2023/12/2

知能の機能における思考と予想について

昨日から知能と選択について考えていたのだが、
生命としての機能として知能について考えた場合、
その必要性について1つ思いついた事がある。

それは、知能が思考や選択するなどにおいて働く場合、
その思考や選択の候補となる対象の要素は既に記憶に持っている必要がある。
そして、ある状況に遭遇した場合、
つまり、ある瞬間に確定した周囲の環境から
選択を迫られる事になる。
これはつまり、周囲から刺激を受けるという事になる。

つまり、自身のある確定した状況、
ここでは、自身が持つ刺激の記憶に対して、
周囲から自身の決定要因の無い、刺激を受けるという事になる。
そして、その刺激に対して想起する形で知能が働き、
思考や選択を行う必要性を自らの反応、活動として行うという事である。

つまり、知能は、ある瞬間に訪れる選択に対してより良く適応するために機能する存在ではないかという事である。

この場合、先の事を考える、心配や不安を行うという事が存在する事が疑問に思ったが、
それは、あくまで現在の延長として知能を働かせているのではないかという事になる。
つまり、先の事というのは、今この瞬間の現在の選択ではないが、
先の事を考えるという目的に対して、
実際の選択ではなく、確定しようのない選択という事になる。
これは、新たな事について思考するという事も同じであり、
本来目的として思考や選択を行う状況に遭遇するのであるが、
先の事は本来の状況ではなく、実際に存在していない状況である。

この場合、知能は、実際には存在していない状況に対して、
思考や選択を行う事になる。

その目的は、既存の心配や不安に対する補完としての用意、予備、という考えではなく、
未知に対する想起になるのではないかという考えである。

つまり、本来存在しえない状況や状態、刺激に対して、
今自身が保有する刺激の記憶、その要素から、
仮想的な状況に対して認識を行おうとする事。

つまり、刺激となる要素の関連を、未知の対象に対して関連させる事。

それは本来保有する事の無い選択、想起、要素の関連を作り出す事。

目的に従って、ということは目的は存在する。

つまり、そういう目的を認識しうる状況の要素が存在する。

何のためか。

本来はある瞬間の適応ができれば良いだけのはず。

なぜ予想する必要があるか。思考する必要があるか。

何かを必要としているはず。

それによって何が得られるか。
それは、実際の認識ではない、想起の想起による関連の刺激の創作。

つまり、思考や選択を行ったにもかかわらず、
目的の結果が得られない対象に対して、
再度思考や選択を行い、その目的の対象を得ようとする事。
つまり、思考や選択の再帰。
つまり、実際に行った思考や選択に対して不十分である思考や選択に対して、
再度、思考や選択を行おうとする事。

つまり、不確定な思考や選択の結果に対して、
もう一度思考や選択を行おうとすることが、予測や予想になるという事。

つまり、本来、環境から受けた刺激に対しての反応として、
知能はその状況に対する適応を行うのだが、
予想や予測といったものは、
想起によって生じた刺激に対しての反応、
つまり、想起から生じた刺激に対して適応した知能の働きということになるのではないか。

現実の刺激に対して感覚器官から刺激を受容した場合、
その刺激に対する知能の思考の働きは、
既存の反応ということになる。
つまり、ある刺激の認識に対して、
それに関連する刺激を励起して認識する。

つまり、最初の大本の刺激は、
感覚器官から受ける刺激でも良いが、
その刺激の受容に対して、関連する刺激の想起の対象が確定している場合、
つまり、決まった定義が存在している場合は、
思考や選択を行う必要のない刺激の認識になるが、
この関連する刺激の想起の対象が未確定や未定、認識するのにおいて、
定義の不備、価値の未設定など、何か刺激として認識するのに問題がある場合に、
知能が予測や予想の働きを行うのではないか。

単純な知能においては、
そのような機能は持っていない。
基本的にある刺激に対して決まった定義の反応を示すだけになる。
人間の知能においても先天的定義で構成されるような刺激についてはそういう事になる。

ただ、後天的定義において、その刺激に直面した場合に、
一応感覚器官や先天的定義で理由の付く、つまり情報の要素の意味付けが出来る範囲では、
その刺激に対して要素の関連ができて、刺激としては受容できるが、
実際に刺激として受容し、認識した時点で、
つまり、刺激の意味が分からない時。

つまり、神経細胞の励起において、
新たな関連を必要とするような刺激が励起された場合、
予想や予測といった機能に相当する活動になるのではないか。

つまり、それは刺激の認識のための想起をきっかけとして開始。
その想起の際に再構成される刺激の要素が、
これまでに存在しない要素の関連である場合、
つまり、再構成する要素の関連に不確定な要素が存在する場合、
知能が刺激の認識に失敗したという事になるのではないか。

この場合、知能はその刺激を認識するために、
既存の定義の存在する確定した要素を関連付けて、
新たに再構成するか、
周囲からその要素を集めようとする、
そしてその要素の認識後に再構成を試みる。

つまり、この働きが
知能の知的な予想や想像などに関係しているのではないか。

ただ、単に知能が理解できない刺激に対して、
全ての知能が予想や想像と機能をあてがうわけではない。
つまり、知能を働かせるための目的が必要なる。
つまり、知能を働かせるための指向である。
この辺りの事は以前も考えたが、
本来、別に知能は知らない事を知ろうとしなくても良い器官である。
それでも、知らない事、知らない刺激について知ろう、認識しようとするのは、
ある程度の力、思考するための指向が必要となる。

久しぶりに脳が熱を帯びてきたように感じる。
頭頂部に近いところだろうか。

話を戻して。
つまり、知能の機能として通常の目的の行動や選択といった知的活動ではなく、
知能の思考についての機能として、予想や想像といった機能について、
既存の刺激の要素の関連ではなく、
既存の刺激の要素に新たな要素や、新たな関連を作る活動、
その機能全体が、知能の機能として存在する事になる。

つまり、予想や想像だけでなく、
それまで持っていなかった定義を得る事。
つまり、後天的定義を得る事、全体は、
この機能が共通して適用されるのではないか。

つまり、現時点で知能が保有していない要素または要素の関連を得る事を、
この機能でまかなっている事になるのではないか。

つまり、予想や想像する事と、ある新しい刺激を認識する事は、
同じ機能なのではないかという事になる。

となると、想起を元にして想起する事が予想や想像ではないということになるが、
その考えは変更で良い。

実際、新しい刺激を認識する事は、
新しい要素や要素の関連を得る事であるし、
予想や想像も、新しい要素や要素の関連を得る事になる。

つまり、その出発点が、感覚器官から受容する刺激か、
想起による刺激かの違いという事になる。

つまり、感覚器官から受容する新たな刺激の認識は、
その存在する刺激に対して認識する際に、自分の存在を認識する事になる。
つまり、刺激の再構成においてという事である。
そして、その刺激が新たな刺激であるという事は、
自分が新しい刺激を認識したという事になる。

また、想起によって、新たな刺激を認識しようとすることは、
まず、その思考の目的となる最初の目的の認識において、
自分と自分のその目的の認識をすることになる。再構成してである。
そして、その目的に関連する形の思考において、
これは328で考えた通りであるが、
目的に関連した思考において、新たな刺激の創作と認識を行おうとすることになる。
結果、目的に合致した結果を得られれば、自身が思考して予想、想像した結果を認識したという事になる。

つまり、
感覚器官から新たな刺激を認識する事は、目的のない予期せぬ予想や想像であり、
思考して新たな刺激を認識する事は、目的のある予期した予想や想像という事になる。

どちらも経緯は異なるが機能と結果としては同じ事ということになる。

------------------------------------------------------
2023/2/3

一日経過して少し頭の中が整理できたようなので、
昨日の事をまとめると、

感覚器官から受容した刺激について、
その刺激が記憶にある既存の刺激でなかった場合。
つまり、新しい予期していない刺激であった場合、
その刺激が持つ情報の要素に対する定義を持っている場合は、
新しい刺激として意味が分かった状態で認識することになるが、
その情報の要素の定義に不足が生じた場合、
その刺激の認識には確定した定義では意味付けできない刺激のまま、
受容、認識が行われる。
実際、この刺激に対しては知能は刺激としては受容しているが、
刺激としては意味が分からないという認識になる。

一応、知能としては、どのような刺激であったとしても、
感覚器官から受容できる情報であるため、
要素毎には何らかの定義を行う事は出来るが、
その情報の要素の関連においては、
その経験により未知の関連が含まれる場合もある。
この場合、刺激としては認識できるが、
何だかよく分からない刺激という事になる。

一方、
想起を元にした刺激において、
その情報に含まれる要素が持つ記憶された関連ではない、
新たな要素との関連の構成によって刺激として認識される事になる場合。
認識については、上記の感覚器官から受容された刺激と同じ反応になるが、
1点異なるのは、想起によって新たな関連を作ることにおいて、
元の想起にあらかじめ関連している別の刺激が存在する事である。
これは、存在する必要があるという事でもある。
つまり、「目的」の事なのであるが、
目的を仲介して新たな関連を作るのであるが、
単に想起によって刺激を再構築したとしても、
その刺激が元々持っている関連先の刺激しか、
本来励起することが出来ない。
つまり、例えば「赤」を想起して「リンゴ」は想起できるが、
「赤」を想起して私は普通に「掃除機」は想起できない。
今は、この考察の上で、「赤」に対してまったく関連していなさそうな対象を
思い出そうとして、たまたま「掃除機」が思いついたのだが、
もしかしたら、想起と掃除機がキー入力の関係で似ていて、関連があったのかもしれないが、
普段であれば、私の「赤」に関連して想起しやすいのは「リンゴ」である。

つまり、
想起を元にした刺激に対して、
新たな要素の関連を持つ刺激の想起には、
目的を経由、実際は目的と一緒にこの刺激を作り出して想起、
刺激を再構成しているのではないかという事になる。

「例えば」と私が使用する場合も、
思考において例を挙げる事は、
元の思考対象において、関連する別の新しい要素を関連付けて想起、
認識している事になる。

これは、思考対象に元々関連してる情報の刺激ではない。
「例え」を挙げなければ関連していなかった情報、要素という事になる。

ただし、である。
今回気づいた重要な点の1つは、
感覚器官から受容する新しい刺激においても、
想起を元にした新しい刺激においても、
新しい刺激に対する処置、知能の対応の仕方は同じという事になる。

その開始地点と過程が異なるが、
実際に認識される時の処理は同じという事になる。
つまり、
上記で感覚器官から受けた新しい刺激に、
定義が不足していた場合、その刺激の認識は、
意味が分からないというものであるが、
これは、想起を起点とした目的を経由する新たな刺激の認識においても、
認識の際には同じ事になる。

つまり、想起を元にして目的が関連していて、
そこに新たな要素を関連させた刺激を再構成した場合、
その刺激の再構成において、過去に経験した事のある関連が存在していれば、
その関連によって、その新しい刺激は定義でき、
意味付けされて認識できることになる。
が、しかし、新たな刺激の関連が、その知能にとって、
新たな関連であった場合、意味付けに失敗して、
刺激として再構成できたとしても、何だか分からない刺激という事になる。

開始

想起←起点となる刺激

励起←目的が関連

再構成:新たな刺激

刺激の関連を保有

認識

理解成功

開始

想起←起点となる刺激

励起←目的が関連

再構成:新たな刺激

刺激の関連を未保有

認識

理解失敗

という事になる。

つまり、新しい刺激に対しては、
このような2つのルートの認識方法があるという事になる。

そして、
上記の2つの刺激の認識ルートにおいて、
目的が関わる可能性があるのは、想起を起点とする認識である。
突発的な未知の刺激に対する適応は分かるが、
ここで、ある選択に対してよりよく適応するという事に対して、
予想や想像といった事が行われるのはなぜかという事になる。

本来、生命において予期して刺激の認識に備えるような必要性は存在しなかった。
適時、変化に対して適応していれば良かったのである。

元々の刺激の仕組みもそうであった。
しかし、記憶の誕生によって、それが少し変化する事になる。
つまり、経験として刺激の記憶ができるようになり、
その刺激に対してより効率的、効果的な適応が出来るようになった事である。
単に刺激の記憶、適応の効率化であれば、
それは記憶だけの効果ではあるのだが、
さらに知能に発達させた機能は、
想起を元にした認識の機能を得る事になる。

現時点では、生物的に単独の想起を持つに至った経緯はまだ考えていないが、
320で考えた通りであれば、
現時点で想起の元になっているのは感覚器官による刺激の受容による、
記憶された刺激への関連する励起である。

つまり、刺激同士のつながり、
つまり、刺激同士の情報の要素の関連を持つ事によって、
単独の想起が誕生した事になる。

想起自体は、感覚器官から受容される刺激の認識の際も、
同じ機構を用いているので、認識できる状態であれば、
想起もできる事になる。

少々「想起」という言葉の意味がふさわしくない気もするが。
実際、機能としては想起による再構成による認識である。

つまり、刺激の記憶同士が関連した事。
これによって単独の想起が可能になった事、
これにより、予想、思考が誕生した事になる。
この事は、それ以外の機能、意識や想像、創造、目的、
さらには、自分、自我、
それらの誕生の共通するきっかけでもある事になる。

この場合、想起をきっかけとする場合も、
そのさらに前のきっかけとしては、
感覚器官から受容される刺激が必要という事になる。

そして、最初の疑問であった

「つまり、知能は、ある瞬間に訪れる選択に対して、
より良く適応するために機能する存在ではないかという事である。」

これに繋がることになる。

繋げようとして繋がったわけではないので、
まだまだ考えが足りなかったのだが、
今回の考察においては幸いだった。

となると、
刺激の記憶同士の関連の発生の理由または原因。
そこに今ある疑問の理由が存在する事になる。
つまり、神経細胞の軸索とその結合ということになるか。

人工知能の構築においては必要のない要素にはなるが、
気になる要素ではある。
それはまたいづれ考える事にして、
今回はこの辺で。


TOPに戻る