つまり、細かい差を認識できる熟練工が、そのわずかな差を刺激として認識する事は、
この刺激を構成する為の「差」が小さなものであっても刺激として構成できる能力にあるのではないか、
という事になる。

つまり、わずかな「差」の刺激を経験した事があれば、
このわずかな「差」の刺激を受容した際に、刺激として再構成出来る事になる。

それが時間制限の中で多くの刺激として認識できる事が熟練ということになる。

ちょっと集中する事とは異なるが、
集中している間の思考において、集中対象のわずかな差を連続性の中に維持する事は、
通常時に様々な刺激を受容している状態と異なり、
特定の刺激を優先して再構成、認識するという事になる。

これは予測だが、集中している際に、特定の刺激に関連した刺激だけを優先して連続して認識する事は、
様々な刺激を都度認識するよりも、短時間で多くの刺激を認識できるのではないかと考えられる。

つまり、特定の事象に関連した刺激だけを認識する事で、
その事象に関連した刺激は励起が維持されている状態に近いわけであり、
関連した刺激が、最も強い刺激として認識されやすいという事になる。
これは、集中するということになるが、
この状態は、励起と休止の間に、認識の疲れ、
つまり、強い刺激を連続して受容する事で、刺激の差が生じづらくなり、
認識能力が低下するまで、継続できることになる。
この間は、通常よりも多くの刺激が認識できるようになり、
そして、集中しているという状態なのではないかという事である。

今回はこの辺で。

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