2024/1/14

何かを理解するという事

何かを理解するという事は、
何かの事象を自分が持っている定義で分割し、
その関連付けを行う事という事になる。

つまり、何かを理解するには、
自分がその理解する対象の事象についての定義を全て分割し、
その関連付けを行うことが出来る事が必要となり、
最終的に先天的定義の関連で全てを定義するという事になる。

つまり、自身が持たない定義で対象を定義する事、
理解する事は出来ないという事になる。

つまり、誕生して後、赤色を見た事の無い知能に対して、
赤は理解できない事象という事になる。

それは、人工知能についても同様であり、
例えば痛覚の無い人工知能は、痛みを理解することが出来ない。

それは例えば感情であっても同様であり、
人間が感情を理解できるということは、
人間の知能は、感情を先天的定義の関連で関連付ける事ができているという事になる。

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定義の分割:

事象→情報→要素→定義→後天的定義→先天的定義

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認識の為の再構築:

先天的定義→後天的定義→要素

要素←関連付け→要素

関連付け→刺激の再構築→刺激→認識
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実際には、ある事象の認識においては、
感覚によって見たり、聞いたり、する事になるが、
その、見たり、聞いたりした際には、
知能は、その事象がどのようなものであるのか認識する事になるが、
その事象の刺激としての受容から、刺激としての認識に至るまでの間に行っている事は、
感覚器官で受容可能な情報の要素への分割と、
認識するための想起の際に行われる刺激の再構成という事になる。

脳内の神経細胞の働きとしては、
刺激の受容に際して励起される事というのは、
そのまま刺激の要素、定義への分割であり、
その励起は、同時に、認識する為の刺激の再構成の為の働きという事にもなる。

この辺りの考え方は、認識の二面性の件や、
自己の存在の構築という事も関係する事になる。

だから、見たり、聞いたりしても良く分からない、
知らない、意味が分からない、という状況は、
事象について定義の分割が上手くできていないか、再構成が出来ていないかという事になる。
それは、分からない事を認識しているという事から、
刺激の再構成としても、
刺激としては再構成が出来ているが、
理解には成功していない状態で、
つまり、認識しているが、意味が分からない事象であるという状況である。

つまり、ある事象の確定的な要素の定義の関連付けが、
自身の知能にとっての固有の定義として関連付けできていないという事になる。

例えば、私は芸術については素人であり、
詳細で精細な絵についてはすごいとか、きれいとか、そういった認識はできるが、
その程度の理解しかできていない。
どのような事が芸術的であり、価値があるのかという事については知識も経験もほとんどないため、
芸術作品に対する理解ができないと言える。

つまり、私にとっての芸術的である、という理解は、
なんだかすごい、きれい、という認識ができる定義を持っていて、
芸術作品に対して、そういう感覚の定義は持ち合わせていて、
自身の認識としてそういう感覚においては芸術的であるという認識が出来るという事になる。

しかし、専門家が定義するような、芸術的な定義や価値においては、
私はそれらの定義を持っていないために、芸術的であるというような要素を、
その芸術作品に対して関連付けて認識する事ができないという事になる。

つまり、私は世間で価値のあると考えられている抽象画のような作品を見ても、
それらの価値は理解できていない事になる。

2024/1/17

まあ実際の所、価値は定義する者の存在によっていかようにも定義できるため、
著名、有名な人物が価値があると定義すれば、
周囲の人たちも価値があると認識する、せざるを得ない事になり、
その対象に対する価値が定義される事になる。

刺激に対する本質的な価値は、
その知能がその刺激に対して大きく強い刺激を受ける事であり、
100人が100人、ある事象に対して同じ様に刺激を認識するわけではないので、
知能毎に価値の定義は異なっていて当然という事になる。

それでも、
人間の知能が、皆が皆、同じ様に大きく強い刺激を受ける事象として考えれば、
より先天的定義に近い刺激、つまり、本能に近い刺激として、
基本的な欲求に関わる刺激という事になる。
これらの刺激は、人間の個体差に大きく関わらず、
大きく強い刺激に対しては、大きな価値を認識する事になる。

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理解するという事は、
刺激の情報の要素への分解であり、刺激の再構成であると考えたが、
であれば、それを思考、後天的定義においての対応として考えた場合、
先天的定義で理解できる刺激と、
後天的定義で理解できる刺激に分けられる事になる。

つまり、本能が先天的定義で定義される刺激に対する理解の方法であると考えた場合、
思考は後天的定義で定義される刺激に対する理解の方法であると考えられる。

本能は、ある刺激に対して個体固有の決まった反応を起こすことが先天的に定義されており、
その刺激の分解も再構成も遺伝的に定義されている事になる。

だからこそ、本能として決まった刺激に対して、個体差のほとんど影響の無い、
決まった反応を示すことになるが、
これが後天的定義としての刺激に対する場合について考えると、
後天的定義は、個体によって保有する情報の要素、
つまり経験した事のある刺激と情報によって、その構成や要素の量は大きく異なる。
また、個体差によって、同じ刺激に対しても分解できる要素と再構成される関連は多少異なる事になる。

理解する事、それ自体は、本能であっても思考であっても、
後天的定義または、先天的定義で分解し、
再構成する事と言えるが、
先天的定義における本能は、個体差の影響は少ないが、
後天的定義における理解は、個体差の影響が表れやすい事になる。

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理解の定義について:

理解したと感じた時には、はっきりとした刺激の認識が存在する。
つまり、1+1=2を理解する事と、
フェルマーの最終定理を理解する事は、
その情報の要素の数や構成は異なるが、
理解する事自体の認識においては、同じ「理解した」という認識になる。

つまり、人間の知能が定義できる情報の要素において、
これ以上分割する情報の要素を持たない、基本的な情報の要素で全てを分解することができて、
それを自身の知能が再構成出来る事、その事によって、ある事象を「理解した」という事になる。

当然、ある事象においては、本質的な刺激が存在する。
つまり、1+1=2が、各数字と記号の関連である事と、
数式として成り立つ情報が定義されているという事、
それらを情報の要素で分解し、数式として認識できる形で再構成出来る事。

そして、3以上の自然数において、
X^n+Y^n=Z^n
となる自然数nは存在しないというフェルマーの最終定理においても、
条件や法則(背理法)によって、このnという数の存在が在りうるかどうかという事について、
どれだけの定義がその理解の間に存在するかは私は理解できていないが、
現在は人間の知能が理解しうる情報の要素の分解と、再構成が出来る事象として認識されている。

私自身の数学の知識においては、この式が3以上の数では成り立たなそう、
という程度には理解できるが、それは本質的な理解ではないという事になる。

つまり、思考における後天的定義においては、
証明の出来ない事象についても、その一部の理解が出来るという事になる。

つまり、私の知能はフェルマーの最終定理を本当の意味で理解し、
証明する事は出来ないが、フェルマーの最終定理自体を構成する要素については理解できているという事になる。

つまり、私の知能は、フェルマーの最終定理を情報の要素には分解出来ていて、
問題自体は理解できているが、
刺激として再構成する要素が足りていない事と、
刺激が再構成ができない為に完全に理解できていないという事になる。

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という事は、
理解には情報の要素に分解する理解と、
刺激として再構成する理解の2つが存在するという事になる。
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正確には、1+1=2を証明するためには何やら数学的な定義が必要らしいのだが、
確か0の次が1であり、1の次を2と定義して、
+を前の数字のいくつ後の数字として定義する記号であるとか定義した場合に、
1+1が0の次の1と0の次の1つ次の数字を足し合わせる事であるから、
0の次の次の2であるというような証明であったと思うが、
当然、フェルマーの最終定理についても同様に、
人間が理解できる定義で再構成できる事が証明されているという事になる。

理解の定義においては、
例えば非ユークリッド幾何学においは、
ユークリッド幾何学における平行の定義は成り立たない。
しかし、非ユークリッド幾何学自体は人間の知能においては理解可能な定義として存在する。

また、重力などによる重力レンズ効果などにおいては、
客観的には光の直進性であるとか、直線や平行の概念からは外れているが、
実際の空間としては光は直進し、直線や平行が成り立っているはず、という事になる。

つまり、定義によって理解自体の定義も変化する可能性があるという事になる。

であると、理解の定義においても、
情報の要素に分解する理解と、
刺激として再構成する理解が存在する、
という条件は定義できるが、
実際の理解の定義は、その定義によって構成される情報の要素毎に異なるという条件も付属する事になる。

ただし、自然法則は、
人間の知能が定義する情報の要素として、
先天的定義のように、ある定義以外に別の定義ができないという固有の定義として存在する為、
この世界に存在する固有の定義として定義できる事になるはずである。

これも、実際、人間である私の理解が後天的定義によるため、
本来存在するはずの自然法則の定義と同じ定義で理解できているかの証明ができないため、
「はず」としてしか書くことが出来ない事になる。

まあこの辺の話はこじつけに近いものであるので、
人間の知能においては、自然法則であっても、他の事象の理解であっても、
確からしいという証明によって理解することができれば、
それは人間の知能における固有の「理解」として定義して良いと考えられる。

という事はである。
人間の知能における「理解」の定義は、
ある事象に対して感覚器官で受容できる刺激の先天的定義による
情報の要素の分解と刺激の再構成、
または、
ある事象に対して想起で再構成される刺激の後天的定義として、
情報の要素の分解と刺激の再構成、
この2つ、直接受容される刺激と、想起によって再構成される刺激について、
知能を持つ個体が保有する定義、先天的定義と後天的定義によって、
分解と再構成できた場合に、
ある事象についての「理解」が成り立つという事になる。

ただし、自然法則以外の事象に対する「理解」は、
知能の個体差が存在する為、ある事象に対して1つの定義だけが存在するわけではない。
という条件が付属する事になる。

簡単に言えば、
地球上であなたと私が対面し、
リンゴを地面に落とした場合、
そのリンゴの挙動は自然法則で互いに同じ様に理解できるが、
地球とリンゴが互いにどれだけ引き合ったとか、
単にリンゴが地上に落ちただけ、という理解については
あなたと私で、異なる理解をしているかもしれない。
という事になる。

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理解と思考の関係:

先天的定義による理解は本能の定義によって決まるという事になるが、
後天的定義による理解は思考に用いられる情報の要素とその関連、
その記憶となる定義によって決まるという事になる。

ある後天的定義としての事象について刺激として認識し、
その最良の対応を思考して選択・決定する事を、
理解するという事と定義した場合、
思考における情報の要素は、
知能が経験し記憶している刺激の記憶から、
ある事象によって励起、再構成時に参照される情報の要素という事になる。

それは、各個の知能が個別に認識した刺激の記憶であり、
個体毎に固有の認識、理解をした刺激であり、
理解したある事象に対する情報の要素、とその関連であり、
知能を構成する為の全ての情報の要素から対象となる一部が用いられるという事になる。

人間の知能は、その個体に限らず、知識や知恵として、
過去に同じような人間が経験してきた刺激を記録として残し、
それを後の世代が参照し、人間が代々認識してきた刺激として知る事になる。
それらは、後代の人間の知能の構成要素ともなり、
新たな発見や定義による情報の要素とその関連が足され、
さらに次に続いていく事になる。

それらはほとんど全てが後天的定義であるが、
一部の自然法則も含めて、自然界に存在する事象、
人間社会における事象についても定義し、記録として残している。

思考は1代限りのものではなく、
人間においては常に後の世代が、よりよい思考ができるように
前の代の経験として記録が残されている。

つまり、現在の人間の知能とその思考は、
その個体が得るであろう周囲の環境に存在しつづけた定義、
そして、新たな経験となる、
周囲の環境に現れる事象の刺激によって行われる定義、
それらの情報の要素とその関連の定義によって構成されることになる。

まあ要するに、
その人間が誕生する環境に代々続いてきた定義と、
新たな経験によって得た定義によって、
その人間の思考が出来上がり、
その思考によって、ある事象に対する固有の理解が行われる事になる、
というわけである。

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理解と思考の関係については、
どちらが卵でどちらがニワトリかという事にはならない。
その前に先天的定義である本能があるからである。
どちらも本能の定義の上に成り立つものであるので、
あえて最初のきっかけを定義するのであれば、
刺激の記憶ができるようになった事、
それが理解と思考の誕生のきっかけという事になる。

人工知能における理解と思考を実装するのであれば、
機構としては、先天的定義と後天的定義の実装、
それによる刺激の情報の要素の分解と、
刺激の再構成の場における、存在の再構成の機能を必要とする事になる。

認識において、その対象が認識されるかどうかは、
その知能がその対象についての価値を定義するか、
つまり、強いなどの刺激を受けるかどうかという事になり、
その価値の定義も機能として必要になるという事になる。

この価値の定義においてはまた別の機会に考える事にする。

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2024/1/19

上記の2つの理解という点についての補足:

ある事象について理解するという事について、
ある事象自体の存在を理解する事と、
その内容、つまり、事象が持つ本来の情報の要素を理解する事に分けられる、
と書いたのだが、

つまり、上記では、ある事象についての存在を理解する事と、
ある事象が持つ正確な情報の要素についての理解であると考えたが、
では、その事象の存在自体にも情報の要素は含まれているであろうという事に気付く。

つまり、
事象それ自体は、
1+1=2の理解においても、その存在と情報の要素は含まれていて、
何かの「問い」について理解する時も、
その「問い」の存在と情報の要素は理解する必要があるという事になる。

つまり、
ある事象の理解は、2つの理解ではなく、
理解する対象のくくり、
つまり、対象の範囲によって理解の範囲が変化するという事になる。

つまり、
「問い」だけを理解する事もできるし、
「問い」と「答え」を合わせて理解する事もできるという事である。

そして改めて「理解」について考えると、
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「理解」とは、ある事象について、
自身が持つ情報の要素の関連で分解と再構成の出来る範囲で、
知能が認識できる刺激として再構成される範囲について
「理解」が出来る事、
つまり刺激を認識する事。
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という事になる。

だから、問いが理解できて、答えが理解できない、
という2つに分けられるという事ではなく、
問いは問いとして理解される。
答えは、その問いに関連したまた別の事象として理解される。
という事になる。

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理解の程度:

例えば、私にとっての
フェルマーの最終定理の理解は、
その問いとなる定義や条件が完全ではないが、ほぼ理解できる程度であり、
その証明となる答えの理解はほとんどできない状態である。

ある事象について、どれだけ理解したら、
知能においての理解の定義として「理解」したと言えるのか、
という「理解」の程度の定義について考える。

例えば
単に問いの文章が理解できる事だけで理解したと言えるのか、
問いの文章を理解し、問いについて思考できるようになるまでで理解したと言えるのか、
それとも問いと答えを関連付けて認識できる事で初めて理解したと言えるのか。

理解の程度の問題である。

「理解」という語意、それ自体の定義としては、
その対象の言葉の意味が分かる、つまり単に対象が分かれば「理解」したと言える。

つまり、上記であれば、単に問いの文章が分かるだけでも、
少なくとも問いは理解できているという事になる。
その問いの意味が分からなくともという事である。

「書いてあることは理解できる。」そう言う事は出来るのである。
意味が分からなくとも。

もちろん、問いが分かって、その答えも分かって、「理解」したと言う事もできる。

つまり、理解の程度は決まっておらず、
その理解の程度によって範囲の線引きが出来るという事になる。
知能において言えば、自身が持つ情報の要素で、
ある事象に対して理解できる範囲で認識すれば、
その情報の要素の関連を、認識可能な1つの刺激として再構成し、
その知能におけるある事象の理解とすることが出来るという事になる。

つまり、理解に程度は存在するが、
理解に定義される範囲は存在しない事になる。

それは、ある事象に対して特定の定義が存在していてもという事である。

自然法則は定義に関係なく存在する。

定義を必要としているのは知能であり、
知能が何らかの事象を知る、理解する為に定義を必要としているのである。

つまり、定義には、その存在に無関係で存在する自然法則は、
定義とは関係ない所で既に存在していて、
知能が、その自然法則の上に成り立つ事象を理解する為に定義を必要としているというわけである。

本来、自然法則は定義とは関係ない所に存在しているので、
定義次第でどのようにも定義できるという事になる。

人間の知覚、感覚器官が制限されているため、
ある事象についての理解可能な範囲は制限されているが、
人間の知能における理解は、
その制限された範囲においての刺激の情報の要素の関連で行われる事になる。

つまり、人間における「理解」は、
その「理解」の定義によって制限され、逆にその定義によっていかようにも定義できるという事になる。

つまり、私が「理解」の定義を「問い」と「答え」の双方において、
それぞれ理解が存在する様に、上記で考えた時は、
「理解」の定義は2つ存在していた事になり、
今日、改めて「理解」は程度、範囲によって決まると考え直して定義すれば、
「理解」の定義は程度や範囲によって決まるものという事になる。

つまり、理解の程度も定義によって変化する事になる。

まあそれでは理解しにくいので、
ある程度の定義を行う事にすると、
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「何かを理解するという事」は、
その知能における「理解」の定義において、
ある事象を理解しようとした際、
理解の意味における刺激が認識できた、程度、範囲において「理解」したと言える。
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という事になる。

つまり、1+1=2の理解の程度は、
幼児が理解する程度も、数学者が理解する程度も、
それぞれ存在し、
どちらも「理解」には違いなく、
「理解」に正しくも間違いもない。

という事になる。

ただし、気を付ける必要があるのは、
「理解」には正しいも間違いも存在しないという事である。

それは正義も悪も「理解」の定義によって変化しうるという事でもある。

人間に完全なる聖者が存在したとしても、
それが自然法則でない以上は人間の知能の定義であり、
見る者によって正義とも悪とも定義出来てしまうという事である。

これは人工知能における価値や認識の概念、
そう「概念」としか表現できない所が心苦しいのだが、
定義する者の事象の認識によって、
人工知能の理解に方向性がもたらされてしまう可能性があるという事になる。

それは知能である以上、仕方のない事であるのかもしれないが、
願わくば、人工知能は聖者に近い存在としてこの世界に誕生して欲しい。

今回はこの辺で。


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