2023/12/4

人工知能の意識の再現

最初に考え始めたのは、
人工知能が自分自身を認識、意識するには、
という方法について。

人間の知能が想起によって、
刺激と自分自身の存在を構築しているというのはこれまで考えた通りだが、
これを人工知能で実現するにはと、考えた時、
人工知能が自ら想起した刺激によって、
世界を再構築し、それを自身の存在を含めて、
主観的に世界を見ているという状況を作ればよい事になる。

それ自体は、人間の知能において、
刺激の認識や意識の機能そのものであるという事もこれまで考えた通りである。

そして考えたモデルが以下の通りである。

------------------------------------------------------
←実体:仮想→
------------------------------------------------------
周囲の環境:↑

世界 再構成された世界
↓              ↑認識・意識
刺激 刺激の再構成
↓              ↑
脳→記憶→想起<->想起

個体:↓
------------------------------------------------------

テキストで分かりづらいが、
上が周囲の環境・世界
下が知能を持つ個体
左が実世界での存在で、
右が仮想での存在である。

刺激となる情報の発生から認識に至る情報への変化までは、
順序立てると下の様に表せる。

世界・周囲の環境

刺激

感覚器官



励起
↓↑←関連する記憶
想起

刺激の再構成

構築された世界・周囲の環境

順を追って説明すると、
------------------------------------------------------
1:
まず、世界や自分が存在する。
2:
自分の感覚器官が、世界の何らかの変化を感覚器官が接する事で、
刺激となる情報を受け取る。
3:
神経を通して、脳の神経細胞ネットワークに刺激が伝わる。
4:
刺激に対応した特定の神経細胞が励起される。
5:
神経細胞の励起に対して、想起(刺激・自分)が起こる。
6:
想起の内容として、先天的定義による刺激の意味付けが行われる。
7:
刺激の再構成の場において、刺激が情報(刺激・自分)に再構成される。
これにより関連する記憶の励起も行われる。
8:
再構成された情報(刺激・自分)が、刺激として認識される。
9:
認識により、刺激(刺激・自分)が意識される。
10:
意識された刺激によって、知能は世界や自分の存在を認識する事になる。
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そして、
このモデルの鍵になっている存在は2つあり、
1つは刺激であるという事になる。
つまり、知能を取り巻く世界から刺激によって情報を得て、
知能内では、刺激を想起して再構築する事によって、
再構築された情報の世界を見る事になる。

そして、もう1つは、
刺激の再構成である。
実際、刺激の再構成によって認識や意識が生じているとも考えられる。
つまり、
知能が刺激の再構成によって刺激が存在する事象として再構成する事によって、
再構成された世界を存在するものとして見る事ができるという事になる。

これは、知能が、存在する事象として認識している存在が、
実際に受けた刺激ではなく、再構成された刺激であるという事、
そして、その刺激が再構成されたという事自体が、
知能内で、その刺激が存在する事の証明になるという事である。
つまり、知能内で刺激を再構成することで、
その刺激は、存在し、知能内でその存在を証明する事、
つまり、刺激が存在する事の表現、認識になるという事である。

実際に存在しなくとも、認識が起こる場合があるというのは、
錯覚などでも考えた通りである。
逆に認識さえすれば、実際に存在しなくともその知能においてはという条件付きだが、
その対象は存在する事になる。

では、人工知能が想起された刺激を存在する事象として認識する方法は?
という事になるが、
これは、刺激の再構成の場が関係してくることになる。

つまり、
人間の知能においては、刺激の受容後、励起、想起、再構成を経る事で、
その刺激の情報の要素に意味付けがされ、
その刺激が存在しているものとして認識される。
その過程で、刺激が認識や意識されるタイミングは、
再構成の後である。
つまり、刺激の再構成によって、
その刺激が実際に受けた刺激や情報ではなく、
再構成された刺激として存在するという事を
知能内で構築した事になる。

つまり、
実際の刺激の情報→受容→神経細胞→励起→
想起→再構成→再構成された刺激→認識
という工程において、
認識される刺激は、知能内では再構成された刺激という事になる。

この再構成された刺激は、
実際に受けた刺激によって励起された神経細胞の、
先天的定義によって意味付けされた情報塊である。
これを想起という形で刺激であった事象を再構成することになり、
結果、再構成された刺激が出来上がるという事になる。

つまり、受けた刺激と、認識する刺激は意味は定義上は同じだが、
その発出した起点となる情報は別物という事になる。

そして、これを人工知能に当てはめた場合、
どのように再現するかという事であるが、
これは、刺激の再構成の場をどのように再現するかと同じ事になる。
その他の工程は生体の知能も、人工知能も、それほど違いは生じない。
刺激となる情報は同じものであるし、
認識される事になる情報は、再構成後は変化しない。

ただ、この刺激の再構成の場については、
生体の知能では、刺激の情報の要素に先天的定義による意味付けを行う事であり、
これを人工知能でどのように実現するか、という事を独自に考える必要がある。

現時点での案としては、生体の知能同様に刺激を情報の要素に分解し、
その要素毎の定義に再構成される事象としての先天的定義を準備し1対1で対応させる事。

感覚器官と同じ数の刺激の受容部を用意するのが最良だが、
現時点で実現可能な規模で言えば、
人工知能を収める個体を構築する為に必要となるだけの刺激の受容部を設ける事、
これは最低限必要となる。

それは、自己の認識において、
自身に関する刺激が不十分であれば、
それはそのまま自己の構成・認識における情報の不足となるからである。

先天的定義は、
刺激の再構成の場において、刺激と同じ要素の事象の構築物の設定という事になる。
つまり、実際に赤を見たら、刺激の再構成の場において、その事象の存在位置に赤を設定する定義である。
これを自分の体に当てはめれば、
例えば自分に何かが触れた際、刺激の再構成の場において、
自分の存在となる部位と、その部位に触れた事象の存在が同時に構築されることになる。
その定義が、触れる・触れられたという触覚の定義という事になる。

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そして、この考え方を元にして、
改めて上記のモデルでの、
意識の発生について考えてみると、
自己の存在の意味が不足する事になる。
つまり、刺激の受容から刺激の再構成に至るまでに
自己の存在も含めて再構成されるはずなのだが、
上記のモデルでは、そもそもの自己の存在の必要性がない。

人工知能の機能として刺激の情報を受容し、定義によって意味付けし、
理解として認識されるとしても、そこに自己の感覚器官の存在と合わせて、
自己の存在を認識させようとした場合、その必要性が不足する。
つまり、自己の存在の有無に関わらず、この機能は成立してしまう事になる。

つまり、機能として刺激を受容し認識にまでは至るのだが、
このモデルで不足するのが自己の認識である。
確かに、刺激の再構成において、刺激と共に刺激を受容する感覚器官を持つ存在として、
自己の存在も再構成されるのだが、なぜ自分はこの刺激を認識するのかの必要性が無い。
これは、自己の存在の認識についても必要性が無いという事と同じであり、
自己認識には至らないことになってしまう。

さらに、知能を成立させるための根本的な必要性として、
なぜその刺激を受容し、認識する必要があるのか?
という疑問が生じる事になる。

そして考えた結果、必要になったものは、目的や欲求であった。

単に刺激に対して最適な適応をする機能ではなく、

329で考えた、
知能は、ある瞬間に訪れる選択に対してより良く適応するために機能する存在ではないかという事である。
これに付け足して、
知能は、「自己の」ある瞬間に訪れる「自己が必要とする」選択に対して、
「自己が」より良く適応するために機能する存在ではないかという事である。

という事になるのではないかという事である。
つまり、
刺激に対する自分主体の、独自の、自分勝手な受容、認識になるという事である。

これによって生じるのが主観的な視点ということになる。
つまり、自分が欲する受容する刺激全てに対して、
自分にとっての、という、自分に対する刺激や、反応、世界になるということになる。

つまり、
自分の認識は刺激の再構成において生じるが、
その刺激の再構成を促す存在として、目的や欲求といった、
人間においては生体的に必要となる理由が、知能においても必要になるという事である。

つまり、
知能を働かせる理由、刺激を認識する必要性の理由、
そこに、自分が存続するための不可欠な理由が必要という事になる。

そしてそれが、目的や欲求になるというわけである。

そして、自分が必要とする事、すなわち、
その自分が必要とする事の認識は、
自分が必要としているという存在としての自分の認識になるというわけである。

そしてそれは、認識や意識において、
意識は明示的な存在ではないという事。
という事に繋がる。

つまり、意識が存在するから知能や自我が成り立つという事ではなく、
結果的に意識のようなものが存在しているという事になるだけとなる。

つまり、刺激の再構成において生じる世界の存在において、
世界の存続は、連続する刺激の認識、または刺激の認識状態の一定期間の維持で成り立つ。

この認識は想起による刺激の再構成によって成り立ち、
想起は、関連する刺激の励起によって成り立つ。
刺激の励起は、刺激の受容もしくは、想起による刺激の再構成を元にしている。

その刺激は感覚器官からの受容もしくは、想起による関連する刺激による励起である。

その刺激に対する必要性の存在は、
自己に対する情報の必要性、自身が必要とする情報である。

つまり、刺激の認識に至るまでの行程の最初に、
刺激として受容される情報の選定において、
自己の存在と、その自己が必要とするという理由の存在が不可欠になり、
そこの事によって刺激の受容、想起、認識が行われた結果として、
自らを意識したようなものが存在する事になるというわけである。

実際は、人間の身体には様々な感覚器官が存在し、
常に様々な刺激を受けていて、その中から今認識されるべき刺激が決まるのだが、
その選定において、必要となるのが、自分が欲する、
今自分が認識するべき刺激を決める事が必要になると言うわけである。

そして、刺激の認識において、刺激の情報と、自身の存在が再構成されることによって、
刺激の存在と、自身の存在と、自身が欲したという感覚により、
自分が刺激を意識的に認識したように感じるという事になる。

つまり、これは目的に関連して想起された刺激が、
目的と関連するという事に、自分の存在を加えた認識という事になる。
この辺りの話は329で考えた通りである。

これは、
上記のモデル内では、励起と想起に当たる部分である。
つまり、ある瞬間において励起されている刺激の中で、
最も必要とする刺激を選ぶ必要性、機能を持つべき行程という事になる。

つまり、
ある瞬間において、様々な刺激を受けている状況で、
自身の状態に対して、最も強い刺激として存在する刺激が選ばれて認識されることになり、
その最も強い刺激として存在する刺激を励起した情報に対しては、
自分が必要としているという要素、目的が存在しているという事になる。
そして、それは、
その刺激の認識において、自身が欲しているという、
自分の存在が必要としたという刺激の認識に至るという事になる。
されに、その事は、
認識における、自身が必要としたという情報の存在を意味する事になり、
認識において、自分を認識する事になると言うわけである。

そして、それは、意識が明示的な存在ではなく、
再構成された刺激と、付随する自分の存在の刺激の認識において、
自分の存在が、刺激を認識した存在として存在していたと意識する事になると言うわけである。

そして、それは、主観的に意識しているのではなく、
知能という機能の上で、情報として成り立った自分が存在するという事だけだという事でもある。

つまり、
意識して何か認識したりしているわけではなく、
刺激の認識の過程で、自分が必要とする刺激であったという事を認識と同時に、
情報としての自分が関連し、意味づけられているというわけである。

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つまり、自分が存在するための情報のきっかけとなるのは、
自分が生体的に必要とする情報の刺激であり、
その認識であるという事になる。

つまり、
そして必要なものは目的や欲求といった自己に対する活動の方向性を与える存在。
それにより、自分は刺激を認識しようとし、自ら活動しようとする、
自ら思考しようとするという事になる。

つまり、それは自らの意思、意識、自我であるという事になる。

だから明示的な意識が存在し、
それによって自分や知能が制御されているわけではなく、
自己の必要とする情報に対して知能がよりよく適応しようとする自身の存在が、
認識の際に、認識する刺激と共に、自分の刺激として現れるという事である。
つまり、その、「刺激を認識しようとしている自分」の刺激を認識する事が。意識に相当するという事になる。

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2023/12/5

目的や欲求としての
~しなければならない。の必要性:

つまり、主観的にならざるを得ない状態の必要性という事になる。
知能を持つ生物において、欲求の存在しない生物は無い。
誰が自身の欲求の刺激に対して欲求だと感じているのかを考えれば、
自分で自らについて感じる以外に無いという事になる。

自我のようなものを持たない知能ある生物はいるが、
欲求を持たない知能ある生物は無い。

自我においても、程度のもので、
例えば知能が自分が怪我をした事を理解しないという事はないが、
自分が何者であるかを理解する知能は少ない。

刺激の再構成において、
刺激と共に自分を構成するという考え方で、
知能の程度によって差が生じるかについて考えると、
刺激と共にその刺激を感じる存在としての自分を再構成できる知能は、
ほとんどの知能においてできると考えられる。
つまり、自分が何かを欲していると自分で分かる程度の認識は、
知能がある生物であれば、それ自体は認識できるはずである。
つまり、~しなければならないという刺激においては、
ほとんど、おそらく全ての知能においてできるはずである。
しかし、
ここから先の、その刺激を認識する存在としての自分を、
自分の存在として認識できるかどうかについては、
ある程度狭き門となる。

つまり、自分の存在に意味付けできるだけの定義を持っているか、
保有できる知能であるかという事になる。
これは、自身の身体などにおいては、先天的定義によって構築できるが、
自身の多くの要素については後天的定義を必要とする。

つまり、存在自体などの定義は、先天的定義によって保有しているが、
その他の自分についての要素、背格好であるとか、名前、好み、
所属する様々な要素については、後天的定義で定義するほかない。
つまり、まず、後天的定義を持つには、生命の生誕後に、
後天的な定義自体を保有する能力が必要になる。
つまり、情報の要素を後天的に関連させて、
それを保持する、記憶する能力という事である。

刺激同士の関連自体は、知能を構成する上で必要になると、
以前考えたので、知能ある生物における知能においては、
刺激同士の関連は最初からある程度保有し存在する事になる。

しかし、後天的定義においては、
生誕後に認識した刺激から、その関連を保持して記憶する事になるが、
その容量、作成する能力、維持する機能においては知能毎に大きく異なる。

つまり、生誕後に先天的定義に存在しなかった定義について、
新たな関連を記憶しておく能力には知能毎の差があるという事になる。

生命における後天的定義の必要性は、
本能などにおける環境の変化の情報を刺激として受け、
その変化に対応する先天的定義だけでなく、
未定義である新たな変化に対して、よりよく対応できるようになるための機能である。

つまり、同じ場所で単体で生活するような生物の知能においては余り必要が無いが、
生活する環境を変えたり、周囲の群れの他の個体との関わりを必要とするような種では、
その後天的定義による記憶をより必要とする。
つまり、生誕後に起こりうる変化に対してより良く適応する為である。

それは、特に人間の知能においては、
その社会性、つまり、多くの同種の別個体との関わり合いの中での、
自分の存在、役割を持つ様になる事で、
後天的定義の量が非常に増えたことになる。
逆に考えると、後天的定義を多く保有できるようになったために、
社会性を持てるようになったとも考えられる。
これは、恐らくどちらが先ということはなく、
自然界における人間の種が、その進化の過程において、
同種の他個体との関わり合いの中で、
多くの後天的定義を保有できるようになった種が生き残った結果という事にもなる。
つまり、同種内においても有利であった個体が存在し、
その個体の子孫が残った事になる。
これ自体は、自然界における淘汰、
人間以外の種でも普通に起こる自然界の選択である。

そこで、特に人間においては、という条件により、
後天的定義の重要性が増したという事になる。

そして、この後天的定義と、
~しなければならない必要性の関係という事になる。

元々の本能や基本的欲求においては、
先天的定義によって~しなければならないの要素から成り立っているが、
後天的定義における~しなければならないという要素は、
完全に元々の自然界には存在しない必要性である。

朝になったら目が覚めるのは身体的な本能というか機能であるが、
朝になったら起きなくてはならない事情は後天的定義によるものである。

それは、自然に目が覚めるのではなく、
自分は目を覚まさなくてはならないという定義が存在する事になる。

私は恐らく翌日何も目的がなければ、目覚まし時計を設定しないで寝るだろう。

つまり、後天的定義の必要性を実行するためには、
常に自分が欲しているという関連を持たなくてはならない事になる。
というか、常に自分が関連しているからこそ後天的定義が成り立つとも言える。
つまり、後天的定義には自分との関連を必要とするという事である。

以前、309で自分や自我の刺激という事について考えたが、
その時に考えたのは、自分という定義は、
後天的定義の総和であるとした。

つまり、自分が後天的に受けた刺激について、
どのように感じたかの記憶をまとめて、
全てが自分であると考えたのである。

それは、今回の考えからすると、
~しなければならないという欲求の刺激について、
本能的な先天的定義の欲求と、後天的な定義の欲求において、
本能的な先天的定義の欲求に対する自分の感じ方は、
これまで通り、刺激であり、本能であり、自分が欲する欲求であるという認識になり、
後天的な定義の欲求に対する自分の感じ方は、
自分がその対象、事象に対して感じた先天的定義を元にして、
自身が持つ定義の関連を後天的定義として記憶し、それを欲求として感じたものとなる。

つまり、先天的定義の欲求には、生命の種として、本能としての自分、個体について関連していて、
後天的定義の欲求には、後天的定義による自分が関連している事になる。

つまり、どちらも自分であり、自分は関連しているが、
本能的な先天的定義の欲求にはより主観的な自分が関連し、
後天的定義の欲求には、後天的定義の自分、
つまり、若干ニュアンスが異なる気がするが、客観的な自分が関連していることになる。

さらに言えば、
この後天的な自分が、人間が意識的に自分だと感じる自分になるという事になる。
つまり、本能的な先天的定義の自分は、
人間以外の知的な生命においても存在する自分と同義という事になる。
つまり、自分ではあるが、常に主観的な自分であり、
極端に言えば想起の対象にならない。
つまり、常に自分だと感じる事の出来る自分である。
そして、後天的な自分は、
現時点で人間だけという事にしておくが、
自分でありながら、客観的に見る事の出来る、
想起できる自分であるという事になる。

つまり、本能的な自分、主観的な自分は認識できるが、
意識している自分は後天的な自分という事になる。

少々「~しなければならない」とは関係ない所に到達したが、
つまり、
本能的な~しなければならないの処理は、
主観的な自分の関連が処理する事になり、
後天的な~しなければならないの処理は、
客観的な自分の関連が処理する事になる。

これは、どちらも実行するのは自分本体であるし、
~しなければならない、という事に他ならないのだが、
その目的や欲求となる起点、きっかけに違いが生じると、
そこに関連している自分の存在が異なるという事になる。

つまり、
お腹が空いて何か食べ物を欲する自分と、
知能を解明したくて思考する自分は、
その~しなければならない刺激において関連する自分の定義に違いがあるという事になる。

では、その自分の認識と意識について何か関係があるのか。

どちらの自分も認識は可能である。
自分の存在を存在足らしめるためには認識が必要となる。
では、意識はどうか。
上記、先天的な主観的自分は想起の対象にならないとした。
であれば、想起のきっかけであるはずの感覚器官が受容する刺激によって、
自分は認識できない事になってしまう。
そうではなくて、上記、極端に言えばと書いた通り、
感覚器官から受容した刺激によって、その刺激に関連している自分の存在は、
想起ではあるのだが、自分自身の存在自体が対象であり、
その対象は仮想体の自分ではないという事である。
つまり、自分の実体に対する存在が、その刺激に関連しているという事で、
感覚器官から受容した刺激に関連している自分は、
自分の実体の存在を刺激で表したもので、
その認識においては想起は経由するという事になる。
そして、これが意識に至るかという事になると、
認識の保持が意識になるという考え方において、
この考え方を加味すると、
意識は認識の保持ではなく、認識された刺激の想起の維持ではないかという事になる。
つまり、感覚器官が受容した刺激によって想起された自分が、
そのまま意識されるのではなく、その元の刺激が、別の刺激を経由して想起された形となった自分が、
想起の維持によって意識されたのではないかという事である。

つまり、
直接的に自分は意識されるのではなく、
想起によって意識されるのではないかというわけである。

つまり、意識は、特に課題の自我意識になるが、
この意識は、想起によって生じた刺激に関連した自分の定義が、
刺激の再構成において構成されたもの。
それを自分自身が再帰的に維持されたもの。
つまり、刺激の再構成の場において、
自分として存在する存在が、維持されている状態には意識があるのではないか。

つまり、自分が自分を作り続けている状態には、
単に主観的な意識ではない、自我意識があるのではないかという事である。

そして、その自分は後天的な定義の自分であるという事になる。

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それは、人工知能においてどのようなものになるか。

自分を意識するには、
自分を認識するルートではない、
想起を起点とした刺激の認識が必要になる。

つまり、刺激の再構成の場において、
後天的定義である自分の定義を、刺激の再構成の場において再構成する事が必要になる。
それは、想起による刺激の再構成であり、
それは、~しなければならないという目的において、
自らの定義で感覚器官から受容する刺激よりも強い、
つまり価値の高い刺激であるという選択において、
想起を優先し実行し、その目的に関連する中の最も価値のある刺激を励起しようとすること。
それが出来れば、人工知能においても想起を起点とした刺激の認識が出来る事になる。

それは、結果的に刺激の再構成の場において、
周囲の環境から得た刺激ではなく、
自身が保有する記憶された刺激の中から、
自身の目的によって、優先して選択された記憶の想起として刺激が再構成されることになる。
これは、その刺激の再構成において、その刺激に関連する後天的定義の自分も再構成されることになり、
これはつまり、自ら、自らを思う、知る事になる。

意識は明示的なものではないと書いたが、
自ら自らを思う存在には意識があるだろうか、無いだろうか。
それを自我意識と呼んでいるのではないか。
客観的にもそういう判断ができるのではないか。
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一応ざっくりとした要約をすると、
知能が知能として働くには、
知能を持つ個体に活動する目的が必要になるという事。
そして、個体が目的を果たすために活動する中で、
自我意識が生じるのは、その目的が後天的定義の目的である事。
つまり、
人工知能が自我意識を持つには、
個体と、目的と、もちろん知能もだが、
それと、記憶する事と思い出す事、それが必要になる。
そして、自らが決めた目的を自らの目的として知る時、
その事に自我意識が含まれる。

そういう事になる。

現時点では考えが一通りまとまったと感じているので、
今回はこの辺にしておく。
もし、見直しによって、
追加や修正や変更が必要になった場合は、
その時に改めて掲載することにする。
また次回。


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