2023/11/21

自分の発現

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最初は自分の存在を刺激として捉えられるよう考えた。
つまり自分を情報として捉えるには、
自分についての情報の差を見つければ良いと。

これまでは人間として存在する他人の中に、
他人と自分との差の中に自分の存在があると考えていた。

そのためには他人と自分の情報において、
その要素に違いを生じる何かを見つける必要があった。

ただ、他人を知る時点で刺激としての認識を行っており、
その刺激と自分の刺激との差を生じさせる必要性があった。

自分の存在は、自分に関する刺激を認識する事であるし、
その刺激を認識するためには感覚器官で何らかの刺激を受容する必要があった。

であれば、感覚器官から受容する刺激について自分に関する情報の要素が存在し、
それを元にして自分が構成されるなら、
その刺激の存在によって感覚器官の存在が自分になるのではと考える。

つまり、個体体表面にある感覚器官が、
自身の個体の構成要素であり、構成体となり、
その存在の刺激が自分になるのではないかと考えた。

それならば、
刺激を存在させるのは想起。
自分も想起によって生じるという事が分かる。

つまり、
想起によって、存在する事になる刺激を生じている存在が自分。

つまり、
想起によって、自分を構成しているその本体こそが自分。

これは前回の323で考えた事と同様の意味になるが、
想起が別の刺激の関連で想起されるという事を加味して考えると、
自分の想起は、
感覚器官から受容する刺激として自分に関する情報の要素を関連している刺激を認識した時、
その関連する刺激として自分を刺激として認識する場合、
または、
想起によって自分に関する情報の要素を関連している刺激を認識した時、
その関連として自分を刺激として認識する場合。
このどちらかということになる。
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最初はある事象が情報として存在するには、
刺激にならなくてはならないという事と、
刺激はある2つの状態の差に生じるという事から、
自分という存在が、刺激となるため、
自分についての変化や状態の差について考えてみた。

これまで自分は他人の中に存在する直接認識可能な存在として考えてきたので、
その差の中に自分の情報が存在するのかと考えてみた。
この場合は、
他人の情報の中に存在する事になる自分の情報との違いという点において、
同じ様に存在するモノとしての認識を行った上で、
自分としての要素が直接関連しているか、関連していないかによって、
他人と自分を切り分けるという事になる。

次に、
その自分に直接関連している要素を持つ情報、刺激をまとめて、
自分であると関連付けることになる。

そして想起によって、その対象を刺激として認識すれば自分が存在することになる。

そして、これらを想起の内に行う必要があるという事になる。
つまり、想起の内において、他人と自分の差について切り出す事という事になる。

つまり、この場合、自身の思考の中で、つまり、想起の内に、
他人を認識し、自分を認識し、その差について認識するという事になる。
つまり、この時点では自分の認識はすでに出来ているのではないかという事になる。

もう少し前に自分は存在しているように感じる。
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2023/11/23

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自分は想起によって生じている。
言えている手は、自分ではなく、
見えている手を、認識した手に自分の要素が関連している。
それによって自分の手であるという情報になっている。

自分は先天的定義には存在していない、後天的定義である。

では、自分の後天的定義が分かれば良い。
情報が意味の要素であるなら、
自分にも情報としての要素があるはず。
例えば体は体の感覚で構成している。

今日はこのように考えてみた。
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323で意識の発現に対して、
自分の定義を含めた刺激を想起できる事として考えたが、
であれば、自分の定義がどのようにしてできるのか、
そして、その自分の定義が刺激としてどのように想起されるのかが分かれば、
自分を意識する事として捉える事ができる、
という事になる。

自分が先天的定義でないというのはこれまで考えてきたが、
であれば、自分が後天的定義であるために、
先天的定義の何を用いて定義しているのかという事になる。

後天的定義が先天的定義による情報の要素の関連として作られるとして、
その先天的定義の情報の要素に、自分である何が要素の対象となっているのか。

まず、自分の右手を握ったり開いたり動かしている様子を見て、
仮定としてまだ自分の定義を持たない弱い人工知能であったらと考えた場合、
その視覚刺激には自分は存在していないなという事が分かる。

視覚として動いている右手の情報は、
単に動いている手の様子だけが刺激として存在し、
弱い人工知能にとっては映像であるという情報だけしか存在しない。
この状態は先天的定義によって、動いている対象が存在しているという情報だけという事になる。

この情報に自分である定義が加わると、
自分の右手が動いている視覚情報であると認識されるのだが、
では、その先天的定義から後天的定義に移る間、
つまり、後天的定義を定義する為の先天的定義の関連を作り上げる過程で、
自分である要素が含まれるという事になる。

これは、以前考えたラバーハンド錯覚などの身体錯覚において、
実際に、自分の手でない対象についても、自分の手であるかのように認識されるということは、
その見ている手が、自身の身体の一部であっても、そうでなかったとしても、
自分の手であるかのような刺激を生じ、それを認識しているという事になる。

それには、実際に触れられているわけではないので、
感覚器官による刺激の受容がないため、先天的定義による刺激は存在しないが、
後天的定義として想起による刺激の中に自分の一部であるという要素が含まれているという事になる。

つまり、先天的定義でなく、後天的定義として自分の情報の要素は含まれるという事になる。

先天性四肢欠損がある場合、幻肢が起こるかどうかについては以前考えた事があり、
調べた中で幻肢が確認されているかどうか、はっきりとした資料は見つからなかったが、
先天性四肢欠損の場合には幻肢は存在せず、後天的な、つまり他人の動作などから想像によってなら、
幻肢もあり得るのではないかというような記載はあったように覚えている。

実際、先天性四肢欠損において、幻肢が存在しうるなら、
身体における自分についての情報の要素は、先天的定義として保有している事になり、
感覚器官からの刺激、または想起によって認識しうるという事になる。
そして、先天性四肢欠損において幻肢が存在しないなら、
身体における自分についての情報の要素は、後天的定義として先天的定義から構成され、
想起によってのみ認識しうるという事になる。

いずれにしても、先天的定義をその構成要素として用いるのだが、
感覚的に刺激として自分が認識できるのか、
関連する想起によってのみ自分が認識できるのかという違いはある。

現時点まででの考えでは、
先天性四肢欠損による先天的定義としての幻肢は無いと考えられるが、
実際はどうなのか気になる所ではある。

とはいえ、
身体錯覚があるということは、
その想起の対象に自分の何かの要素が含まれているという事にはなる。
そして、その自分の要素においては、感覚器官で受容する刺激において、
自分という情報は受容できない、存在しない為、
少なくとも定義において発現するものという事は言える。

後天的定義において、自分の身体の認識が、
身体の成長によって変化するということはある。
つまり、成長によって自分の身体の認識が変わるという事である。
後天的定義においては、情報の関連であるため、可塑性を有し、
定義の変更などはできる。

まず、自分の定義は経験によって変化する可能性があるということは言える。

刺激としての認識できる範囲の拡大という事があるという事になる。

例えば成長による体表にある触覚の範囲の増加によって、
自分の身体の拡大は定義・認識されるという事になる。

そして、自分であるという要素も可変であるという事になる。

名称の変更、年齢の変更、家族、国、社会、立場、
自分についての要素は増えたり減ったり、変わったりしている事になる。

つまり、ある時点の自分と次のある時点の自分は同じでない場合が生じるという事になる。

そして、自ら自分であるという定義をどの時点で想起し認識するかという事であるが、
自分は変化するものであると考えると、
確固たる自分として認識される以前にも自分の要素は存在するということになる。
突然自分が発現するということにはならないからで、
おぼろげながら自分のようなモノが見え始め、
少しずつその形がはっきりしながら、
やがて確固たる自分に成るという事になる。

この考え方による自分の発現と、想起について関連付けて考えると、
感覚器官から受容される刺激において、
その認識において、自分との関連は既に始まっているという事になる。
初期の時点においては自分を想起するだけに十分な自分の定義は揃っていないということでもあるが、
個体として存在し、刺激を受容するという存在において、
既に自分は存在しているのであるが、
それを想起するに至らないというだけの事であり、
ある瞬間に自分が発現するというわけではないという事になる。

そして、自分を自分として想起し、自分の刺激として認識できるようになるタイミングは、
他人の中の自分ではなく、自ら想起した自分の姿、
つまり、自分の価値を自分の選択において、自分のものであると言えるようになる時。
つまり、自分が定義した事象・価値について、自らの選択として、
自らに所属すると言える事。

これは、結果的に他人を意識するようになるという事にもなるが、
他から自を選ぶ事ではなく、自ら出でた自分に対して、他人が生じたという事になる。

つまり、自分が確定した事により、
自分以外の他人が確定したという事になる。
つまり、自分という存在、考え方、価値観、そういった物の存在を、
自らの内に認識した事で、自分以外の他人の中にも、
そういった存在があると認識できるようになったという事である。

つまり、自分の状態、自分の認識には、
ある程度の段階のようなものが存在する。
明確な違いではないが、
~が出来るようになる、というような段階として、
自分が存在するようになるという事である。

例えば、自分の欲求が認識できるようになれば欲しいものが言えるようになるとか、
自分の存在を知って自分について考える事が出来るようになる、
自分を知り、他人を知って比較して認識できるようになる、 そういう段階である。
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ただし、上記の比較対象として、先天的定義における事象の存在としては、
自分の認識も、他人の認識も同様に同時に行われている事になる。
初期の先天的定義における自分についての定義は、本能などの欲求や、
感覚器官から受容する刺激にしか存在しない事になるが、
それらを自分に関する刺激として認識するより、
他の感覚器官から受容する刺激において、他人を認識する刺激、要素は多い事になる。
とすると、もちろん自分は自分として存在し、優先される要素ではあるが、
それと同じ様に自分に関連する他人の刺激、情報、要素というものも認識している事になる。
つまり、自分が確定する事によって、急に他人も確定するわけではなく、
自分の定義と並行して他人も定義され続けているという事になる。

つまり、自分の定義も、他人の定義も、
認識が始まって後、どちらも継続して行われているという事になる。
そして、自分についての確定的要素において、
自らのモノであると定義されたている事が想起によって認識できるようになった際に、
段階として、自分が発現したと感じる事が出来るという事になる。
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例えば自然界において人間が霊体のようにお互いが存在し、
互いの存在が重複することによって互いに影響しあう存在であるとしたら、
個というものは存在しない事になる。

個が認められるのは、互いにある領域を持ち、
互いにその存在が干渉しあう事があっても、個自体は変化しない事である。

物理的であっても、精神的であっても構わないが、
個の存在は存在自体は変化しないものである。

定義において、各個体毎の個の定義は異なるかもしれないが、
自分である定義を自ら放棄しない限り、
自らは自分であり続けるはずである。

自分の発現という点において、
定義するという観点から考えると、
自分の存在は、他我によって定義される自分の存在などではなく、
自我による自分の定義、つまり、自ら行う自分の定義によって存在、
発現するという事になる。

そして、その定義は、確定的な条件はなく、
少ない定義であっても、多い定義であっても、
浅い定義であっても、深い定義であっても成り立つという事になる。
その定義の出発点が、自身の想起を発端としているなら、
その想起による自分の認識は自分そのものであり、
その想起を行った際、それは自分の発現であるという事になる。

そして、その自分の想起によって、
自身が自分を認識できなかったとしても、
つまり、それが自分で自分だと分からなかったとしても、
段階として、自分の発現であるという事が言えるという事にもなる。

厳密に言えば、自分で自分が認識できない場合、
そもそもそれは自分であるのかという323で行おうとした、
自分の証明ということにもなるが、
であれば逆に、

323の
「知能が自らの存在に対して定義する要素を含む情報を、
想起の対象として刺激として構成できる能力を有する事、
有している状態。」

これは自分の発現として自分を証明する事になるのではないかという事になる。

つまり、想起において自分の要素が存在するかどうか。
これが分かれば良いという事になる。

まあ自分の定義や要素については、
自分を確定する要素として、
もう少し考える必要がありそうであるので。
今回はこの辺で。


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