2024/1/29

価値としての情報の要素

思考について考えてた際にも度々登場した価値評価において、
その価値の定義については、その認識は、まだ漠然とした状態であると感じた。

これまで価値は、刺激の強さとして考えてきたが、
その刺激が強いから価値があるという定義についての意味付けが、
正しいものであるかは、まだ正確に理解できていないと感じている。

今回は、その価値がどのようにして価値を持っているのか、
その定義として、その価値に含まれる情報の要素について考える事にする。

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今日、この時点までに考えた事は以下の通り。

価値も認識可能な対象であるために、刺激と同様の情報塊であるという事。

であれば、価値の定義も刺激としての情報の要素から成り立つという事。

価値も刺激と同様の意味を持つなら、情報の要素に分解できるという事。

であれば、価値も後天的定義、そして最終的には先天的定義に関連しているという事。

価値としての意味を持つならば、その要素の定義の末端、つまり、
先天的定義においては、その個体にとっての何らかの良い状態の意味が関連付けられているであろうという事。

つまり、価値は、
知能で理解できる対象であり、
その個体にとって何らかの良い状態の指標であるという事。

何らかの良い状態は、刺激においては本能でも主観でも、客観でも、
思考において、その思考の結果として選択される結果であるという事。

つまり、価値は、
思考において、その選択の指標として価値が用いられていて、
その価値の定義は先天的定義で表せるという事。

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その個体にとっての、
何らかの良い状態が知能にとって価値として認識される。

それは、思考において、
本能であっても、主観であっても、客観であっても同じで、
その結果は、その個体にとっての最も良い対応が結果として選択される。

その選択のきっかけとなるのが、価値であり、
その価値比較によって、選択される刺激が思考の結果となる。

では、この価値は、どのような定義で指標となりうるのか。

知能が、その定義において、良い悪いを決めるのは、
その刺激の定義が、その個体にとって、良いか悪いかという事になる。

つまり、
例えば、本能の定義において、欲求の対象となるような刺激や、
欲求だけでなく、心地よいとか、安心するとか、暖かいとか、
そういった定義も本能における価値になりうる。

欲求に関する刺激だけでないと考えたわけは、
先天的定義において、欲求の関連だけで定義できる刺激だけでは、
刺激全体は定義できないと感じたからである。

考えの最初は、価値だから、それを欲する刺激、つまり欲求に関連する事は、
全ての価値の意味の根本となるのでは、とも考えたが、
何かを保有するとか、単に安心する場所とか、いい匂いとかは、
基本的な欲求だけの刺激の先天的定義では定義できなくて、
基本的な感覚においても、欲求が全てその刺激に関連しているわけではないと考えたためである。

つまり、
本能で定義される、先天的定義としての、
五感や基本的な感覚が、価値には関連しているかもしれないが、
本能においての欲求に関する刺激だけが、価値に関連しているわけではないという事である。

つまり、欲求の定義は副次的なもので、
まず、刺激ありき、価値ありき、という事になるのではないか。

つまり、以前、空腹の刺激は、食によって満足する刺激とは別の刺激であり、
空腹だけを認識する事もできるし、満腹の満足だけを認識する事もできると考えた。

それは、欲求における刺激の定義においても言えて、
欲求があるから欲するのではなく、
不足などの刺激があり、その刺激による最良の対応、反応として選択される定義が、
欲求の価値になるのではないかというわけである。

つまり、知能において、欲求が先ではなく、
先天的定義における不足の刺激が先で、
欲求を感じるのは、本能による思考の結果として選択された刺激として欲求は認識されるのではないか、
という事である。

つまり、価値は、この価値になりうる、ある状態の定義、
それを知能が良い状況、良い状態として価値を定義するのではないか。

結果として、本能、主観、客観の思考において、
その思考の結果としての、最も良い対応、適応の選択が、
この価値の定義を指標として比較され、選択されるのではないかという事になる。

また、この場合において、欲求は、
その思考に先立って認識されるある状態、
不足などの状態に対して、その認識によって、思考を行うきっかけとして働いているのではないか、
という事になる。

つまり、欲求によって思考されるのだが、
欲求の認識自体は、単に個体に対して知能が不足を知らせる状態を表す定義になるのではないかというわけである。

つまり、欲求は状態の刺激であるという事になる。
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不足状態→受容→思考(本能)→結果・不足→
→認識→思考(主観)→結果・欲求→
→認識→思考(客観)→結果・現実的な対応
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そして、この場合に価値として何が価値の定義に相当するかという事になる。

価値が実効力を持つのは、
思考における選択肢に対する価値評価の時点である。

どの選択肢を思考の結果として選択するか。
その指標として価値が用いられることになる。

価値も刺激であるため、その分化は最終的には先天的定義となる。

ただ、意味合い的には、価値は後天的定義であり、
可塑的であり、学習も修正も変更もできる。

今の私の知能における価値の定義の認識は、
自身の個体が持つ固有の感覚器官の受容能力によって、
ある刺激毎に対して定義される、自分らしさとしての刺激の認識における、
1つの情報の要素として、自分にとって良い刺激であるか、
悪い刺激であるかという大きさを要素の1つとして持つ、情報という事になる。

つまり、その刺激が持つ要素として、
その刺激が、自分にとって好ましいか、好ましくないか、
その定義を1つの要素として持っているという事である。

以前の333では、価値の定義は比較する対象によって相対的なものであると考えた。

実際、比較に際しては相対的にならざるを得ないのだが、
ある刺激に対する価値というものは、
その価値を定義する知能によって異なる事になる。

また、
逆に、同じ個体であれば、ある刺激に対する定義は同じものであるから、
価値が1つの情報の要素として関連していれば、
ある同じ刺激が2つ存在したら、その刺激の価値は等しいものとなる。

つまり、333の価値の定義が相対的であるというのは、
価値には異なる定義が存在し、その異なる価値の定義ごとに比較する場合、
相対的になるという事になる。

つまり、価値の定義は「価値」として1つに関連するのではなく、
刺激毎に異なる「価値」の定義が存在するという事になる。

つまり、「価値」の定義と、「(価値の)大きさ」の定義は異なるという事になる。

(上位)
刺激

関連・価値

関連・価値の大きさ
(下位)

であり、

この関連・価値の大きさは、
これまで刺激の強さとして考えてきたものに相当するのではないかと考えられる。

つまり、価値の大きさとして認識されるモノは、
その価値の大きさに相当する、自身の知能が、その上位の価値に多く関連する要素が増える事で、
その価値の大きさは神経細胞としては強化されることになるため、
その価値の認識は大きな、強いものとなる。
それは、価値として強く、大きく認識される事になるのではないか。

つまり、その関連は、知能毎に異なり、その知能を持つ個体が経験し、記憶する、
その記憶される事象に対して、その知能が価値を関連させる場合、
その価値を持つ刺激に対して、多くの関連を持つ事で、
その刺激の価値は大きなものになる。

つまり、知能が価値に対して定義として持つのは、
刺激の要素と、価値の要素であり、
価値の大きさは、ハードウェア的な神経細胞の接続の状態によるもの、
という事になる。

つまり、価値としての情報の要素は、
刺激の種類を定義する要素と、価値であるという定義を付加する要素、
という事になる。

つまり、人間の知能においては、
価値の定義はこの2つであり、価値の大きさは実体のハードウェア機能として表される事になる。

ただし、人工知能においては、この接続の強さも数量で表す必要がある。

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つまり、
知能において、その刺激が価値を持つかどうかという事は、
知能が持つ定義によって可塑的に獲得可能な情報の要素という事になる。
ただし、価値自体の定義は、知能は先天的定義として持っており、
それは知能の思考において選択の際に比較の指標として用いられる要素として存在する。

そして、ある後天的定義として学習する事象に対して、
価値を定義する場合、その事象を定義する要素に価値の定義が加わる事になるが、
価値の定義自体は大きさを持たない。
この価値の大きさを持つのは、知能のハードウェアとしての接続の強さであり、
これはその事象が、この個体にとっての用いられ方によって、
その強さは大きさとして可変可能であり、変化することができる。
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つまり、ある事象に対して価値があるかどうかという認識は、
知能においてはすぐに感じられる要素である。
それは刺激の定義に直接関連している要素であるからである。

ただ、その価値がどのような強さや大きさであるかを認識するには、
別の比較する事象の価値が必要になる。

という事になる。

だから、価値は同じ価値であるが、
その価値の大きさの定義が異なるため、
貨幣価値で別の価値を定義できたり、
愛と命を比較したりできるという事になる。

今日はこの辺で。


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