2024/2/2

刺激と価値の再定義

今日考えていた内容は以下の通り
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午前:

刺激の同時に認識できる情報の要素の数には上限がある。

例えば、特に視覚において、
焦点を合わせた対象を記憶しようとして、
次の瞬間に想起する事は出来る。
一方で、風景全体を記憶しようとして、
次の瞬間に想起する事もできる。
しかし、
焦点を合わせた時の対象の像や情報の正確さに比べ、
風景全体を記憶しようとした際の、
像や情報のぼんやりした具合は、
どうにもならない。
全体に焦点を合わせる事は出来ないし、
全体の一部を思い出そうとしても、
何かぼんやりそこにあるという認識はできるが、
その正確な像や情報を認識する事は出来ない。

これは、ある感覚において、
場合によっては全感覚において、
1つの単位の認識における情報量には限界があるのではないか、という事になる。
つまり、神経細胞の関連としての接続において、
ある時間単位における刺激の存在できる期間として、
その関連する励起の範囲に時間的な制限か、
関連する励起の強さの制限が存在し、
一度に刺激として認識しうる情報に制限が生じるのではないか、という事になる。

つまり、認識は意識を保つ意味で、刺激の再構成を待つというわけにはいかない、
ある瞬間には何らかの刺激を認識する必要がある。
であれば、神経細胞の励起と、その関連する神経細胞の励起において、
ある単位時間に再構成しうる刺激にはある制限が存在する事になる。

という事を考えた。

以前マジカルナンバー7として考えた内容が思い出されたが、
つまり、認識の単位となる刺激は、このマジカルナンバーで表される情報の要素によって構成されるのではないか、
という事である。

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午後:

刺激は価値と刺激量と意味付けによって成り立つ。
意味付けは先天的定義によるものであり、
刺激量は、感覚器官が受けた情報量の大きさであり、
価値は、その刺激が、その個体に対してどれだけの意味を持つかの指標であると考えた。
そして、その意味を持つかの指標は、
不足か充足に対する大きさとして表せる。

しかし、
視覚などの感覚において、単に色を見ただけで、
不足や充足を感じるかどうかと考えた時に、
別に何とも思わなかった。

暗闇に対して不安を抱くというのは、
生物的な本能の定義が存在するし、
明るさは暗いよりは安心できるという認識ができるということは、
明るさと暗さの対比において、
人間の生物的な先天的定義として、安心に関連する定義が存在するという事になるが、
それも、明るい光だけの認識に対しての定義か?それを遺伝して持っているのか?と考えた場合に、
明るい光が安心の定義を持っているわけではなく、
安心や不安の定義は、先天的定義として遺伝して持っているが、
明るさや暗さの定義は、先天的定義であるし、遺伝もするが、
それが直接価値をもつ、つまり、不足や充足の価値の定義であるかというと、
違うのではないかと考えた。

先天的定義は、感覚による刺激の意味付けとしての定義であるが、
視覚における色や、接触、味やにおい、音にしても、
単体では不足や充足を感じるものではない。

つまり、

刺激の先天的定義には種類があるのでは?と考えた。

そこでさらに考えると、

例えば青く着色した食べ物が不味そうに見えるというのは、
別に青自体が不味い意味の定義を持っているわけではなく、
青と食べ物が関連する事で、不味そうに感じると言うわけである。
これは、後天的定義であり、
かき氷のシロップのハワイアンブルーが夏の暑い盛りに美味しそうに見えるのは、
これも青い色の食べ物であるが、
後天的定義が異なるからという事になる。

つまり、青と食べ物が関連していたとしても、
その食べ物の対象によっては、不足や充足の価値の定義が異なるという事になる。
それは、感覚の刺激の情報の要素には、
その関連によって、意味が異なる場合がある、
つまり、その関連によって意味が異なるが、
その元の刺激の情報の要素自体には、
必ずしも不足や充足の価値の定義に関係しているわけではないという事になる。

一方で、食べ物、それ自体は、
生物における認識において、不足や充足の価値をもつ対象であり、
食べ物に関する不足や充足は、先天的定義としての定義を持つ価値という事になる。

先天的定義は、価値を生じない、
つまり、不足や充足の価値を生じない定義と、
生体に関わる、不足や充足の価値を生じる定義の
2つの定義が存在する。

つまり、
基本的な感覚としての五感やそれに類する感覚と、
生体の維持や存続に関する、生体の状態や状況において生じる感覚の刺激は、
ともに遺伝できる先天的定義ではあるが、
不足や充足といった価値の定義においては、
その価値を持つものと、価値を持たないものに分けられる事になる。

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不足か充足に対する指標を表すための程度、
その程度の集まりが、自分、自我になるのではないか。

つまり、ある不足や充足を感じる刺激に対して、
どれだけの価値を有する反応をするべきか、
という定義、つまり、ある状態や状況の変化に対して、
どれだけの刺激量で反応するべきか、
その定義の集まりが、自分や自我になるのではないかというわけである。

つまり、
自分にとっての刺激は、価値を有するもの、
価値を有しないものがあり、
価値を有する刺激に対して、
その刺激が、その個体に対して不足や充足を感じさせる定義が存在し、
その定義は、先天的定義と後天的定義から成り立ち、
その刺激に対して、どれだけの反応を示すべきかという、
その定義を集めたものが、自分や自我の定義と呼ばれるものとなる。

実際にその定義を用いて、ある情報の変化を、
その個体が持つ感覚で受容させた場合に、
その反応は、その定義によって価値や刺激の強さ、そして刺激の意味が定義され、
それをその個体自身が認識することによって、自分を感じ、
その認識した反応によって、自己の反応として、
自身と周囲に、その自分が表現されることになる。

つまり、
ある刺激を受けた、
自分はどのように感じるか、
その定義ということである。

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2024/2/3

つまり、それはこれまで考えてきた「価値観」に繋がることになる。

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今日考えていた内容は、
刺激と自分の関係である。

周囲や自分の状態や状況の変化を刺激として認識するが、
それは、外的な変化と、自発的な変化として分けて考えるべきではないかという事。

周囲→刺激→自分
周囲←(?1)←自分

自分→刺激→自分
自分←(?2)←自分

周囲から刺激として周囲の環境の変化を自分が得る。
自分の状態や状況の変化を刺激として自分が得る。

これは分かる。

であれば、全ての物には二面性がある、という考えにより、
逆に自分から周囲へ発出するものと、
自分から自分に伝える何かが存在するのではないかという事である。
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まず、
自分と自分の関係で言えば、
自分自身の身体の変化に対して、その状態変化を刺激として認識するということは普通に行われている。
お腹がすく、頭が痛い、体が疲れている、
身体の状態、状況は刺激として自分が出力し、それを自分自身で認識している。

認識は再構成された自分が認識するわけであるから、
実体の自分と、認識する存在の自分は別という事になる。

つまり、
実体の自分→刺激→再構成した自分
実体の自分←(?2)←再構成した自分

つまり、再構成された自分から、実体への自分に何かが出力されているのではないか、
という事になる。

考えられるのは「自分らしさ」である。

実体の自分から刺激を受けて、再構成される自分が認識する刺激は、
自分の知能が持つ物理的な神経細胞ネットワークとその関連の強度と、
その意味付けによって、つまり、総合して自身の価値観によって決まる。

つまり、
自身がどのような状態、状況であるのかを、
自身が定義して、それを再構成した自分が認識した刺激として再構成する。

その刺激の認識は、実体の自分が行ったものではなく、
再構成された自分が行ったものである。

しかし、その刺激の認識を行った、再構成された自分は、
その構造全体を、自分の実体において映し出す事になる。

つまり、自分で発出した刺激を、自分の再考生成した自分が認識し、
その認識によって変化した様子は、その再構成された自分を、
実体の自分に反映して表す事になる。

つまり、(?2)は自分が認識した「表現」、
刺激を認識した自分の反応、「刺激への反応」

実体の自分→刺激→再構成した自分
実体の自分←表現(=刺激への反応)←再構成した自分

という事になる。

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周囲と自分の関係においては、
周囲の変化を刺激として自分が受ける事になる。

何かを見る、聞く、香る、味わう、触れる、
そういった刺激である。

この場合は、刺激の存在は、自分ではなく、
何らかの事象、対象の変化が刺激になる。

周囲→刺激→自分
周囲←(?1)←自分

において、自分から発出するものは何か。

周囲→刺激→実体の自分
周囲←(?1)←実体の自分

であれば、

刺激→実体の自分

この要素は、

実体の自分→刺激→再構成した自分
実体の自分←表現(=刺激への反応)←再構成した自分

に繋がるのではないか。

つまり、

実体の自分に対する刺激の入力先は2つ、
周囲か実体の自分が存在し、
その刺激の認識として再構成した自分が存在し、
その再構成した自分からの表現として、
実体の自分か、実体の自分を経由して周囲に表現が出力される。

周囲または実体の自分→刺激→再構成した自分
周囲または実体の自分←表現(=刺激への反応)←再構成した自分

という事になる。

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価値観において、
先天的定義として、
不足や充足の価値を生じない定義と、
不足や充足の価値を生じる定義がある。

それは、自身の変化に対するものであるか、
単に周囲の変化を表すものであるかという事。

つまり、
実体の自分に関わる変化であるか、
実体の自分と周囲の関係に関わる変化であるか、
という事になる。

つまり、
価値には2種類存在し、
1つは周囲の環境と自分に関するもの、
1つは、実体の自分に関するもの、
そして、その定義は先天的定義で全て構成される。
という事になる。

そして、
まあそろそろ「価値」という言葉が多くの意味を持ちすぎて
分かりづらくなってきたので、
何らかの定義が必要になってきている。

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2024/2/4

今日考えていた内容は以下の通り
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価値は知能間で互いに刺激の意味を理解しあうために定義する指標ではないかという事。

価値は、個人内における存在は仮想的な指標で、
知能内で比較に用いるのは刺激量であり、
価値ではない、という事。

価値は情報の要素の1つに過ぎない。

刺激=刺激量+情報の要素
で成り立つという事。
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昨日までの内容で、
どうしても自分で定義した「価値」の意味が納得できなかったので、
引き続き考えていた。

そこで、もし「価値」が無かったら、
刺激はどのようになるのか考えてみた。

昨日までの内容で、刺激は物理的関連と刺激量と情報の要素の3つに分けられていたが、
そこから価値に関する情報を除いた場合、
つまり先天的定義と後天的定義としての、
神経細胞ネットワークの関連となる、
物理的関連を取り除くと、
刺激量と情報の要素になる。

ただ、この刺激量と情報の要素だけでは刺激が成り立たないか考えてみると、
別に問題ないケースが想像できた。

つまり、定義として価値が存在しなくとも、
刺激における神経細胞ネットワークの関連は存在し、
それぞれの情報の要素としての意味付けは出来る。
また、刺激の比較において、刺激量が、その比較の指標として用いられるなら、
認識においても、思考においても問題無いという事になる。

また、刺激において固有の定義は、そのまま物理的な神経細胞ネットワークの関連自体が、
その意味を持つ事になるため、価値が無くとも問題ないという事になった。
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これまで、価値は、知能において何らかの判断をする指標となるものだと考えてきたが、
上記の価値の無い状態であっても、刺激量が、その判断の指標として用いられれば、
別に価値の定義は必要ないと考えられた。
実際、ハードウェア的には、刺激量は、記憶の強さであり、
想起される場合も、その刺激を構成する際のある情報塊の記憶としての定着度ということになる。
これは、認識において、いくつかの刺激が存在し、
その中から認識するべき刺激を選択する場合において、
価値が無かったとしても、その想起による刺激の再現力としての刺激量が決まっていれば、
別に認識においても問題ないという想像が出来た。

では、「価値」は何のために存在するのか考えてみた。

人間社会において、価値を必要とするのは、
貨幣制度であったり、互いのコミュニケーション上での、
何らかの対象への比較が思いついた。

つまり、価値は、個人が根本的に持つ要素ではなく、
互いの共有の上に成り立つ要素ではないかと考えた。

あくまで、個人が用いる「価値」は、
自身の評価における定義ではあるのだが、
その基準は、自身の定義ではなく、
他の価値との協調の上で成り立つ定義が用いられているという事である。

つまり、自身が、ある物に対して1000の価値があると定義したとしても、
社会において、そのある物の価値が10であるなら、
自身の定義した価値は社会上では自身の定義した価値通りの価値にはならない事になる。
しかし、社会において、価値が10の物は、
どのような人が理解する際も、価値は10である、という事になる。
それは、人間が、互いにある事象について、
互いに理解しあうために、ある共通の要素を定義することで、
それらの理解、認識をしやすくするための作り出した情報の要素であるという事になる。

つまり、個の知能において、価値は刺激においては特別な要素ではなく、
単に1つの情報の要素に過ぎないという事である。

つまり、刺激においては、価値は、価値という情報の要素の1つに過ぎず、
それが無くとも刺激は成り立つという事である。

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ということはである。

これまで私が考えてきた、「価値」は、
昨年の8月のまとめでは、
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価値とは:

人間の知能が持つ基本的な機能として行う「比較」の基準となる量。

知能においては「刺激の強さ」がほぼ同じ意味となると考えていたが、
認識の比較基準として価値が用いられ、
価値が設定されるのは「刺激集合」という事になる。
このため、
価値=「刺激集合」に設定される評価
という事になる。
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と定義したが、

現在は、
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価値とは:

社会などのコミュニティ上において、
複数の知能同士が、ある事象について比較する必要がある際に用いられる定義であり、
互いの了解の上で共有して用いられる、比較する指標となる情報の要素である。

「価値」は完全に後天的定義であり、
先天的定義にその要素はない。

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という事になる。

そして、「刺激」の定義においては、

「刺激」=「刺激量」+「情報の要素」

「刺激」=「神経細胞の関連の励起」

で定義できる事になる。

つまり、
「刺激量」+「情報の要素」=「神経細胞の関連の励起」
これが言える事になる。

正確には、
刺激は情報としては単体の存在では無い為、

Σ(刺激量)+Σ(情報の要素)=Σ(神経細胞の関連の励起)
である。

また、
神経細胞の関連=Σ(情報の要素)
であり、
神経細胞の励起=Σ(刺激量)
という事にもなる。

この場合、価値はどこに含まれるかというと、

価値=情報の要素

という事になる。

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これまで価値と刺激の関連についてずっと考えていたが、
ようやく少し納得のいく理解ができたように感じている。

最初の頃、知能は価値の比較であると考え始めた事により、
長らく価値が大きな意味のあるものであると考えていたが、
実際はそれより重要なのは、刺激そのものであったという事になる。

何かを定義する概念を昨年得た事で、
少しは知能の真理に近づけるようになったかな?という感じではあるが、
まだまだ先は長そうである。

今回の内容を人工知能で用いるなら、
人工知能の知能における刺激の単位、
記憶の単位として、各項目を用いるという事になる。

となると、情報の要素についても、
先天的定義と後天的定義に分ける必要がある事になる。

つまり、
基本的に情報の要素は

情報の要素=Σ(後天的定義)
後天的定義=Σ(先天的定義)

であるので、
情報の要素は、先天的定義で全て分割できれば、
個別に全て定義できるという事になる。

先天的定義は、感覚器官の刺激の受容能力と、
遺伝される身体内の感覚と刺激で認識できるもの。

まあその辺については、
また別の機会に考える事にする。

今回はこの辺で。


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