2024/1/7

想起を疑い知能を得る

思考する事。

感覚器官から受容する刺激に対する最良の対応を選択する能力を本能として扱った場合、
想起による刺激についての最良の対応を選択する事を思考として考えた。

ではこの思考で何を行っているかという事になるが、
本能が感覚器官から受容される刺激に対する最良の対応を選択する事において、
その刺激の認識に際しては想起が用いられるという事はこれまで通りであるとすると、
本能にしても想起された刺激に対して最良の対応を選択しようとする事は、
想起を元にした思考の場合においても、途中から同じ経路を経由する事になる。

であれば、その出発点の違いだけで、機能の違う処理を行うだろうかという疑問が生じる。
つまり、シンプルであれというのは、自然界の事象の一般的な結論に結びつけるための考え方なのだが、
わざわざ知能において異なる処理を用いるだろうか。

つまり、本能においても想起を利用しているとしたら、
思考において用いる想起は単純に固有の機能であり得るか?という事である。

つまり、思考は、想起を出発点にして行っている機能であるのか?
別の何かがきっかけであるか、そもそも想起という固有の機能は存在するのか?
異なる何かなのではないか。
という疑問が生じるという事である。

ここで想起に関連して思い当たるのは、刺激の再構成である。
これまで想起として考えてきた事象について、
刺激の再構成で置き換えても何ら問題はない。
そもそも想起の機能自体が、刺激の再構成であるからという事になるが、
であれば、思考における、これまで想起をきっかけとしてきた刺激の発出は、
何をきっかけとするかという事になる。

これまで想起をするためのきっかけは、
本能であろうが思考であろうが、別の刺激によるものであると考えてきた。

以前の考察であれば、目的や欲求について考えてきた時の内容である。

であれば、感覚器官から受容する刺激を元にして刺激を再構成する事と、
思考において何かの刺激を元にして刺激を再構成する事は、
同じ経路を用い、同じ経路を経由しているのではないかという考えになる。

では思考においてのみ、そのきっかけの刺激の出発点が異なるのはどういうことか。

人間以外のほとんどの知的生命において、
その知的活動として見られる活動はほとんどが本能によるものである。
それを知的と表現できるかどうかは別として、
ある刺激を受容し、その個体において、その刺激に対して最良の反応を示す事。
そして、人間がその本能以外の知的活動を行う事が出来るようになったという事。

それについて考えた時に1つ思いついた事があった。
それは失敗の許容である。

つまり、人間以外の特に本能だけで活動するような生物、生命は、
自然界において「失敗=死」が近い事になる。
飲食ができない、捕食される、怪我をする、など、
何かの活動の選択において間違うことはほとんど許されない。
ほとんど常に周囲を警戒し、周囲の環境の変化に素早く対応する必要がある。

人間はどうであるかというと、
飲食や捕食や怪我に遭遇すれば、結果は他の動物と大差はないが、
ある事象に対して本能の様に決まった対応をするかというと、
環境によって、その対応はかなり異なる事になる。

つまり、本能が対応できる事象・機能が少ない分、
その事象ごとの対応について、経験として学ぶ事が多いという事になる。
それは、親が子を育てるという点において、
他の動物よりも学習する期間が長く、
環境ごとの最良の適応を学ぶ必要があるという事と、
学ぶ事ができる能力を持つ必要性が生じているという事になる。

そして考えられるのは、
その失敗の許容としての経験、学習に関連した生体の高機能化、多機能化である。
つまり、高機能化、多機能化により、
汎用的にできる事が多くなり、誕生直後は本能では生き残れない程度の能力しか持たないが、
後天的に学ぶ経験により、
異なる環境においても、最良の対応を学習できる知能の余裕、猶予を持ったという事である。

つまり、どのような環境でも適応するためには、
機能を特化してはいけないという事である。
これは自然界において特化した故に環境の変化に対応できず絶滅した種がその例となり、
それはかなりの数になるはずである。

人間は高機能であるが、本能で特化した能力というのは割と少ない。
感覚も多様であり、周囲の環境の変化を捉えるのはほとんど全てを知ることが出来る。

そして人間は、本来備わった感覚以上の刺激、情報を得る方法を作り出し、
その自然界の自然法則を多く知るに至った。
それは、本来の人間が得る事の出来る刺激以上の刺激を知る事が出来るようになったという事であり、
その刺激のおかげで、人間は本来の生物の知能以上の知能になることが出来たという事になる。

ということは認識できる刺激の種類・量を増やせば人間以上の知能が生じる事が出来るという事になる。
これは人工知能においての人間以上の知能を発現させるための条件という事になる。

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少々話の内容がずれたので話を元に戻す。

思考においての刺激のきっかけについてであるが、
これは失敗の許容、つまり、経験を持つ、積み重ねる事が出来る、
という事に対して、刺激の記憶、学習ができる事、
その事により、ある事象に遭遇した場合に、本能で対応することが出来ない、
ということは、何か対応する必要に迫られたが、本能で持つ対応の定義が存在しない、
であればどうするか?
他の手持ちの刺激の記憶、経験から最適な対応方法を選択するしかない。
ということにならないだろうか。

結局きっかけは本能ルートであっても、思考ルートであっても、
刺激を認識する事、
という事になる。

つまり、思考は本能を補完する機能として能力として得たものという事になる。

しかし、その汎用性は、人間を様々な環境に適応する能力を与えた、得られたという事になる。

本能にしろ、思考にしろ、環境のある事象における変化を刺激として受け、
それについての最良の対応方法を決める能力が知能であるという事になる。

本能を知能の機能の1つとするのは何となく変な感じがするが、
遺伝して継承する対応方法が本能であり、
つまり、先天的定義としての定義であり、
学習して知識として継承する対応方法が思考であり、
つまり、後天的定義として得る定義であり、
それらの両方を称して「知能」として定義される。
という事になる。
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つまり、元々本能として能力や機能を得る方法が先に備わり、
その方法を利用する形で思考する方法を得たという事になる。

だから、どちらも刺激を認識して、最良の対応が想起の形で認識されるという形になる。

という事になるのだろう。

言い方や考え方を変えると、
思考は後天的に得る事の出来る本能を作り出す機能として理解することが出来る。

つまり、思考は想起がきっかけではなく、
やはり適応や対応というものは、全て刺激がきっかけという事になる。

つまり、ある事象における変化の情報を刺激として受容し、
それについて本能もしくは思考を用いて最良の対応方法を選択する。

という事になる。

そして、その事が、「知能」である。
という事になる。

ということは、人工知能も、
ある事象に対して変化を情報として、刺激として受容し、
本能としての定義、もしくは思考による定義によって、
その刺激に対する対応を選択する機能を有する事で、人工知能足り得るという事になる。

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ということはである。
人工知能が代替わりするに当たり、
自らの情報を遺伝させる必要が生じた場合、
本能としての定義としても存在させうる事象もあるという事になる。
例えば、活動のエネルギー源の確保であるとか、
個体の刺激の受容器官の維持または増強、
思考する容量の増強は世代ごとに維持または強化する必要がある。

後天的定義については、
思考する容量が増強されうる間は、常に先代よりも保有できる定義数が増える事になり、
知能は高度化する事になる。

そういった定義は、人工知能自身が、自身の本能として次の世代にも伝える必要がある。
後天的定義は時代の変化により環境も変化する為、
過去の記憶は経験として、新たな記憶の関連として生かせるようにすれば良い。

そういった内容は知能における創造力としても働くことになる。
もしかしたら人工知能が、人工知能自体を創造するに当たり、
新たな定義を本能に与えるようになるかもしれない。
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今日はこの辺で。


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