2024/1/22

思考における意識的な思考の違い

344で思考について考えたが、
最後の方で、思考には程度が存在すると書いた。

つまり、思考と一口に言っても、
そこには何らかの差があるという事になる。

それについて考えていると、
意識的に思考をするというのは、
特に何かが違う感じがした。

一応先に考えていた事を書いておくと、
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意識的な思考は、客観的に思考ができるからではないかという事。

つまり、主観だけでない、
見方の条件を変えた思考ができるからではないかという事。

それは条件によって様々な対応ができるという事。
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なのではないかと考えた。

それはつまり、
生命が知能における本能や思考という機能として、
ある変化に対する最良の対応を選択する事が出来るようになる事を獲得した。

この場合、思考は、
ある変化を刺激として生命が受容できるようになったとして、
その刺激に対する最良の対応を選択する機能ということもできる。

そして、本能や思考においての短時間で少ない最良方法を選択するという事に関しては、
意識的な働きは、受動的で、選択の後に認識、意識しているように感じるのだが、
その思考自体を認識しながら行っている時、
つまり、今自分が思考していると感じながら思考している際の、
その思考の働きは、本能や馬鹿の1つ覚えのような非常に選択肢の少ない中から対応を選択する事ではなく、
自身の記憶にある様々な対応から1つを選択するような場合、
その意識的に選択しているような感覚の部分が異なっている、
差として生じている事になる。

この差は何なのかという事である。

そして、気づいた事は、
認識に際して、刺激の再構成に合わせて、
自分の存在を再構成しているという事、
それはつまり、
刺激を意識の中で用いているという事は、
思考している際に認識された刺激と合わせて、
自分の存在も再構成されているという事。
つまり、
自分が思考していると感じながら、その思考している対応の刺激について、
自分も合わせて認識していると感じるという事である。

つまり、思考の際中に、自分の存在、自分の存在の視点が存在する、関連するという事になる。
これは意識的には、自分の存在の視点の存在は、
自分が思考と同時に存在する事、
自分がその思考を行っている事、
自身がその刺激を意識していると感じる事である。

つまり、意識的に思考している際、
その思考している対象の刺激やその対応を、
自分の存在として再構成しているものが、自ら意識して見ている、思考していると感じるという事になる。

その感じは認識であり、意識になるのだが、
つまり、本能などと違う、意識的に思考している際に感じる違いは、
その視点、自分の関わりになるのではないかというわけである。

この視点は、刺激などで考えた本能などにおける主観ではなく、
認識における再構成された自分という客観である。

つまり、
思考における意識的な思考には、
思考に意識を介在させる事で、客観的な視点を得る事になる。

それはつまり、意識において再構成される自分の存在の条件を変えれば、
思考において最良であるはずの対応が変化する、
つまり、最良の対応の選択を変えることが出来るという事になる。

それは、適応という点において、周囲の環境が変化した場合、
自身の手持ちの経験、記憶が少ないなどの制限があった場合にも、
変化した条件に合わせたより良い最良の対応に近づけられる可能性を持つ事になる。

意識的に思考しない場合は、
本能にしろ、思考にしろ、
先天的定義の定義、または、これまで経験した事のある記憶としての対応から
選択を行う事になるが、
それは意識的でないために、ほぼ知能が自動的に選択する事になる。
知能はその選択が最良であると定義されているから、最良である経験であるから、
それを選択するのだが、
実際にそれが最良であるかどうかは一か八か実際に実践して試す事になる。

まあ、ほとんどの条件においては最良であるという認識がされるため、
結果がどうであれ、自身は最良であったと認識するしかない。

ただ、もし、これが意識的に思考できると考えた場合にどうなるか。

当然、選択には時間がかかる。
これは意思的に何かを行う事自体、時間のかかる事である。
以前も、何かを飲みたくてコップに入った液体を口に運ぶという事について、
目的はあるが意識的に行っているというよりも、自動的に行っている事がほとんどという例も挙げた。
もしこれを意識的に行うとしたら、コップを持って、持ち上げて、口の近くに落ちないように運び、うんぬん、
という非常に手間のかかる操作になる。

それは思考においても同様という事になる。
意識的に思考するには、思考の対象の刺激を認識し、意識し、その意味を理解し、
今の状態におけるその刺激に対する条件や状況を認識し、それらを関連付けた上で、
選択肢を想起、再構成し、自身の状態に対する最良の選択肢であるか価値を評価し、
その価値の評価の最も高い価値のある選択肢を、思考の結果として認識、意識する。

さらに、同時に自分の再構成によって、その刺激や思考と自分との関連まで想起されることになる。

今思いつくだけの意識的な思考の内容だけでもこれだけある。
実際は、条件は時間によって変化するし、関連した記憶を想起すれば、
その想起された刺激に関連する刺激の想起が起こり、
さまざまな事を想起、認識、意識する必要か生じる事になる。

思考自体は目的として認識される状態が維持されるため、
その間に行われる知能の活動は、全て思考している間の事として認識される。

意識的な思考と、そうでない思考にはこれだけの違いがあり、
その違いの特徴的な部分が、この主観と客観の視点の存在の違いという事になる。

2023/1/23

つまり、
本能や主観的な刺激に対する最良の対応を決める事は、
知能が持つ既存の、手持ちの方法から、その対応を選択する事になるが、
意識的な、客観的な、刺激に対する最良の対応を決める事は、
意識的であるという事による、基本的には自分が再構成されるのだが、
自分の思考でありながら、
自分という客観的視点、その評価から、その最良の対応を決めるという事になる。

そして、その自分の再構成に構成条件を変化させることが出来るという機会が付属する事になる。

つまり、試行が出来るということになる。

本能に試行はない。

特定の刺激に対する対応の定義そのものが本能であるから、
選択の余地は無い。

主観的な選択にも試行はない。

特定の刺激に対する対応は、その経験による定義であるため、
定義の変更や修正はできても、選択に際して、その対応は自動的に決まり、
意識が介在する余地は無い。

しかし、意識上の思考であれば試行ができる。
試行は、選択された対応の価値評価ということでもある。

つまり、一見冗長な処理のように感じるが、
意識的に刺激に対する対応をシミュレートできるために、
実際の対応を行う際の選択に対して、より用意周到な準備が出来ているという事になる。

それは、知能において自ら気づくことは無いが、
どのような状況、状態においても、その刺激の関連が複雑で多様であっても、
その関連付けを行う事で、いかようにか、その対応を生じることが出来る。
つまり、どのような状況に対しても、何らかの対応を決めることが出来る。

その点が異なるという事になる。

つまり、
刺激の再構成において、
ある刺激に対する対応は、本能であれば、知能は介在しているが、
その先天的定義によって定義は決まっており、
思考の介在する余地なく、その反応や対応は決まっている事になる。

主観的な対応の選択も、知能は介在しているが、
介在する余地のあるのは、初回の選択できない機会の経験と、
その結果の経験を記憶するという事、
そして、以降の同様の機会においての結果としての選択と結果の評価の変更、修正だけであり、
選択の瞬間においては、思考は介在していないという事になる。

これらは、自動的にその選択が決まっており、
認識、意識された時には自身がそれを決めたように認識、意識される。

そして、
意識的な思考においては、
ある刺激に対しての対応は、刺激の再構成のみであり、
思考対象の刺激と、その対応は、認識、意識しながら都度修正、
つまり、その関連する想起が変化する事になる。
それは価値評価についても同じであり、
認識される、意識される刺激としての状況、状態毎に、
その対応として、思考された結果としての選択、
それぞれに思考した結果としての価値評価が行えるという事になる。

つまり、条件としての設定を変える事、
結果としての対応に対する予想される価値評価について、
正しい選択となるかどうかは別として、
予め結果を試行できるという事になる。

ということは、それは予想や想像、
そういった知能の用い方としても、
この意識的な思考が用いられているという事になる。

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2024/1/24

基本に立ち返り、
意識的な思考がどのように生じるようになったかについて考えてみた。

例えば人間以外の動物で、
このような思考が関与する性質について考えた時に、
本能や経験という共通の要素を取り除いた時、
何が残るか考えてみると、性格や個体差のような性質が残っている事になる。

つまり、
例えば犬や猫を飼っているとして、
その個体は個体毎に性格が違っているということは普通にあり得る。
同じ兄弟だったとしても、さらに同じ環境で育ったとしても、
その個体毎に個体差は存在する。

それらの個体が人間のような思考は行っていないとして、
自我のようなものが確認できないとしても、
個体差は生じるのである。

感覚器官の形成や、同じ場所にいても異なる刺激の強さなどによって、
構成される記憶の経験が異なるため、その上に成り立つ個性や性格に、
違いが出るという事も考えられるが、
人間より自我の認識を行っていない動物において、
それらの違い、差というものは、個体差として大きな差として生じると考えられる。

つまり、人間のように自分を認識していなかったとしても、
本能以外の要素として個体差の差は生じ、
それは主観的な思考においても、思考の結果の選択の差にも影響すると考えられる。

そして、この差において、
自然界において、適応という観点と、種の維持、存続という観点を合わせた時に、
客観的な思考に繋がる要素として、自分の存在との関連で、
何かきっかけとなる要素は無いか考えてみると、
自我、我欲という点が、自分がその環境において適応、維持、存続に有利に働く要素になる事が思いつく。

つまり、自ら欲して適応する事、
環境に能動的に適応するという事である。

本来、生物は、環境の変化に対しては受動的な適応をする。
適応が上手くいけば繁栄し、適応に失敗すれば淘汰される。

この機会に対して、もし能動的に適応する能力が存在すればどうか。

隕石が衝突するなどの急な変化に対して適応するのは無理だが、
緩やかな変化であれば、
生活圏を少し移動する、食べるものを変化させる、
実際何が変化するにしても、適応は出来るようになると考えられる。

これは自然界であれば、個体の変化として、
現在は突然変異やエピジェネティクス的な考えで、
適応できるという事になるが、
もし、
個体が変化しなくとも、周囲の環境を能動的に変化させる事ができれば、
適応として十分機能するのではないか、という事になる。

つまり、寒かったら暖かい所に移動するのではなく、
体の周りを何かで覆う、服を着る。
食べ物が無かったら縄張りを捨てて別の地に移動する。
危険が多い土地であれば、そもそも住処を遠くの土地にでも移動する。

およそ人間以外の動物が短期間には適応できない変化について、
人間はその適応が出来ている。

つまり、この能動的な適応が、
意識的な思考と関係しているのではないかという事になる。

つまり、
変化の刺激に対して最良の対応を選択する事が思考であるなら、
思考は変化に対する対応という事になる。

ということは、
思考する事が適応であるのなら、
意識的であることは、能動的であるという事になる。

つまり、
能動的であるという事は、意識的である、
つまり、想起の刺激の再構成によって、
刺激と自分を再構成する事は、
刺激の認識と自分の認識をすることになり、
その刺激と自分の関連は、自らが能動的であると感じる事、
つまり、刺激と自分を認識する事が、能動的である、
自らが行う何かであると認識する事、
という事になる。

つまり、
意識的な思考に、本能や主観的な反応との違いを感じるのは、
自分の存在が関係していて、
その思考における適応の機能と、自分が関連することによって、
意識的である、能動的である、という認識に繋がる。

つまり、
意識的であることは、自分の存在の関連によって生じるという事。

つまり、
認識において、刺激と自分を関連付けて認識することで、
意識となる。
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(刺激+自分)→認識=意識
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という事になる。

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思考における意識的な思考の違い:

今回の話をまとめると、
思考における意識的な思考が何か異なっているという点は、
刺激に対する対応を選択する過程で、
自分の存在が関与する事という事になる。

それによって自分にとって関連する刺激として認識される変化が、
自分にとってどのような価値を持つのかという評価に繋がり、
これを意識的に行う、つまり能動的に思考を行う事によって、
自分自身の存在に対する変化としての対応を選択する、決めることになる。

これは、自然界において獲得してきた本能や、
その発展した主観的な思考ではなく、
さらに一歩進んだ、客観的な思考であり、能動的な思考として獲得した機能という事になる。

それは、適応としては時間がかかるが、
その余裕を持った人間は、その適応としての候補となる選択肢を、
自ら持つ定義を組み合わせる事で、新たな定義として、その対応方法を作り出し、
試すことが出来るという事になる。

つまり、能動的に適応できる機能という事になる。

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人間における意識的な思考が、
現在のように抽象的であるように感じるのは、
その変化や価値の定義が、かなり後天的定義として抽象化された結果でもある。

本来、本能や主観的な思考で、特定の刺激にだけ対応を選択すれば良かった知能が、
人間の知能において、そして現代の様に価値の多様化、刺激の抽象化によって、
実際に存在しないような抽象的な概念、にまで価値が設定されるようになった。

そのおかげで、これだけ知能が発達したとも考えられるが、
ここで人工知能への適用に立ち戻ると、
人工知能が意識的な思考を行うためには、
刺激は当然だが、自分の再構成は必須という事になる。
認識自体は、刺激の定義であるため、定義自体も必要となるが、
逆に考えると、刺激と自分の定義、
その再構成による再現ができれば、
機能的な要素としては揃うということになる。
その他に、我欲としての自我と、その価値の定義も必要となるが、
それらは定義であるので、機能としては、
刺激と自分の再構成する機能が優先されるという事になる。

つまり、刺激の再構成の場という事になる。

実際、意識的な思考が、
自分にとっての刺激に対して、
どのような対応をしたら良いか決める事なので、
機構としては割と単純である。

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2024/1/26

今回の内容のまとめ:

意識的な思考が、思考の機能において、
何が違っているか、思考自体の分類についてまとめると、

刺激に対する最良の対応を決める事・選択を思考とした場合、
思考はおおよそ3種類に分ける事ができて、

1:本能による選択
2:経験による選択(主観的な選択)
3:意識的な選択(客観的な選択)

この3つに分けられる事になる。

本能が知能であるのか?、思考であるのか?という事に関しては、
知能が、ある変化に対する最良の対応を選択する機能であると考えた場合、
本能も知能の一部であると考えることが出来る。
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1:本能による選択

先天的定義で定義された、
遺伝される定義として、
特定の刺激に対して、特定の反応や対応が自動的に選択される事。

暗闇が怖い、火が熱ければ手を引っ込める、
空腹でお腹がすいたと感じる、
こういった反応の事である。

生まれ持った、
特定の刺激に対する特定の反応が示される事である。

2:経験による選択(主観的な選択)

主観的な選択とも言える。
刺激に対する瞬間的な「感じ」を覚える事。

後天的に得た経験や機能において、
後天的に得た適応や習慣などにより、
特定の刺激に対して、特定の反応や対応が自動的に選択される事。

逆上がりの方法や、自転車の運転方法、
自宅への帰り道など、後天的に得た経験として記憶した内容が、
ある状況や状態の刺激によって自動的に想起、認識される事。

生まれた時には保有していないが、
その後の活動の中で得た、
特定の刺激に対する特定の反応が示される事である。

色の好み、味の好み、様々な習慣、
これらは後天的に得たもので、
記憶であるため、修正・変更が可能である。

3:意識的な選択(客観的な選択)

客観的な選択とも言える。
刺激の再構成の場において、自分がその刺激に対して選択する対応を決める事。

1や2が感覚器官から受容された刺激をきっかけにしている事に対して、
意識的な選択は、想起による刺激をきっかけとして行われる思考となる。

状況や状態についても想起された刺激を元にしていて、
意識的であるという事に対して、自分の再構成された存在の視点によって、
つまり、自分として再構成した存在が、その想起された刺激を受容した場合として、
その刺激自体が認識される。

そして、その刺激に対しての反応や対応が、関連する励起として想起される刺激として現れ、
その刺激の内で、価値評価の高い対象が認識される事で、
思考した、選択したと認識、意識される事になる。

ある分かれ道で右に行くか、左に行くか考える事はこの思考である。
これらは本能では選択されないし、経験や習慣によって選択されるものではない。
以前右に行ったから、右へ行く、左へ行くというのは、この場合においては経験ではなく、
その経験を想起した後に想起される自身の選択が価値評価として判断されている。
つまり、2の思考は、
ある状況の刺激に対して、思考を試す余裕が無い思考であるとも言える。

つまり、1と2の違いは、2と3の違いよりも大きい、
つまり1は特別であり、2と3は似通った部分もある。という事になる。
これは、刺激の定義において、先天的定義と後天的定義を元にしているかの違いという事になる。
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今回はこの辺で。


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