2023/11/27
2023/11/28

感覚と情報の要素

326で人間の存在の認識に感覚が重要であると考えたので、
今回は、
以前322で視覚によって得ている情報が、
個体としての自分と、対象の位置関係を把握するという要素を主に得る為であると考えた事があったが、
今回はその他の感覚についての情報の要素について考えてみる。

基本的な考え方としては、
ある感覚において得ている情報の中で、
複数ある要素から、その要素毎の関連を切り離しても単独で成り立つ要素について考えれば良いことになる。

そして、その情報の要素が自分の存在とどのように関係しているか考えてみる。

例えば、視覚において位置関係を主に得ていると考えたのは、
視覚によって得ている映像に対して得ている要素は、
対象の位置、形状、色、等を認識しているということであるので、
そこから最も重要な要素について考えたとき、
形状や色というのは、その対象に含まれる関連する要素ではあるが、
実際、その情報は、その対象を構成するための要素であり、
その対象の存在にはあまり関係がない。
視覚においてその対象が存在するかどうか、その方が重要であり、
視覚で得ている情報として、対象の存在と位置は、
視覚でないと得られない情報ということになる。

直接的に触覚で触れて、存在と位置、形状を得るということもできるが、
視覚の存在意義として、触れずに対象を認識できるという事が重要ということになる。

色彩は生物の成り立ちから、対象の状態の判別などに用いられるもので、
視覚の発達の過程で得られるようなった副次的な情報の要素という事になる。

昆虫には紫外線が見えるとか、
2色色覚、3色色覚、4色色覚といった色についての情報の要素は、
視覚においては、後発的な機能と考えられる。

恐らく視覚の初期においては、ボルボックスの話でもあった、
走光性の為の眼点のように、単純な光、つまり、波長の狭い間にある特定の光に対して
反応するという機能だけであったと考えられる。
つまり、そちらから光が照っているか、
それだけを得る機能であったと考えられる。

実際ボルボックスにしてみれば、光を受けている事と方向が分かれば良いので、
眼点だけの機能で、機能的には十分であったという事になる。

それが視覚として現在のわれわれ人間のような機能を持つに至ったのは、
その変異の過程で、様々な機能を得る事が自然界における存在に有利であったから、
もしくは必要となったからという事になる。

焦点を合わせる能力や、色の識別・判別、明度、コントラスト、を得て、
そして、そこから発展して形状などの定義を得る事になったというわけである。

そして、この情報、情報の要素は、
自身の存在と、自分に対する対象の存在の位置関係を得るためであると考えた。

つまり、
最初期の視覚としての感覚においては、
その情報の対象は、見る対象の位置情報ではなく、
単に光の存在であったと考えられる。
その後、視覚として感覚を完成させるに当たり、
対象の位置情報を情報の対象とする事に変化したと考えられる。
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聴覚

現在の視覚にならぶ、対象の情報を間接的に得るための感覚である。

音が空気の振動であることから、音の発生源を対象とした情報を得るための感覚という事になる。

最も重要な要素は、音の発生源の存在とその方向、位置である。
視覚同様、音によっておおよその方向と距離を情報として得ることが出来て、
これが最も重要な要素であると考えられる。

波長などの音に関する要素は後発的な要素であると考えられる。

音の情報も、視覚同様、
初期においては、対象の存在と位置関係を情報として得るためのモノであったと考えられる。

さらに最初期においては振動による震えに対する情報を得るためであったと考えられる。
つまり、初期の生命が水中・海中の生命であったのであれば、
水の振動によって何かが存在する事を情報として得ていた事になる。
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嗅覚

視覚、聴覚に並んで、対象の情報を間接的に得る感覚である。

芳香の化学物質を受容し、匂いの成分として定義される情報となる。
これも空気中を漂い、間接的に対象の存在、状態を情報として得るための感覚という事になる。

最も重要な要素は、匂いの発生対象の存在と位置である。
視覚や聴覚同様という事になる。

フェロモンや、果実の熟し度合い、芳香、悪臭などの
匂いによる対象の状態の判別能力は後発的なものであると考えられる。

嗅覚も、視覚、聴覚同様、
初期においては、対象の存在と位置関係を情報として得るためのモノであったと考えられる。

さらに最初期においては、水中・海中において、
溶解している対象物の化学的な組成の対象物に対して情報を得るためのものであったと考えられる。
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味覚

摂食に関わる対象の状態、情報を得る感覚という事になる。

味蕾による化学物質の分子の接触により、対象を味覚、味として定義する情報という事になる。
これは直接的な接触が必要となり、
感覚としては、原始的であると考えられるが、
現在の味覚といった情報ではなく、初期は摂食対象の判別、選択に用いたものであると考えられる。

つまり、摂食して良いか悪いかを判別する為の機能であったと考えられる。

単純な生命においては、対象の状態に関わらず、摂食できる対象は摂食して、
自身が存続すれば良いというだけで良いが、
ある程度の機能を持つに至った多細胞生物においては、摂食する対象を選択する必要性も生じ、
摂食によって自身が死亡するなどのケースも存在しうる。
つまり、毒や、それに類する化学物質、酸、塩基、等である。

その判別の為に得た感覚ということになる。

味覚の判断、塩味、甘味、酸味、苦味、旨味、それに加えて辛味や渋味、などは、
摂食の効率をよりよくするための後発的な機能の分化という事になる。

これも、最初期においては、嗅覚同様、
水中・海中の溶解した化学的な組成の対象物に対して情報を得るものであったと考えられる。

味と匂いが現在の人間の食に関わっている事は、
嗅覚と味覚が近しい存在であるという事の説明になるかもしれない。
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触覚

これも味覚同様、対象への直接的な接触を必要とし、
対象の状態を情報として得るための感覚となる。

実際、
直接的に対象に触れて情報得るパターンの感覚も、
間接的に対象の情報を得るパターンの感覚も、
その大本においては触覚であったと考えられる。
つまり、対象の存在を情報として得るために、何らかの対象の情報を介在して、
その情報を得るという事である。

実際、感覚器官には、その受容部に対して、
光であったり、空気の振動、化学物質の接触は必要であり、
それによってその発生源となる対象の情報を得る事になる。

現在、人間の考える触覚は、対象の物性としての状態を、
その感覚の種類において、堅いとか柔らかいとか、つるつる、ざらざらなどの情報として得ているが、
これも対象の持つ情報としての要素が触覚の感覚器官の受容部で受け取っているという事になる。

とはいえ、今回の分類で言えば、
触覚は、対象の存在の有無と、その対象の状態の要素、堅さなどの情報を得るための感覚という事になる。

ただ、何かに接触するという点から考えると、
それが光であろうが振動であろうが、化学物質であろうが、
感覚は、その感覚器官の細胞が、対象に接する必要があるという事になる。
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その他の感覚

温感:
触覚に類する感覚。
対象と自分の温度差・エネルギー量の差について情報を得る。
視覚ではないが、目隠ししていても光による温度を感じるなどの機能を持つ。
ボルボックスの眼点も光の波長に共振してその熱を感知しているとも考えられる。

体外的な情報、体内的な情報、どちらも得る場合がある。

運動感覚:
これは、対外的な情報を得るというよりも、
自身の個体としての状態を情報として得るための感覚という事になる。

基本的に自身の身体の状態、動作についての情報を得る。

痛覚:
これは体内的な状態として情報を得る感覚である。
体表面、体内、どちらからも情報を得る場合があるが、
どちらも、身体内に現れた状態の変化についてえる感覚となる。

刺激自体は体外から受ける場合もあるが、
痛いという感覚については、痛い要素を持つ対象が接触しているのではなく、
触覚における基準を超えたエネルギー量、つまりスレッショルドを超えた接触が、
この痛点を通して受けたという事になり、
存在する痛みを受けて痛いのではなく、接触した結果、自身が痛いという定義であるため、
結果的な痛みに対してのみ情報を得ている感覚ということになる。

もちろん、何らかの化学物質などに触れて痛いと感じる事もあるが、
その対象物質を認識する感覚ではないという事である。
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感覚の成り立ちについて:

どのような感覚においても、
細胞が、ある対象から発せられた変化、変位差、位相差から発せられる物質またはエネルギーを経由し、
その物質またはエネルギーに接触する事で、その対象の情報を得る事になる。

視覚であれば、光、つまり波長を持つエネルギーを捉えるものであるし、
聴覚であれば振動、嗅覚や味覚は化学物質、
触覚であれば、対象の物体の存在そのものである。

そして、どの感覚にも言える事だが、
刺激を受ける際に感覚器官の細胞は、
どれも変化によって発せられた物体またはエネルギーに接触している。
つまり、情報を持つ対象に細胞が接触する事で、その情報を得ている事になる。

そのため、どの感覚についても、その機構について考えてみると、
その最初期にあるのは触覚であると考えられる。

つまり、細胞に何かが触れる事で、触れた対象の情報を得るという事になる。

その対象となる何かについては、後にエネルギーとしての光や音、熱や、
実体ある化学物質や、物体そのものに変化していった事になる。

逆に考えて、何ら経由する事象を持たない感覚は存在しえないという事になる。

ということは、
情報の要素は、
各感覚が、何の仲介を経て刺激となる情報を受容しているのか、
これが分かれば良いという事であり、
つまり、生体において、感覚器官における刺激の受容細胞の種類が、
そのまま情報の要素ということになり、
それは、その情報の要素に対する先天的定義の存在の必要性という事にもなる。

感覚器官の細胞の種類についてはまだ詳しく知らないので、
それはまた後程という事にする。
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感覚と自分の存在について:

個体の身体内の情報として刺激を得ている感覚、
上記では運動感覚や痛覚においては、自分を構成するというよりも、
自分の状態の変化を情報として得るための感覚であるため、
その他の感覚とは情報源となる対象が異なる事になる。

また、味覚や嗅覚においても、
本来の情報は感覚による対象の認識や識別であるので、
自分の構成には直接的な関連は無い。
現在の人間においては、全くないわけではないが、
元々の関連は少ない。

これは326でも考えた事だが、
自分の構成に最も大きく関わっているのは、
触覚、次に視覚、その次に聴覚である。

いづれも自身の存在に対して関わる対象の存在を、
変化の情報を通して入手するという事になる。

恐らく触覚なしに自分を構成することはできないと考えられる。
視覚や聴覚を持っていたとしてもである。

それは、以前も考えた事だが、
触覚は、対象への接触によって、
接触する対象の存在を認識するという事でもあるし、
その逆に接触する自分の存在を認識する事でもある。
つまり、触れている自分の身体の存在を刺激として得る事でもある。

刺激の再構成において、自分が存在するためには、
感覚によって認識する刺激について、
刺激に関連して付随する自分の情報が存在し、
それを想起である刺激の再構成時に、刺激と共に関連して自分を構成する事でもあると考えた。

つまり、単純に変化情報としての刺激だけを受容し、
それを想起したとしても、そのどこにも自分は存在しない事になる。

だから、
感覚が、エネルギーや物質を経由して情報を得る存在だったとしても、
その感覚によって得られる情報には、身体が存在すれば、
その感覚を持つ身体の情報、自分の存在自体が、
情報として関連しているという事になり、
それを1つの情報のまとまりとして想起すれば、
そこに自分の存在も発現するという事になる。

つまり、視覚や聴覚だけで自分を認識しようとしたとしても、
認識できる可能性のあるのは、目の存在と、耳の存在だけである。
まあ目と耳と知能だけを持った存在として人工知能を構築するのであれば、
出来ない事も無いが、その人工知能が認識しうる自身の姿は目と耳だけである。
そしてその状態から意識の概念を持たせたとしても、
見る情報を処理するだけ、聞こえる情報を処理するだけの存在という事になる。
まあこの状態を意識を持つと呼べるかどうかはまた別の話になるが。

とはいえ、触覚だけ存在すれば、それに知能を与えて自我の認識まで至るという事にはならない。
少なくとも、何らかの感覚を通して、後天的定義としての自分の定義を得なくてはならない。

そして、感覚によって自身の実体を得たとして、
次に必要になるのは323で考えた欲求の維持などによって、
その想起における知能を活動させる目的である。

つまり、実体を得たとして、
その自分が活動するのに必要な目的無くして知能を働かせる必要性が生じないという事である。
つまり、知能を働かせるためには、そのための力が必要になるという事である。
物理的なエネルギーも必要だが、ここで必要になるのは精神的に知能を活動させようとする指向する力である。

つまり、欲求や不満、満足にしても、何らかの知能の活動によって、
何らかの目的に対する身体の活動を働かせるためには、
その目的が必要になる。

身体を得て、自分を得ても、何もしないという生命は存在しないし、
そこに知能を必要とするのは、知能を持つに至る目的が存在するからという事になる。

これについてはまた内容が変わるので、
また後程という事にする。

今回はこの辺で。


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