2023/11/24

自分の定義

意識の発現に見通しはついた。
自分の発現についても同様。
想起のきっかけ、
刺激の定義、
先天的定義と後天的定義、
それらの存在や定義についても考えた。

あと分からないのは、
想起される自分の存在、つまり、
自分の定義である。

想起においては、
刺激の認識の関連において行われると考えてきたが、
であれば、自分はその刺激群の認識に関連した刺激として、
想起され認識されるという事になるが、
自分の定義も何らかの刺激に対する情報としての意味付けとして存在することに違いはないはず。

つまり、刺激に対して自分という情報の意味付けを行うための定義が、
どこかに存在する事になるはずである。

消去法で考えると、
まず環境から得られる刺激に自分は存在していないということは考えたので、
感覚器官から受容する刺激についてはここから外す。
記憶された刺激についても、自分に関連したものと、そうでないものがあるので、
まず、記憶された刺激の一部は関係しているが、その一部とは異なる刺激の記憶も外せることになる。
そして、この自分に関連した一部の刺激の記憶について、
自分に関係していると考えられるのは、
自分を構成する為の要素を含む刺激であり、
物理的には身体的な構成、能力などを実体を構成する要素、
抽象的には名前や年齢など、情報的な要素、
そういった要素を定義する刺激の記憶という事になる。

つまり、まず、自分として認識できるようになる刺激となりうるのは、
記憶された刺激の中で、自分に対して定義された要素を持つ刺激という事になる。

そして、この刺激に対して、自分であるという意味付けを行う定義が存在する事になるのだが、
この定義が現在分からないという事になる。

定義そのものが刺激ではないので、
自分を定義するための後天的定義として、先天的定義を用いた情報の関連が、
自分にとっての固有の定義になるのかとも考えたが、
関連自体は定義として意味付けするものではないので、違うという事になる。

今日、もうこれを記載する前に少し考えておいたので、
その考えで表すと、
想起の際に、自分に関係していると感じるものが、それになるという事なのだが、
自分について考えている際、つまり、自分について想起している際に、
それを構成している存在。
つまり、これまで知能や思考において、想起を用いていると考えてきたが、
この想起の際に、刺激を再構成する場のようなものが、
実際、自分の存在を現しているのではないかと思い至った。

私の頭の中には、というか、抽象的な存在だが、
視界と目を結んだ直線状の後ろの方、物理的な空間的には
海馬か小脳か視床、白質の辺りの、やや右寄りの位置で、
私が想起する刺激が再構成される位置がある。

私の場合、気のせいかもしれないが、
どういうわけだが中心よりやや右寄りな感じがするのだが、
認識したり想像したりして現れた刺激はだいたいその近くで再現されて認識されている。

おそらく、この存在が自分の存在を自分たらしめているのではないかと感じている。

意識や認識的には、想起によって刺激が再構成されて、
その定義によって抽象的に情報が実体化している場という事になるが、
これは、実際、自分が認識して意識している刺激ということでもある。
つまり、想起によって生じる刺激についても、
この場において存在が確認されるという事になる。

つまり、この刺激を再構成する場において、
自分が存在することが確認されるという事である。

つまり、この場において、想起においては、
別の刺激によって励起された刺激の関連の中で、
自分に関連する要素を持つ刺激の励起が行われ、
定義によって自分に関係している情報を持つ刺激であった場合、
その場で再構成される刺激は、自分の情報の要素を持つ刺激であり、
その刺激が再構成によって認識に至れば、
認識は意識によって、自分の存在を認識するという事になる。

そして、この刺激の再現する場というものは、
人間の全員が持っているものと考えられる。

あなたが、この文章を声を出さずに読んだとき、
あなたの頭の中で文字が、文章が存在しているはずであり、
それはそこに再構成された刺激として存在している。

自分で自分を感じている時も、
自分の情報はその場の中に存在しているはずである。

そして、この刺激の再構成の場において、
刺激の選択を行う要素、条件について考えた時、
刺激の優先度を決定する要因で思いついたのは、
「刺激の強さ」、「刺激の価値」という事であった。

つまり、より強く自分を認識させた刺激が記憶において、
自分についての要素を含む刺激として記憶されるという事である。
そして、その刺激は、
想起によって再構成される場合、より強く自分を認識させるものであるという事になる。

つまり、関連として自分が存在するというのではなく、
実際に感覚器官から受容する刺激において、
自分の存在に対して強い刺激である場合、
つまり、自分の物理的な身体に対する刺激の認識として、
強い刺激であると先天的定義によって意味付けられた刺激は、
まず、自分の実体に対する、自分の要素が関連付けられた刺激として、
記憶されることになる。
また、物理的でなくとも、抽象的や後天的定義の価値として強い刺激を持つ刺激の認識において、
高い価値、強い意味を持つと意味付けられた刺激も、
自分に関連する要素を持つ刺激として認識、記憶される事になる。
そして、どちらも想起に際しては、
その刺激の再構成において、同時に自分の要素を含む刺激が再構成される事になり、
その刺激の認識において、自分も同時に認識する事になるというわけである。

刺激自体は様々な要素を関連として持つため、
関連自体がその答えであるようにも感じるのだが、
実際に刺激の定義において、つまり、刺激を意味ある情報に意味づける定義として存在する
先天的定義や、後天的定義において、
自分に関係している要素、先天的定義であれば、
感覚器官の存在、その位置、その感覚器官が受容する情報の選択、条件、
それらの定義を含む、遺伝された固有の定義、
それ自体がある刺激に対する受容に際して、
自身が受けた刺激であるという意味付けが後天的に行われる。という事になる。

つまり、ある刺激に対して自分の定義を作り出し、後天的に定義するというわけではなく、
自分が受けた刺激であるという事自体と、
それを再構成する場合において、自分が受けた刺激であると再現される事自体によって、
自分の存在がそこに生じるという事である。

つまり、
自分が受けた刺激として記憶し、
自分が受けた刺激として再構成する事によって、
再構成の場において、自分の存在も再構成されるという事である。

つまり、ある定義において、
自分が受けたと感じた刺激について記憶された場合、
この刺激を想起によって再構成した場合、そこに自分が再構成される事になる。
という事である。

この場合、
自分の定義というものは、定義の構成において、
全ての定義が基本、先天的定義を元にして構成されている為、
自分が保有する感覚器官における刺激の定義において、
自身が何らかの影響を受ける刺激については、
刺激として認識されるのと同時に、自分の認識も含まれるという事であり、
それらの刺激の先天的定義における、自分の定義というものは、
自分が刺激を受けたという認識そのものが自分の定義になるのではないか、
つまり、自分が刺激を受けた事の記憶が、
自分の存在の定義そのものになるのではないかという事である。

つまり、自分を定義している定義ではなく、
自分が刺激を受けた事、その刺激を自分が想起している事、
そこに自分が存在しているという認識が存在することになるだけという事になる。

機能的にあえて定義するのであれば、
自分が受けて認識した刺激が記憶に至る場合、
単にその記憶は感覚器官が受容した刺激というだけでも良いという事になる。
あえて自分の存在を定義して付与する必要はないという事になる。
そして、この刺激を想起するに至った場合に、
刺激の再構成が行われるわけだが、ここでこの刺激を認識するのは自分であるため、
この刺激は自分が認識して記憶し、それを自分が想起した刺激であると認識出来れば良いという事になる。

つまり、自分が記憶する事になる刺激は、常に自分が既に関連しているはずであるという事になる。

自分が認識する事になる刺激には、自分は関連している。
自分が想起する事になる刺激には、自分が関連している。

という事になる。

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人工知能における自分の定義としては、
これまで考えてきた現実から刺激として情報を受ける方法と、
想起する場、つまり刺激の再構成を行う場の構築が必要になる事になる。

想起する場として、人工知能内にVRの空間を与え、
そのVR空間内に、現実で認識される刺激の事象と、
想起によって生じる刺激の事象が、
再構成出来るようにすれば良いという事になる。

つまり、人工知能自身がVR空間に存在するように構築するという事になる。

そして、今回の考えの、
人工知能自身が受けた刺激であると記憶する事、
人工知能自身が受けた刺激であると想起する事、
これが出来るようにすれば良いという事になる。
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まとめとして、
今回の表題の自我意識の定義という事であれば、
自我や自分という存在は、
自分が自分であると感じているこの体、知能、記憶に対して付属するものであり、
それを認識、意識するのは、刺激の存在を介してという事になる。

つまり、
刺激を受ける時自分を感じ、
刺激を思い出す時、自分を感じるという事である。

自分がある事象に対してそのように刺激を受けたのは、
その自分の個体の状態や能力によって認識以前に決まる事であり、
その刺激の認識において、明示的ではないが自分は既に関連している。

自分がある記憶に対して想起する場合、
記憶した刺激を受けた際の自分の存在を、
その刺激の想起と同時に再構成して認識するという事になり、
その刺激の想起において、自分も再構成され認識されるという事になる。

つまり、自分の刺激の認識そのままに、
想起において自分を再構成しようとしているという事になるか。

自分は状態が変化する為に、
想起の際の自分の状態が変化し、
想起毎に刺激に対する自分の感じ方が異なるという事になる。
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想起において、なぜこれを自分が想起したのかと感じるのは、
正しくはなく、
自分だからこれを想起したという事になる。

つまり、自分がそれを思い出す事は、
自分だから当然の事という事になる。

自分が関与しない事象において、
つまり、感覚器官が受容する刺激→想起のルートにおいて、
自分の認識や想起について選択が生じる可能性はあると考えたいが、
厳密に言えば決まっていると言える。
単に想起→想起のルートにおいては、到達する場は決まっている事になる。

ということは外的要因によって、
選択の生じる余地はあるが、
原則、因果が優勢ということになる。

それを分かった上でなお、
私は考える事を続けるだろう。
因果なものである。
今日はこの辺で。


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