2024/3/30

刺激と認識と意識の構成イメージ

「複数の感覚による刺激の構成」として考え始めた内容である。
結果として「刺激と認識と意識の構成イメージ」に変更した。

昨日ふと部屋で、
目の前の風景と匂いが同時に存在することに気付いた。

まあ、その事自体はいつも通りの普通の感覚なのだが、
さて、この状態を明示的に認識や意識として刺激を用いる場合について考えた時に、
ある刺激の認識をしている際に、別の感覚の刺激の認識が存在しうるのか?
という疑問が生じた。

普通に考えれば、刺激は単体で存在するわけではないから、
複数の刺激が関連した状態で1つの刺激として認識していると考えれば、
確かにその通りとなる。

これで解決かとも思ったのだが、
では、この視覚の画像が存在する状態で、
嗅覚によって匂いが分かるという状態の刺激は、
どのような関連で構成されるのかという疑問が生じた。

周囲の匂いは、息を吸う場合にのみ刺激として受容することが出来る。
つまり、基本的に周囲の匂いを感じることが出来るのは、
鼻から息を吸う時である。

視覚の画像は、基本的に目を開いている状態であれば、
継続して画像の情報が刺激として捉えられる。

つまり、息を吸う時に匂いが受容できると同時に、
目を開いていれば、画像も同時に刺激として受容する事になる。

匂いの刺激を認識し、意識している状態で、
匂いがどのような匂いであるかというものは感じている。
この匂いを嗅ぎ分けている瞬間は、視覚の画像は存在して見えているが、
何か焦点の合わない絵のように見えるだけとなる。

この時、認識や意識としては、匂いがその刺激の中心であり、
匂いの刺激が、この瞬間で最も強い刺激として扱われていることは分かる。
一方で、同時に存在する視覚の画像の刺激は、
意識されていないまでも、そこに同時に見えていて存在する。

この場合、匂いの刺激と画像の刺激は関連しているのか?
という疑問が生じる。

上記のように普通に考えれば、
それら2つの刺激は関連していて、
その刺激の中に在る情報の要素として認識された匂いの情報が最も強かったために、
匂いが意識され、同時に画像も存在しているという事になる。

例えば、これが匂いでなく、何かの音楽の曲を聴いている場合であったとしても、
同じような刺激が存在する事になる。

つまり、ある刺激は、特定の感覚だけの刺激で構成されているだけではない。
という事である。

情報の要素としては、当然、刺激集合であるとか、
後天的定義の構成などにおいて、
1つの刺激を構成する為に複数の情報の要素を必要とするという事は考えてきたのだが、
明示的に複数の感覚による情報の要素で1つの刺激を構成するという事について考えたことはあっただろうか。

何年も考えていながら今さらなの?
と言われればその通りなのだが、
当然すぎてあえて問題だと思ったことは無かったように思うが、
現時点の新たな考察として掲載する事にした。

後天的定義において、匂いと風景の関連を持つという事は考えた事はある、
何かの匂いで思い出す景色などの記憶があるという事である。

これを逆に、匂いと風景を関連付けて刺激として認識して、記憶するという事について、
今回は考えた事になるが、
そういう刺激が存在して、認識し、記憶したから、
後で匂いによって別の刺激の記憶が思い出されるという事があり得るという事になる。

風景の画像自体は、それ自体で関連する別の多くの情報の要素を持つのだが、
匂いを認識して、意識している際に、その匂いに関連している風景の画像の刺激の情報の要素の関連は、
単体として認識される風景の画像に関連する視覚に関連する情報の要素より少ないはずである。

つまり、画像を見ていると認識や意識している際の刺激は、
視覚による情報の要素が多く、それに関連する別の感覚の刺激の情報の要素は少ないはずである。

逆に、匂いを認識や意識している際の刺激は、
嗅覚に関連した情報の要素は多いが、別の、今回の例では視覚に関連する情報の要素は少ないことになる。

それでも、関連自体は存在するので、
匂いと同時に風景も存在する刺激が認識や意識されているという事になる。

現実的に、純粋な1つの感覚器官だけによる刺激というものは、
ほとんど存在しないのではないかという事となる。

初期の感覚器官においては、そういった刺激も存在したのかもしれない。
細胞の接触障害であるとか、走光性の光の受容器官であるとか、
1つの変化を1つの刺激として受けることができる。
これは普通に考えられる。
そして、
それらの刺激としての情報の要素が、互いに関連するようになり、
主となる刺激以外の感覚の刺激の情報の要素が関連する事も起こるようになった、
そして、知能となり、それが普通になった。
という事になるだろうか。

もし、複数の感覚の刺激が関連出来ない事になると、
1つの刺激を認識、意識している最中に、他の刺激の情報は存在できない事になる。
となると、匂いを嗅ぎ分けている間に、視覚による風景が見えないという事が生じる。
これは生命として命の危険の不安が生じる。

という事は、程度こそあれ、
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ある瞬間の認識と意識においては、全感覚の刺激の受容は行われていて、
その中の最も強い刺激が認識、意識されることになる。
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という事になる。

そういうことであると、
刺激と認識や意識の存在は、
以下の様に、
------------------------------------------------------
→→→視覚→→→→~→→→→→視覚→→→→
→聴覚      嗅覚→→~→→→聴覚       嗅覚→→
→触覚      味覚→→~→→→触覚       味覚→→
→→他の感覚→→→~→→→→他の感覚→→→

上記の図のイメージは
円状に配置された刺激が時間で連続した筒状になっている。
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このように連続している状態が意識であり、
ある瞬間の刺激を切り取ると、
特定の感覚による刺激が最も強く、
その刺激が認識されているという事になる。

この刺激と認識と意識のイメージは何年か前に考えたものである。
これまでの考察で掲載した事があったかは記憶にないが、
まあ今回あえて持ち出してみた。

つまり、どれかの刺激が強ければ、
他の刺激は相対的に弱い事になる。

刺激量は、例えば安静なときは総和が小さく、
重大な危機などの場合においては、総和は大きい事になる。
イメージ上では輪が広がるようなイメージである。

それでも、認識される刺激は、
そのある瞬間の最大の刺激量を持つ刺激が中心になるという事になる。
イメージは輪のどこかの刺激の部分が飛び出る形になる。

そして、刺激毎の関連は、その円の内側で刺激毎に接続されている。

つまり、どの刺激もある瞬間には存在している。
そして、どれかの刺激がある瞬間に最も強い。
その刺激は認識され、その認識の連続性が意識である。
というわけである。

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上記のイメージが知能について考えるうえで何の役に立つかという事だが、
まず、このイメージは感覚器官から受容される刺激について主に考えたものであるが、
思考における想起においては、知能が持つ記憶としての刺激の関連は、
この筒の中に存在しているという事になる。

つまり、知能は、この筒の中に存在し、
想起する時、知能は、この感覚の中に関連を作り出す存在として働くことになる。
感覚器官は、各感覚の周囲に存在し、
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→時間→

周囲の環境
↑↓
感覚器官
↑↓
感覚
↑↓
知能
↓↑
感覚
↓↑
感覚器官
↓↑
周囲の環境

時間側に各存在が筒状に継続していく。
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想起の場合、知能が各感覚への関連を再構成し、刺激が生じる事になる。

知能と感覚の間に刺激が生じて、上記の図の認識や意識が生じる事になる。

身体の存在と境界は感覚器官と周囲の環境の間である。

つまり、この筒状の存在が、
自分であり、自我であり、記憶や価値観を構成する全てという事になる。

未来は決まっていない。
過去は今から見た以前の時間の状態である。
知能の継続の中に刺激の記憶が存在する。

現時点での私がイメージする知能や刺激、認識や意識はこのような状態である。
そのイメージを元に考察を行っているという事になる。

イメージを役に立てるなら、この状態を人工知能に当てはめるとか、
夢の中で認識している刺激の状態が、想起だけであるから、
周囲の環境や自分の実体の体の形状が異なる場合があるとか、
そういった考え方ができる事になる。
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今日はこの辺で。


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