2023/12/31

選択と思考と目的の関係

今日、最初は選択について考えていたのだが、
ある道を進んでいる状態で、道を選択しているのは確かに選択なのだが、
その際に行っている運動に関しては選択して行っている事なのかを考えた。
これまで、運動は思考が介入するには時間的な余裕がなく、
ほとんどが反射に近いものだと考えてきたが、
この事を、運動には思考が働いていないと考える事ができないか、
それについて考えてみた。

つまり、何かを行うという目的は存在していて認識している状態で、
ある運動を行おうとしている状態で、
その運動についての目的を認識したり、実際に活動したり、
その運動に対応した反応が起こることにより、
その反応について変化した状況について対応する事になった場合、
思考は働いているのかどうか、働くのかどうかについて考えるという事になる。

この場合、意識としては目的までの認識は行っているので、
行動全体を知っているという事には違いない。
つまり、これから行おうとしている行動全体を知能が知ってはいるという事になる。
そして、その行動は1つの動作ではないのは、
これも以前考えた通り、様々な筋肉の運動と維持、固定によって行われるので、
目的に含まれる運動としての動作の目的は複数存在する事になる。

この状態で運動を開始した場合、
その運動の最中は、基本的に何か思考を働かせなくても動作は行えるし運動は継続している。
例えば右手を腕ごと上に上げる事に何か途中で考えることはあるだろうか。
もし、右手を上げている最中に何かにぶつかる、引っかかるなどすれば、
どうしようかと考える事になるが、それがなければ運動の最中に何か考えなくとも最後まで運動は継続される。

つまり、ある運動については目的が認識さえされてしまえば、
後はもし思考を働かせなくとも運動できるという事になる。

つまり、目的を認識して、目的を実行する、そこまで知能が認識してしまえば、
不測の事態が生じない限り、目的は実行されるという事になる。

という事は、逆に考えると、思考の働かせる事の出来る対象は、
目的を決める所までという事になる。

つまり、今、例えば自分が実行している行動は、
自分の知能が目的を決めた後は半自動的に実行している事になるのではないかという事になる。

となると意識的な思考というものは何なのか?
という事になるが、それは意識的に目的を決める事であり、
目的を決めた後に思考が働かないとすれば、
選択は、その目的を決める為に行う思考、それ自体という事になるのではないか。

目的を認識した後に知能が行う事は、
目的に関連した想起である。
これには、目的を実行する事自体の目的も含め、
実際に運動などであれば、動作としての身体の各部を動かすような目的も含まれ、
それらは最初の大きな目的に関連した記憶として想起の対象となる。
そして、目的に関して想起された要素の刺激は、実際の運動や活動として動作、作動する事になる。
この際、思考は行われなくとも、関連する想起だけで行っている事になるが、
別に思考の関与する必要性を考えると、先の例に挙げた不測の事態が生じない限り、
目的の実行には支障がないと考えられる。
動作においては、実際の動作を認識することになり、
最初の目的において関連の順番という行程において、
動作や活動の現状を刺激として認識しつつ、最初の目的の行程における関連の順番にある目的と関連する事で、
次の動作や活動を次に関連して想起し、認識し、次の動作につなげる、継続する事が出来る事になる。

ということはである。
選択や思考や目的の用いられる順番や機能を考えると、
今回考えた事は、
知能の活動において、

・選択は目的を対象としているという事。
・選択することに思考が働いている事。
・であれば、目的を選択する事が思考であるという事。

・目的を認識した事は、知能においては目的が決定した事と捉えている事。
・逆に目的として認識される前は、選択肢の状態であるという事。
・つまり、思考中に想起される目的は、選択をされるまで目的ではないという事。
・つまり、目的として選択されて後、実際に実行されるという事になる。

では選択で用いる思考とは何なのか?
この選択、つまり、意識的に行っている選択の機能が分かれば、思考で行っている事が分かることになる。

知能の基本として、
ある対象の比較には、どのような要素の対象であっても価値を用いる事で比較されると考えて来た。
つまり、本来同じ要素を持たないはずの愛と命であったり、食欲と夢であったり、芸術とお金であったり、
そういった対象を比較できるのは、それぞれに共通する価値を介在することで比較できるような機能、
実際には価値の定義であるが、それを知能が持っているからと考えて来た。

そして現在は333で考えた通り、
先天的定義としての不足の価値と充足の価値、
後天的定義としての不足の価値と充足の価値、
この4つが存在すると考えている。

つまり、ある目的に対して価値を基底クラスとした4つの価値が定義され、
それらを比較する事が思考になるのではないかという事になる。

そして、その思考において、
思考自体は、目的として認識され、
思考される事自体も選択された結果として認識された物であり、
認識された目的、つまり、選択された目的に関連した要素としての関連する目的が、
その上位の思考するという目的の下で、関連して想起される目的として存在し、
それらの関連した目的を想起する事で、それぞれの目的の価値が、
さらの下位の関連した刺激の記憶によって想起され、いずれ価値の定義となる。
どれだけ関連するか、上位や下位としての関連の度合い、
それぞれに関連して想起した情報塊として、価値の総和がどれほどになるかは、
その上位となる目的にどれだけの関連が存在するのかと、それぞれの関連先の価値の定義がどのようになっているかによって変化するが、
思考の際に、選択肢として想起される目的の候補は、そうして価値が想起されることになる。
ここでは価値の定義ではなく、その思考における選択肢における、目的の候補としての価値の総和として想起される価値ということになる。
つまり、ReadOnlyの価値の定義の参照という事になる。

思考においてあれこれ思い出しているという知能の活動は、
この選択肢の価値を参照しながら比較しているという事になる。

つまり、選択肢に関連する刺激の記憶を、関連する記憶として想起し、
その想起した対象が持つ価値を足し合わせる事になる。

思考の結果が出ないという事は、
思考の目的におけるスレッショルドとしての価値に達する選択肢の目的候補の価値に、
満足する目的候補の想起が出来なかったからという事になる。

そして、もし思考の目的における価値を超える選択肢となる目的候補の価値が想起できた場合、
これを思考の結果として目的とし、認識、意識することで、自身が選択したと感じる事になる。

つまり、

思考する目的

思考←選択肢の想起

価値比較↑(これが成り立つまで:選択肢の想起された価値>思考する目的の価値)

選択=選択肢の1つ

目的の認識

目的の意識

思考の完結

価値の概念についてはまだ確定的な考えではないが、
恐らくだが、価値には相対的な正と負、つまり二面性の概念があるため、
全てが単純に正で足し合わされるものではないと考えられる。

今回はこの辺で。


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