2024/2/9~2024/2/12

価値の無い事象としての感情や愛情

結論から言うと、
感情や愛情は、
価値やその判断とは関係の無い事象であるが、
刺激に対する反応として意味のある事象
という事になる。

知能が何らかの対象に対して価値を設定するというのは、
知能の選択や思考における比較のための評価の指標とする為や、
自分自身における欲求などに対する評価の指標として行われる事になる。

つまり、

それは、後天的定義として再構成される自分にとって、
後天的にあらわれる刺激が、どのような価値を持つのか、
どれだけの意味があるかという事についての指標として、
その自分を構成する、後天的定義で構成される刺激の記憶を用いて、
自分自身の判断材料とする刺激の評価を構成することになるから、
という事になる。

つまり、選択や思考においての選択肢の価値を、
自分の過去の経験から構成、定義する事になるからである。

それは、自分の構成が、誕生後に認識される周囲から与えられる情報の要素によって、
自分が構成されるため、その自分を構成する情報の要素において、優劣を決めるための情報の要素が、
周囲、社会においては価値として他の個体と共有されていて、
それを用いて自分を構成する事になるから、という事になる。

つまり、自分の何かの選択や思考において、その材料となる対象を構成する要素に、
価値が含まれている為、それを判断する自分も、その価値の比較を用いて、
選択する必要があるからという事になる。

それは、自分の構成において、何かの対象を比較するには、
価値を用いる事が必要になっているから、という事になる。

つまり、自分を構成する要素を、周囲から得ているという事である。

まあ、自分を構成する要素はそれだけではないというのは、
下の方で説明する。
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選択や思考において、
それを行う必要があるかどうかとか、
それを手に入れる必要があるかどうかなど、
そういった選択における判断の指標として価値が用いられることになる。

348で価値が、情報の要素の1つに過ぎないと考えたが、
知能にとっての価値は、後天的に経験することになる事象の刺激に対して、
その情報塊における情報の要素として、
先天的定義の欲求に関係する情報の要素が関連していた場合に、
自身が、その事象を欲するという点において、
他の事象と比較する際に用いる指標として、
価値を設定する事になる。

つまり、生命体の知能において、
価値は、後天的に経験する刺激が、
その生命体の先天的定義の中に存在する欲求などの
個体において必要となる情報の要素を含んでいる場合、
その欲する度合いに対して後天的に定義される情報の要素の1つという事になる。

そして、この考えの場合、
後天的に経験する事象において、
生命体としての欲求などの情報の要素が含まれていなかった場合、
この事象には価値が設定されない、含まれていない事になる。

つまり、本能で定義される先天的定義と、
欲求などに関与しない後天的定義の情報の要素から構成される刺激、事象には、
価値が設定されない事になる。

価値の定義が、
他の知能との評価基準の共有のためのものと、考えたため、
価値が設定されない事象が存在しても、おかしなことは無いが、
そのような事象があるかどうか考えてみると、
割と少ないのではないかと考えられる。

基本的に価値が定義されるのであれば、
後天的定義において、価値と同等の意味を持つと考えられる、
人間においては貨幣制度、つまり、金銭で評価できる対象には、
価値が設定されているとして構わない事になる。

つまり、金銭の数値で、他の知能との事象についての価値を評価できるという事になる。

では、金銭で定義されない事象で、
先天的定義に関連し、
互いに認識可能な事象があるか考えてみると、
感情や愛情、短期間の情動や一定期間続く気分、
そういったものが思いついた。

これらは、金銭で評価する事象ではないため、
価値が無いと考えられる事象であるが、
先天的定義に関連する刺激として認識され、
認識においては優先されやすい刺激量の大きな事象である。

実際に感情や愛情が金銭で評価できないか考えてみたが、
金銭を貰って嬉しいという感情は生じるが、
感情や愛情自体を金銭で評価できるかというと、
嬉しい事が一定の金額であるというような考えは生じないし、認識も行われない。

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例えば、ある金額をあげるから、喜んでくれという事象が生じた場合、
その事象自体が、ある金額のお金をもらう事と、感情の喜びを対価として繋いでいるようであるが、
実際は、ある金額を貰って嬉しい事と、喜ぶ感情を表そうとする事は、
イコールではなく、それぞれ別の事象として、嬉しく思い、単に喜ぶ感情を演じているだけという事になる。
つまり、お金をもらった事象の認識によって、価値を得た事ににより、
一度その認識は済んでいる事になり、喜ぶという感情は、
その済んだ嬉しい認識に対して反応した「喜び」の感情として現れる事象であるが、
さらに、その感情としての喜びと、「喜んでくれ」という表現としての喜びは、
また、さらに別の事象という事になる。

つまり、結果としてお金をもらって嬉しい=表現としての「喜び」にはなるが、
お金をもらってうれしい<>感情の嬉しいは別物であり、
感情の嬉しい<>表現としての「喜び」も別物という事になる。

どうしてこういう事になるかと言うと、
感情による反応は、先天的定義によって定義づけられており、
ある刺激を認識した場合に、自動的に意味付けられるからという事になる。

つまり、後天的定義のように、再構成された自分の存在などを経由、関与することなく、
自動的に感情の反応が行われてしまうからという事になる。

刺激自体は後天的定義であるというのは、その通りであるので、
刺激が全て先天的定義で構成されるという事はほとんど無く、
ある刺激を認識した場合、自分の関与することによる、自分なりの見方、反応と合わせて、
自動的に起こる感情は、並行して刺激に関連した同列の反応として扱われるのだが、
この自動的に起こる感情の反応は、後天的定義の価値とは関係なく、
自分が持つ、固有の定義、遺伝している先天的定義として定義された反応であるので、
後天的定義で直接操作できない反応という事になる。

つまり、後天的定義で補正、修正はできるが、
先天的定義による反応部分の意味付けは、その個体で在る間は、
決まっているという事になる。

(厳密に言えば、メチル化修飾などが起こらない限りという事になる。)

後天的定義は、実際に経験した刺激と、その反応とその結果によって、
都度、修正や変更が行われるが、先天的定義は変更のしようが無い。

だから、感情などにおいて、感情を表さないようにしていても、それが自分で分かっていながら、
先天的定義による喜怒哀楽を表現する事は起こる事になる。
そして、その事自体は、自分が行った事として、つまり、
後天的定義による反応として、自身の経験として認識される事になる。

だから、ある金額のお金をもらって、喜んでくれという事象が生じたとしても、
お金をもらった時点で、知能は既に喜んでいるのである。

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つまり、これらの感情や愛情などの刺激の認識においては、
価値は設定されていない事になる。
確かに、自分や別の人間の嬉しい様子などのある感情の状態について、
それを共有しようとしても、金額などで定義して互いに認識するようなものではない。

お金をもらう場合に、
自分が予期していた金額より多いか少ないかで嬉しい、哀しいなどの感情が変化する場合はあり得る。
しかし、これはお金の価値として自身がもらうという事についての価値であり、
嬉しいや哀しいを変化させるための価値ではないという事である。

ある価値を得るという事に対して、その事自体は、
感情が生じる事とは異なる事象であるという事である。

つまり、ある額のお金をもらうという刺激と認識、
自身が予期していた、つまり、欲していた基準との価値の比較としての刺激と認識、
その認識によって変化した自身の感情の状態の刺激と認識という事において、
最初の2つは価値が関係する刺激であり、
最後の感情の変化は、刺激量は持つが、価値とは関係のない刺激、認識という事になる。

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刺激→価値がある・価値が無い→後天的定義→先天的定義→認識

価値=後天的定義

価値がある刺激の情報の要素→後天的定義 による意味付け

価値が無い刺激の情報の要素→先天的定義 による意味付け
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刺激は価値があっても、価値が無くても、
どちらも後天的定義であるが、
その定義の意味付けは、先天的定義を用いる定義においては、
価値の有無の部分が異なる事になる。

価値自体の定義が、他の知能と共有するための事象の重みづけとしての意味であり、
その有無によって刺激は分けられる事になる。

感情や愛情は、価値の定義が関連していないが、
先天的定義で、刺激として認識に足る意味付けは行われる。

何か意味があるから喜怒哀楽を表そうとか、
何か意味があるから愛情を感じるという事にはならないというわけである。

ある刺激を受ける、
それに対して自分の感情が現れる、愛情が現れる、
それは思考や選択によって行われるものではなく、
身体が勝手に行っている刺激に対する反応であるという事になる。

つまり、ある刺激に対して、
その刺激の価値には関係なく、
その刺激に対する反応として自動的に感情や愛情は生じる。
そして、それを後から認識する事になる。

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金銭を得る、何かを得るという事象は、
認識において、ある後天的定義である価値を持つ対象を手に入れる事となるが、
この場合、その手に入れるという事は、先天的定義に関連する要素を含む、
不足と充足における価値として、その対象を得る事であるが、
これは、感情としての反応ではなく、その前段階の、
価値を得る充足としての認識であり、
その認識による反応として、感情が生じ、
それを認識して感情として嬉しいなどを感じるという事になる。

対象を得るという事象

認識←不足・充足

関連する刺激・反応

感情・嬉しいという事象

認識

333の「価値の定義について」で不足と充足の価値について考えたが、
不足や充足を意味づける定義は、先天的定義である。

空腹になった、お腹がいっぱいになった、
痛い、心地よい、そういった状態に関わる不足や充足は、
価値に関係なく定義されて認識される状態である。

何を食べようが、お腹がいっぱいになれば、空腹の不足状態の刺激は認識されなくなり、
満腹の充足状態の刺激が認識されるようになる。

これは、知能の選択や思考には関係なく現れる刺激と認識である。

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価値の無い事象としての愛情:

これは定義次第でどのようにも解釈できてしまうという問題が常に付きまとう事になるが、
私の現時点での定義も含めて、次回にまとめようと考えている。

さわりだけ書いておくと、
愛情も感情同様に価値の定義とは関係の無い事象であり、
より本能的な、先天的定義による意味付けにより現れる知的な状態である、
という事になる。

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今回の内容の人工知能に対する考え方:

人工知能が個体としての本能を持たない場合、
人間と同様の感情や愛情は持つ事が出来ないと考えられる。

現状の考察内容において、
後天的定義で感情や愛情を定義できることにすると、
価値の定義によって選択や思考の対象になるという事になり、
別の価値でその表現が抑え込まれたり、逆に呼び出す事ができる事になる。

つまり、何らかの価値をあげるから、何かをやれ、やるな、
という事が人工知能の自我に関わらずその選択を周囲が変更できる事になる。

生命が本質的に何かを好む、嫌うという事は、
その生命における固有の定義を持つという事であり、
それが、その生命の個性や独自性を表すことになる。

新たな知能として後天的定義のみで構成する方法もあるかもしれないが、
現時点では何かしら先天的定義として与えるべき要素があるのではないかと思う。

今回はこの辺で。


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