2023/12/24
2023/12/26

意識と認識の二面性

今回は少し趣を変えて、
意識と認識の二面性として、
知能における哲学のような事を考えてみる。

私の思考におけるモットーの1つに、
「全ての物には二面性がある」
という考え方がある。

つまり、表は表だけで存在できるわけではなく、
裏があるから表も成り立つという事である。

陽子や電子であるとか、陰陽であるとか、
無限と有限であるとか、重力の引く・引かれるであるとか、
表裏一体の考え方である。

例えば接触の刺激においても、
触れた刺激には、それに対する、触れられたという刺激も同時に存在する事になる。

そういう考え方があったので、
以前、自己意識の発現に際しては、
刺激を認識するに当たり、
刺激は単に刺激として再構成されるだけでなく、
刺激を受けた側の存在として自分も再構成され、
それが認識されて自己の意識に至ると考えたわけである。

それは、逆に考えれば、
自己意識を構成するためには、刺激の認識を行う存在として、
その刺激を環境と自己を隔てて、両方を存在させるための境界として感覚を用い、
その感覚器官の配置場所として自己の体を必要とするという考えに至るという事になる。

ただ、単に相反する存在としてそれらが存在するというだけでなく、
そこには必ず境界も存在することは容易に考えることが出来る。

しかし、その境界は、図表においてx軸やy軸で表すことのできるような境界でもなく、
「0:ゼロ」で表す事の出来るような境界でもなく、
恐らく、割り切れない数や、無理数のような、
表現はできるが確定する事の出来ない面に接しているのではないかと考えている。

つまり、自己の存在と接している周囲の環境は、
実体としては、自身の感覚器官と、そこに接する事になる情報、
つまり、刺激の情報の要素を感覚器官が受容することで刺激となり、
自身が知る事の出来る刺激となるが、
その境界は、一方は環境に存在する情報の要素であり、
一方は、自身の体の感覚器官という事になる。
そしてその境界は、ミクロに考えると、
環境に存在する光や熱などのエネルギーか、原子や分子であり、
自身の体にある感覚器官の細胞にある分子としての受容体の受け口ということになる。

つまり、まず、刺激の存在を二面性を持つとして考えてみると、
上記の環境か個体かの、どちらかにあり、どちらにもある存在という事になる。

まあ実際、哲学的に考えるとどちらにもあり、どちらにもないという考えにも至るが、
とりあえず、刺激を自身が感覚器官で受容したとする。

刺激の認識は、
神経細胞ネットワーク内での励起と、先天的定義による意味付けで、
刺激が再構成されることによって存在するとして認識される事になるが、
認識における二面性は、
その認識に至る刺激の再構成において、
刺激の存在と、相反する、刺激を存在するに至らしめる存在の2つに分けられると考えられる。
つまり、認識において、刺激そのものとなる情報の要素と、
刺激を刺激として扱う事になる存在、つまり、生命の個体の存在という事になる。
つまり、認識は、認識において刺激を認識するだけでなく、
その刺激を認識する存在を確定するものでもあるという事である。

意識における二面性は、
単に意識の有無という事ではなく、
その認識の存在を境界とした意識される認識と、意識されない認識として考えられる。
一般的には意識されない認識は、無意識として認知されているが、
私はあまり無意識の存在をブラックボックス化したくないので、
あえて意識されなかった認識は、単に認識に至らなかった刺激として存在すると考えているが、
実際、定義としては意識されない認識は存在しないので、
認識には、認識に至る場合と、認識に至らない場合とで、
その境界にある刺激によって2つに分かれると考えられる。
それは、そのまま意識される刺激と、意識されない刺激に分けられるということにもなる。
つまり、意識される刺激は、認識される刺激でもあり、
それは得られた刺激とあわせて、自己の存在も含めたものという事になる。

だから、現在の人工知能が刺激を認識しているのではなく、
単に観測や測定しているだけだというのは、自己の存在を認識に含めていない事、
逆に考えると、意識と認識という考え方においては、
人工知能であっても、刺激と、その刺激を受容する存在を合わせて、
「認識」すれば、それは意識に至るだろうという考えになる。

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それらを考えると、
刺激の元となる情報の要素は、
人間の知能にとっては、
環境の変化、または想起の二面性を持つという事になる。

つまり、現実の存在と再構成の存在という事である。

刺激の認識においては、どのルートを経ても、
一度想起を経由して再構成すると考えているが、
この場合、その境界にあるのは定義、
つまり、刺激の先天的定義または後天的定義によって二面性を持つ事になる。

つまり、実際の刺激の受容であっても、想起であっても、
定義によってはどちらでもあり、どちらにもなり得るという事になる。

実際、白昼夢であるとか、妄想、幻想、デジャヴ、
自身の知能が行った刺激に対して用いた定義によって、
現実であっても夢の様に感じたり、
想像したはずの存在が現実にあるような気がするのはそういう二面性から起こることになる。

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2023/12/29

二面性を持つが、表裏一体、それは1つであるという考え方もできる。

つまり、意識が認識によって隔てられているとしても、
意識される認識、意識されない認識は、元は1つの認識の対象となる刺激であるという事、
そして、認識が刺激の二つの面によって隔てられているとしても、
その認識される刺激は、環境と感覚器官のどちらにも同じ刺激の情報として存在するという事。

つまり、人間が思考しうる対象は刺激で認識する事になるのだから、
その対象が二面性を持つなら、その考え、考え方にも二面性があってしかるべきだろうという事になる。

まあ、今回はこの辺で。


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