2024//2/9~
2024/2/13

感情や愛情の定義

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まず、
今回の考えた内容:

1:感情や愛情は価値の定義を持たないのではないかという事

刺激として認識した場合は、後天的定義の修飾によって価値の定義が含まれるが、
感情や愛情としての純粋な意味付けの定義は、先天的定義によるものとなる。

これは、感情や愛情が発生する機構が、知能において反射に近いものであり、
その感情や愛情を生じる際の事象において、
身体が遺伝的に、先天的に持つ、ある刺激の情報の要素に対して、
直接反応する事になる意味付け、定義が存在するからという事になる。

これは、感情や愛情は後天的定義の刺激であるのだが、
選択や思考によって生じる刺激ではなく、
ある感情や愛情として感じられる事象に対して、
自動的に感じられる反応ということになる。
つまり、
自分が意識的に選んだり、どういった反応が最も良い反応であるか考えるなどして表す状態ではなく、
ある事象を認識した時には、ある感情や愛情はその時点で感じているはず。
つまり、
選択や思考で用いる後天的定義としての価値とは関係なく、
その刺激の情報の要素を生命体として受けたから、
自動的に反応するという形で生じる状態であるからという事になる。

例えるなら、鏡に映った鏡像が感情や愛情の正体であり、
実体そのものの価値は、鏡像そのものに対してはあまり関係ないという事である。
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2:感情や愛情は状態であるという事

生命の知能において、感情や愛情が普遍的に存在しているということはなく、
人間の知能が認識しやすいように、互いに認識を共有する為に、
感情や愛情の定義を行っている。

定義であるので、自然法則のような確定した定義ではなく、
個体毎に認識が異なる程度の定義である。

つまり、その定義は後天的定義という事になる。

以降に出てくるホルモンに関係する内容は、
生命としての本能、先天的定義による定義の意味付けとなるため、
選択や思考に関わらず自動的に反応する内容であり、
こちらは、自然界の生命における遺伝的な普遍的な定義という事になる。

つまり、知能が認識する方法としては、
感情や愛情の定義自体は後天的定義であるのだが、
その発生においては、先天的な定義が存在するというわけである。
この先天的定義は、身体がある事象に対して反応して、
ホルモンなどの分泌によって、ある状態を認識するに至るわけであるから、
その定義が存在するであろう、という事になる。

つまり、先天的定義を意識的に認識する為に後天的定義を用いて定義しているという事になる。
それ自体は、全ての先天的定義を認識する方法としても用いられている事になる。
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3:先天的定義寄り、後天的定義寄りの感情が存在するという事

喜怒哀楽において、

喜:中間
怒:先天的定義寄り
哀:後天的定義寄り
楽:先天的定義寄り

これは、感情の状態は、先天的定義としてその意味付けが存在すると考えているが、
その状態を表現する為に後天的定義を必要とするようになっていると考えられる。

つまり、

内的要因としての自らの選択、思考などに対して現れる状態として感じる状態であるか、
周囲からの影響によって外的要因に対して現れて感じる状態であるか、という違いによる。

喜:中間
語源的なものを調べると、喜は、自発的な行動によって生じた、
自身にとっての何らかの良い状態に対して、
その良い状態の認識に対して感じる感情、という事になる。

つまり、後天的定義として存在する何かの事象を、
自らの価値として認識した状態に対して感じる感情という事になる。

この場合の価値は、自身が持つ、不足に対する充足として、
つまり、何か懸念があった、問題であったというような未達成の事象の不足状態に対して、
それが達成され、充足した事による価値を認識した事により、
喜として感じる感情を認識するという事になる。

怒:先天的定義寄り
哀:後天的定義寄り
楽:先天的定義寄り

怒哀楽については、特にある刺激に対する反応として現れる状態として、
ホルモンの生体の受容において現れる感情として考えられ、
知能における選択や思考とは関わりなく現れる状態として考えられるため、
傾向として先天的定義寄り・後天的定義寄りとして考えた。

ただし、いずれの感情も、認識においては後天的定義であるが、
そこに含まれる先天的定義の影響力が、認識における刺激量の割合として、
関係しているものと考えられる。

つまり、知能が選択したり思考したりする事になる刺激の定義よりも、
生体が自動的に反応する刺激の影響力が大きい場合、
より先天的な定義として存在する感情であるという事になる。

また、いずれの感情も、常に偏った認識にはならず、
実際に直面した事象毎に、その偏りは異なる。
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4:感情や愛情の分類は知能の反応としては、まだ未完成であるという事

3:で考えた内容の通り、
感情などにおいては、後天的定義が存在しないと成り立たないような感情が存在する。
自然界の生物において、
特に人間以外の知的生命が、喜怒哀楽のような状態にあるように見える状態は存在する。
ただ、特に喜びに関しては、自ら何かを成した事に対する喜びの感情というのは、
自然界には本来存在しない状態である。

自ら何か行動して達成する、それは自然界においては当然の事であり、
わざわざ感情として、喜びの状態を認識する必要はない。

特に人間の知能は、この自ら成した何かに対して先天的定義ではない、
後天的定義としての価値を設け、この価値を定義した目的の達成に関して、
自ら成した事に対して価値や意味を認識する事になっている。

確かに自ら価値を定義し、価値の未入手を不足として、
価値の入手を充足と定義すれば、その価値を入手する事は、充足であり、
喜ばしい事として認識されるのだが、
これは、先天的定義として定義される他の感情とは少し異なる。

淋しい不安、哀しみなどは、価値の定義を必要とせずに認識される感情であるし、
特に愛情などにおいては、
愛情を感じるような状況を認識する事によるオキシトシンの作用などによって、
勝手に認識される状態となる。

つまり、
感情として分類した際に、
本来自然に存在する状態と、後天的に定義したそれらしい状態を、
合わせて感情として定義したために、現状のような感情の認識になっていると考えられる。

現在の定義自体が間違いというわけではないが、
知能で扱う場合には、もう少し分類を細かく行う必要があるのではないかと考えられる。

つまり、感情や愛情について、より本能的な状態と、
より理性的な状態に分ける必要があるという事になる。

つまり、オキシトシンやアドレナリンによる愛情や怒りの感情などは、
愛情を感じたから、怒りを感じたから生じるホルモンという事ではなく、
知能が先に認識した刺激に対してホルモンが放出され、
その刺激によって愛情や怒りを認識したと考えられる事になる。

つまり、このような状態は、より本能的な状態であり、
喜びや楽しみは、感情の状態としては存在するが、
より後天的な定義における不足や充足の認識に対する反応の状態であり、
愛情や怒りとは少し状態遷移のプロセスが異なるという事になる。

哀しみや不安などは、まだ解明されてはいないが、
セロトニンやエンドルフィン、ノルアドレナリン、セロトニン、
様々なホルモンの量によって発現する状態であるので、
どちらかと言えば、本能的な状態であると言える。

ただし、
ホルモンがどれだけの量、分泌されたから感情や愛情の状態が決まるという事ではないので、
現時点での定義においては仮定の定義という事になる。
しかし、生体としてある感情や愛情の状態を認識する為に、
それらのホルモンが関係しているらしいという所までは判明していると定義して、
感情や愛情が発現するきっかけとしてホルモンについての働きを考えている。

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感情・愛情の定義について:

例えば、ある金額をあげるから、喜んでくれという事象が生じた場合、
その事象自体が、ある金額のお金をもらう事と、感情の喜びを対価として繋いでいるようであるが、
実際は、ある金額を貰って嬉しい事と、喜ぶ感情を表そうとする事は、
イコールではなく、それぞれ別の事として、嬉しく思い、単に喜ぶ感情を演じているだけという事になる。
つまり、お金をもらった事象の認識によって、価値を得た事ににより、
一度その認識は済んでいる事になり、喜ぶという感情は、
その済んだ嬉しい認識に対して反応した「喜び」の感情として現れる事象であるが、
さらに、その感情としての喜びと、「喜んでくれ」という表現としての喜びは、
また、さらに別の事象という事になる。

つまり、結果としてお金をもらって嬉しい=表現としての「喜び」にはなるが、
お金をもらってうれしい<>感情の嬉しいは別物であり、
感情の嬉しい<>表現としての「喜び」も別物という事になる。

どうしてこういう事になるかと言うと、
感情による反応は、先天的定義によって定義づけられており、
ある刺激を認識した場合に、自動的に意味付けられるからという事になる。

つまり、後天的定義のように、再構成された自分の存在などを経由、関与することなく、
自動的に感情の反応が行われてしまうからという事になる。

刺激自体は後天的定義であるというのは、その通りであるので、
刺激が全て先天的定義で構成されるという事はほとんど無く、
ある刺激を認識した場合、自分の関与することによる、自分なりの見方、反応と合わせて、
自動的に起こる感情は、並行して刺激に関連した同列の反応として扱われるのだが、
この自動的に起こる感情の反応は、後天的定義の価値とは関係なく、
自分が持つ、固有の定義、遺伝している先天的定義として定義された反応であるので、
後天的定義で直接操作できない反応という事になる。

つまり、後天的定義で補正、修正はできるが、
先天的定義による反応部分の意味付けは、その個体で在る間は、
決まっているという事になる。
厳密に言えば、メチル化修飾などが起こらない限りという事になる。

後天的定義は、実際に経験した刺激と、その反応とその結果によって、
都度、修正や変更が行われるが、先天的定義は変更のしようが無い。

だから、感情などにおいて、感情を表さないようにしていても、それが自分で分かっていながら、
先天的定義による喜怒哀楽を表現する事は起こる事になる。
そして、その事自体は、自分が行った事として、つまり、
後天的定義による反応として、自身の経験として認識される事になる。
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つまり、
感情や愛情の定義としては、
感情は、ある事象を刺激として認識した場合に、
先天的定義で意味付けされた反応として現れる自分の状態という事になる。
また、愛情は、
相手が何らかの良い状態に遷移する事を刺激として認識した場合に、
自身が認識する先天的定義による意味付けがされる、自身が認識する反応の状態という事になる。

少々分かりづらいが、
簡単に言えば、どちらも、
ある事象を刺激として認識した場合に、
先天的定義で意味付けされる、ある反応の状態、という事になる。

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2024/2/11

現時点で私の定義する「愛・愛情」はこのようなものである:

1:同等の知能を持つ対象に対して持つ知的状態の1つである事
2:対象に対して何らかの変化を起こす事
3:2の変化に対して見返りを必要としない、要求しない事
4:自然に愛おしいのが愛情であるという事

刺激としての要素は以下の通りである:

5:感覚器官で認識されないが、先天的定義で定義を持っている事
6:価値が定義されない事
7:刺激量を持つ事

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項目の解説:
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1:同等の知能を持つ対象に対して持つ知的状態の1つである事

物などに対する愛や愛情などと表現される事があるが、
これは愛や愛情として表現する事象ではない。
本来それは、対象に対する、思い入れや、こだわり、であり、
人間特有の対象を擬人化して認識する能力によって生じる表現の借用である。

自然界の人間以外において、同等の知能を持つ対象以外に対して、
愛情のような表現をする種は存在しない。
物に対しての所有や、こだわりとしての固執などは存在するが、
客観的に見てもそれは愛情であるとは表現しづらい。

また、
愛情は、その愛情の結果として、
対象の変化について認識する必要があり、
対象が変化しない場合には、刺激の必要条件の位相差の認識として、
それを愛情の行為として認識することはできない事になる。

さらに、
生体として、現在判明しているホルモンのオキシトシン、
もしかしたら、それ以外にも存在するかもしれないが、
自身が愛情を認識する為のきっかけとなる要素が存在し、
その刺激によって愛情が発現する、愛情を認識するという事も言えるが、
本来のホルモンの発現理由として、
同種の同等の知能を持つ対象に対して認識する、
知的状態が現れる刺激のきっかけとしての要素として考えるため、
その発現対象に対して、同等の知能を持つ対象を必要とすると考える。

よって、
ある知的生命体が、愛情を感じるのは、
その対象として同等の知的生命である必要がある事になる。
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2:対象に対して何らかの変化が起こる事

直接の操作、または一定期間の維持によって変化が生じる事が必要であると考えられる。
つまり、愛情に関連した直接の操作、または、
見守るなどの一定期間の状態の維持によって、
対象に変化が起こる必要がある。

この変化を刺激として認識する事で、
自身に愛情の存在を感じる、認識する事になる。

刺激が認識されなければ刺激でないように、
愛情も自覚されなければ愛情が存在するとは言えない。
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3:2の変化に対して見返りを必要としない、要求しない事

愛は盲目などと言われる事もあるが、
2の対象に対する操作や維持は、
自発的なものであるが、一方的なものでもある。

つまり、
何らかの変化に対して、自身が得るものがある場合、
これは、不足と充足に関わる事になり、
これは愛情の定義から外れる事になる。
つまり、何らかの変化に対して価値の定義が生じる事になる。
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4:自然に愛おしいのが愛情であるという事

愛情は考えて表すものではないという事。
抽象的ではあるが、愛情は自分自身にとって感じるものであるという事になる。

上記における、感情や愛情がある状態として感じるものであるからという事になる。
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5:感覚器官で認識されないが、先天的定義で定義を持っている事

これは、愛や愛情の定義は、後天的定義であるが、
本能において母性愛や家族愛などの定義がされる事象が存在するという事である。
しかし、
安易に~愛などの定義を用いたために、
愛や愛情には種類があり、その一種の様に考えられるようになってしまっているが、
それは、恐らく誤解の元になっており、
各愛情の状態は各個に個別の定義をするべきであると考えられる。

一般的に家族愛などは、同じ親族間において、
生存の為に互いに協力し合う群れなどの集団から生じた考え方である。
実際、自然界においては、生涯維持する種と、独り立ちにより別の群れを作る種があり、
子供の保育、養育期間は家族愛のように見える関係も、
その成長度合いによって変化する事になる。

これは、家族に対する愛情というよりも、
本能に従った反応として考える方が、より自然である。
つまり、種の維持として、子供を育てる、それだけである。

人間は、その行動に、より規範的な、親は、子は、こうあるべきだというような定義を設けて、
複雑化した社会の中における各個の行動を誘導しようとしている事になる。

つまり、社会を構成する上で、勝手な事を行う個体を社会構造の中から取り除く必要が生じたから、
という事になる。

これは社会構造、規模が、複雑かつ拡大したためで、
例えば、自然界において育児放棄するような事は、特別な事ではなく、
自然環境の変化においては、
例えば気候変動で食料が足りなくなったとか、生活環境が破壊された、
等により、当たり前の反応である場合もある。

人間は、そういった状況が頻発すると、
社会構造が成り立たなくなるため、それを罪、犯罪として扱う事で、
社会を維持しようとしている事になる。

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6:価値が定義されない事

価値は選択や思考において用いられる指標であり、
先天的定義によって直接定義されない。

ある状態の認識として感情や愛情を認識する場合は価値が定義される場合もあるが、
感情や愛情自体を刺激として認識する場合、
価値の定義の要素は無関係となる。

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7:刺激量を持つ事

認識されるためには刺激量を持つ必要がある。

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2024/2/14

感情や愛情の発現とその構成

刺激は後天的定義である。
感情や愛情はホルモン等の条件を身体が受容した、その反応として現れる感覚、刺激である。
感情や愛情は先天的定義による定義により発現する。

自分は後天的定義で構成される。

ある状況に対して自分が何らかの感情を感じるのは、
その感情が後天的定義による定義であるという事。
この感情は、本来存在する先天的定義による感情から発展し、定義しなおした感情として、
人間の知能が用いているものであり、本来の意味では感情ではないという事になる。

ただし、対象に対して突然、感情や愛情の定義が関連するという事にはならない。

例えば赤ん坊の我が子を見て、愛情を感じるという場合、
この赤ん坊が我が子でなかったとしても愛情は感じるらしいが、
その刺激の程度は、我が子と他人の子では刺激量や情報の要素が異なる。
これは、後天的定義において、幼い子であっても、
我が子であるという情報の要素が追加された対象の方が、
より愛情に関する刺激量が増えるという事になる。
それは、後天的定義である、「我が子」という情報の要素が、
愛情に関する先天的定義に関連を持つという事になる。

この関連は、刺激としては我が子が誕生する事によって生じる、
対象への情報の要素であるのだが、
生命としての「我が子」に対する先天的定義は、
自身の存続、つまり、人間としての生命の種の存続の為に存在する事になる、
自身の子孫としての定義が加味される事になる。
この定義は、この幼い子である対象に「我が子」である情報の要素が加味されるのだが、
この「我が子」は、より愛情を感じさせる対象となる情報の要素としての、
先天的定義の関連を持つ意味付けが足される事になる。

そして、この先天的定義である「我が子」に対する生命としての関連は、
実際に誕生した、後天的定義である我が子に対して関連する事になり、
この現実の後天的定義の対象である我が子の認識に対して、
その関連する情報の要素、
個体としての後天的定義と、「我が子」としての後天的定義と先天的定義による再構成によって、
この「我が子」である対象の認識に対して、より大きな刺激量を持つ愛情を認識、感じる事になる。

つまり、「我が子」に対して、
後天的定義の「我が子」と、
先天的定義の「我が子」の定義が存在するという事になる。
そして、この先天的定義の「我が子」の定義が存在する事によって、
この幼い我が子に対して愛情をより強く感じるという事になる。

ただし、
対象としての生命の個体としての「我が子」は、
この愛情の関連を抜きにしても認識することはできる。
つまり、
もし、愛情を感じなくなったとしても、生命の個体としての「我が子」は認識できる。

つまり、後天的定義による定義だけであっても、「我が子」として認識できるという事である。

後天的定義の「我が子」の定義であっても、
知能においては後天的に、愛情に関する先天的定義に対して関連を持つという事が出来る。
これは、自分を構成する定義、情報の要素において、
経験として持つ、愛情に関する関連の情報の要素、
この情報の要素に後天的に、ある対象を愛情の対象として意味付け、関連付ける事によって、
後天的に、ある対象と愛情の対象を関連付ける事が出来るからという事になる。
これは、これまで考えてきた自分の再構成において、
自分を構成する要素としての後天的な定義として加えて関連付けていく事になる、
自分に関連する要素として、このある対象を加える、関連付ける事が出来るからという事になる。
そして、それは、
後天的定義が、元は先天的定義の関連によって構成されているからという事になる。

ただし、この場合の愛情の発現条件は、あくまで後天的定義によるものであり、
上記にあるような、先天的定義の我が子が関連した、
生命にとっての我が子に対する愛情とは少し異なる事になる。

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例えば、好き嫌いというのは、
純粋には感情ではないという事になる。

その対象が好きであるというのは、
対象は後天的定義であり、遺伝して知る対象ではない、
自身の好みとして、その対象を認識する事で、
自身の感情として後天的に定義した「好き」という感情というものがあると自分で認識し、
その対象と「好き」を関連付けているというだけになる。
実際は、「好き」を情報の要素で分解し、
後天的定義においては、対象と自分の関係や、
対象に対する後天的定義としての価値、
互いの物理的・心理的状態から、この対象に対する刺激の後天的定義部分が構成され、
さらに先天的定義による反応を抜き出すと、
セロトニンやオキシトシン、ドーパミンなどが存在し、
それらの作用によって、「好き」の元となる刺激の、
先天的定義部分が構成される事になる。
そして、この後天的定義部分と先天的定義部分が合わさって構成された刺激、
この刺激を身体が受容し、刺激として認識した場合に、
意識されるのが、この対象が「好き」であるという状態という事になる。

つまり、この刺激において、後天的定義部分は、単に認識に際して、
対象を構成する情報の要素であり、
それと合わせた刺激として「好き」に関する先天的定義による定義部分が同時に存在し、
同時にこれを1つの刺激として認識する事で、
この対象が「好き」であると知能が認識するという事になる。

つまり、「好き」だけの情報の要素を構成しても、
何が「好き」なのか、知能には分からない、認識できないという事になる。
また、対象だけ構成して認識しようとしても、単に対象が存在するという認識しか行えず、
好きでも嫌いでもない、単なる対象として認識するだけということになる。

という事は、感情や愛情という刺激の認識において、
つまり、ホルモン等の身体的な反応として発現する条件に対して、
知能の選択や思考と関わりない反応が、本来の感情や愛情の定義であるという事になる。

つまり、好き嫌いというのは、
自分にとっての対象の評価の結果としての好き嫌いであり、
対象について自分という個体が感じる感覚を認識する部分が感情ということになる。

つまり、選択や思考によって好き嫌いを定義する事は、
先天的定義の感情で定義される情報の要素を用いてないという事になる。
その評価を構成する上では、先天的定義による反応の状態は、関連して用いているのだが、
好きや嫌いを認識する際には、直接的に評価の対象にはなっていない。

実際、感情や愛情という言葉では、その定義が表現しきれない要素ということになる。
つまり、感情の結果としての好きや嫌い、愛情の結果としての愛は、
それぞれ直接感情や愛情ではないという事である。

感情や愛情が生じるのは、上記のホルモンであるとか、
先天的定義において対象の認識の際に感覚的に受容する、
心理的な自分のある反応した状態、それが感情や愛情の本体という事になる。

人間以外の動物において、例えば犬が、
何かの対象について怒る様子を見せた事、これはほぼ純粋な感情の怒りであると考えられる。
犬は自分が怒っている事に直接的な対応として怒っているからである。
つまり、犬は怒っているが、自分がなぜ怒っているのかは自分で認識、意識、自覚していない。
ただ単に怒る要因があったから、怒っているのである。
では、
人間が何かの対象について怒る様子を見せた場合、
これは純粋な感情の怒りであるのか?

人間の場合は怒りを2つに分けられる事になる。
つまり、犬と同様に怒る要因があったから、怒っている場合と、
怒る要因を認識した上で、選択や思考の結果として怒る場合である。

つまり、カッとなるか、何か目的があって怒るかである。

カッとなって怒る場合は、感情としての怒りの先天的定義への関連する刺激の受容によって、
先天的定義による意味付けの刺激の再構成と、その認識によって、
その直接的な反応と、その状態への移行によって「怒る」状態となる。
何か目的があって怒る場合は、何らかの事象をまず認識する事になる。
その認識された刺激には、先天的定義による意味付けとしての「怒り」に関連した情報の要素が、
含まれているが、直接「怒り」の状態には変化せず、まず事象の刺激として認識される。
その認識によって、同時に再構成された自分にとって、「怒り」に相当する刺激であると評価された場合、
「怒り」の状態を想起することになる。
この場合、先の要因となる事象の認識によって、結果として「怒り」が関連して想起されたことになる。

この2つで何が違うかというと、
原因となる刺激はどちらも存在し、
その認識の結果として「怒り」の状態になるわけだが、
先天的定義による何らかの不利益に対する怒りというのは、
特に「怒り」と決まった状態ではないという事であり、
とにかく、本能的にその状態に対する反応として現れる状態であるという事になる。
客観的に「怒り」の状態に見えるというだけである。
恐らく本当の意味で、本能で怒っている場合、
自分の再構成が行われていない為に、自分が怒っているのか気づかない、
認識も意識もできていないはずである。

一方、刺激の認識後に、自分が感じることになる「怒り」の場合は、
自分が想起する形での「怒り」を表現する事になる。
つまり、自分が「怒る」事を再現しているという事になる。
主観的にも、客観的にも「怒り」の状態であるという事になる。

つまり、怒る原因となる事象が同じであっても、
表現される「怒り」の状態が異なる場合があるという事になる。

つまり、原始的な感情と、知能的な感情が存在するという事になる。

原始的な感情は、生命が知能を持つ初期段階に近い頃には構成され始めている事になる。
つまり、何らかの刺激を受容して、好ましいか、好ましくないか、
つまり、自身にとって良い状態か悪い状態かを判定する機能として獲得する事になる。

この段階では、ある刺激の事象が、良いか悪いかだけの判定ができて、
それに対して最良の選択ができるように自身の状態を変化させる。
それだけの機能である。

例えばボルボックスの走光性は、別に感情というわけではないが、
ある刺激に対して最良の対応を行うという事に関しては感情と大差ない。
つまり、「刺激に対して最良の対応を行う」という点については、
同じという事である。

これが、いつの段階で感情となるかについて考えると、
感情によって表される状態が何について意味を持つか、という事になる。
つまり、感情を表す事は、何らかの刺激に対して、何らかの対象に対して、
自分の状態を示す事、という事になる。

それは、上記の自分が選択や思考によって表現する感情ではなく、
ボルボックスや犬が、ある刺激に対して最良の対応をする事と同じであるという事になる。

ボルボックスと犬において、何か異なる点という事になると、
感情がそれを表す相手が存在するという事の違いがある。

つまり、感情が、ボルボックスの走光性と異なるのは、
その刺激に対する最良の対応が、何に向けられているかという事になる。

つまり、何らかの自分と異なる対象に対して、
自身の最良の対応を表現する事として、
最良の反応が感情となったという事になる。

これは、相手が感情を理解できない存在であれば、
感情である必要はない。
というか、感情で表す必要性が無くなる。
もっと直接的な対応を行うべきという事になる。

感情が効果的である、最良の反応であるための条件が存在する事になる。

つまり、その感情として表現する反応を、
その反応を向けられた対象が認識できるという事である。

つまり、相手が自分の表現する感情を認識できる存在であるかを認識出来る事、
それによって、自分は感情を用いて相手に反応をすることが出来る、という事になる。

つまり、むしゃくしゃして物に当たる、というのは、
本質的に感情ではないという事になる。

つまり、感情を持つためには、何らかの対象を認識できる能力を持つ必要がある。

そして、その対象が感情を理解できるかどうかを判断できるだけの能力も必要となる。

その上で、その上の能力として、
最良の対応として感情という定義を獲得し、
現在の知的生命において、感情という先天的定義として遺伝的に保有するようになったという事になる。

ただし、そこで得られた感情の能力というのは、
ある刺激に対して自身の状態を変化させ、その変化に対してある状態を認識させる刺激を生じ、
その刺激を受容できるようになった、と言うだけで、
つまり、ある刺激に対してホルモンなどを放出し、それによって自身の状態変化を起こし、
その状態変化自体をある状態として認識できるようになったというだけである。
それは、
実際に「感情」を獲得したわけではない。
あくまで「感情」は後天的定義として人間が定義した状態でしかない、という事になる。

つまり、当然の事だが、
感情の元となる状態毎に、その発現する条件を定義することで、
感情や愛情は定義できるという事になる。

ただ、今回分かった事として、
現在人間が「感情」だと思っている「感情」は、
人間が定義した後天的定義としての「感情」であり、
先天的定義としての「感情」には当てはまらないものもある。

例えば「喜び」。
本質的な感情としては充足に対する反応としての感情である。
「楽しい」も充足に対する反応としての感情、
つまり、感情として本質的に存在する要素は、
喜びや楽しいについては「充足」であるという事になる。
逆に「不足」についても感情は関連している事になる。

つまり、この「充足」や「不足」は感情における先天的定義の要素として存在する事になる。

感情として刺激が構成されるためには、周囲の状況、環境、自身の状態、相手の存在、
様々な要因、情報の要素があるが、それらから構成される刺激について、
人間はその刺激の認識に対する反応、自身が認識する反応後の状態として、
感情を認識するという事になる。

つまり、これらの先天的定義と、後天的定義が、
感情や愛情の定義として用いられる事になる。

つまり、改めて今回分かった事として、
今以上に感情を理解する為に、
感情に含まれる先天的定義を探すことが良いという事になる。

つまり、各感情における本能的な反応の要素を探す事である。

それは感情の本質的な要素であり、
感情が生じる経過を知る事でもあり、
現在の人間が認識している感情を理解する為でもあるという事になる。

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2024/2/26

少々まとめると、
感情や愛情は、定義としては先天的定義を基本とするものであるが、
それ自体を、自分や知能が認識するために、後天的定義を必要としている事になる。
つまり、本来、機能としては本能に近いものであるが、
特に人間においては、互いにその状態を認識しあうような関係が構築されたため、
後天的定義を必要とすることになった。つまり、定義を共有する為にである。
しかし、現代においても、その定義はあいまいで、
各個が独自の定義を持っているために、互いに認識の齟齬、認識違い、差が生じることがある。
つまり、自分が思うほど、相手が同じだけ思っていない等の差が生じる。

つまり、定義があいまいであるという事である。

感情や愛情の原因についてはホルモンの分泌などが関係していると考えられているが、
現時点で定量的にその状態を判定する方法がない。
つまり、厳密な認識が出来ない事になる。

ある状態を超えたら感情や愛情が生じる、認識できるという定義が出来ない限り、
人間の感情や愛情も定義できないことになるが、
それは個体差の存在によって、本来定義自体ができないものであるという事になる。

つまり、傾向は定義できるが、そのものは定義できないという事になる。

ただし、先天的定義が存在する以上は、
生命や知能として遺伝する定量的な定義も存在するはずである。
つまり、感情や愛情は定義できないとしても、
その感情や愛情に関連する情報の要素は存在することになり、
この定義であれば、確実に抽出や分類が出来るはずである。

つまり、より生体的な反応、私の今の知識ではホルモンなどによる反応は、
整理すれば感情や愛情の先天的定義の部分の定義として、
分類できるのではないかと考えられる。
これについてはまた後程という事にする。
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少し長くなったので、
今回はこの辺で。


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