2023/12/18
想起の選択の可能性とHub記憶
ここ最近、目的やその選択、
そしてその選択で用いられる価値、
そしてその価値の定義について考えてきたが、
では改めて知能が何かを意識的に、意図的に、
自分が望んだ記憶を思い出すことができるのか考えた時に、
その選択の際に用いられる指標が価値であるのか、
または、価値以外の何かが存在して、
それによって選択されているのか、
といった事について考えてみた。
まあ誰しも、自分が思い出そうとした事を思い出すというのは当たり前のように感じている。
確かに誰でも自分が何かを思い出そうとすれば、それについて思い出そうとすることが出来る。
記憶としては思い出そうとした時点で、その思い出そうとした事は、
脳内では既に励起されていて、認識の準備は完了している事になる。
しかし、その最初に思い出そうと決めた際に、
その思い出そうとした事を選んでいる要因は何なのか?について考えると、
今は私も分からないが、恐らく誰もそれを知らずに行っていると思われる。
ここ最近は、そのきっかけとなるのが目的であり、欲求であると考えて、
その目的や欲求を発現させるためのきっかけは刺激であろうと考えた。
では、その刺激をきっかけとするのは、
知能の記憶の機能を構成する上で、まあ当然の働きという事になるが、
では、さらにその刺激の発現理由まで考えると、どのようなものになるのか?
という疑問が生じる。
刺激の発現理由としては、感覚器官から受容される刺激と、想起による刺激があると考えた。
感覚器官から受容される刺激は、個体の周囲の環境から受ける情報であるので、
そのほとんどは個体が自主的に選択するものではない。
感覚器官から受容される刺激自体は、認識されるかどうかという点においては選択されているが、
それは自身が意識的・意図的に選択して認識するものではない。
個体が自主的・意図的に刺激を受け・受容しに行く場合は、感覚器官から受容される刺激ではあるが、
その行動自体は想起を元にした目的に従っており、
その大本の刺激の選択の範疇から離れることになる。
となると、個体が意図的に選択して想起する刺激においてのみ、
刺激の自主的な意図的・意識的な選択の余地があるという事になる。
つまり、ある条件、状況下において、
知能が自発的に刺激を想起する場合、
その想起される対象となる刺激を選択している要因として、
何を用いているのか、それが分かれば良いという事になる。
想起は刺激をきっかけとして行われていると考えてきたが、
刺激自体の認識は想起を経由する事になる。
とすると、そのきっかけとなるのは、
少なくとも外的要因、つまり、身体外の環境に依る要因ではないという事になる。
つまり、あらゆる刺激に対して想起は経由されるため、
選択のきっかけになりうる要因となる刺激は、
少なくとも脳内、知能内に存在する要因・状態として存在すると考えられるという事になる。
つまり、選択を行う要因は、脳内、知能内に存在し、
刺激に関連する何かということになる。
当然、刺激に関連しているのは刺激であるというのが最初から考えられているのだが、
その刺激か、またはさらに別の要因について考えていた時に、
別の要因として何か考えられる事象はあるのか考えたときに、
ふと思った。
思考していると自分で感じている時に、
思い出している事象は、まさに自分が意識的に、意図的に選択して思い出している事象である。
例えば、何か好きな物事について思い出そうとすれば、
自身の知能は「自分が好きな何か」を思い出せる。
それは知能が自主的に選択して思い出している刺激になるのではないかというわけである。
そこでである。
これまではその選択の理由として何があるのか考える所なのだが、
今日は別の事に気付いた。
つまり、
なぜ、自分は「自分が好きな何か」を選んだのか、という事である。
つまり、「自分が好きな何か」を例に挙げたという事は、
その時点の少し前に自分はそれを選択する何かを用いて選択している事になる。
それについて考えた時にふと、
「例えば」について想起した事に気付いた。
つまり、
想起の何がきっかけになっているか考えた時に、
例えば好きな物事を思い出そうとしたこと。
そこで何を思い出すかでその関連を探ろうとしたが、
ふと、関連で想起しているなら、そのきっかけは少し前の想起に存在するわけだから、
今考えた、想起した、少し前を辿って行けば、
その関連が分かるのではないかと考えたのである。
それは何かのきっかけではなく「例えば」だった。
「例えば」そのものがきっかけで「自分が好きな何か」を例に挙げた事になる。
私が考える時によく使う「例えば」、
それは思考における想起の関連を繋ぐ何かになるのではないか、というわけである。
そして、思いついたのが「Hub」の考え方である。
想起した際のイメージ的にはネットワークのHubの概念で思いついた。
だから、ある思考状態において、
想起の選択のきっかけを与える存在としての刺激が、
その思考状態を連続的に行っている際の、
ある変化点、つまり、選択を用いる場合に、
そのきっかけとして想起する事になる刺激の記憶として、
Hubの機能を持つ刺激の記憶、つまりHub記憶となる記憶が存在する事になるのではないか、
という事である。
つまり、ある条件下において、
よく想起するきっかけとなるHub記憶によって、
想起が選択的に行われるのではないかと思いついたのである。
つまり、
Hub記憶は、
想起の関連を繋ぐ刺激の記憶であり、
想起の起点ともなる刺激の記憶なのではないかというわけである。
関連する記憶を延々と連続して想起する事で認識、意識となるが、
ある1つの関連として連続している刺激の想起ではなく、
連続する認識の合間、合間に、
何らかの起点となる記憶も存在するのではないかというわけでもある。
つまり、外的要因の感覚器官から受容される刺激以外にも、
想起から開始される刺激の関連に、その起点となる刺激が存在するのではないか、
そしてその刺激は、その個体の知能が良く使うものであり、
その起点となる概念の定義を持っている刺激となるのではないかというわけである。
つまり、定義として想起の起点となる要因が存在するのではないか。
つまり、連続する思考の中で、新たな関連に切り替わる起点が存在するのではないかというわけである。
終点については、次の起点から新たな想起が始まるまでと考えられるので、
終点としての終端が存在することではないと考えられる。
もし、想起の終端が存在するとすれば、それは、
その時点で関連して連続された想起が何らかの結果に達した場合、
つまり、思考において何らかの認識に至る情報塊が作り上げられた時であると考えられる。
例えば、今この文章を入力していて、文章を作成するという目的において、
「。」で区切られる文節が完成した場合などである「。」←これ
つまり、上記の文章を入力するという目的が発現した場合、
その目的によって得られる結果について満足いく価値、つまり、充足が感じられる事になった場合、
その際の一連の知能活動における思考としての、関連する連続した想起は、
「。」で情報塊として1つにまとめられることによって、一度、終端を得るという事になる。
そして、その終端を認識した際に、次の想起を行うためのきっかけとして、
Hub記憶の1つを想起することで、目的の中の小目的としての情報塊を得るために、
次の思考のまとまりを開始する事になるのではないかというわけである。
------------------------------------------------------
つまり、プログラム的に要素を分解して言えば、
for文、loop分として、
目的として満足される価値を持つ情報塊が刺激として再構成されるまで、
その思考を継続するという事になる。
ただし、割り込みはあり得るという事になる。
------------------------------------------------------
思考:
目的に対して思考される
(+:関連)
目的=小目的+小目的+・・・
目的の結果=小目的の結果+小目的の結果+・・・
目的:
刺激から想起され開始する
小目的:
Hub記憶から開始される思考の1単位としてのまとまり
------------------------------------------------------
ある条件・状態の刺激
↓←励起
Hub記憶
↓
想起
↓
認識←関連する想起の開始
↓
関連する記憶の励起
↓
認識
↓
・・・
------------------------------------------------------
目的の思考
起点となる刺激の想起
↓
関連する刺激の想起←←←←←←←←←←←←←←←←←
↓
関連する刺激の想起→目的に満たない結果の価値の場合↑
↓←目的を満たす結果の価値の場合
終端
------------------------------------------------------
forまたはloop
(条件は目的となる価値=<再構成された刺激)
{
関連する想起
*(他の刺激による割り込み)
};
------------------------------------------------------
定義
Hub記憶:思考中のある条件・状態を刺激のきっかけとして想起される
思考中のある条件:この定義が刺激として存在する
思考中のある状態:この定義が刺激として存在する
------------------------------------------------------
思考中のある条件と状態の定義について:
この定義は思考において後天的に得る後天的定義であるが、
この定義が刺激として存在するわけであるから、
これらは先天的定義を要素として定義されなくてはならない。
であれば、
この定義は先天的定義として何らかの刺激に対応した情報の要素が存在する事になる。
後天的定義は後天的定義同士の関連である場合もあるわけであるが、
完全に要素に分ければ先天的定義の要素で分解できるはずである。
今回の思考中の定義としては、
今回用いた「例えば」については、
例を挙げるという定義において、
単純な刺激を想起するという機能ではなく、
関連する刺激を想起して、それを優先的に認識するという定義となる。
つまり、
「例えば」は、
「例えば」を想起するに至った、関連した目的に関連する、刺激の想起に価値を多く設定し、
優先的に認識する
という定義となる。
今回は「好きな物事」がその想起の対象となったが、
おそらくこの対象は知能が置かれた状況や状態によって異なる事になる。
つまり、思考中において、想起の起点となるHub記憶が選択されるための要因として、
その刺激が選択されるための状況や状態の定義というのは、
定義としては固有に存在するが、その定義する対象は固定された固有の刺激ではないという事になる。
つまり、
どのような刺激であっても、このHub記憶の想起の関連先の結果になり得るという事になる。
ただし、思考するという目的において、Hub記憶として、
例えば「赤いリンゴ」を想起のきっかけとして何かの計算がされるとかという事にはならない為、
「例えば」であるとか「置き換えて」という置換や、
「加味して」「減じて」などの、一般的に思考で用いられる手法、
つまり、思考の考え方としてのあるまとまった情報塊についてがHub記憶として、
優先されて定義される要素を持つという事と、
そのHub記憶の想起にに関連する刺激としても、その状況と条件によって関連して想起される刺激対象は、
ある程度、その知能が用いる関連によって優先される刺激、優先される事象が存在すると考えられる。
つまり、私が例えでよく使っていた「赤いリンゴ」はHub記憶そのものではないが、
Hub記憶の想起の関連先として強い関連を持っている事になる。
これらの思考された内容から、Hub記憶の先天的定義について考えてみると、
「例えば」などは文字列の定義であり、
上記で説明した、例えの例を挙げて、優先的に認識する知能活動であり、
その大本について考えると、想像であるとか、算数や数学の問題として、
何らかの実在しない状態について、既存の記憶を用いて、新たな関連を作り、
それを再構成して刺激として想起の、認識の対象とするという知能の働きという事になる。
つまり、「例えば」の先天的定義としての要素を考えると、
要素としてはどのような先天的定義も対象とする事が出来るという事。
つまり、
例えば→関連先→感覚全て
ただし、「例えば」にはその元々の目的である刺激の情報塊としての認識がされているわけだから、
その目的により強く関連している要素でないとならない。
つまり
目的→関連→「例えば」が存在する為、
「例えば」自体を目的とした思考においての価値ある答えは、
目的と「例えば」の双方に関連した刺激である必要がある。
さらに、「例えば」を想起、認識した際の状況と状態によって、
「例えば」に関連して想起される刺激が誘導されることになる。
ここで「例えば」について要素を分解してみると、
「例えば」自体を記憶した際に、どのような定義を用いたかによって、
その定義となった要素が異なる事になる。
つまり、「例えば」の後天的定義の概念として、
どのような刺激を用いたかという事になる。
私の記憶では、「例えば」は、
恐らく、言語的な理解として行われたものだと考えられる。
基本的には文字の視覚と、音の聴覚、である。
つまり、「例えば」を理解する際に、
先天的定義としては、
まず「例えば」という文字列である事、
「た・と・え・ば」という音である事。
そして、概念的な後天的定義として、
「例えば」の後にその例えとなる事象が現れる事、
その例えばは実際には実在しない要素を持ち、かつ、認識できるという要素を持つ事、
その例えとなる事象を想起、認識する事で、
その事象に関連した別の刺激を想起する為のきっかけとなる事、
つまり、数学の公式のように、代入できる対象の要素を持つ概念として、
「例えば」の後天的定義を行って要素としたものだと考えている。
実際、私にとっての「例えば」なので、
固有の定義になるのかもしれないが、
私にとっての「例えば」の定義としての先天的定義と後天的定義は、
そのような定義になると考えられる。
------------------------------------------------------
ここまでの内容をまとめると、
想起の選択の可能性としては、
これまで通り、現時点ではかなり低いと考えられる。
ただし、ある時点における瞬間的な選択において、
自身が意識的に行う選択の可能性が低いという事であり、
その選択の可能性を構成する為の刺激の選択や、
その刺激に関連する要素を選択する可能性においては、
ある程度の自由度が存在すると考えられる。
つまり、選択する要素を構成する時点においては、
自由度が存在するというわけである。
それは、自身が持つ環境や、自身の能力、要素にもよるが、
まったく同じ自分が別の環境に存在したと仮定すると、
その自分は、環境ごとに、自身の選択に用いる要素が異なるため、
選択の可能性としては自由度が存在すると考えられる。
ただし、実際の選択を行う場面においては、
自身が持つ選択に関する要素は決まっているために、
状況や状態によって、ある決まった選択を行うという事になる。
Hub記憶については、
思考に限らず、想起において、
ある起点となる刺激というものが存在するのではないかと考え付いた。
それは、その知能が持つ思考すること自体の経験として、
思考の習慣というような定義として、
その思考の起点や変換点として、
思考している期間内において、思考の目的を変化させながら、
実際変化しながら、その思考の大本の目的が期待する答え、結果により近づくよう、
関連するように、その大本の目的の答えに関連する刺激としての要素を、
作り出しながら関連させるという目論見として、
そのHub記憶によって、思考の小目的を作りながら、
思考を小分けにして継続する事になる、
そのきっかけとしてHub記憶が存在するのではないかというわけである。
思考
↓
・・・
↓
想起
↓
Hub記憶
↓
想起
↓
Hub記憶
↓
・・・
思考の小目的完了時
↓←関連する励起
Hub記憶
↓↓↓←状況や状態の違い
↓↓想起C
↓想起B
想起A
------------------------------------------------------
Hub記憶についてはもう少し考える必要がありそうであるので、
また今度という事で。
今日はこの辺で。
------------------------------------------------------
2023/12/19
Hub記憶の要素の分解
昨日からHub記憶について考えてみたが、
思考の際中に行われる単位として、
思考が何かの区切りを行いながら行っている事が自分自身の思考中に感じられる。
つまり、脳内での想起として、思考している内容を文章として組み立て、
それを認識しながら思考しているという事である。
以前、思考は文章や文字列で行っているという事も考えた事があるが、
いわば現時点において、それを再認識しているという事になる。
思考はある大きな目的が存在して、
その目的に対しての対処・対応する反応や行動を探り、決めるために行うのであるが、
その思考における目的自体は、単純に1つの答えで解決できるというわけではなく、
順序立てた複数の工程を必要とする事がほとんどである。
例えば何かを食べようとしても、いきなり口の中に食物が入り込んでくるということはなく、
探したり、用意したり、調理したり、手で運んだり、
様々な工程を必要とする。
大きな目的として「何かを食べる」だけでも、
その大きな目的を構成する為には小さな目的を様々用意する必要があるという事になる。
思考においても、ある大きな目的として、
例えば「宇宙の端の外側はどのようになっているのか」と思考した場合、
今思いついただけでも、宇宙の知識、宇宙の認識、時空の知識、光の知識や、物理法則や、
それこそ空間の認識や、人間の認識能力などまで考える必要があるように感じる。
そして、それらの要素はまた別の要素で構成され、
その要素はまた別のといった具合に、最終的に知能が認識できる先天的定義まで分解できる事になる。
つまり、
人間の知能が思考できる1単位としての開始時に、
Hub記憶となる刺激の認識が行われるのではないかという事になる。
つまり、
思考として、目的のある思考として、
思考したからと言って、いきなり目的の答えが得られるわけではない。
ほとんど全ての思考は、複数に分解された情報塊の小集団から構成された、
さらに大きな集団、またその上の大きな集団といった具合に、
最終的に、当初の大目的であった目的の結果としてふさわしい情報塊となるまで続けられる事になる。
目的=小目的+小目的+・・・
目的の結果=小目的の結果+小目的の結果+・・・
今思いついたが、
つまりこれを繋ぐものが、
思考の1単位の開始であり、さらにその結果のまとまりを繋ぐ存在のきっかけとして、
Hub記憶が用いられるのではないかという事である。
つまり、
思考の開始時においてはHub記憶は、思考の開始のきっかけとなり、
小目的の結果の情報塊の開始地点を示すものとしてHub記憶が用いられるのではないかという事である。
つまり、
上記、文節や行間を空ける事などで内容を区切っているが、
その内容1つ1つは思考における小目的であり、
表題が大目的、
小目的の結果は1つ1つの思考の結果としての文章のまとまりである。
それらは前後、意味が繋がっていると私の知能が認識しているために、
つまり、小目的+小目的・・・の「+」の部分として区切っている事になる。
そして、それらは私の知能がそれぞれの文節を区切る事を選択しているが、
次に現れるのは、次の思考の小目的となる内容が現れる。
「つまり」とか「例えば」とか、「(空白行)」であるとか、
それらがHub記憶ということになり、
それらは私にとっては想起のきっかけとして設定されているという事になる。
そして、それらはつまり、私の思考においての定義として、
ある小目的を構成する為に、小目的の思考を始めるために必要な定義、要素であるという事になる。
そして、小目的の思考がまとまり、結果としての情報塊が出来上がった場合、
句読点「。」で終端を決めて、
その間に行った思考とその際に想起された内容が、1つのまとまった結果の情報塊として、
いくつかの刺激の関連した、1つの認識に至る結果となるのではないかというわけである。
つまり、
Hub記憶は、思考の開始におけるきっかけとなる始点であり、
連続した思考の間、想起される刺激の開始地点であり、
結果が完成した場合は、その情報塊の開始地点となる。
そして、結果自体に、そのHub記憶は含まれるわけではない。
なぜHub記憶が用いられるかについては、
以前も例に挙げたマジカルナンバー7といった
知能の機能的な能力の限界として、
一度に行える思考、想起において、
1つの情報塊に含める事の出来る要素に限界があるためなのではないかと考えられる。
情報塊同士を関連付ける事で、要素の単位を大きくして情報塊とすることはできるが、
単純に能力的な問題として知能が1つの集団であるまとまりに対して含める事の出来る単位に限界があるから、
ということになると考えられる。
私自身の例において、
時々勢いで連続して認識された思考の内容をそのまま書き出していると、
余りに長くなりすぎて後で読んでも理解しづらいという事になる時がある。
恐らく、思考としては連続して想起が行われている限り、
延々と続けることはできるのであろうが、
何らかのまとまった意味のある目的と結果として思考を区切ってまとめようとすると、
その知能の認識能力としての限界に合わせないとならないのではないかと考えられる。
つまり、情報塊としての情報の要素の関連、
それらの情報の要素の刺激の関連として、
定義として、後天的定義としての認識可能な情報の要素の数の区切りが必要となり、
それがHub記憶なのではないかという事になる。
------------------------------------------------------
Hub記憶の出所
これは、思考における思考方法として学ぶ後天的定義という事になる。
つまり、知能が思考するに当たり、
その思考を効率的に行うために、効果的な思考の要素という事になる。
「つまり」とか、「例えば」とか、「逆に」とか、
「しかし」とか、「なぜなら」、「それでも」、「また」、
様々なものがあるが、
それらは生命として誕生後に知能の活動の中で学習するものである。
それらは定義として、概念、イメージを関連させる事になる。
例えば、「つまり」であれば、
それまでの思考の内容をそれぞれ関連付けて、1つのまとまりの情報塊を作ることであるとか、
「逆に」であれば、その直前まで思考していた内容の定義と相対する内容の情報を思考しようとすることであるとか、
そういった概念、イメージは、先天的定義の刺激としては表せないが、
その関連する要素の定義、例えば「つまり」であれば、
何らかの物体を集める様子に関連する情報の要素、その様子の視覚の刺激に関連している定義であるとか、
「逆に」であれば、板を上下にひっくり返す様子、その視覚の刺激の関連している定義であるとか、
概念ではあるが、刺激としては存在する情報の要素の定義を用いて構成されている事になる。
つまり、
生命としての活動をして、その活動の最中に知能が思考する、
この思考において用いられる情報の扱い方、操作として、
これらの定義を用いている、先天的定義の定義が用いられる、
そして、その刺激を経験として記憶する際に、
思考の要素、Hub記憶としての後天的定義として定義されるという事になる。
だから、恐らく私は「例えば」を最初に覚えるまで、
それ以前は「例えば」として例えを想起することはできなかったはずである。
そして、「例えば」を覚える際に、概念やイメージとして、
「例えば」という言葉、文字列と関連して、
新たな何かを想像する事を「例えば」と共に関連して認識したと思われる。
それが何であったかは覚えていないが、
ある何かの関連した別の事を思い出す事を参考にして、「例えば」に関連付けたと思われる。
多分、それは思考する要素として明示的に覚えたわけではなく、
その与えられた状況において、「例えば」を認識する事を必要として、
認識して覚えたはずである。
結果的にそれは思考の1手順、方法として後に認識されることになるが、
最初はそのような概念としての認識であったと思われる。
------------------------------------------------------
想起の選択において、Hub記憶の存在が関わっているのではないかという事が考えられた。
つまり、
状況や状態によって、
思考は変化する可能性があり、
個体が持つ固有のHub記憶によって、
そのHub記憶自体の接続先として、選択には制限がかかる場合もあるが、
その選択自体は、個体固有のものであり、
それはその個体固有の選択が行われるという事になる。
それは可能性としては自由度の低いものであり、
自由意志ではないが、やはり固有の選択であるという点は、
違いないという事になる。
つまり、
選択は固有ではあるが自由ではないという事になる。
思考においてはHub記憶の概念で一部解読できそうだが、
想像、創造、といった言語を使わない想起の場合などは課題として残る。
その辺りについては、また後程考える事にする。
今回はこの辺で。
TOPに戻る