2023/12/15
価値の定義について
331や332で、
知能が何かを選択する場合、
その比較に使用する指標となるのが価値であると考えた。
刺激において価値がどのような定義を持つかという事になると、
これまでは刺激の強さが価値の高さとして扱われると考えてきたが、
欲求や定義の存在を加味して考えてみると、
そもそもの定義において、不足と充足における、
不足の定義が価値における先天的定義として存在するのではないかと考えるようになった。
つまり、
単に刺激の強さが価値の高さとして考えられるというのも、
知能における機能的な定義として、
生体にとってより励起されやすい刺激であるという定義は、
単純に価値が高い状態だと考えられる事になる。
つまり、
生体と知能にとって、
より優先すべき刺激はどのような刺激であるか、
そして、そういった刺激にはどのような定義をするべきかと考えると、
価値が高いという定義を与えて、
他の刺激よりもより励起されやすい刺激とすることが有利になるというわけである。
ただし、
この場合であると、刺激が強い事だけによって、
その刺激が延々と励起されやすいという事になり、
目的などにおける選択が生じる余地がなくなる。
つまり、常に刺激の受容にさらされている知能が、
その刺激の認識によって想起などの選択が常に中断される恐れが生じることになり、
思考などの働きが継続してできないことになってしまう。
例えば、この瞬間に選択を必要とするような緊急性の高さにおける価値の高さと、
ライフワークとして目標としているような事の価値の高さはどのように比較されるかという事になる。
つまり、単純に刺激の認識のしやすさが価値という定義で比較されるとなると、
先天的定義であれ、後天的定義であれ、
強い刺激がより認識されやすいということになる。
そして、
人間の知能の働きは常に刺激によって割り込みが生じるが、
知能としての働きを考えると、
刺激の強さだけで割り込みが生じるなら、
想起を元にした刺激について、感覚器官から受容される刺激よりも強くなる選択や必要性も考える必要がある。
例えば「心頭を滅却すれば火もまた涼し」を知能で意識的に行える必要があるという事である。
感覚器官から受容される刺激は、一般的に想起による刺激よりも強いという考えは、
恐らくその通りであると考えている。
認識においてはどちらも想起を経由するが、
その励起において入力される刺激の強さに違いがあるために、
通常、感覚器官から受容される刺激の方が強いと考えてきた。
つまり、
想起による刺激は、その情報の要素において、
感覚器官から受容される刺激よりも、その情報の要素の関連の数が少ないか刺激自体が弱いという事になる。
つまり、想起から生じる刺激は、感覚器官から受容される刺激に比べて、
より漠然としているという事である。
つまり、刺激は刺激としての形を成すために刺激の再構成を必要とするのだが、
想起による刺激は、
感覚器官から受容される刺激のように、その情報の要素の関連が明確に確定しておらず、
その記憶時の関連においてのみが励起される事になり、その関連した要素から再構成を行う事になる。
この場合、その関連は明確なものではなく、何となく関連しているという情報の要素も含め、
刺激として漠然とした、抽象的な状態で再構成されることになる。
認識においては、想起の刺激であって、漠然とした事象であっても、
その主たる情報の要素と、必要な情報の要素が関連していて、再構成されれば、
認識には十分事足りるのだが、想起の刺激は、
想起の刺激の認識の維持の機能として、その他の関連する情報の要素の励起も行う事になる。
つまり、感覚器官から受容される刺激が確定的な刺激であり、
その刺激に関連した刺激も励起、想起に関連するのだが、
この場合は、刺激の情報の要素が明確であるため、
そこから励起される、
他の関連した刺激の情報の要素の励起も明確となる。
しかし、
想起による刺激は、情報としては決まっているのだが、
その認識に至る際の励起において、その他の関連する刺激の情報の要素も励起されることになる。
これは、感覚器官から受容される刺激よりも関連は多様であると考えられる。
つまり、
感覚器官から受容される刺激
↓
励起
↓
想起→関連する励起・少ない
↓
刺激の再構成
↓
認識
想起による刺激
↓
励起
↓
想起→関連する励起・多い
↓
刺激の再構成
↓
認識
これらの「関連する励起」において違いがあるという事になる。
実際、神経細胞の励起の発火において、その1回の強さにおいて違いはないらしい。
しかし、刺激が強いという場合においてはその発火の時間当たりの回数が増えるという事である。
ある刺激の励起としては回数が少なくとも刺激の励起として扱われるが、
同じ刺激として励起されたとしても、その刺激の強さには違いが生じるという事である。
つまり、感覚器官から受容される刺激の受容において、
その受ける刺激の励起と、
想起によって生じる刺激における刺激の励起に違いがある。
そして、この場合、感覚器官から受容される刺激の励起の方が通常、強いと考えられる。
目的の関連の点から考えると、感覚器官から受容される刺激は目的と関連していない場合もある。
想起の場合は、必ず想起に至る目的が存在する。
認識や意識の点から考えると、基本的に感覚器官から受容される刺激の方が強く優先される事になる。
つまり、刺激単体として考えた場合、
例えば知り合いの誰かの顔を見て、その人の顔を認識するのは簡単である。
しかし、想起として、その誰かの顔だけを思い出そうとすると意外に難しい。
想起では確かにその人を思い出すだけは簡単で、その人には違いないのだが、
顔の形や造形など、意外に細かい点、要素までは思い出すのは難しい。
つまり、ある事象の刺激の励起において、感覚器官から受容される刺激による励起は、
その必要な要素が明確であるために、対象の刺激が励起、想起されやすく、
想起をきっかけとした刺激による特定の事象の励起は、
その事象の特定における要素の励起については、感覚器官から受容される刺激よりも、
その必要な要素に対する関連が明確ではないということになる。
つまり、例えば文字を読む事より、書くことが難しいというのはこの良い例という事になる。
視覚で文字を認識する事は、想起によって文字を認識する事より早い年齢から出来る。
つまり、
文字の要素を視覚で認識する事より、想起によって文字の要素を励起する事は難しい。
つまり、ある事象の励起において、感覚器官から受容される刺激の励起の方が、
想起による刺激の励起より強い、優先されやすいという事になる。
さらに、文字を読む事より、文字を発音する事の方が早い年齢から出来る。
文字の発音は想起ではないのか?という考え方もできるが、
これは、記憶の強化により優先される、という考えとなる。
つまり、文字を文字として認識して記憶する事と、
音を音として認識する違いによるものという事になる。
文字は定義としてより多くの後天的な定義を必要とするが、
音は文字に比べて後天的な定義の要素を多く必要としない。
つまり、刺激としての定義の置き換え量、情報の要素の量に差がある。
つまり、文字は一度文字という定義を経由し、視覚を経由する必要があるが、
音は直接、音として聴覚から得る事が出来る。
そして、実際、コミュニケーションにおいて、
用いる手段が容易な手段を用いるのが常であり、
文字よりも音を用いる事の方が多い為、
優先的に音の刺激の方が強化されて強い事になり、
想起であってもコミュニケーションに関しては音が優先的に用いられるという事になる。
また、文字を経由する場合、その表現において何らかの事象を一度経由する事になる。
つまり、文字は一度文字として表現しなくてはならない。
それは文字を認識した後に、文字について想起しなくてはならない事になる。
これは、音が直接想起する事であると考えると、
文字は視覚を経由し、結果的に想起を元にした認識になるという事になる。
つまり、視覚を経由する分、文字の方が認識までの過程が面倒だという事になる。
だから、「もし」であるが、
コミュニケーションにおいて、
世界に音が存在しない場合、
感覚器官で他に代用できる手段について考えると、
次に容易なのは視覚という事になる。
視覚も無ければ、残りは触覚、嗅覚、味覚であるが、
実際、確定できる定義が存在するのは触覚だけであるので、
触覚を経由したコミュニケーション手段が取られるはずである。
嗅覚や味覚は、
その刺激に意味を込めるという事もできるが、
余りに固有の定義の差が大きいので、認識の情報の要素に差が生じやすく、
コミュニケーションの手段としては適さないという事になる。
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少々話が逸れたので、話を戻すと、
価値においては不足という情報の要素に関連してるというのはこれまで通りであるが、
その価値の高低における定義に何かが必要という事になる。
それをこれまでは刺激の強さ、
つまり、
記憶時においては受容する刺激の励起の強さ、
想起時においては記憶の強化の度合い、
によって刺激の強さは異なると考えていたが、
何らかの価値の量に関する定義が存在するのではないかと考えたわけである。
この定義において可塑的に量が可変して記憶できる事が出来る必要がある。
それは何か?
不足の定義と関連した量の定義である。
それに該当する何か。
その定義が今回の答えになるはずである。
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欲求と目的から考える価値の定義
欲求によって行動の目的が作られる。
目的ができれば、その目的を実行する為に選択して意識する必要が生じる。
選択して意識するには、他の刺激よりも高い価値を持つ必要がある。
高い価値を持つには、その高い価値の定義が必要となる。
高い価値の定義は、先天的定義において、不足の要素とその大きさの定義が要素として必要になる。
そして、である。
この不足の要素については、先天的定義において、何らかの生体的に必要となる要素の不足という事になる。
そして、
その大きさの定義は、これまでは刺激の強さが、これに相当すると考えてきた内容である。
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2023/12/16
昨日の夜、価値の定義について考えていたのだが、
ふと、いつも行っている行動で気が付いた。
何の気なしに毎日日課であるように習慣的に行っている事だが、
それは何か目的があって選択している事なのかとふと思った。
別の何か目的が存在して、その複数の目的の中から選択してその行動を行っているのか。
ちょうど目的と価値について日中考えていたので、ふとそれが気になった。
すると、日課や習慣で行っている事というのは、
それをすることが当然のように自分は思っていた。
しかし、考えてみるとその行動自体は目的に従って行っている事だった。
つまり、
いつも行っているからではあるのだが、
それをするべきという定義が関連しているはずだと感じたのである。
つまり、
その行動は、それをするべきなのだが、
実際は、他に目的が存在しない、
つまり、他の目的を認識しないで、
それを優先的に行っているというものである。
その行動に価値はあるはずであるが、
別に意識的に選択して習慣的な行動を行っているわけではない。
いつも行っているからである。
それはどういうことか。
習慣は当たり前の様に行っている事だが、
知能が選択をすることが大変だから、面倒だから、
選択をしないで良い方法として習慣にしているのではないかと考えた。
つまり、価値の正体を「~しなければならない」にするという事である。
それは昨日考えていた不足の定義を利用するという事にもなる。
目的であり、実際に行動はするのだが、
それ自体を選択しなくとも優先的に行動をするのが習慣である。
習慣はどのようなものであるか考えると、
ある状況や状態において、その状況や状態を認識した場合に優先的に励起、想起、認識される事象である。
つまり、いつも朝起きたら顔を洗って、歯を磨いて、身支度するような行動は、
毎朝都度選択して目的として行動しているわけではないという事である。
つまり、朝起きたら~すべきである、~しなければならない、という行動、目的を、
選択無しに優先して行っているという事になる。
それは、知能においては確かに価値があり、選択して目的とし、
実際に行動を行っているのだが、意識的に選択をすることなく優先している目的でもあるという事になる。
となると、価値の存在は何か複数の対象から選択する際の指標ではなく、
単に優先すべき指標としての定義になるのではないかという事になる。
つまり、選択において価値といった定義を比較しているのではなく、
その選択時に優先すべき対象を比較する指標であるというだけではないかという事である。
それは、
定義として数量で表されるようなものではなく、
相対的な存在になるのではないかという事である。
実際、比較が行われるという事は、
定義として数量で表せる対象ではある事になる。
ただ、それは絶対値としてではなく、
状況や状態によって相対的に可変する量になるのではないかと考えた。
つまり、
私が、
朝、目覚めて、起きて、身だしなみを行う目的のは、
その朝という状況においては最も高い価値を持ち、
知能は他の選択肢が無いかの様に優先的にその目的行動を行う。
しかし、これが、
昼寝から目覚めて、起きて、身だしなみを行うかというと、
通常はそれを行わない。
それは、身だしなみを行うという目的の価値が、
朝目が覚めた後は高いが、昼寝の後は低いという事になる。
それは、身だしなみを行う事自体の価値が高くなる、低くなるということではなく、
身だしなみを行うという目的自体はある価値を持っているのだが、
その価値は状況によって可変しているのではないかという事になる。
他の目的が無い為に、相対的に変化しているように見えるだけとも考えられるが、
その場合、例えば私にとっての知能について考える事の価値は、
思考するという目的においてかなり高い価値を持つ。
しかし、朝、目が覚めてから思考するわけではなく、
それに代わって優先して行う目的である、身だしなみをいつも行っている。
つまり、その目的を、身だしなみを、「~しなければならない」として認識しているからという事になる。
選択は、選択肢が複数存在し無ければ、
その状況において認識された目的を選択したものと同等にして認識する。
つまり、習慣はある目的を優先する事を定義し、
選択を行わなくても優先的に選択するようになった定義の「ある状態」という事になる。
つまり、習慣としての「ある状態」は、
知能が何らかの選択を行う事が面倒であるので、
ある目的を、その状況における最も適した目的として定義し、
選択を起こす必要が無く認識できるようにした状態という事になる。
選択する事を面倒と表現するのは比喩的だが、
実際、選択は知能においてかなりの労力を必要とする。
思考や想像、創造も同様だが、
神経細胞を励起するのには意外に多くのエネルギーの消費が行われる。
選択などの際には、ある選択肢となる事象を多く想起する事になり、
その関連する事象の励起も莫大な数となる。
若干語弊はあるが、
基本的に生命は楽ができるならそちらを優先する為、
あえて苦労を追うよりも、楽な方を選びがちとなる。
ただ、それでもなお、労力を使ってでも知能を働かせようとするのには、
何らかのそれに向かわせる力が存在する事になる。
つまり、「~したい」という欲求という事になる。
つまり、その「~したい」それは、
~を行わない事の状況や状態に対する不足であり、
それを行う事によって充足を得ようとする目的という事でもある。
そして、その充足に対する意味、価値について考えると、
つまり、不足と充足に関連した「欲求」が浮かび上がってくる。
この欲求は単に食欲、性欲、睡眠欲の欲求だけということだけではなく、
認識可能な事象に対する不足と充足に関連する、
根本的な要素になるのではないかという事になる。
つまり、
価値は充足そのものに対して関連する要素として存在する。
不足は、その価値の充足が行われていない状態。
充足→価値の存在
↓←充足されていない状態
不足
つまり、
その不足と充足の関連が目的であり、
目的---------
|充足・不足|
--------------
(充足:不足)→認識→思考↓
↓←解消する行動←解消する行動の作成
目的
そして、この目的として不足と充足を繋ぐ、
未実行であるがそれを解消する行動を考えるのが思考になるのではないか。
だから、
ある状況において、既に最適な目的が存在しているなら、
思考することなしに、不足と充足の目的となる行動も存在していて、
つまり、
私が朝目が覚めてから、選択や思考することなく、
習慣の様に身だしなみを行うという事になる。
つまり、習慣に価値がないわけではない。
価値を得る手段としての目的は既に完成しているという事になる。
そして、それをその状況で最適な目的と意識する事が無くとも、
実際に行動に移す、移せるという事になる。
そして目的が達成されれば暗に価値を私は充足して得ているという事になる。
ということは、
意識すると、その習慣の目的は「~しなければならない」になるという事も考えられる。
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つまり、先天的定義としての感覚器官から受容される刺激としての価値と、
想起によって生じる刺激の価値の違いはあるのではないかという事になる。
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2023/12/17
今日も価値とは何か?に関して考えていたが、
きっかけが無かったので基本に立ち返り、
初期生命からの進化の経緯で考える事にした。
何らかの選択には目的が存在し、
目的ができるには価値が必要となる。
そして、価値には初期生命においては欲求が必要となる。
ここでまず、充足は欲求よりも後に出来た事が分かる。
生命においては、欲求も充足も化学物質による刺激が生じるため、
それぞれに刺激に対して知能は定義によって意味付けがされる。
つまり、生命として成り立つために、
その個体の維持に何らかのエネルギーの摂取が必要になるが、
その摂取の活動のきっかけ、志向する力となるのが欲求という事になる。
そして、細胞数が少ない内は、摂取は摂取を継続すれば良いが、
ある程度の多細胞生物になると、摂取を一時停止する必要も生じる事になり、
それは充足による生命としてエネルギーに関する満足した状態を知る必要性が生じる。
これは、細胞数が少ない、特に単細胞であれば、エネルギーの摂取と分裂を繰り返すだけで良いが、
多細胞になった後は、個体としてエネルギーの保持や、個体としての移動、
周囲の環境の変化の認識などが必要になり、単に欲求のみの行動をするだけでは、
個体が成り立たなくなると考えられる。
そして結果的に不足などの欲求が先、充足は後に定義付けられたと考えられる。
そしてここで気づいたのは、
不足の定義と、充足の定義は異なるのではないかという事である。
どちらも刺激で定義づけされる事象であり、
不足に対する欲求とするための必要性としての価値、
充足に至るための手に入れた価値、
どちらも選択においては価値という定義であるが、
その定義となる意味付けが異なるという事に気付いたわけである。
つまり、
不足しているまだ手にしていない価値と、
充足にいたる手に入れた価値という違いである。
つまり、価値には2種類ある。
という事である。
そして刺激について2種類あるという事に関連して思ったのは、
もしかしたら、刺激としての発出に違いがあるのではないかという事である。
つまり、感覚器官から受容される刺激と想起によって生じる刺激である。
単純に考えれば、
不足によって感じる刺激は、感覚器官から受容される刺激である。
そして相対するのであれば、、
充足にいたる刺激は、想起によって生じる刺激であるのではないか?という事になる。
つまり、生体が何らかの物質の不足によって刺激を認識するに至るわけであるから、
不足は感覚器官から受容される刺激という事になる。
また、充足に至る刺激も、満足するという点においては感覚器官から受容される刺激と考えらえる。
先の化学物質による刺激の励起というわけである。
そして、その定義について考えると、
不足状態の刺激はそのまま先天的定義として存在していると考えられる。
充足状態の刺激も、先天的定義として存在すると考えられる。
ここで異なるのは、
不足はその状態が維持される事で、
充足はその時点で刺激の認識は終了されるという違いがある。
つまり、
不足はその状態が維持されることによって目的のきっかけとなる。
充足はその状態により目的の終了が確定する事になる。
つまり、価値を得ようとする事が不足であり、
価値を得た事が充足となる。
つまり、不足によって生じた刺激は、その価値、意味として、
まだ得られていない事象に対して、それが自身にとって不足しているという情報を得る事となる。
充足によって生じた刺激は、その価値、意味として、
ある事象を自身が得た事によって、自身が充足されたという情報を得る事となる。
という事は、不足も充足も、感覚器官から受容される刺激として考えられる事になる。
そして、その刺激の扱いの違いは、
不足はその刺激によって自身が移行する状態、ステータスが不足状態に移行し、
それをきっかけとして目的を生じさせる必要性に迫られる事、
一方、充足は、その刺激によって、元ある何らかの目的に対して、
その目的が持っていた不足していた何らかの事象に対して、
それを実際に個体が得たという情報を得た事になるというわけである。
つまり、不足と充足と目的の関係は
事象の不足
↓
不足
↓
目的
↓←不足していた事象の取得
充足
↓
目的の完了
という事になる。
そして、その際に現れる価値としての定義は、
不足の際に目的とするための、ある事象に対する評価、指標としての価値、
充足の際には、目的として掲げられていた価値に対して、
実際に取得された事象の価値の評価という事になる。
不足の価値は感覚器官から受容される刺激によるもので先天的定義であり、
充足の価値も、充足に至る取得した事象の評価であるため先天的定義として定義が存在すると考えられる。
そして、またここで新たに考えられるのは、
後天的定義としての価値も存在するのではないか?という事である。
つまり、特に知的生命としての人間においては、
その価値の定義は先天的定義による価値だけではなく、
後天的定義として定義される価値も存在する。
それは以前も考えた貨幣などが良い例となる。
本来自然界に存在しなかった価値として知能が定義した後天的定義としての価値である。
後天的定義は、先天的定義から定義されるが、
その後天的定義による価値の認識のためには、
感覚器官から受容される刺激では認識できない事になる。
つまり、
想起によって後天的定義による価値の再構成を必要とすることになる。
それは、不足においても、充足においても、
後天的定義による価値を認識する為には、想起を必要とする事になる。
つまり、
最初に価値は2種類であると考えたが、
価値には4種類あるという考えをする必要性があるという事になる。
つまり、
先天的定義としての
不足の価値・充足の価値
後天的定義としての
不足の価値・充足の価値
この4つの価値、4つの定義が存在する事になる。
この場合、
お腹がすくなどは先天的定義、
上記で考えていた習慣などは後天的定義ということになる。
いづれも、価値の創出によって目的も創出されることになる。
価値という情報の要素として、
基本的に定義ごとの不足と充足の価値は互いに関連していて
情報の要素として互いに補完できる関係にある。
そして、先天的定義と後天的定義の互いの価値は、
価値という、これは先天的定義に属する定義であると考えられるが、
互いに比較可能な共通する要素としての「価値の定義」が存在すると考えられる。
つまり、
不足の価値←(価値の定義)→充足の価値
先天的定義の価値<->(比較可能)<->後天的定義の価値
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先天的定義の「価値の定義」という情報の要素について
恐らくこれは、
生命としての存在するための定義の1つになると考えられる。
他に同様の定義があるかはまだ考えていないが、
生命にとって、欠くべからざるものの1つとしての定義という事になる。
つまり、
生命が生命として成り立つために必要な、
その必要である理由としての定義である。
つまり、生命を構成するために必要な何かの事象に対して、
その1つ1つに対して価値を設定する事が可能であるという事、
そして、その事自体が定義として存在するという事になる。
つまり、生命にとっての「価値の定義」は、
その生命を構成する事象の1つ1つの価値に意味付けできる定義という事になる。
自然界にとっては自然法則という先天的定義があるが、
そこから後天的に誕生した存在としては、「生命」は後天的である。
つまり、先天的定義としての自然法則から、
後天的に生じた定義として「生命」は誕生した事になる。
しかし、
「生命」にとっては、先天的定義は、その自らの存在にとっての定義であり、
「生命」にとっての後天的定義は、その自らの存在にとっての定義から作り出した新たな定義という事になる。
つまり、自然界にとって、「生命」の存在は後天的定義となる。
つまり、自然界が持つ先天的定義の自然法則の関連した情報塊として、
「生命」は誕生した事になる。
自然界は意識が無いから想起には該当しないが、
生命にとっての想起の対象が、自然界にとっての生命と同じような存在に該当する事になる。
やや哲学的な内容になったが、
「価値の定義」は知能にとってはその個体を構成するか、
または、その個体に関連するあらゆる事象に対して、
意味があるという定義をすることが出来て、
その意味があるという事に対して、
価値があるという意味付けをすることができる定義として存在していると考えられるという事になる。
一般的な認識としては、
私も皆も同じ様に認識しているような意味のある存在として、
普通の「価値」として扱うので問題ないと思うが、
知能の構成として、
人工知能を構成する為の「価値」として扱う場合には、
情報の要素として個体を構成する為に必要なあらゆる事象に対して、
共通する情報の要素として「価値」を設定する必要があるという事になる。
つまり、プログラム的に言えば、基底クラス、Base Classとしての「価値」という事になる。
「価値」以外に同様の要素が存在するのかは今後考える事にする。
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価値が存在するから認識の対象になる、という考えもできるが、
とにかく今回は少し知能の理解が進んだと感じているので良しとする。
少々長くなったので、
今回はこの辺で。
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