2024/3/31-2024/4/2
想像や予測の機能の成り立ち
今回は、人間の知能の機能として、
想像や予測といった機能はどのような構成で成り立っているのか考えてみる。
例えば人間が、
何か物を地面に落とそうとした場合、
その後、その物はどうなるのかなどについての結果は、
実際に試さなくとも考える事が出来て、頭に浮かぶ。
その結果は想像や予測として知る事ができるが、
その過程で、知能内で何が行われているのか考えるという事になる。
人間の知能はその機能を想像や予測として知能内で働かせ、
その想像や予測の結果を実際に起こっていない事象であるが、
刺激として認識することが出来る。
それは知能のどのような機能であり、どのような仕組みであるのか。
まずは人間の初期の知能の状態で考えてみる。
人間の知能であっても、
赤ん坊が何か物を地面に落とすという場合は、
この赤ん坊の知能は、その事自体について想像や予測の機能は用いていない、
つまり、想像や予測は行っていない。
赤ん坊は物を手から離し、単に落とすだけである。
これが、人間の知能のある程度の成長後であると、
この知能は想像や予測を行うようになる。
感情的になったりして、後先考えずに行動するという場合もあるが、
基本的に経験を積み重ねた知能は、
何らかの行動や事象に対して必ず想像や予測を行うと考えられる。
なぜそう考えられるのか?
基本的に知能は行動を行う場合には、
その行動を行う目的が必要となるからである。
目的は、以前考えたように目的となる価値、現在の考え方では刺激量であるが、
その目的の対象となる事象の刺激量が大きいために目的となり、
知能はその目的が持つことになる刺激を得て認識したいがために活動する事になる。
つまり、欲する何かをどうにかするために知能を働かせるという事になる。
そして、
目的はその認識において、結果がセットで存在する必要がある。
この辺りの事は、以前の目的と思考の関係において考えた事である。
参考:303:思考の本質
そして、この目的と結果における思考の働きにおいて、
その関連を探し出す活動の際に、様々な想起が行われ、
この想起によって、
自ずと想像や予測の活動としての機能に合致する定義である働きが生じる事になるというわけである。
それは、目的に対する結果と、その関連における目的を達成するためのもっともらしい対応の行動は、
想像や予測なしには構成できないからという事になる。
実際には想起がその中心機能なのだが。
つまり、現時点で、明示的な定義として想像や予測のような機能を分けて考えているが、
知能の活動において、ある目的の存在に対して、知能がその個体に対して何か行動を起こさせようとする場合、
その準備の活動の中で、想像や予測に該当する活動が存在するだけという事になる。
つまり、明示的な機能として想像や予測を行っているのではなく、
目的と結果を関連付けるための働きとして、想像や予測に相当する働きを行っているだけで、
実際は、その働きの最中に生じる仮想的に生じる刺激、つまり、想像や予測したような刺激の認識が起こっているだけ、
というわけである。
つまり、目的として意図的、意識的な思考や予測を行っているわけではなく、
知能が目的について思考する時に働く1つの機能が、
想像や予測として認識される刺激を生じているだけになる、というわけである。
まあ確かに刺激が生じて、それを認識すれば、
意識としては、自身の知能が、必要として知能を働かせ、刺激を構成し、
認識したように感じるのかもしれないが、
きっかけは意思ではなく、目的の存在という事になる。
つまり、赤ん坊は目的を持って何かを落としているわけでないから、
想像や予測を行っていない、というわけで、
それがある程度成長した知能においては、
目的として何かを落とそうとするから、その事象を目的とした思考において、
関連する事象の構成中の、1つの再構成された刺激として、想像や予測の結果として、その刺激が認識されている、、
というわけである。
つまり、目的を持った知能は、
その目的を達成するための行動を構成するという知能の活動の中に、
想起としての機能として想像や予測を自ずと行っている事になるというわけである。
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では、想像や予測を行うのは、
何のためか?
通常、人間が何か行動をする場合、
その行動に対して生じる反応は、その人間自身が身を持って経験する事となる。
赤ん坊が何かの行動をする場合、
その行動に対して生じる反応は、赤ん坊が身を持って経験する事象となるのか?
通常は、赤ん坊の行動に対する反応としての事象は、
その赤ん坊を保護している立場の人間が、その結果としての反応に対して処理を行う事になる。
当の赤ん坊は、結果としての反応自体は認識することがあるかもしれないが、
結果に対して処理を行うか?というと、恐らく何もしない、何もしなくても良い、という事になる。
物を投げれば、投げたという認識はするが、
その物がどうなるかや、その後の始末などは考えていない。
つまり、赤ん坊が何かを投げる時の目的は、「投げる事」だけが目的ということになる。
この場合、赤ん坊が目的として認識し、適応を思考するのは、投げ方や投げる方向のような、
投げる事についてだけという事になる。
一方でこの赤ん坊の周囲の人間は、赤ん坊に対する保護や周囲に対する注意を払う事になり、
赤ん坊が何かを投げる事は仕方が無いが、その投げた後の責任は負う事になる。
つまり、自分のこれから行う行動に対して、
自分が被るであろう結果が、実際に自分自身が直面する結果であるのか、
そうでないのかによって、
知能はその結果に対する責務を負うか負わないか変化する事になる。
つまり、赤ん坊が何らかの行動に対する結果が自らに直面する事象である場合、
例えば、何かの物を投げたら、投げた物が跳ね返って自分に当たり、痛い思いをする。
というような場合、この赤ん坊の知能は、自分の行動に対する結果として、
痛い思いをする事により、行動と結果の責務を負い、一連の反応についての経験をすることになる。
そして、この経験をした赤ん坊の知能は、
恐らく以降において、何か物を投げるという事に対して慎重になる、
つまり思考をするようになると考えられる。
つまり、この赤ん坊の知能は、何か物を投げる事に対する結果について何かの想起が行われ、
過去の経験として痛い思いをしたという事が想起され、
それについて、今の瞬間の何かを投げるという行動に対して慎重になるという事である。
つまり、人間の知能において、
何らかの事象に対して、自らがその「事象の責務」を負う事になるかどうかの想起が行われる場合、
人間の知能は、その事象に対して想像や予測を行い、まず、その確認を行うようになるというわけである。
それは、実際に自身が何らかの変化にさらされる経験をしていたからである。
この場合、知能においては、事象の責務の有無については、
過去の経験において、その責務の経験が想起されるかどうかによって変わる。
つまり、過去に経験したとしても、事象の責務が想起されなければ、
つまり、忘れて思い出されなければ、その事象に対して想像や予測は行われないという事になる。
そして、過去の経験として、事象の責務が想起された場合は、
その事象が、自分に対して影響する事が過去に有ったという事が想起されるため、
その事象に対して想像や予測が行われる事になるというわけである。
つまり、
想像や予測が行われるのは、
ある事象が、自分の状態が、その事象の後に変化するかどうかの経験があるか、
想起されるか、によってまず決まる事になる。
つまり、今より先に自らが関与して生じるであろう事象に対して、
過去の経験として、自分の状態が何らかの変化を受ける事が想起される場合、
つまり、今より先に自らが関与して生じるであろう事象の認識において、
関連する要素として、過去の経験が想起されるかどうかによって決まるという事になる。
つまり、これから起こる事象を、自らが認識して、
その事象について思い出す何かが存在した場合、
自分の知能は、自発的に想像や予測を行うという事になる。
逆に、今の認識において、何ら想起される経験が存在しなければ、
その知能は、その何かを躊躇なく行うはずである。
「やってみないと分からない」ではなく、
「それが何だか分からない」のである。
つまり、「やろうとしている事だけが分かっている」ので、
後は実行あるのみである。
つまり、自らの選択において、何かの行動を起こそうとした場合、
その行動は、既に想起を行った結果として生じているのである。
つまり、行動が決定しようとしてる場合、
想起の試みは既に行われた結果であるという事になる。
それは、行動の決定は、知能において、行動の決定に先んじて、
行動のそれ自体を再構成した後に認識する必要があるからである。
2024/4/1
つまり、知能が、想像や予測を行うのは、
その知能が、その個体に対して何らかの事象を生じさせる行動を行う場合に、
その行動を刺激として再構成する際に、
構成される情報の要素において、関連する「過去の事象の責務」が関連している場合、
知能は、自身の個体に対しての保護を優先する為に、
予め想像や予測によって、実際の行動を実行する間に、
想像や予測によって再構成された事象を認識させ、
その実際の行動の実施の可否を保留させるため、という事になる。
恐らくこの機能は、知能が何らかの行動を行う準備をする際に、
その構成要素である情報の要素を用いる際に、
その情報の要素に関連している要素としての、上記の自身に対する「過去の事象の責務」が、
関連して想起されるため、
知能が自ら判断せず、計らずも、
自動的に想像や予想が行われてしまうという事になるのではないかと考えられる。
つまり、人間が何かの行動をする際、
知能がその人間が行うべき行動を、実際の行動の前に、
刺激として、その一連の行動の動きを組み立てる際に、
組み立てる情報が、過去の責務を関連している場合、
知能は、自身が心配になって、実際の行動とは別に、
試しに仮の行動の刺激を組み立てるのではないかというわけである。
実際には組み立てるというより、組み立ててしまっている、の方が意味が近い。
例えば、広い草原で、背伸びをしようと腕を広げ、深呼吸をするというのは、
想像や予想を行わなくても実行するだろう。
その行動自体を妨げたり、過去の責務として、何か不利益を被ったような経験は無いはずである。
だから、行動の構築、即実行が行われる事になる。
そして、その結果として自らが被る被害のようなものは通常、存在しないだろう。
しかし、場所が異なり、
例えば、厳粛な式典のような場所で、窮屈だから背伸びをしたいと思っても、
まずこれを実行するような人はいない。
近くに多くの人が居たり、背伸びをして思わず声が出れば注目を受けたり、
変わった人だと思われるかもしれない。
と、そういう想像や予想を行うのは、
自分の知能が、その行動によって過去にそういった事象を認識して経験しているからという事になる。
実際に自分が実行した事でなくとも、誰か別の人間が、もしくは、
携帯の着信音が流れてしまった、子供や赤ん坊が泣いた、などの、
似たような状況においての事象として、その結果についての
対象の不利益が生じたという事象を目撃した、認識した事があるからという事になる。
そもそも、厳粛な場において、自分の思った通りの何かの行動を実行するという事にはならないが、
窮屈だな、退屈だな、と思いながらも、自身の行動の選択の制限として、
行ってはいけない何かとしての想像や予測は行われているはず、という事になる。
つまり、
通常、知能が何か行動を実行する際に、
実行の前にはその行動を定義する刺激を再構築する事になる。
この刺激の再構築時に、その刺激を構成する情報の要素に、
過去の事象の責務が関連していた場合、
知能は、その過去の責務が、今回の行動に関連しているという想起が行われる事になるため、
その過去の責務の記憶に関連している、その事象と結果についても想起を行う事になる。
これが、想像や予想としての仮想の事象と結果として認識されるというわけである。
つまり、個体が何かをしようとしたときに、
知能は、その一連の行動を刺激として構成する事になるが、
その構成要素に、過去の経験として何らかの利益や不利益が関連していた場合、
その関連していた事象と結果について、今回の再構成における状況の情報の要素を用いた、
想像や予測の仮の事象と結果が構成され認識される。
という事になる。
つまり、想像や予測は、実際に起こった事象ではないが、
今、それを認識している状況や状態を構成している情報の要素で、
過去に経験した事象や、その結果を実際に認識している事になる。
その事象は、過去には異なる状況や状態であるが、
今認識しているのは、今の状況や状態における、過去の事象とその結果であるという事になる。
つまり、想像や予測は、
「現在知能を構成する情報の要素で、過去の事象と結果を再構成し認識する事」
という事になる。
つまり、ここで用いられるのは、記憶にある情報の要素とその関連であり、
想起によって構成される後天的定義ということになる。
つまり、想像や予測によって、新たな後天的定義を構成する事になる。
つまり、認識に至る刺激として想像や予測される事象というものは、
現在行おうとしている目的の刺激が認識され、
何らかの行動を行おうとしている時、
その目的を起点とした関連の想起において、現状の状況や状態である情報の要素と、
関連して想起された情報の要素としての過去の経験である過去の責務が、
同時に認識されることによって、想像や予測の行動と結果の刺激として認識に至るという事になる。
つまり、今存在する、これから行おうという目的の認識の後で、
自動的に関連した情報の要素の集合が1つの刺激として構成されたものが、
想像や予測の行動と結果として認識されるという事である。
つまり、想像や予測は、目的が存在すれば、
自我として意図的や意識的に行うものではなく、
知能が自動的に機能させる働きというわけである。
逆に、知能において、何ら目的の無い状態で、
想像や予測は行われないという事になる。
つまり、想像や予測は単独の機能ではなく、
目的の認識における想起の働きの結果として認識される刺激が生じる事を、
あえて1つの機能として定義して認識しているという事になる。
そして結果的に、
ある目的が生じた時に、
その目的を達成するための行動を思考する場合、
その目的に関連した情報の要素を想起する中で、
過去に経験した「過去の責務」に関連する自身への都合が記憶されていた場合、
主に利益や不利益の記憶ということになるが、これが想像や予測において想起されることになるため、
想像や予測、期待や不安といった刺激として認識される事になるというわけである。
そして、この事は、なぜ想像や予測を行うのは何のためか?
という問いに対しては、
予防のために生命体の知能が意識的に行っている活動ではなく、
知能が目的を達成する行動を構成するために必要な機能の1つとして、
自動的に行われている機能、という事になる。
つまり、自分の知能が構成した目的を達成する為の活動の刺激が、
自分に対して利益があるのか、不利益を被るのか、
その構成中に実際に活動を行う前に、過去の経験を参照する機能という事になる。
つまり、目的に対して実際に行われる活動や行動に対して、
その前段階において、過去に何か関連した事が無かったか思い出す事、
実際には思い出して認識しているわけではないが、
想像や予測として認識される刺激を、
知能は想像や予測の結果として認識しているという事になる。
そして、
そこで行っている刺激の再構成の機能が想像や予測と呼ぶものという事になる。
つまり、目的に対する想像や予測は意図的、意識的に行っている事ではないという事になる。
目的の為に行う何かを決める際に、副次的に思いついてしまうものである。
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知能の想像や予測の機能の構成について:
上記の考え方からすると、
想像や予測は、
知能が何らかの目的の達成のために思考が働くことになるが、
この思考として行われる想起の機能として、
目的と、その目的の結果をもっともらしい関連を構築する際に、
用いられる情報の要素が想起されることになるのだが、
その想起において、目的と結果の間の関連以外に、
似たようなケースとして、実際の目的と結果ではないが、
同様の目的と結果とその関連が1つの刺激として構成されるような刺激が、
過去の経験として存在する情報の要素から作られる場合があり、
その刺激を認識する事で、
実際の目的と結果ではないが、それに似た仮想的な目的と結果の事象として認識される。
その事を「想像や予測」と認識しているのではないか、という事になる。
つまり、ある目的を実際に実行する場合、
ある程度の成長を経ている知能においては、
基本的には、想像や予測は常に行われるものとして考えられる。
ただし、知能の成長具合や経験の有無によって、
認識に至る想像や予測として再構成される刺激が認識に至る場合、至らない場合があり、
自分自身で想像や予測ができていると認識される場合と、分からず認識されない場合がある。
そして、知能において、この想像や予測として認識される刺激は、
知能が、実際に起こった事象ではなく、
仮想的な刺激であるという、明示的な後天的定義に関連する情報の要素を持つ刺激として、
認識しているという事である。
つまり、知能は、この仮想的な目的と結果に対して、
明示的に、主たる目的と結果に関連した仮想的な刺激であり、その認識であると理解する事になる。
不安症などは、この仮想的な刺激をあたかも現実にあるような事象として認識する事になるから
という事になるだろうか。
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つまり、知能における想像や予測は、目的ありきで機能するもの。
という事になる。
これは、人工知能においても目的が存在しなければ想像や予測が行われない事になる。
以前、目的として考えた内容で、
人工知能が持つべき目的についても関係する事になり、
目的を持たない知能は、思考が働かない事になり、
もちろん、思考が働かなければ、今回考えたような、
目的と結果のもっともらしい関連のついでに生じる想像や予測も認識されることは無いという事になる。
そして、これはフレーム問題にも関わる事だが、
ある想像や予測によって、その想像や予測を行った主となる目的以外に、
想像や予測によって生じた仮想的な目的と結果の認識によって、
新たな想像や予測が行われ、それが延々と続いてしまう可能性がある。
人間で言えば、何らかの不安という目的に対して、延々と思い悩むような状態である。
これが、現在考えられている人工知能においては、再帰やループにより、
知能の活動の停滞に繋がりかねないという問題である。
人間は、そのような状態に陥っても、周囲の変化による刺激の受容によって、
知能の活動内容を切り替える事ができるので、思考停止に陥るようなことは無い。
まあ、これは、人工知能においても、その通りで、目的について思考するのは、
完全な答えがでるまで、その目的だけの思考を維持するのではなく、
何らかの刺激によって目的の優先度を変化する事で、
前の目的を保留し、別の目的について思考するというように、
瞬間ごとの目的を切り替えることができるようになれば良いだけである。
つまり、人工知能も目的は持つが、常に答えが出るまで思考しているわけではない、という事になり、
場合によっては、人工知能にも答えを出すための猶予を持たせる必要があり、
その事を人間も理解する必要が生じる事になる。
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2024/4/2
想像や予測のそれ自体を目的とした思考について:
上記の例では、目的が先に存在し、
その目的の為に想像や予測が行われると考えたが、
人間の知能は、想像や予測をすること自体を目的として思考する場合がある。
例えば、人間がこの先も地球上で継続して存続していくためにどのような事をするべきか、とか、
人工知能が人間と同じような自我や意識を持つようになったら、人間は人工知能とどのように接するべきか、など、
人間が持つ様々な問題に対して、正しい回答がまだ存在しないような問いに対して思考するような場合である。
上記の例において、過去にその問題に対する利益も不利益の経験も存在しない場合、
その問題に対する答えは想像や予測が行われない事になると考えられるが、
実際は、人間はそういった未知の経験の無い問題に対しても想像や予測で、
仮想の答えを出すことが出来る。
この仮想の答えは、実際に経験した事のある事象として記憶された刺激ではなく、
想起において、その思考する知能が持つ、情報の要素を新たに関連させて構成した刺激である。
この場合、目的は、その答えの無い過去に経験した事が無いような問題自体が目的となるのだが、
それについても知能は思考して仮想の答えを出すことになる。
目的が想像や予測する事自体であるのだが、
この場合の目的は、想像や予測をする事ではなく、
個別の課題についての問題がその目的となる。
上記の例で言えば、人間の存続の方法であるとか、人間と人工知能の関わり合いであるとかである。
まず、この問題や課題が目的として認識された後に、
思考において、その答えが構成される事になる。
つまり、想像や予測する事を目的としていると認識していると感じていても、
実際は、問題や課題自体が目的なのである。
この問題や課題は、過去の経験において、その知能が記憶する「過去の事象の責務」のようなものは存在しないが、
問題や課題自体は、突然生じたものではなく、その知能が問題や課題自体を認識、理解しうる、
情報の要素とその関連から構成されている事になる。
目的に対する思考として、過去の経験から想像や予測が行われると今回考えてきたが、
今回の問題や課題を目的とした思考として、
過去の経験がまったくないのか、という事になると、
目的を理解できている時点で、目的に関連する情報の要素というのは多様に存在し、
それを知能は持っている事になる。
ということは、目的を認識できた時点で、
その目的を構成する要素に関連した情報の要素は想起の対象であり、想起される情報の要素は存在する事になる。
上記の最初の方で、
目的を認識した時点で、その目的に関連する情報の要素が想起され、
その想起の中から関連した刺激として、目的と関連しうる仮想の答えが勝手に構成され、
それを想像や予測として認識する事になると考えた通りに、
例え、想像や予測を目的としていたとしても、その目的を構成する情報の要素に関連して、
想起される情報の要素は、想像や予測として意識しない刺激として構成されたとしても、
その認識においては、想像や予測の結果として認識される、
つまり、目的に関連して思考され認識された刺激であると認識されるという事になる。
つまり、目的がどのようなものであっても、
その事象を目的として認識する場合、
その目的に対する思考には、想像や予測した結果が含まれるという事になる。
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人工知能への対応:
想像や予測といった機能を人工知能に実装するなら、
その機能自体は、目的と結果に対する思考の機能として実装する事になる。
つまり、目的が生じた後に、その目的を達成する為に実行する事になる活動を、
その目的と結果から関連した情報の要素と、過去の経験から関連して想起する機能として、
用意する事になる。
つまり、基本的にこれらの機能は、記憶されている情報の要素に対する想起が行えれば良いという事になる。
想起においては、想起された情報の要素は、その関連によって次の想起が行われるため、
何らかの刺激が認識された後には、必ず、何らかの関連したまとまった記憶が想起されることになる。
目的とこの刺激がほとんど同時に、完全に同期することは無いが、
連続して認識される事で、この目的と刺激に関連した想起が行われ、
その想起対象を知能は思考したものとして認識する事になる。
この目的と想起の関連や関係、刺激量や優先度の関係などについてはまだ考えていないので、
後の課題としておく。
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今回はこの辺で。
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