2024/2/21

概念の定義

最近様々な定義を考えてきて、
そろそろ何か知能についての定義がまとまりそうな気がしていた。

そして、ふと、頭の中で「そろそろ、いけるんじゃないか?」という言葉が思いついた。

そして、同時に「そろそろ」って何の刺激だ?という疑問が生じた。

「そろそろ」というのは、
感覚などで決まった刺激は存在しない、概念の定義であるが、
では、「概念」とは何か?と考えてみると、
認識できる事象であるため、刺激であり、定義は存在するはずという事になる。

そして、感覚器官で受容できる刺激ではないため、
先天的でない後天的定義という事になる。

後天的定義だけで構成された定義という事になるが、
情報の要素に分解すると、先天的定義も含まれているはずだが、
認識においては後天的定義だけで構成された、
漠然とした状態であっても認識には足る。

だから詳しく説明ができないが認識はできる刺激として存在している。

ということは、
刺激は
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刺激→感覚→先天的定義を直接関連に持つ

概念

後天的定義から成り立つ
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このように2つに分けられるという事になるのか?

「そろそろ」は感覚では受容できない・認識できない。→想起によってのみ認識できる

つまり、概念は想起によってのみ認識できる。

逆に考えると、感覚による先天的定義が含まれる刺激は、想起に当たらない?

想起された刺激は全て概念である?

例えば、想起した痛みは実際には存在しないが、
体のどこかが痛むというような想起は出来る。

それらは、痛みとしての刺激として先天的定義を含んでいるように見える。

実際は、経験としての後天的定義の中から、
体の特定の場所が痛むというような「概念」だけが想起される。

ただし、認識としては、実際には痛くないが、そういう痛みが存在すると認識は出来ている。

ここで「そろそろ」は、どういう刺激であるか考えてみると、
視覚では何かにもう少しで到達する、何かがあふれそう、という「何かが~しそう」を、
視覚的に見るものであり、
聴覚では、音の大きさなどが、音自体が大きくなる、小さくなる、近づく、遠ざかる、など、
嗅覚は匂いにおいて、味覚も同様、触覚も似たような、
何かの対象が変化によって、ある別の状態に移行する様子を表す時に用いる事になる。

つまり、「そろそろ」は、何らかの事象が時間変化とともに、別の状態に移行する時の様子を表現している。

そして、その刺激は感覚では認識できない。

(刺激は環境の変化を感覚器官で直接受容する事で認識する事になるが、
この場合の「そろそろ」という刺激は環境の変化を感覚器官で直接的に受容した刺激ではない。
変化自体は環境に存在するが、その変化を刺激として構成しているのは想起である。)

つまり、ある状態の遷移を刺激として認識する為に定義した、
後天的定義という事になる。

つまり、自分自身の刺激でなく、環境の変化を刺激として認識しようとした場合に、
用いる認識方法という事になる。

つまり、本来、存在しなかった刺激を定義したものが、後天的定義で、
それを認識する方法が想起、

例えば、「自分」も本来存在しないが、
後天的に定義されて発現したという事になる。

つまり、自分という存在も本来は存在しないが、
後天的に定義されて発現したという事になる。

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つまり、感覚だけでは、その刺激の有無、強弱、そういった情報しか得る事が出来ない。
それを、ある刺激の変化を新たに刺激として定義する事で、その情報を得ようとしたという事になる。

つまり、本来、刺激は、そこにあるかどうかだけで良いものだった。
例えば、光がある、光が無い、音がする、しない、匂いがする、しない、味がする、しない、
感触がある、ない、それだけで良かった。

不足と充足を得て、ある程度、高機能になってからも、お腹がすいた、満腹である、
怖い、心地よいなどの、自身に対する直接的な刺激だけで十分だった。

そして、ある時点で、「変化に対して刺激を必要とするようになった。」

いや、変化に対して適応する、それ自体が生命である事か?

つまり、直接的な環境の変化の刺激以外に、
「概念」を得たという事になるか。

つまり、「刺激」と「概念」はその構成する要素は、
先天的定義と後天的定義の定義であり、
その根本は同一のものであり、刺激として認識できるのだが、
そもそもの利用目的が、本来異なるという事になるか。

つまり、実際に存在するのが刺激、
実際に存在する「ように」認識するのが「概念」という事になるか。

つまり、刺激は環境に実際に存在するが、
概念は知能内にしか存在しない。
実際は知能内にも存在していないが、
存在している様に再構成されている。

生命にとって、知能にとって何のメリットがあるだろうか?

普通に考えれば、
本来存在しない境遇に対する反応や適応を予期する為とか、
期待などが期待できることになる。

つまり、危険の予測や、獲得する利益の予測、
つまり外敵への備えや、収穫物などの期待、予測、
普通に考えれば、そういった物の為ならば、
実際に存在しない概念を作り出す事はメリットとなると考えられる。

普通は行き当たりばったりの、遭遇したら、その場で選択するのが
刺激と反応のあるべき姿であるからである。

つまり、「思い出す」「想起」、
この機能によって「概念」が誕生する下地になったという事になる。
それは、そのまま「知能」の下地でもある事になる。
当然、「自分」の誕生も、である。
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自分の存在は、自分の変化の産物である。

以前、自分という刺激が存在するなら、刺激そのものが変位差であるから、
自分の変位差に対して刺激が生じると考えた。

つまり、自分の存在は、自分の変位差を刺激として後天的に定義した刺激から構成される。
という事になる。

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自分1→(変化)→自分2

(自分2)-(自分1)=>変位差=>これが自分の刺激であり定義(後天的)

この変化の原因は刺激であり、
刺激による自分の変化が自分の定義という事になる。
つまり、ある刺激を受けた時に、自分がどのように変化するのかを定義したものが、
自分の定義という事になる。

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2024//2/28

知能が認識しうるあらゆる事象は、刺激として取り扱う事ができる必要があるが、
今回、刺激には2種類の、直接感覚によって受容できるものと、
概念のように想起によってのみ存在するものに分けられるらしいという事に思い至る。

知能の構成という点においては、
この「概念」こそが、その知能の構成物として考えられるもの、という事になる。

つまり、
知能を構成する為には、
環境に存在する変化を、「変化」する「概念」として定義できる能力が必要という事になる。

つまり、ある変化を2つの状態に分けて、別々の状態として認識できて、
その状態の変位差を刺激として(後天的に)定義し、
つまり、この定義は、後に同様の状況においても、同じような変化を起こす事を期待できる定義として、
定義する事であり、
その定義を認識して、経験として記憶できる事。

その機能を有する事が、「知能」を持つ存在であるという事である。

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「概念」の定義の違い:

恐らく私の「そろそろ」は、
別の誰かの「そろそろ」とは似てはいるが、
その変位差の基準は異なっていると考えられる。

私が最初に考えた「そろそろ、何とかなるんじゃないか?」の
そろそろは、私自身にとっても決まった変化の割合などが存在するわけではない。

ある状態が、別の状態に変化する、
今回は、何か考えていたものが、考察として文章や形として創出できると考えた、
その自身の思考している漠然とした想起の思考において、
何か結果が期待できそうだと認識されたために再構成されて感じた「概念」として
「そろそろ~」という言葉が浮かんできた、認識されたという事である。

私自身においても、恐らく別の場面において「そろそろ」を用いた場合、
今回の「そろそろ」とは意味が似ているが刺激の再構成される形は異なるはずである。

他に似ている「もう少しで」とか「あと少しで」を用いるかもしれない。
ただ、「そろそろ」の方が結果に近い感覚はある。

しかし、である。

もう少しで~なる。といった「概念」は、
私の認識も、別の誰かの認識も、もう少しで結果や目的に到達する、
といった「概念」は共通のものであると考えられる。

そもそも後天的定義が、知能間の認識をできるだけ共有する為の物として考えると、
価値や概念は、知能を共有する為のものとしても考える事ができる。

つまり、結果的にであるが、
定義を共有することで、
協力しあえるようにであるとか、経験を継承しやすくするであるとか、
などのメリットがあるというわけである。

一方で、主義主張などの定義の要素が異なる事で諍いが生じることにもなるが、
知能としてはそれでも十分な意味や価値があるという事になるだろうか。
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今回はとりあえず、
「概念」の定義という考え方から、
知能や自分の存在の定義に近づけたと考えられる。

「概念」については今後も意識して考えてみようと思う。
今回はこの辺で。


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